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エデンの二本の木

2017.11.14 (Tue)


◆難しくない禁令

そもそも、なぜ人は『罪』を背負い込んだのでしょう。
その『罪』のために神と人とが隔てられるようなことを、神が阻止できなかったのでしょうか。
もし、あなたに神のような能力があるなら、即刻にも人々から不道徳性を取り除いて、悪も争いもない世界を実現させようとするのではありませんか。

そうなると聖書の神とは全知全能でもなく、人類に災厄が降りかかることを防げなかったほどにその能力は限られ、また人類への関心も薄いということなのでしょうか。

しかし、聖書は全能の神をこう描写します。
『その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく義であって、正である。』(申命記32:4)

では、現在までに人類の置かれた『罪』ある苦境にはどんな理由があるのでしょう。

聖書の創世記には、人間に『罪』という不倫理性の始まりが記されていて、それは天や地上を整えていった記述よりも多く書かれています。
その理由は、天地の創造の由来を説明するより、倫理の問題を説く事が、創世記の最初に部分にあって重要なことであることを示唆しています。まさに聖書全体も、倫理について焦点を当てた本であるということは覆すことのできない事実と言えます。つまり、聖書とは、人が神を含む他者とどのようにして生きてゆくのかという倫理問題を最重要な主題としているのです。

さて、最初の人間アダムを「エデン」と呼ばれた園に置き、自らの別の創造物である様々な生き物を彼の前に連れて来ては、それぞれに名前を付けさせたと述べます。
つまり、アダムは神とは別の独立した思考を持つ者であり、神はアダムを息子にように扱い「エデン(楽しみ)の園」に置くだけでなく、自らとは異なるアダムの思考を楽しんだからこそ、『何であれ、それがその生き物の名となった』と記されるように、生き物を名付けさせたのでしょう。そこには人を恵む父親のような神の姿と、アダムへの信頼ある愛情が描かれています。

そのうえ、妻エヴァをアダムに与えた神は、ふたりを祝福して『生めよ、増えよ、地に満ちよ』と言われます。
創造の神は、こうして人類を地上に増え広がるようにされますが、同時にアダムは『これこそ遂にわたしの骨の骨、肉の肉』と讃嘆の声を上げて最初の女を迎えます。
エヴァを得た彼のエデンでの喜びが更に大きく膨らんだことは想像に難くありません。

しかし、その以前に神はアダムにひとつの禁令を与えていました。
それが園の中央にある二本の木の中の『善悪を知る木』とされた片方への戒めでありました。
『園のすべての木から取って食べなさい。
 ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べるなら必ず死ぬからだ』(創世記2:16-17)


アダムにもエヴァにも、園のほかの木々から食すことが出来たので、この禁令はけっして守ることが難しいとは言えません。
その禁令を守らないなら『必ず死ぬ』というからには、創造した神は、人を最初から寿命をもちやがては死ぬものとしては創っていなかったこと、また、もう一本の方の木が『永遠の命の木』と呼ばれたのであれば、神は、人を最初から永遠に生きる希望はあったにせよ、そのままいつまでも生きるものとはしていなかったことが分かります。その二本の木に永遠の命を左右する「何か」があったことが示唆されています。

つまり、人がずっと生き続けるものとなるには、『善悪を知る木』からは食べず、『永遠の命の木』から食べるべきであったこと、そこに二つの選択肢があり、一方を食べれば死へ、一方を食べれば永生に向かう分かれ道がそこにあったことになります。しかし、この二本の木が一度に並べられて選ぶようにされたのではなく、『永遠の命の木』に至る前には『善悪を知る木』の試みがあったといえます。

アダムもエヴァも『善悪を知る木』から食べずに過ごしますが、けっして死ぬことを望みはしなかったからでしょう。
しかし、そこに第三の立場の者が登場してきます。



◆『蛇』の背後に居た者

神でも人でもない、倫理に関わる第三の者は、創世記では『蛇』となって現れます。
この『蛇』は、エヴァに話しかけ、木の禁令について尋ねます。
『園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか』

