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序 1 

2017.10.19 (Thu)

◆ 人はなぜ存在し生きるのか

たいていの人が一度は尋ねるこの問いですが、これを問う理由は何かといえば、人は誰も自分から生まれてきたわけではないからでしょう。
「なぜ存在し、生きるのか」の問い掛けに何らかの答えを求めて、人はそれぞれに答えと思えるものを考え、あるいは宗教的な教えに納得し、人生に意味付けを行ってきましたし、これからも人々はそうしてゆくのでしょう。

世の中には、生きる意味についての様々な回答はありますが、実は、誰にでも当てはまるような、普遍的で決定的な解答というものがありません。そこに「真理」と「間違い」だけがあると思うなら、その人は単純な教えに洗脳を受け、多様な観方を尊重できないでしょう。

「人生の意味」は個人により、それぞれの宗教の教理により異なっていて、不可知論や「考えても仕方がない」に至るまで様々です。人々はそうした「解答と思われるもの」を宗教なり思想なりによって陳列して見せるのが精々です。
そこで人々は、互いの「人生の意味」を尊重する必要があり、その答えを別の人が決めるとすれば、本人の人格を踏み躙ることになってしまいます。
なぜなら、それはその人それぞれの主観であり、押し付けることに無理があるからで、同時に人間は誰もこの正解を持っていないことの証しでもあります。

「人生の意味」には、例えれば、何かに打ち込んで成功すること、そうして後世に名を遺すこと、また、人を愛して共に支え合ってゆくこと、或いは、生きている内に人生の意味が見つかるという「答え」もあるでしょう。

また、宗教にその回答を求める人々は、この世の人生を終えてからその報いを各自が受けるという教えを授かることもあるでしょう。
多くのキリスト教の宗派では、生きている内に、その宗派に適った信仰を持たないなら地獄にゆくと教えられています。                             
一方で、宗教を認めない人々には、人間の命を得たのも大自然の偶然によるもので、人生に意味などは無く、それは自分で創ってゆくものだ、或いは、人生の意味など考える必要も無い。生かされているのだから、とにかく生きるものだ、という答えもあることでしょう。

人々の中には他にも多種多様な考え方があるでしょう。
それらの全体を眺めると、やはり人間には、誰もが納得するような普遍的な「生きる意味」の正解が無いという実態が明らかに見えています。

そこで、自分の人生は自分のものだから、どう決めようと自由だという見方も確かに成立します。
ですが、それで自己満足はできても、本当に生きる意味を見出したのかどうかは別問題ですし、人生の問題点も空虚さも一向に変わることもありません。ただ、心理的に楽になるか否かの違いがあるばかりです。

人生の意味について考えさせられるきっかけは、この世にいくつも存在しています。
そのひとつには、死という人生の終りが有り、それも寿命を全うしても。人々の一般的感覚からすれば、人生はそう長いものにはなりません。
まして、いつ死を迎えるか、災害や事故や病気、或いは戦争や騒擾、またテロの脅威に人は常に曝されていますから、人の命とは誰にとっても儚いものというべきでしょう。

そこで、宗教の多くは死後を説くのですが、これは、死で人生が終わりを迎えることそのものへの空虚さを回避する心理作用によって、それを克服する手立てとなってきたことでしょう。死んで見ないと分からないことから、確かに一生を死への恐れに怯えながら過ごさずに済ませるには方便ではあります。

しかし、人は死を迎える以前、ただ生きてゆくことさえ生易しいことではありません。
生計を立てること、また幸福を望んで人々は仕事に従事しますが、そこには厳しい競争があります。しかも、そこそこの収入のある職を得ることでさえもそう簡単とはいえません。

社会は、家計も企業も互いの利益の最大化を求めて動いています。そうしなければ生計は立たず、事業そのものさえ失い兼ねません。そこで人々も組織も自己の利益を求めて、他者の報酬を削り合う以外になくなります。

このように人生は充分に苦難に満ちるものですが、人間は戦争や騒擾という社会悪までもわざわざ付け加えてきました。
人の正義は憤りを避けられませんが、そこで人々は憎しみを募らせることも厭いません。敵意や闘争も正しい事に祭り上げるのはどこにでも見られる光景です。

そのうえこの経済面では、僅かな数の成功者の下に大多数の富が集まり、ほとんどの人々には僅かな残りを巡って果てしない労苦が要求されています。

このような社会のピラミッドは、歴史上常に存在してきたもので、現代でこそ、かつての時代のような、あからさまな奴隷制度は目立たなくなったとはいえ、巧妙に隠された奴隷制度に形を変えて今でも普遍的に存在しており、少数の富者と大多数の低所得者のピラミッド構成は厳然と身近に存在しているのです。

ですから、人が生きる「この世」という環境は、然程に人を歓迎しているようには見えません。
ですから、「この世」を作ったのが神であるとすれば、その神は嗜虐傾向を持つ、気まぐれで意地の悪い性格の持ち主と云うべきでしょう。
そこで、「神が居るなら、なぜこうした世の中なのか?」という問いかけを人々がするとしても、それは当然です。

仏教の開祖、ゴータマ・シッダールタは、この世が苦に溢れていることについて深く考察を重ね、生きる限りは、苦しみから逃れられないと結論しました。
そして、人間の苦しみの究極的解決策とは、「涅槃」と呼ばれる絶対的消滅であるとの結論に至ります。
確かに、この世の生の虚しさを考えるなら、これも合理的な結論と云えるでしょう。

その一方で「聖書」は、『この世の神』とされるのは世界の創造神ではない別の神であるとされています。
『創造神』ではない何者かです。
ですから、『この世』に創造の神の意志が働いているのではないと聖書は云うのです。

では、世界を創られた「神」が、この世の有り様に見られるように苛酷な性質の持ち主ではないとすれば、どうしてこの世はこれほど虚しいものなのでしょう? また、『この世の神』とは何者なのでしょう。








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