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2.聖霊論

2012.05.19 (Sat)
新十四日派の教えの特徴
2.聖霊論 

「聖霊」に関する理解はキリスト教界で重要なものとされる反面、混乱も招いています。
その原因は、今日では「聖霊」というものの実体を古代のように捉える事が出来ないところにあります。

今日でも「異言」をはじめとする第一世紀の使徒時代と同様の奇跡の力を持っていると唱える宗派もあれば、コリント第一13:8の『異言も廃される』というパウロの言葉などを根拠に、奇跡の賜物は過去のものになったとし、現に他宗派で為される異言などの奇跡は、他のからの源、つまりは悪霊の影響であるとする宗派もまた少なくありません。

聖霊の奇跡の力は過去のものとなったと主張する宗派でも、使徒2:38の『バプテスマを受けなさい、そうすれば聖霊を受けます』というペテロの言葉をそのままに信じて、信者になれば「聖霊」を受け取れるものと考えられています。
その聖霊は、その人の中にキリストを住まわせるものとなり、その人を導くものとなるとも、また、聖霊はその人の良心のようになり、それに従うなら罪の宣告を免れて救われるとも言われます。

では、聖書の全体を、つまり新約聖書だけでなく、旧約聖書を含んで俯瞰する場合に、聖霊と呼ばれるものがどのように観察されるでしょうか?
そこでまず、神の霊による働きの実例を見る必要があります。


まず、霊は天地創造において用いられており、地の塵から造られたアダムを生きたものとしています。神は『命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。』とあり、以後の聖書記述に於いての『息』や『風』は、『霊』との関連性を持ったものとして繰り返されます。(創世記1:2/2:7[息=霊=風])

『霊』は測定のできないものながら、人間の中でその生命活動に欠くことのできない力を与えているので、人が死ぬと『霊は抜けて神の許に集められます』(伝道12:7)但し、これは人の「霊魂」という日本語の概念とは異なっていて、死は思考の一切の停止を伴うものであり、感覚もないので(伝道9:5-6)人の死後には何の意識も残らないものとして聖書は述べます。人間の死の後には復活が待たれるのであり、「霊界」のようなものは聖書本来の概念ではありません。
生けるものの中で働く霊は、人を生かすという最も基本的な働きを為しています。これは神からの『肉なるものの霊』と呼ばれていて、動物にも存在します。(民数16:22/27:16/伝道3:19-21)

一方、聖霊は預言者たちなど特定の人々に神からの情報や知識を与えてきました。
かつてモーセをはじめとする預言者たちは聖霊を通し、聴く人々に神の言葉や教えを伝えました。
また、多くの詩篇を詠んだダヴィデ王も、聖霊によって語ったと述べます。(サムエル第二23:2)
聖書が聖なるものである由縁も、こうした聖霊の導きの下に書かれた著作の集大成であるからであって、もし、これが単なる人間の知恵の所産であれば「聖書」というその名は似つかわしいものとはなりません。(イザヤ34:16)

聖霊はサムソンのような人に奇跡の怪力をもたらし、預言者には神からの言葉を与え、あるいは癒しを行わせ、夢や幻で人を導き、神の知識を与えてきました。(申命記34:2/士師記3:10/歴代第二20:14/エゼキエル8:3)
これが、単に生物を生かすという基礎的な「霊」より高度な聖霊の役割と言えるでしょう。

いずれの場合にも、神の意志を行うための力を及ぼすのが聖なる霊であり、奇跡について聖書は「神の指」また「腕」という呼び方をしています。すなわち、電力のように離れた事柄で多用に働くものの、キリストのような人格を持たない神の「御手」と呼ぶものと言えます。(出埃8:19/13:9/ルカ11:20/使徒4:30)



◆贖罪によって与えられる新たな聖霊

しかし、この高次な聖霊の働きもキリストの後からは、更に大きく次元上昇します。それはまさに革新的な変化であったといえます。
それが「聖霊の賜物」と呼ばれる、あの五旬節の日からキリストの弟子たちに与えられた格別の聖霊を指します。
使徒ヨハネは、そのような霊はキリストの犠牲によって始めて備えられたことを証しして、『キリストが栄光を受ける以前であったので、霊はまだ無かった』と述べています。(ヨエル2:23/使徒2:16-21/コリント第一14:1/ヨハネ7:39)

イエスは弟子たちに、自らの去った後に特別な「聖霊」を与えることを約束していました。
それは『真理の霊であり、世が受けることのできないもの』であり、また弟子たちの『助け手』でイエスの言葉を思い出させるだけでなく、弟子たちを『真理の全体へと導く』ものでもあるとイエスは語られました。
(ヨハネ14:16-17/14:26/16:13)