もちろん、植物を食物として備えた神が、彼らから食を断つようなことを命じるはずもなく、この話し掛けの言葉の中に、早くも神とエヴァの間を裂こうとする意志が見えています。この新たな登場者は単なる蛇ではありません。なぜなら、蛇は話すことはおろか、鳴きさえしない生き物だからです。
しかし、エヴァは警戒する様子も見せず、そうではないことを説明します。

ですが『蛇』には、最初から中傷する意志があったのであり、エヴァは続く『蛇』の言葉を批判なく聞きます。
『あなたがたは決して死ぬことなどありません。なぜなら、神はあなたがたが善悪を知るようになって目が開かれ、神のようになることを知っているからです』

『蛇』の語った「死なない」というのは嘘偽りでありましたから、「善悪を知るようになって」どうこうと言うところも信頼できるものでもないのです。この偽りに従うアダムとエヴァが得るものといえば不利益でありました。その場では死ななかったものの、二人はやがて死を迎えています。

しかし、『蛇』の言葉を聞いてからエヴァが見ると、賢くなれるという木の実はたいへんに好ましく見えたので、その実を取って食べてしまい、すぐには死ぬことがなかったので『蛇』を信じたことでしょう。それからエヴァはアダムにも与えます。
すると、禁令を守っていたアダムもその実を食べてしまいました。

こうして、人は寿命を迎えて死ぬものとされて今日に至っているというのが、創世説話の物語とされてきましたが、多くの人々にとってはおとぎ話という以上にはなっていません。

ですが、ここに神と人との、また人間同士の現在までも継続し、更に先鋭化しつつある問題の発端があります。
それは創造の神をないがしろにし、あるいは倫理というものに無頓着であり続けた人類の態度のはじまりであり、素朴なまでに単純化された文章の中にその重い事柄が込められているのです。

まず、この『蛇』ですが、動物の蛇には声帯もありませんので、これは理知を持つ他の何者かがエヴァに話しかけていたと見るべき理由があり、聖書そのものが、この『蛇』が何者であるかを暴露しています。聖書の最終巻の黙示録の中でこのようにあります。
『この巨大な竜、すなわち、全世界を欺くもの、悪魔またはサタンとも呼ばれる、あの始りから*の蛇は投げ落とされた』(黙示録12:9)*(アルカイオス「昔からの」)

ここに『悪魔またはサタン』という、最初の男女に関わる新たな存在が創世記に登場してきました。神と創られた人間二人は親子の関係にありましたが、そこに別の存在が現れてきました。
しかし、神がすべてのものを創ったのであれば、悪魔もまた神が創ったに違いないという推論は正しいと言えます。
それでも、神は悪魔といえども、最初から悪いものとして創造したとは言えません。


◆サタンの由来

旧約聖書にあるエゼキエルの預言書の中で、この悪魔も以前には優れた『ケルブ』と呼ばれる種類の天使のひとりであったことが暗示されています。
『あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。』
『あなたはその美しさのために心高ぶり、その輝きのために自らの知恵を汚した』

これらの預言は、古代フェニキアの都市国家ティルスの王に向けて直接に語られたものですが、その中で『エデンの園に居た』こと、『ケルブであった』ことなど、単に人間の王を超えた存在が比喩として用られており、そこから同時に、優れた天使であったのに、傲慢のゆえに自ら悪に走ったある存在者を例示しています。(エゼキエル書28:13-15)

つまり、悪魔またサタンと呼ばれ、後には神に逆らうだけでなく、あらゆる知的な創造物を神から引き離し、創造主を無視して生きる利己的な歩みに誘う中傷者となったのは、やはり神の創造物であり、しかも優れた天使のひとりであったと聖書は言うのです。
サタン、つまりヘブライ語で「シャイターン」というその意味は「抵抗する者」の意味であり、それをギリシア語やラテン語では「ディアボロス」と訳されましたが、その意味はまさしく「中傷者」であり、これが日本語で「悪魔」と訳されています。

この以前は天使であった者が、神に抵抗する者と呼ばれ、また中傷する者とも呼ばれるに至ったのも、自ら悪の道を選んでそうなったのです。
それは、エデンの二本の木によって生と死から悪い方に向かってしまったアダムとエヴァにも言えることで、サタンは自らの道にエデンの二人を誘い込んでいたのです。


