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序 3

2017.10.22 (Sun)
◆聖なる書

この書の一貫した主題とは、人間の虚しさの由来と、その根底からの解決であり、この世の有り様が未来永劫に続くものではないことを教えます。
人間は自ら陥った問題のために、これまでずっと苦難の短い生涯を強いられてきたのですが、その問題の原因が、善悪、また倫理に関わるものであったことを聖書は知らせます。まさしく聖書とは、善悪、つまり倫理をテーマにした本なのです。ですが、その「善悪」と言うのは、個人の言動の良し悪しを遥かに超えた次元の、人類全体の性質を指しています。

神は世界を創造し、人も創られましたが、今日までに見られるような儚い生涯を人に送らせようと意図したわけではありません。
また、多くのキリスト教会が教えるように、人々を天国に召すことを目的したわけでもありません。聖書の浅い理解に留まっているなら、容易にこれらの誤解に陥ることでしょう。

聖書に込められた神の目的は、人類全体の救済であって、個人がこの世で成功を収めることや、世渡りの秘訣を与えることではあないのです。それを望むのなら、原始キリスト教は似つかわしくなく、ほとんど役に立たないでしょう。所謂「ご利益信仰」ではないからです。

聖書の神は創造者であって、この世がその意志に適ったものではないゆえに、人類の始祖以来、ずっとひとつの目的をもって行動して来られました。
人々は、世の悪や苦しみを見ては「全能の神が居るのなら、どうしてこうしたことが起こるのを許すのか」と問い続けてきたことでしょう。

人の短い生涯からすれば、永きに亘る神の歩みが見えず、そのように問うことはもっともなことです。
それでも、太古の過去から、将来に至るまで、神がどのように行動して来られたか、また将来に何を行われるかの全体像を俯瞰する手掛かりがあり、それが聖書という書物の役割です。

この書が、この世で人を金持ちにするわけでも、病気を治すわけでも、寿命を延ばすわけでもありません。

しかし、人間という創造物が、どうして短く虚しい一生を終えて去ってゆかねばならないのかを知らせ、創造神の意図がそのようなものではけっしてなかったこと、また、窮境にある人類をどのようにして救済しようとしているかという、人間についての根本的な事柄を説く書です。

聖書には、神の活動と人々との関わりが記録されてきました。最後の部分が書かれて1900年が経過しています。
しかし、神は以前にも400年ほど聖書記述を中断したことがあり、今日でも全てが書き終えられたとは言えません。
聖書が神に関する記録ではあっても、神の行動をその中に閉じ込めることはできないからです。

また、この書に忠実に従えば神の是認を受けるとはけっして言えません。
聖書に厳密に従ったユダヤ人は、書かれていることでなく、書かれていないことののために、神から遣わされたキリストを退けてしまいました。神は人に信仰を求めるので、すべての事を教え尽くすことはありません。

そして聖書は、何度も「終末」という世の終りの時期に焦点を当てており、そこで神は過去の華々しい奇跡の偉業に勝る力を示されると言われます。そこで「この世の神」が裁かれねば、人類から苦難は去りません。

そのように創造の神が人間に対して行おうとしていることは、個人の利得を遥かに超えて、創造された世界の隅々にまで幸福をもたらすものです。
この神の意志に共感するには、利己心を去るよう努めることが求められます。なぜなら、他者を押し退ける利己心こそが人々を苦しめている元凶であり、これまでこの世を形作ってきた原因だからです。

そこで、原始キリスト教を学ぶことには、利他的な大志が求められ、同時に神に深く謙る畏れも必要になります。
好奇心から教理を知ろうとすれば、その意義は消え、知識を誇れば奢りを避けられません。
人が自分の理想に基いて神を形作るのではなく、人の思いを遥かに超える神が感化を及ぼすのであり、神は人を知識や道徳性ではなく信仰に於ける愛を試されます。

もし、こうした事柄が意に反するのであれば、原始キリスト教には関わらない方が良いでしょう。
しかし、人間という創造物の真の有り様を理解し、創造者との関わりを知ろうと思うのであれば、他に道は無いでしょう。







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