このキリスト後に到来した「約束された聖霊」また「聖霊の賜物」は、それまでのどんな聖霊とも異なる画期的なものとなりましたが、これはユダヤ人の中でもイエスをキリストと信じた者たちだけに、この『聖霊のバプテスマ』が与えられ、ユダヤ体制には注がれません。(ヨハネ3:16-17)

したがってこの聖霊降下は、神の是認が律法契約のユダヤを去って『新しい契約』に移ったことを証しするものでもありましたが、それ以上に、弟子たちに真理が啓示され、様々な奇跡を行い、人々にイエスと同じ業を行って信仰を呼び起こすという、歴史上それまでにない人々の現れでもあったのです。
このように、キリストの犠牲が捧げられたことによって、初めて『新しい契約』に預かる『召された』聖なる弟子らが登場したことには新約聖書に異論の余地がありません。(ヘブライ9:15)

その日、聖霊を受けた弟子たちは自分の知らない言語で『神の壮大なことを話し』、以後はその翻訳や、預言、癒しなど、多様な奇跡を行う力も与えられてゆきます。(コリント第一12:4-11)
それは預言者であるなしに関わらず、老若男女を問わずキリストを信じるユダヤ人をはじめとして、やがては『契約の子ら』ではない信徒の異邦人にもこの「聖霊」は臨みます。(ヨエル2章/使徒10章)

それまで、ひっそりと迫害するユダヤ人を怖れて隠棲していたキリストの直弟子たちは、この聖霊降臨の日を境に力を得てユダヤ人に向かって強力な宣教を始めました。その後の勢いは聖霊の助けなくして考えられません。彼らにはイエスのような奇跡を行う権威が与えられ、この人々が世界に広がってゆくに従い、キリストの業も聖霊と共により大きく拡げられてゆきます。(使徒4:31-31)

その「聖霊」の特殊性をもたらしたものは、キリストの犠牲による贖罪であり、イエスの血によってそれらの弟子たちがアダム由来の「罪」を許されて『新しい創造物』(コリント第二5:17)とされ、また『神の子』とされた(ローマ8:16)ことを証しており、弟子たちはキリスト以外のどんな人にもそれまで下賜されることのなかった格別の「聖霊」を受ける者となったと言えます。その聖霊を受ける人々は水のバプテスマをも受けていたので『水と霊から生まれた』ということもできます。(ヨハネ3:5)

なぜ、この聖霊がそれを受ける人々をこれほどまでに変化させることができたのかを問えば、それがキリストの犠牲の価値を通して初めて与えられたものであり、この格別な聖霊はキリストの死以前には存在することが無かったからです。(ヨハネ7:39)

この「約束の聖霊」を受ける意味は、その人が全人類に先立って既にキリストの犠牲を通して贖罪された『初穂』という信徒の中でも少数者に属すること(ローマ8:23)また、天でキリストと共に霊者となって『神の王国』を構成し、『祭司の王国、聖なる国民』(ペテロ第一2:9)となって全人類の贖罪を行い、また、その王国の存在する間の支配を任された『ダヴィデの子孫』となるよう招かれた『選ばれた者』であることの『身分を証しするもの』(エフェソス1:13)ということができます。



◆選ばれた者だけに下賜される聖霊

したがって、これは信ずる者には誰にでも与えられるものではありません。
確かに使徒2:38は『バプテスマを受けなさい、そうすれば聖霊を受けます』と述べてはいますが、これが語られた相手が『契約の子ら』即ち、ユダヤ人またユダヤ教徒であったことを忘れると、大きな誤解を招くでしょう。
なぜなら、ユダヤ人は既に『祭司の王国、聖なる国民』となるべき律法契約の当事者(出埃19:5-6)であったからです。

それゆえ、既に神を信仰していたユダヤ人が、更に進んでキリストがナザレ人イエスであると信じて受け入れるなら、古くなっていた『律法契約』を去ってそのままキリストの『新しい契約』に入り、その契約は「義」を彼らに仮承認し「罪」を赦して『神の子』の身分を与えました。(エフェソス1:13/4:30)

しかし、ユダヤ人の中からイエスをキリストと信じる人々の数が不充分であったので、『聖なる国民』を充足させるために『アブラハムの子孫』として一定数の異邦人が招かれ聖霊を受けました。その最初がローマ士官コルネリウスであり、その当時は彼に続く多くの人々が聖霊を受け『イスラエルに接木』されました。パウロはそれを『養子縁組の霊』とも呼んでいます。つまり、異邦人からも『神のイスラエル』に人々が選ばれたことを示唆しています。 (ローマ11:17-24)

聖書が書かれた時代には、ユダヤ人と異邦人とを問わず信者の集まりの大半の人に聖霊が注がれていたことが聖書の記述から分かります。(エフェソス2:18-19)

