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キリスト教の目的

2017.10.23 (Mon)



キリスト教の目的を一言で言い表すなら

「人間の不道徳な性質を清め、創造の栄光ある姿に戻し、永生を与えること」と言えます。

この「人間の不道徳な性質」とは、この世に横行している無数の倫理的に問題のある行いの原因である、人間の悪に傾く性質の事で、 この性質こそが、人類を苦しめている最大の原因となっています。

聖書は古くから(旧約聖書で)人間についてこのように書かれてきました。
『善だけを行って、罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。』(伝道の書7:20)

しかし、これはあまりに人というものへの悲観でしょうか。
確かに、人は善を行えないわけではなく、愛を示すことができるのです。

ですが、悪をまったく行わず、偽りをひとつも言わない人はありえず、高潔を求められる地位の高い人々であっても、時に醜聞を流されることは珍しくもありません。まして一般の人々の間では、不義は不義を呼び、道徳にもとる行いの誘惑は日常どこにでもあるものです。
聖書の新しい部分(新約聖書)でもこう書いています。
『ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあります。 次のように書かれたとおりです。「義人はいない。一人もいない。』(ローマ人への手紙3:9-10)


世界は、いまこの瞬間にも不正や不義が横行し、人々の利己的な欲がせめぎ合っていることでしょう。
それが「この世」という人間の社会の実像と言わざるを得ません。
イエス・キリストはこう教えます『罪を行う者はみな罪の奴隷なのだ』。(ヨハネ福音書8:34)
実際、人が受ける苦難の大半は、人間自身の悪に原因をもってはいないでしょうか?

もし世界の人々が皆、様々な悪の傾向から逃れられるとすれば、それがどれほど画期的なことで、どれほど大きな罪の重荷からの解放をもたらすかは容易に想像できます。
キリストの使徒パウロはこう手紙に書いています。
『被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる望みが残されている』。(ローマ人への手紙8:21)

ですが、現状で人間の力ではけっして起り得ないことで、人は誰も悪を改めることができません。
どんな宗教にせよ、道徳教育にせよ、人類に倫理面での進歩さえもできていたなら、世界の歴史も、今日のニュースも幾らかは違ったものになっているに違いありません。
明らかに人間には倫理上に問題を抱えているので、個人がそれぞれ日毎にこの欠陥のために、重い苦難を多様に受けている現実があります。

人は日常に様々な欲望を抱いて生活しています。
そのなかには、自分と家族の生活を支えるための必要な願いもあれば、大きな財産や利権を得るような成功を望むものや、他の人の権利を犯してまで得ようとする強欲や貪欲もあるでしょう。

つまり、欲を持つことは人間本来の必要であり、身近な人や他の人々を喜ばせることは善なる欲求と言えましょう。
しかし、「貪欲」という他の人々を押し退けて自分の利益求めるところでは争いが避けられません。

この世には、人々の様々な大小の貪欲があふれ、海の荒波のようにぶつかり合っています。
人と人とはこの欲によって動かされ、それが衝突しながら生きてきましたので、人類の歴史には争いが絶えませんでしたし、これからもこの趨勢については変わる兆しもありません。

旧約聖書はこのように述べています。
『悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができず、その海水は泥と汚物とを打ち上げる。「邪悪な者に平和はない」と神は言われる。』(イザヤ書57:20-21)
これは、いつも見聞きする世相そのものの描写ではありませんか。

また、新約聖書は人の内面に切り込み、その心から争いの絶えない理由をえぐり出します。
『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。
それは、あなたがた自身の内部で争い合う欲望が原因ではありませんか。
あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。
また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは願い求めていないからで、願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めているからです。』(ヤコブの手紙4:1-3)


これらの言葉は、人の強欲や貪欲が原因となって争いが起き、人殺しにさえ至るこの社会を聖書の言葉が焙り出していると言えるでしょう。それは人が歴史上でずっと見てきた世相そのものです。

人間は交換社会を基本としています。貿易によって結ばれたこの世界では、ますます他者に依存して生活を成り立たせるようになっていますが、際限のない貪欲は、自分の贅沢のために他から奪い取ることを厭いません。
充分な食糧が生産されている傍で、三度の食事さえとれない困窮があり、消費生活を謳歌する僅かな人々に対して、世界の半分ほどの人々は一日2米ドル以下の支出で生きていると言われます。この世界が、まるで一握りの人々のために存在しているかのような富の偏りは終わることがありません。

人類は消費生活に対する大自然への負荷への支払いをろくにしないで過ごしてきたというのは、まず間違いのないことでしょう。
いまや、地球環境が変動しているとしても、不思議はありません。
つまり、人間の不道徳性は、その存続をさえ危ぶませているのですが、それなのに紛争や軍拡、民族主義や宗教的反目を世界はわざわざ付け加えて止める様子もありません。これは誰もが日毎に見聞きする日常となっています。

そこで、この世に生まれたままに社会を受け入れるなら、こうした欲望によって動かされる人々の姿も当たり前のように思えるかもしれません。
それでも、人間の欲、特に自分の利益を追求して他の人々を顧みない強い欲望が社会に溢れていることに警鐘を鳴らす人々も存在してきました。

例えれば、フランス革命の前夜の思想家モルリーはこのように書きます。
「この世における唯一の悪徳は「貪欲」である。他のあらゆる悪徳はどんな名で呼ばれていようとも、すべて貪欲の和声であり、音階であるにすぎない。・(略)・虚栄、うぬぼれ、傲慢、野望、うそつき、偽善、非人情などを分析してごらんなさい。・(略)・その一切のものは精巧だが危険きわまる要素たる所有欲に帰一するのである。」(M.Morelly “Code de La Nature”「自然の法典」1755大岩誠訳p26)

このような人間の倫理上の欠陥は、古来ギリシアの哲人を悩ませ、仏教の開祖ゴータマシッダールタも考慮に中心に置いた問題でありました。
しかし、人の不道徳なところが大きな問題であることは指摘できても、それを解決するとなると簡単なことではありません。いや、どんな教育や宗教をもってしても不可能というべきでしょう。

人の不倫理性を、仏教では一般的に『業』(カルマ)という言葉で言い表すことが慣例なら、キリスト教においては『罪』(ハマルティア)で表します。
どちらも、人間の倫理的欠陥を宗教の中心的主題に置いているのですが、仏教がそれを『業』に応じた輪廻転生と最終的な「解脱」に答えを与えるのに対し、キリスト教では『罪の許し』によって不倫理性が浄化されることを説きます。(ルカ福音書24:45-47)

聖書はそれに加え、人間の『罪』がなぜ始まったかを語り、それが元々の人間の姿ではなかったことも知らせています。

では、どうして神の創造物である人間が、貪欲や利己心をもたらす『罪』を持つことになってしまったのでしょうか。
また、神は人間の『罪』をどう浄化して、人をその意図に適った創造物に復帰させるのでしょうか。
これらが、キリスト教本来の根本を成す教えの要旨であり、目的とするところで、「信者が救われる」という、ご利益信仰とは無縁です。創造の神は、人類全体を『罪の奴隷』から救い出し、創造された当初の輝かしい姿を回復させることを目的とされ、行動してこられましたが、その記録が聖書にまとめられています。

世に来られたイエス・キリストという人物は、この目的を成し遂げるために遣わされたのでした。神の存在だけでなく、この方を信じることがキリスト教です。(ヨハネ福音書8:34-36)






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