◆究極の悪知恵

もちろん、アダムもエヴァもわざわざ死を選ぼうとはしなかったに違いありません。
蛇も『あなたがたが(食べても)死ぬようなことはありません』とエヴァに言っています。
この点について、後のキリストの使徒パウロは『アダムは欺かれなかったが、女は欺かれて過ちを犯した』と述べています。(テモテへの第一の手紙2:14)

このパウロの言葉からすれば、エヴァが蛇に『あなたがたは決して死ぬことなどありません。なぜなら、神はあなたがたが善悪を知るようになって目が開かれ、神のようになることを知っているからです』と言われたそのままを無批判に受け入れたところでは、欺かれていたのでしょう。
しかし、彼女が騙されていたとはいえ、神を誹謗する言葉の通りに行動したことにおいて、神の側を擁護もせず、忠節さも愛も示さなかったことは隠しようもありません。

それではアダムの方は『欺かれなかった』にも関わらず、どうしてその木の実を食べたのでしょう。彼は妻が死に至る道に踏み込んでしまったことに気づいたでしょう。
これについては、この行動について神から言い開きを求められたアダムの言葉に示唆するものが記録されています。
『あなたが、わたしと共に居るようにと与えて下さったところの女が、わたしにくれたので食べました』(創世記3:12)

アダムは、創造されてしばらくを独り身で過ごし、神はそれを見て『人が独りで居るのはよくない、彼のために助け手を創ろう』と言ってエヴァを創り、アダムに引き合わせると、彼は『これこそ遂にわたしの骨の骨、肉の肉』と大いに喜んだことからすれば、アダムの言い訳の言葉には『共に居るようにと与えて下さった女』に対する神の意志への共感が読み取れ、それはエヴァへの愛慕の情が強かったことを窺わせるものともなっています。彼は妻と命運を共にすることを一度限り決意しています。

しかし、これはアダムは妻よりも神を愛するべきであったという問題ではなりません。
彼が本当にエヴァを愛したのであれば、二人共に堕罪するよりは、事を正そうと行動もできたでしょう。ですが、彼の妻への思慕は利己心に向かい、エヴァと一緒に居たいと強く願う先にあったのは却って共倒れであり、子孫を巻き込んだ死への行動であったことになります。

それこそが『蛇』の狙いであり、サタンはエヴァへの一度の欺きでアダムをも籠絡し、人類を始祖から自分の仲間にしてしまうことが出来ました。
まず、アダムに禁断の木の実を食するよう誘ったところで、アダムが死にゆく道にわざわざ入ることは期待できるようなものでもありません。

しかし、木の実を食べなければエヴァと引き離されるとなれば、アダムはどうするか。そこで『蛇』はアダムのエヴァへの恋慕の強いことを観察し、自分に寝返る可能性の高さを知るに至り、エヴァを先に欺くことが出来れば、引きずられるアダムをも、結果として一言も彼に話し掛けることもなく誘惑し得ると悪知恵を働かせたといえましょう。



◆利己心が創造界に入る

こうしてエヴァを騙した『蛇』は、ただ「一本の木の実だけは食べてはならない」という守るに容易なアダムへの神の命令を、「妻を失いたくなければ、取って食べろ」という強烈な脅しに置き換えることに成功します。確かにサタンは優れた天使であったものを『その輝きのために自らの知恵を汚した』というべきでしょう。

サタンが神の意図から離れた動機については、イザヤの預言書の中にこのように示唆されています。
『わたしは天に登り、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる(最上位の)集会の山に座し、雲の頂上に登り、至高者のようになろう』(イザヤ書14:13-14)
優れた天使であったこのケルヴは、『その美しさのために心高ぶり』、神の座を占めて自らを高め、他者を下に置き支配する願望を募らせ方向に自由意思を用いたのでしょう。そこに神へ忠節な愛は無く、利己心と貪欲が生じ、神ばかりかあらゆる他者を押し退ける精紳が創造界に入り込みました。それが利己心です。

サタンについて、イエスキリストはこのように言われます。
『彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。』(ヨハネ福音書8:44)

