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序 2

2017.10.20 (Fri)
◆人は上なる者を求める


人は人生の意味を尋ねます、どんな若者もいつしか老化が始まり、体に不具合も出始め、誰もが人生の終りに向かっていることを否応なく意識させられることになります。
まして、この世では多くの悪や苦しみを経験しますが、楽しみはそう多くなく、人の寿命もそう長いものではありません。

そこで、人は何者か自分以上の存在を自然と意識してきました。「何のために自分は存在したのだろう」という問いかけは、人間以上の何者かにしか答えがないことを直感するからでしょう。

そして、ほとんどの人は、その「上なる者」と自分との間に他の人間が入ることを嫌います。
それは自然なことであり、「上なる者」は自分と同じ人間であるはずがないからです。
ある種の宗教家が人々に煙たがられ、伝道されることが好まれないのは、人間の賢さの発露というべきでしょう。

しかし、それでも人は「上なる者」を意識せざるを得ません。
人の生と死、また結婚などで、自然と人以上の何者かを介在させようとの本能的な意識が働くものです。

それは特に、世界や自分を在らしめた原因者である何者かへの意識であり、人はその「上なる者」を意識し、様々な民族によって「神」とされ、また宗教を介して人は神と自分とを関連付けてきました。

人は、どんな動物とも異なり、この見えない形而上の存在との関係を持とうとする性質を唯一見せてきました。
新約聖書の記載に用いられたギリシア語では「人間」は「アントローポス」であって、この本来の意味は「上を向くもの」を表します。
つまり、人間は自分以上の存在者を意識し、話し掛け、また導きを求めようとする特異な生物であることを表しています。

理性を備え、道理を考える人間たちが、自分がどこから来て、どこに行くのかを問い掛けるのは、ごく自然なことです。
自分と云う存在が有る前に、親たちや先祖を越えて存在させた、また世界をも存在させた何者かが居ることを、人の理性や感覚が告げて来たからでしょう。

しかし、この問いへの解答は、根源的な創造者という人を超える「上なる者」の存在をどうしても要することになります。
存在しているこの世界には、様々な設計や意図が見て取れるからであり、すべてを偶然や無作為に帰するとすれば、最終的に人生を無意味の暗黒に投げ込むことになってしまいます。そうする理由といえば、「神など存在しないのだから仕方がない」という諦め以上のものになるでしょうか。

人間に備えられた、叡智や奥深い事柄を理解し価値ある事柄を成し遂げる能力には、やはり重い意義があると人に感じさせるもので、それがまた短く多難な人生を空虚に感じさせています。
この意義と空虚さとの不合理に対して、人は疑問を感じ、それを「上なる者」に問いかけたので、歴史上様々な宗教や哲学が登場して来たと言えましょう。実に、物質界以上の抽象概念である「神」(かみ)を捉えようするのは、宗教を持つ生き物である人間以外に地上に見当たりません。

ですが、普遍的で誰でも納得するような根本的な問いへの答えはなく、そこで様々な解答と思われるものを陳列するよりほかありません。
なぜなら、創造者は自らの存在も意図も否定しようもない仕方では明らかにしてはいないので、人間は自分の側からの模索を続けてきましたが、それが宗教や哲学の蓄積となっていると言えましょう。そこには雑音も付き物です。

しかし、人間の側からの探求では、創られた世界を観察する以上には進みません。これは自然科学の限界でもあります。
そこで人より高い次元について知るには、科学以外の「上からの知らせ」、つまり「啓示」をどうしても必要とします。しかし、客観的な検証のできないそこには、却って低次元のまがい物が横行する余地があり、それはこの世に溢れる奇怪な宗教や霊との交信を騙る分野に見られる通りです。

それでも、「上なるもの」はまったく上からの啓示を与えなかったのではありません。
神からの啓示は、世界文明の黎明期から与えられ、特に四千年も前の中東メソポタミアに居た、一人の人物に約束の形で与えられ、彼の一系の子孫に加えられ、それは西暦二世紀までに新旧の聖書にまとめられました。

なぜ、この書がまさしく「上からの啓示」と言えるのかと云えば、この書はこれほど長い歴史を持つものでありながら、根底を流れる主題をずっと保持し続けており、時代も立場も場所もそれぞれの筆記者らが、その主題の下に書き継いでいるところに、著述を導き続けた人間を超える存在を指し示しているのです。





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