彼らに「約束の聖霊」が注がれたのは「神からの選び」の証しであり、同時に「聖霊の賜物」を以って他の人々からもそれと分かる印となり、且つ、キリストの弟子たちに真理の知識を与えましたから、聖霊が注がれていた初期のおよそ百年間、彼らに今日のような分裂は起こりませんでした。(ガラテア5:22/教会史Ⅱ14)

聖霊はイエスの父から発し(ヨハネ15:26)、イエス自身が用いる(16:15)もので、初代のキリストの弟子たちが世に居る間、キリストは天から弟子たちを導き、奇跡を行わせ、知識を与え、大胆に語らせ、宣教の方向を示し、迫害にある者を励ますなど、縦横の働きを行いました。これらの働きにより、最後の使徒ヨハネに至って、遂にキリストの教えは完成を迎え、聖書も一度書き終えられるに至りました。当時は集まる弟子たちのほとんどが聖霊を注がれた「聖なる者」であり、新約聖書はこの人々に専ら語っています。(ローマ1:7/コリント第一1:2)


しかし、初代の弟子たちが世を去るに従い、「聖霊の賜物」を持つ「聖なる者」とされる弟子は姿を消してゆき、遂に「約束の聖霊」を有する弟子は地上から絶えました。当時の複数の資料からこの点を裏付けることができ、アウグスティヌスなどの著名な教父も、第二世紀頃まで聖霊を有する信徒が居たことを認めています。⇒エクレシア内の信徒と聖徒

キリストは『王権を得るための旅』に出立し、この格別な「聖霊」を通して弟子たちを監督する時代は終わりを迎え、今日に及んでいます。キリストが王権を得る時節がいつであるかについては、使徒たちですら『あなたがたの預かるところではない』と言われていますので、人は誰もキリストの再来と、再び弟子たちに聖霊が注がれるようになる時がいつかを知らされてはいません。(使徒1:7)



◆終末での聖霊の働き

しかし、世が終末を迎えるときにキリストは王権を佩びて世に対面されますが、これは『臨御』(パルーシア)と呼ばれており、その言葉の示すようにキリストは以前のように「再来」されるのではなく、『雲と共に』来られるキリストは、人類からは見えない様でご自分の弟子たちに再び「約束の聖霊」を注ぎ『聖霊の賜物』を与えて、重要な責務を彼らに果たさせます。
その責務には、世界宣教を行い、救い主の名を知らせ、裁きの根拠を据えることが含まれます。(マタイ10:18/使徒1:8/イザヤ43:10/使徒2:21・15:14/ヨハネ16:8)

その責務のひとつは、世の為政者たちの前に引き出され、そこで聖霊の言葉を宣し、キリストが王権を佩びる『神の王国』に支配権を渡すように勧告します。それは『諸国民に対する』それまでにない最も大きく最も意味深い宣教となります。(マタイ10:17-20/ハガイ2:6-7/イザヤ2:2-4)

ですが、これは聖霊を受ける弟子たちにとっては試練の時となります。命欲しさに保身に走ればキリストと共になるという特権は失われるでしょう。少なからぬ聖霊を持つ弟子が世界の敵意の的となり殉教を遂げるとされています。(マタイ10:32-42/ルカ21:12-17)
殉教を逃れた残りの聖徒たちは一斉に地を後にする時が到来することをも聖書は告げますが、これがキリスト教界で「携挙」と勘違いされていることです。(テサロニケ第一4:17/黙示録11:7-12)

さらに聖霊の発言は、全人類に対して救いの道を教えます。
救いに関わる重要な要素は『神の名』であり、初代のキリストの弟子たち以来、これまで聖書中にありながら読めなかった神の名前が発音され知らされることになり、それに頼る者、信仰のうちに呼び求める者が救われることになります。(詩篇102:21/ヨエル2:32/使徒2:21)


 そして、「約束の聖霊」のもうひとつの重要な働きは、人類の「裁き」に関わるものです。(ヨハネ16:7-11)

 王であるキリストの見えない臨御の理由は、「神の王国」によって人間の支配と崇拝を終わらせるに当たり、神の支配と贖罪を受入れるかどうかについて、人類のひとりひとりの意志を確かめるためで、これは終末の「裁きの日」に為されます。

 もし、神からの最高権力を帯びた大王キリストが直接に輝かしい姿を直接に現わしてしまえば、その厳しく威力に満ちた様は人を慄かせてしまい、人の内面の選択が表れなくなってしまうので、人間の裁きには「聖霊」が用いられます。

 かつて、キリストが質素な姿でユダヤ人の間に現れたとき、その行う聖霊による奇蹟の業は人々をふたつに分けるものとなりました。つまり、イエスをキリストとして認める人々と頑なにそうしなかった人々です。
将来の終末の裁きでは、聖霊を注がれた弟子たちの言葉に信仰を置くか否かでキリストへの信仰が一人一人に問われることになるでしょう。これはアダムが経験した「二本の木」の選択に相当すると考えられます。人々がふたつに分けられるからです。(マタイ25:31-32)

