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『罪』と『愛』

2017.11.22 (Wed)

◆悪によって歩き出した人類


『善悪を知る木』から実を採って食べたアダムとエヴァが、その木の名のように善悪を知ることになったことを聖書はこう記しています。
『神YHWHは言われた。見よ、人は我らのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。』(創世記3:22)

ここで神は、何者かと会話していますが、これは天という物質ではない神の領域の被造物である天使らを指すことでしょう。

物質として地上に創られた人間アダムとエヴァとは、創られた当初とは異なるものとなったことをこの言葉が知らせています。
彼らは禁じられた行為を通して、倫理的無垢の状態を後にしています。
それまでは、彼らは『死ぬことのないように』禁令を守っていましたが、未だ誘惑を受けてはいません。そこでは死を避けるという、彼らの益だけがありました。

しかし、『蛇』が誘惑を語ることによって、エヴァの前には『神のようになる』という別の益が置かれ、アダムの前には「妻を失う」という害が置かれます。
『蛇』の悪への誘いによって、彼らは「倫理」という領域に足を踏み出しています。
そこには、利害を超えても、自分たちを存在させた創造者に忠節な愛を示すという善への選択もあり、その機会は彼らに一度限り与えらていたことでしょう。

彼らの子孫となった一般的な人々の社会では、常日頃から倫理上の間違いを犯しては悔いることが頻繁にあり、また、それが許されることもあります。しかし、それでもあまりに度々に不道徳なことを重ねる人がいれば、周囲から信頼されることは望めなくなります。しかし、多少の倫理的な間違いは、わたしたちの誰もが避けられないものです。

この点で、始祖と子孫とでは、状況が異なります。
まったく道徳的に無垢であったアダムとエヴァが、神への忠節な愛を示さず、エヴァは神よりも利得を望んで『蛇』を信じてしまい、アダムはそうしたエヴァを神に勝って選び取った以上、それは利己心から創造者を押し退けるという、一度限りに信頼を失う、引き返すことのできない道に入り込んだことを意味しているでしょう。

彼らは、創造物であったにも関わらず、その立場を踏み越えて我欲に従い、神に対して利己的に振る舞いましたが、彼らに欠けていたのは、創造者への愛であり、そこで創造物としては不忠節な者であることを行いで表してしまいました。
そのようにして、彼らは「善と悪とを知る」結果として、神から身を隠します。もはや、以前の彼らのようではありません。

つまり、悪を行うことによって倫理の世界に足を踏み入れ、神の創造物という範囲から象徴的に独立し、あらぬ方向に歩み始め、倫理を知ることにおいて、悪い選択をしながらそうしてしまったことを恥じたことでしょう。
彼らは自分たちが裸体であることを恥じ入り、下半身を覆いはじめます。おそらくは、性欲というものを恥ずべきものと感じ始めたのでしょう。

神は、アダムを捜して『どこに居るのか?』と呼び掛けていますが、それは神が人のプライバシーを守っていたことの表れと言えましょう。そうでなければ『善悪を知る木』やアダムとエヴァを監視できたに違いないからです。

神が二人を創造した以上、『永遠の命の木』から食べさせ、生き続けさせたかったことでしょう。
しかし、今や彼らは『善と悪とを知る木』から食べてしまい、エデンの秩序を犯す張本人となっていました。
当然これは、創造者としては何もせずに放置できることではありません。
なぜなら、今や創造界には神の意図しない利己心による悪や混乱が入り込んで、創造された世界が創造者の意図とは異なるものとなる事態となりましたが、悪が永続するなら、創造の意図はいつまでも成されないことになります。

そこで神は、アダムとエヴァが『命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない』ことを防ぎます。もし、神の創造の意図を離れた彼らが永遠に生きるなら、神の意図は地上に達成されることのないものとなってしまうからです。(創世記3:22/マタイ6:10)

そこで神は、『神は彼をエデンの園から追い出し』『エデンの園の東に、ケルヴたちと回転する炎の剣とを置いて、命の木の道を守らせられた。』とあります。(創世記3:22-24)
つまり、アダムとエヴァによって人類全体が神の是認された状態から離れ、エデン(楽しみ)の園からも追い出され『顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る』という境遇に置かれることになりました。これこそ人類の全体が味わってきたところの空しい生涯そのものです。(創世記3:19)



◆神の象りと愛の道

やがて『善悪を知る木』から採って食べたことは、神の目を恐れたアダムとエヴァが告白することによって、創造者も知るところとなります。
あるいは、全知全能の神がこの事態を防ぐことができなかったとは、矛盾したことに思えるでしょう。

しかし、創造の神が初めから人間を悪を選ばないものとして創ることはできなかったわけではないでしょう。ですが、そのように選択を制御された者として人を創っていれば、そもそも『二本の木』の必要がありません。

そこで神は、人というものに倫理的自由、つまりロボットのようではなく、他者を愛する自由を与えていたと言える理由があります。
真実の愛は、自発的であり、真の自由の中に在ってはじめて存在するものだからです。

神が望んだのは愛であり、理知的な存在として人を創られたのも、神との意思の疎通を通わせることを意図していたのであれば、「忠節な(不変の)愛」こそが神と人との絆となるべきであったでしょうし、愛こそがあらゆる創造物ともつながるべき精紳と言えましょう。

創世記には、神は自らの象りに人を創ったとあります。
神は、天使らばかりでなく、人間にも自らと意思を通わせることのできる思考力だけでなく、神が自由な意思をもつような自由を与え、真実の愛を懐けるものとして創られたので、『二本の木』の選択によって、その忠節な愛を表す機会を得ていたということができます。

その選択は強制されるものであってはならず、そうでなければ、彼らは神の象りの自由な意思を持てず、真実の愛も表せなかったに違いないからです。
ですから、神はわざわざ『二本の木』をエデンの園の中央に植え、しかも二人を監視するようなことをしなかったのです。
神の象りである彼らの自由を保つことは、神が自らを尊重するに等しい意義があったというべきでしょう。

彼らがサタンの誘惑に遭っても、神への忠節で不変の愛を示していたなら、彼らは他者とどう生きてゆくべきかを弁えた、倫理の点での無垢を選び取り、『永遠の命の木』から採って食べることを許されたことでしょう。
しかし、今や彼らはそこに到達しませんでした。神の象りとしての自由を善用しなかった二人は、もはや神の創造の意図を反映するもの『神の子』ではなくなり、永遠の命から遠ざけられたうえに、その自由も大きく制限を受けなくてはならなくなります。

そのひとつが、『顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る』という生きるために生きるという空しい生涯であり、社会秩序を保つために、法と強制によって生き方を制限されなければならないことも挙げられます。

他方で使徒パウロは、『愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は法を全うするものです。』と述べます。(ローマ人への手紙13:10)
この言葉の根本には、神の象りとして創られた人にとって、本来あるべき姿が『愛』という一言に込められています。

使徒ヨハネは、神と人にとって愛が絆となることをこう書いています。
『愛する者らよ、我々はこれからも愛し合ってゆこう。愛こそは神からのものであり、すべて愛するものは神から生まれている。』
『神は愛であり、愛の内に留まる者は神と結ばれており、神はその者と結ばれている。』(ヨハネ第一の手紙4:7.16)


イエス・キリストは死を遂げる前の晩に言われました。
『わたしは新しい掟をあなたがたに与えよう。それは、わたしがそうしたように、あなたがたも互いを愛することだ。』(ヨハネ福音書13:34)
まさしく、キリスト教には「愛の教え」と呼ばれるに相応しい中身があるのです。










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