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4.教理控制

2012.05.19 (Sat)
新十四日派の教えの特徴
4.教理控制


人間は『罪』ある現状では、絶対者である神に真っ向から遭遇することはありません。
なぜなら、聖なる神は人の『罪』を容認しないからであり、それゆえにもキリストの犠牲を介する必要があるからです。

 神は、人にご自分を証明可能な方法で顕現なさることはありません。宗教の存在理由もそこにあります。
その理由は、人間のすべてにエデンに於ける倫理的選択の道を開くためであり、人は皆、その『裁き』を前にしているからです。
 絶対者の圧倒的な現れは、人の自由意志を奪うものでもあるので、現在のところ、神は信仰によって人に捉えられるものではあっても、科学のような客観的検知は不可能です。(出埃33:20/ヨブ記34:29)

 また、聖書といえども、信仰を抱く人に、すべてを余すところなく語っているわけではありません。
書かれているところではなく、書かれていないところによってイエスの当時のユダヤの宗教指導者らは躓き、キリストを退ける結果となりましたが、彼はに聖書の知識が足りなかったのではなく、熟知しているゆえに慢心を招いたのです。

 そこで、新十四日派は、教理を絶対化することを避けます。
ただ、派としての基本的な教理は保持するものの、それを不動のもの、また絶対のものとは見做しません。
もし、そうしてしまうなら、ユダヤの宗教家らと同じ道を辿ることになるでしょう。

 教理に優って重要なものは、愛に基く価値観であり、これこそがナザレ人イエスをキリストとして認めた人々が有していたものでありました。

 そこでこの「教理控制」は、教理の暴走を抑え、教理そのものが偶像化されて人の生き方を狂わせないための策として、教理そのものに抑制をかける「教理の教理」のような働きをします。


 教理は信ずる人を動かし、人生の選択をも左右するものであり、非常に注意されるべきものです。
 聖書の言葉を巧みに用いても、それが人間由来の教えである以上は間違いを免れません。

 サタンもイエスを誘惑するのに聖書の言葉を用い、その解釈が正しいかのように語りました。
まして、生身の人間であれば、この種の誘惑に曝されると容易に罠にはまりかねないでしょう。

 神ではなく人間に由来する教えについては、その教えに純粋に従ってしまう人ほど大きな害を受けます。
教導者に悪意が無かったにしても、それは一種の罠となります。

しかし、そこに信仰が絡み本人の同意の上であったとなれば、たとえ損害の補償を得るとしても容易ではありません。
そして保障を得たとしても、失ったものの多くは帰っては来ないでしょう。

 完全な宗教が今日の人間に無いとなれば、どんな宗教にせよ教理で間違いの無いものはありません。
そこで新十四日派は、教理そのものに間違いが潜んでいる危険をも信徒に予め通知し、その教えに沿って行動するか否かについては、本人の良心を働かせた判断に委ね、本人の良心を尊重し強制を避けます。

 また、原則的に信徒それぞれの信仰を認め、内心の信念までに立ち入りません。
新十四日派への参加も協働も自由意志であり、派そのものへの従順を条件とするものではありません。

 また、「求め続け敲き続けるなら受ける」との言葉に従い、何がより価値あることかを探求し続ける動機を与えるのもこの教理控制の重要な働きと言えます。
なぜならば、ある教理を正しく間違いの無いものと宣言してしまうと、自由な探求は阻害されてしまい、より真実な教えを求める努力は凍り付いて身動きがとれなくなってしまうからです。

 したがって新十四日派は、自らの教理のどれもがまったく正しいと称えるものではありません。
もちろん、理性によってより正しいと信じる教理を持ちますが、他の宗派の教えの全てを誤謬とは判断しません。
誤謬は誰が唱えようと誤謬であるからです。ここに権威主義者と衆愚の陥りやすい罠があります。

また異教諸宗派についても崇拝を共にすることはないとしても、公共の法に触れるような行いのない限りその崇拝心に敬意を払い、忌避すべき邪教徒のようには判断しません。

このように、教理控制が新十四日派に適用されるにしても、派に参加する以上は一定の同意事項を有します。しかし、この教理控制が働くので、その信条は絶対不変のものとはなりません。それらは蓋然性の追求の範囲を出るものではなく、個人の信仰がそれらを信念とするものです。

 また、正確な聖書理解を持っていることが、神により近づき、是認を深めるわけでもありません。
むしろ、逆に本人は神に従うつもりで居て、正確に知識によって神への反対行動を起こしてしまっている例が、聖書にも歴史にも存在してきました。
 そこには、知識の有無に関わらず、それぞれに人が倫理上の決定を下し、自らがどんな者かを露わにするという、神の裁きの本質が垣間見えています。

 聖書に関わる正確な理解は諸刃の剣であり「聖書に正確に従えば、そこに正しい宗教が興る」と捉えることは、従順によって神の是認を得ようとする事に等しく、自らの「正しさ」を神に責任転嫁することになります。

 神が人に望むのは「求め続け、敲き続ける」ことであって、「人が作り出した義」に安住することではありません。それは神から最も厳しく裁かれるものとなるでしょう。そもそも聖書は、知り尽くすことも出来ないものであり、どうして「聖書に正確に従う」ことなど出来るでしょうか。
 
 おおよそ宗教や宗派の教条の違いには、神との断絶という人間共通の「罪」の結果である不一致が顕されており、宗教という分野に人間が正解を持っていないことの証しでもあります。この点で人はみな同じ立場にあり、そこで多種多様な教条は陳列されるほかありません。

総じて言うなら、教理の学習が信仰を形成するにしても、教理を理解することがそのまま信仰となるわけでも、神に人を近づけるわけでもありません。この点で、教理が人の限界を超えさせることはありません。
また、多様な宗教の信者が、ある程度の異なる教理を有していても、その神に向かう動機が同じであるということがあり得まし、その逆もまたあり得ます。

 その動機は「倫理上の選択」に属する事柄であり、理屈の理解とは異なるものです。
それゆえ、宗派の異なる人々を尊重するべき理由も生じます。

 ですが、真に神との絆である聖霊を受ける人々が現れるなら、そこには真実の宗教が実現することになります。神から直接の言葉を語る以上、それを人間のものと同列に見做すべきではありません。

 そのことの起こるまでの期間、新十四日派は、神と人の交渉の記録であり、また神の啓示されてきた事柄の集大成である聖書を探り、より正しいと考えられる事柄を追求し、それを仮の教理とするものです。そこで重要なのは、個人の価値観であり、倫理性(道徳性ではなく)となるでしょう。それがその人の信仰の判断を作るからです。

 したがって、聖徒たちの現れるときに、新十四日派は務めを終えて聖徒に従うものですが、それまでは、この教理控制だけは不変を保ちます。これは神の物事に対する人間の限界の指標であるからです。







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