そしてサタンは、エヴァからもアダムからも利己心を引き出し、神への忠節な愛によって行動することから引き離し、他者とどのように生きてゆくかという「倫理」に於いての欠陥をもたらすことに成功しました。
その誘惑は偽りを用いた詐欺であり、その動機は利己心にあり、自分だけを愛して他者を愛さず、創造界に悪と混乱を持ち込んではばからなかったのです。邪悪にも、エヴァには『死ぬことはありません』と言いつつ、実際には人類全体に死をもたらして悪びれもしません。

しかし、この優れた天使が、自分の行動の結果としての最終的な滅びを予見できないはずは無く、彼の手下となった悪霊たちでさえ、自分たちの末路を知っていることを聖書は記しています。(マルコ福音書1:12)

このような卑劣な精神に影響されて、サタンと同じ道に入ってしまった人類の始祖は、他者と倫理の土台である神との関係性を損ない、そうして倫理上の欠陥である『罪』を負うという、堕罪に至ってしまったのでした。
使徒パウロは、このように説明します。
『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ』(ローマ人への手紙5:12)

その結果、アダムは自分の願望のために、自分の子孫を尽く『罪ある者』とするだけでなく、『死への奴隷状態』に一度限り売り渡してしまったのであり、これが聖書の語る、人間の最も重大な問題となったのでありました。

人が、どうしても利己的に振る舞ってしまう原因は、第一にするべき神との関係が壊されているところにあるのです。
神こそが、創造者であり、人間という存在の根源あるからです。

エデンの「二本の木」が表わしたもの、それは他者とどう生きてゆくかを弁えないもの、永遠に生きる資格が無いということであり、現在までアダムの子孫に悪が絶えない理由も、同じく「倫理上の欠陥」があるからです。
そのため、人間は寿命あるものとされました。倫理に問題ある者が生き続けることは、悪と害が地上にはびこり、神の創造の意図は永遠に実現しないことになります。神が『それを食べる日にあなたは必ず死ぬ』と言われた通りです。

こうして、アダムの日から人間には老化と死を避けられない状態が続いていますが、『罪』ある限り、誰も逃れ出ることは出来ません。アダムは子孫に倫理上の清さを伝えることができなくなりました。聖書はこう述べています。
『誰が汚れたものの中から清いものを出せるだろうか。誰もいない。』(ヨブ記14:4)
人間の先祖が創造者への不忠節が、死にゆく空しい命をすべての子孫に相続させたものとなってしまったのです。

では、人類はいつの日にか「永遠の命の木」から食べることがあるでしょうか?







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コメント
サタンの誘った道とは、神の命令に逆らうことでしたが
それは単に命令に従わないということとは言えません。

また、何が正しいかを神が決定する権利を犯したとも言えません。

アダムの決定による行為は、自らを存在させた由来を無視し、創造者もその創造をもないがしろにすることで、他者とどう生きてゆくかという「倫理上の意志決定」を下したのであり、それは創造者ばかりでなく、あらゆる他者との態度をも決定したと言えます。その証拠は世相を一瞥するだけで明らかです。

したがって、エデンに於いては
神を父親のように敬わず、慕わず、忠節な愛を保たないことにより、創造の本来の意図から離れ、創造界の調和に従う生き方から離れたことを意味したと捉える方が、アダムに備えられた二本の木の選択としての決定の自由と整合します。

つまり
創造の神とどう生きるかという最も基本的な倫理からの逸脱をしたので、あらゆる道徳の基礎を自ら崩してしまうことを意味したと言えます。これは神の「主権」の云々の概念とは関わりが無く、むしろ逆であって、単なる主従関係の破棄とも意味が相当に異なります。

もし、主従関係のような命令の履行の有無で捉えるなら、人間は神の意のままに動く点で失敗したことになり、意志の主体者であることを放棄することが善となり、そこで意志選択の自由を踏み越えて命令通りに動くロボットを評価することになります。

それなら、創造者は最初から人をそのように創れば良かったでしょう。
やはり、人の前に置かれた選択には、人というものを尊重する神の姿勢が明らかです。
エイレナイオス | 2017.12.01 20:19 | 編集
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