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3.回復論 

2012.05.19 (Sat)
新十四日派の教えの特徴
3.回復論 

 この「回復」とは、将来の「終末」の時期に聖霊の再降下によって清められたキリスト教が再興することを云います。

 キリスト教界はすっかり分裂し、互いに自分たちが正しいと信じて譲りません。それが「宗教」というものなのでしょうか。
最近では、このようなキリスト教徒の分裂を是正しようという幾つかの動きもあり、カトリックとプロテスタントを和解させようとするエキュメニカル運動はその最たるものでしょう。

 しかし、キリスト教初代から第二世紀半ばまでは、ほぼ異教といえるグノーシス主義を除いては弟子の間に分派らしいものは無かったと言われます。そのうえグノーシス諸派と初期キリスト教との間には、神とイエスに対する認識に明確な違いがありました。

 原始キリスト教の時代に、分裂分派への抵抗力として働いていたのが、神の聖霊であったことはまず間違いのないことでしょう。
各地の集まりには聖霊が注がれ、それを通して教えも与えられていたので、聖霊に従うことで一致を保つことが可能でした。

 しかし、使徒時代が終わると聖霊がキリスト教徒から去りました。聖霊が働いていた時代とそれが去って行った様子は、エウセビオスの「教会史」にいくつもの資料の出典を伴って歴史に刻まれています。
そうしてキリスト自身も神から「王権を得るための旅」に出られ、今日までキリストの不在は続いています。

 導きとなる聖霊を失ったキリスト教界は漂流を始めることになり、その後は聖書だけが頼りとなりましたが、印刷技術の進んで以降は人々が聖書を読める時代を迎えると、その解釈を巡ってそれぞれに様々な逸脱が始まり、後には派閥に分かれて行き、その無数の枝葉が今日に至っています。

 しかし、キリストが帰還を果たされる「終末」になると、再び聖霊が注がれることになり、それを受ける人々は神からの教えを再び受け、その言葉が人類に伝えはじめられることが聖書に度々予告されています。

 このことによって生じる神の正当な信仰が再興されることを十四日派は「回復」と云いますが、正確には「キリスト教教理の回復」です。

 かつてユダヤ=イスラエルは神との律法契約に違反して、異国のバビロンに強制移住された時期があり、これは「バビロン捕囚」と呼ばれています。

 それはイザヤやエレミヤという預言者たちによって予め知らされていましたが、その予告の中にはその後、イスラエルが故郷に戻って神殿も再建し祭儀が復興することも含まれていました。それは「回復(慰め)の預言」と呼ばれ、これは一度バビロン捕囚後のイスラエル民族の上に起こりました。

 その預言に違わず神殿を失ってから一世代の内に、この国民は神殿の土台を再び置いて、神への仮の祭儀を始めています。
しかし、それらの回復の預言の中にはその当時に起こらなかったことも含んでおり、それらの事柄の成就は現在まで生じていません。また、当時の成就が鏡のように将来の「終末」に起こる事柄を示唆している部分もありますが、これは「予型」または「前表」と呼ばれ、預言が二度成就することを指しています。


 ユダヤ=イスラエルは捕囚を解かれて一部の人々がパレスチナに戻り神殿の再建を行いました。
しかし、せっかく再興した神殿祭儀も、ユダヤ人の不信仰から五百年ほど後に失なわれてしまいます。

 多くの預言者によって予告されていたキリストがイスラエルに現れたとき、この国民は、この神からの人ナザレのイエスを刑死に追いやり、その結果二度目の神の処罰によって神殿をローマ軍に破壊されてしまいました。

 その後、二千年もの期間が経ようとしていますが、イスラエルは今日まで神殿を再建できておらず、神への祭儀も行われていません。では、「回復の預言」の残りの部分は成就しないのでしょうか。


 一方、イエス・キリストは自らの弟子たちが「生ける神殿」になることを告げていました。
彼らは聖霊を受けてあたかも神殿の石のひとつひとつのようになると言われました。
その天の神殿は、当然に動物の犠牲を必要としません。キリストは完全な犠牲を一度限り捧げて、供え物と犠牲を終わらせているからです。

また、かつて地上のエルサレムに在った神殿は『御名を置く処』と呼ばれたように、将来も聖霊を注がれる弟子たちによって基礎の置かれる象徴的神殿も、古代のように『御名を置く処』となり、二千年近く発音ができずにいた全能の神の御名は聖霊によって知らされることになるでしょう。御名が知られていた時代に、詩篇がわざわざ『人々はシオンで御名を知らせる』と述べる理由も将来にあることでしょう。(詩篇102:21)

 聖霊を受けた弟子は、キリストを介して『新しい契約』の当事者であり、もう一方の当事者たる神の御名を知るべき理由があり、確かにキリストは御父の『御名を弟子たちに知らせました』と福音書は述べます。(ヨハネ17:26)
また、メシアを予見した詩篇第22では『わたしはあなたの御名を兄弟らに伝えます・・』とあり、神名を宣告することに於けるキリストの役割と、知らされる対象が明記されています。(詩篇22:22)

 『新しい契約』に招かれ聖霊を注がれた人々は、西暦第二世紀半ばを過ぎるころに居なくなったようですが、それはキリストが再び地上と関わりを持つ終末まで、神の許で待つ期間の始まりを教えるものと言えます。
その一方でイエスは「終わりの日」の預言を語り、その中で世の終わりの時期に聖霊を受ける弟子たちが再び現れることを予告し四つの福音書それぞれに、彼らが為政者に対して聖霊によって語る将来の姿が、ほかならないイエス自身によって語られているのです。

