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神と人とを隔てる壁

2017.10.31 (Tue)



古来、人々は人間以上の存在への畏敬を表してきました。
それは、今日まで様々な宗教が興り、それぞれに崇拝が行われてきた歴史に表れています。

ですが人類が意識してきた、自分以上の存在者、つまり「上なる者」の姿はあまりにも多様です。
人間以上の存在の実体「神」が何かを知ろうとしても、人々に間での見方の違いは非常に大きく、種々雑多です。

ギリシア神話などに語られる神々は、人間のような性格があり、神々の間で人間のような社会そのままに駆け引きや策略を用いられ、多くの醜聞も伝えられています。

メソポタミアの太古の人アブラハムは、まだ法の整備が十分でなかった当時の諸国民の行動を知る手掛かりとして、その民族の崇拝している神が、どのような性格でどのような道徳性を持っているかで判断していました。
特に、古代にはカナンと呼ばれた現在のパレスチナで広く崇拝されていた、子供の人身供儀を求める残虐なバール神の崇拝者や、エジプトの神々の崇拝者たちの行動に、アブラハムが警戒心を抱いていたことを聖書の創世記が記しています。

アブラハムにとって、エジプトやカナンの人々に道徳性の問題をもたらしていたその神々については、とても崇拝に値するものにはなりませんでしたし、その信者たちの行動も信頼できませんでした。

当時には、灌漑農耕による都市生活が、あちこちでそれぞれの都市文化を花開かせ、世俗の賑わいを見せていました。
一方で、遊牧民であったアブラハムには、俗世を離れた広野で話しかける神があり、彼の神は諸民族の神とは異なり、その信頼性にも道徳性にも彼は深い信頼を寄せていたことを創世記は語っています。
そして、その神についてアブラハムの子孫によって聖書が書き継がれるところとなってゆきます。

宗教について、これは今日にも言えることですが、人がどのような「上なるもの」を崇めるかにより、必ずその影響を受けることになります。
例えれば、ご利益を叶える神を崇拝していれば、自分や身近の人の願望の達成や成功がその心を占めてゆくことになるでしょう。

多くのキリスト教会では、洗礼を受けることによる個人の救いが教えられますが、そこで信者でない人々との違いが生じ、洗礼を受けないなら地獄に行くとも教えられるのであれば、信者には不信者への優越感が避けられません。たとえ敬虔な表層を持っていても、このような宗教は、信者にどんな精紳をもたらしているでしょうか。
世界は今日に至るまで、排他的な宗教に敵意や憎悪を煽られ、ときには流血の惨事にまで至ってきました。

そこで、人がどのような「上なるもの」を求めるか、これはやはり重要な事柄です。
それによってその人は倫理的、また道徳的な選択をしてゆくことになるからです。
この世には、無数と言ってよいほど多くの宗教があり、その一方で無神論や不可知論という考えも存在しますが、それらもまた、人の生き方を形作る点では、宗教のような影響を及ぼします。

一方で、聖書の描く神、アブラハムに現れた神は、自らを「全能の神」(エル・シャッダイ)と言われます。
この神は天地創造を行っていますので、この神を敬うべき理由を聖書は、『主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。』と述べ、神が、万物創造の第一原因者、また全能の神であるからこそ、この神を敬うべきであるとしています。(黙示録4:11)

確かに、自分という存在の意味を問うとすれば、それはやはり人を存在させた創造者に尋ねるべき理由があります。
人間というものは、自分の存在する意味を「上なるもの」に問い掛けようとするものであり、自然と自分と「上なるもの」との間に同じ人間を立たせたいとは思わないものです。

「人はなぜ生きるのか」というような純粋な質問に対して、別の人間が入り込み、「その人の上なるもの」の代理を装うなら、その偽者の言いなりに行動や生活までも縛られ、人格も踏み躙られ兼ねません。しかも質問には正解を得ないことになります。
ですから、人々が強引に伝道されるのを強く嫌うのも、こうした害のある雑音から自分を守るための当然の反応でしょう。