 将来、世の終末に臨んで、再びキリストの弟子の中から「約束の聖霊」を受ける人々が現れるとき、彼らは「聖霊の賜物」の奇跡的力を大いに揮って、それを見聞きする世界つまり『天地を激しく揺り動かす』ことになるでしょう。(ヨエル2:1-10/ハガイ2:7)
すると、多くの追随者が現れて、流れのようにキリストの側に向かう様子がイザヤ書などに描写されています。(イザヤ2章/ミカ4章)

 他方、決定的な聖霊の奇跡の力を見ながらも、なお信じない人々については、その不信仰ゆえに裁かれることになります。(ヨハネ3:36)それは、イエスの行う神の業を見ながら信じなかったユダヤの人々、特に傲慢であるがゆえにイエスを受け入れなかった宗教家たちが裁かれ、その世代のうちにローマの攻撃を受け、ユダヤとエルサレムの神殿を失い、やがて流浪の民となった故事に教訓として聖書と歴史に刻まれています。(ルカ19:41-44)

 キリストは『わたしを信じなくても、わたしの業は信じなさい』また『人の子を蔑める者も許される』と語りましたが、『聖霊を冒涜するものには許しは無い』と警告された背景には「聖霊」が人々を裁くものとなるという重要な事柄があります。(ヨハネ10:38/マタイ12:32/ルカ12:10-12)



◆聖霊は誰に注がれるか

 ここで言う聖霊とは、生けるものの中で働いている神の霊や、単に崇拝者を導く聖霊以上のもの、先立って贖罪される人々に与えられる「約束の聖霊」のことを言うのであって、他の人に聖霊はまったく働かないと言うのではありません。
キリスト教界では、この辺りが判然としないので、誤解から混乱を来たしています。

では、「約束の聖霊」は将来の何時、また誰に注がれるのでしょうか?

 人は神の知識を『求め続け、敲き続ける』必要がありますが、神はこのように求め続ける人々に「真理」を啓示され、ご自身の「義」を明らかにされます。その人々が、自分の受けるご利益目当てなら、願いを叶えるような「真理」を見つけると、それ以上に『求め続ける』ことはないでしょう。関心が自分に向いているからです。
しかし、神の意志を探る人は、人間の正義や自分たちだけが正しいと主張することなく、ひたすらに『神の義』を『求め続け、敲き続ける』理由があります。関心が神に向いているからです。まさにそのような人々に聖霊は与えられる(ルカ11:9-13)と聖書は述べています。

 聖霊降下はキリストの「再臨」とも呼ばれる『世の裁き』の時節を印付けるのに、これ以上ない最大の証拠となるでしょう。
聖霊を受け、キリストと共になる弟子たちは、キリストのような最期を覚悟しなければなりませんが、そのようにして彼らも『世を征服する』ことになり、キリストと共に王として治めるに相応しい者と見なされることになります。(ヨハネ第一5:4/黙示録2:10)

 このように「聖霊」に関わる事柄は全人類に関わるきわめて重大なものですが、キリスト教界の聖霊理解は、キリストのような殉教を覚悟するのではなく、心に内住し個人に益与えるという程度のものに留まるご利益信仰になってしまっています。

しかしそれが、その人々の信仰である以上、無理に変えることもできません。そこには、その人の強い欲望も関わっていることでしょう。
 それは同時に、そのような信仰を抱く人々の、神と人類のために捧げられたキリストの犠牲の生涯を知ってなお、個人の利益に関心の向くという心の状態、また価値観の大きな異なりを物語っていることでしょう。(コリント第二5:15)

しかし、「聖霊」は、個人の利益ではなく、キリストの再臨や全人類の裁きと救いの関わる重大事であることは聖書全体の流れが示すところであり、これを見誤ることは致命的な結果に至ることが目に見えています。それが『けっして許されることのない』という「聖霊を冒涜」することになり兼ねないからです。(マタイ12:32)

 その点、「クリスチャン」と称える人がたとえ「聖霊」を受けないとしても、聖霊を受けた人々の言葉に信仰を働かせて転向してくる無数の人々を信仰の先達として迎える立場に立つことになるのであり、この聖霊理解をもたなければ、却って将来の「聖霊」に関する予想外な進展に心を頑なにしてしまい、救いから最も遠い者となってしまう大きな危険の中に居るとも考えられます。(ヘブライ4:7)

ですが、時は依然残されており、新たな聖霊の理解を通して、神の御旨を求める信仰を懐くことの扉は開かれています。








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 ⇒ 回復論へ



 予備資料
 「終末の裁きで人は何を問われるか」




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