したがって、旧約のイザヤやエレミヤたちの「回復の預言」の成就していない残りの部分や将来を指し示す二重の意味とが「終わりの日」のイエスの弟子たちの上に実現すると信じる理由があります。

 聖霊を注がれた弟子たちが再び現れるときこそ、神との絆を得た彼らが唯一正統な崇拝を回復し始めるでしょう。
この人々は現在の「バビロン」に相当する、異教と融合したキリスト教界に居るようですが、やがて神に集め出されるようにして、聖霊を受けるに際してそこから出るのでしょう。

 この人々は「シオン」と呼ばれる会衆(エクレシア)に集まって来るようですが、この会衆が「新十四日派」であるか否かは、現在のところ分かりません。それでも、聖霊を注がれる人々には、先在する母体となる組織があることはイザヤと黙示録に明らかです。

 聖霊を受ける人々は「生ける神殿」となって、『シオン』と呼ばれる母体組織の中核『シオンの子ら』となります。こうして、シオンの山上にかつて存在していた神殿は、より次元の高い姿で再び現われることになるでしょう。それは地上のエルサレムとは何の関わりも持ちません。

 それは、キリストの帰還を示す純粋なキリスト教の回復でもあり、聖霊の発言を通して、世に居る良心に従おうとする人々は、神を知り、信じることができるようになり、迷うことなく真の教えの源となる『シオン』に流れのように向かうようになるでしょう。

 このように、キリスト教が浄化されて様々な宗派から人々が集められ、あるいは異なる宗教からも人々が合流することは、難渋するエキュメニカルのような人間の労苦を注ぎ続けるまでもなく、神のみ力によって見事に成し遂げられるでしょう。

 そのとき、「神殿の定礎」に相当する『神の王国』の前段階でさえ、歴史上けっして無かったほどに高められ、古代のようにイスラエル一国のことではなく、世界の人々に広げられてゆきます。そうして人々はアダムが問われたような「神か人か」の選択を、誘惑の元で表明する機会を得ますが、これが聖霊を介する「裁き」となります。

 その裁きは、驚くべき聖霊の発言によって、世界の隅々に及ぶものとなりますが、人類全体はこの発言を巡って揺れ動き、宗教と政治は著しい糾弾を受けることになり、当然ながら反対する人々も現れることになります。

 特に、聖徒の中からも世との妥協をする者らが現れ、聖霊ではない不思議な力を行使して、多くの人々を『背教』と呼ばれる新たな全体主義的宗教に誘い、また強制します。

その中でも、特に目立った人物が現れ、彼はユダ・イスカリオテがそう呼ばれたように『滅びの子』と記されています。
 この者は背教の中心となり、キリストを自認して宗教上の最高の立場を得るのでしょう。『神の座に就いて、自分は神だ』と言うさまが聖書に描かれています。

しかし、そのような期間は十年も続くものではありません。ほんの数年で終局(キリストの顕現)を迎え、キリストが帰還されている紛れも無い証拠となる事態の推移の内に、世界を巻き込む強力な『背教』も終わりに至ります。それは神に抗う終末の頂点を築きますが、その力は「ハルマゲドンの戦い」と呼ばれる神とこの世との争いに発展し、この世の権力は完膚なきまでに打ち破られます。

 それは人類史の転換点となり、過酷なこの世は終わりを迎え、神の支配と贖罪を行う『神の王国』が到来することに道を拓きます。
 千年続くというその王国を通し、創造物の初子であるキリストが、天と地の属する全ての知的存在者をひとつにまとめ、神の家族(オイコノミア)として復帰させることになります。

 『神の王国』の崇拝と支配により、この世に見られる『罪』の影響が除かれ、創造の意図のままの世界に戻されることにより、創造の業も遂に完遂を見ることになります。

 そこでは今日に見られる苦難あふれる生き方はありません。人は『罪』から清められ、『神の象り』としての栄光をまとい、祝福に浴することになり、創造者と自由に意思を通わせ、互いに愛すべき隣人を見出すことになるでしょう。そこに政治と宗教の余地はありません。それらは共に人間の『罪』への対処法であったからです。

 それで、今は聖書に記された神の言葉を学びつつ、その回復を待つのがキリスト教徒の務めといえます。
その間、伝道をしないわけではありませんが、人間がどれほど努力を傾注して伝道しても、到底得られない数の人々が、聖霊の発言を聴くことで集められるでしょう。それこそ神の業であり、「シオン」は膨大な数の人々を受け入れるべく「天幕布を張り伸ばす」ことで「ためらう」べきではないのでしょう。(イザヤ54:2)

 そのときには、聖徒でなくとも聖霊を通し何らかの指示を受けることがあるでしょう。
『シオン』に聖徒、即ち『シオンの子ら』が現れるとき、『シオン』そのものにも変化が起こることが何度も預言されています。

「新十四日派」は、聖霊の無い人に絶対的な正しさを認めませんが、初代キリスト教徒のように聖霊が注がれる人々が現れるなら、その人々を「キリストの兄弟」と見做して支援することになります。(マタイ25:32-36)





 予備資料
 旧約聖書の預言書(ネイヴィーム)の中の「回復の預言」集



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