この点で、人には自分で自分の生き方を決めたいという本能的な願望があるといえます。ですから、圧制や奴隷というものは、常に人にとっては不自然な束縛となってきました。やはり、人は自分の生き方を自分で決めるよう創られていると言うべきでしょう。


それにしても、本当に「全知全能の神」と呼べるような最高存在が存在するのなら、どうして人間の前に、これほど多様な宗教や崇拝の対象物である「上なるもの」を置いて迷わせるのでしょうか。

これについては、次のような問いを考えると見えるものがあります。
もし、仮にあなたが神の立場にあったとしたら、人々を強引に従えたいと思いますか?
それとも、心からの信じ合える関わりを持ちたいと思いますか?

この点で、聖書の神は、人類一般に否応なく認めさせるような圧倒的な仕方で自らを現してはいません。
それは強引に自らを人々に認めさせることを意図しないからです。
もし、全能の神がそうしようと思ったなら、主権を唱えてとっくの昔に一切を服従させていたことでしょう。

また、科学で神の存在が証明されることもありません。
もし、そうできるなら、人間は自分の力で神を捉えることができることになりますが、そうなれば、逆にすべての人は神を受け入れざるを得なくなるでしょう。
神の存在が証明されるものなら、自ら神を選び取る「信仰」は不要となり、それが当然の常識となって、却って絶対存在者から誰も逃れられなくなります。そこで生じるのは意志の自由のない奴隷化でしょうし、神は強圧的な主権をふりかざす点で、それ以上ない圧制者となってしまいます。

しかし、幸いな事に、人間がどれほど科学を発達させても、科学という客観的観察で神を見出すことはできません。
創造の神は物質を超えた存在だからです。ですから、どんな機器を使っても検知も測定もできるような「物」ではないのです。

このように、神と今日の人類の間には大きな隔たりがあることを、哲学者らも認めてきました。
ジョン・ロックは、人間は生得的に神認識を持たないので、一致した神を見出すことはできないと述べ、エマヌエル・カントは、二律背反の原理を用いて、人間は理性によって絶対の存在者を見出すことはないと論証しています。

そのうえ聖書が、創造の神と人類の間には大きな壁となる事柄が関係を阻んでいることを知らせています。
聖書は『あなたたちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、あなたたちの罪が神の御顔を隠させた』と述べ、神が悪を行う罪人を隔てられることを知らせます。(イザヤ書59:2)
つまり、神は確かにすべてを創造したとしても、人類はその創造の目的から外れてしまって、それが神と人の「壁」になっているというのです。

キリストの使徒パウロでさえ、『自分では善を行おうと思うのに、いつも悪が付きまとっている』と、自分自身にも罪があることを『みじめだ』と言って嘆いています。(ローマ人への手紙7:21)

一方で、聖書の神は、『人はその顔を見てなお生きていることはできない』と言われます。(出エジプト記30:22)
これは、罪にまとわれてしまっている人間が、聖なる神の栄光の前には相応しくない存在になっていることを示しているのでしょう。『すべての人は罪を犯しているため、神の栄光を受けられなくなっている』とも書かれています。(ローマへの手紙3:23)

また、人間の状態について次のようにも書いています。
『被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時にこの希望も持っています。
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる望みが残されているのです』。(ローマへの手紙8:20)


創造を終えた後に『神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。』と創世記は記しています。(創世記1:31)
しかし、今日の世相を、また人類の歴史を少し見るだけで、そこには悪がはびこっていて、創造の直後のような『極めて良い』状態に人間がないことはあまりにも明らかです。

神に創られた人類に『神の子供たちの栄光に輝く自由』が与えられるとパウロが書いたのも、現在の人間は、神の創造のままの意図に従った創造物、つまり『神の子』とは認められていないからです。
神と人とを隔てる大きな壁、それが人間に宿る倫理上の不完全さ、つまり『罪』である現実がそこにあります。

そこで神は、この壁となっている『罪』を取り除く意志を持ち、それにそって歩みを進めて来られましたが、それこそがキリストを遣わされた目的であり、聖書という書物が、神の悠久にわたるその歩みを知らせているのです。








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