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神名  -綱領ー

2016.10.01 (Sat)
神名

神の固有名はモーセに知らされ、律法契約と共にあった。
創世記のヤハウェスト資料に神名が現れているが、この資料の成立はソロモン以降の後代と思われ、イスラエルのエジプト出立の前、モーセの召命まで神名は知らされていなかったと見るべき理由は多い。(出埃6:3/創世22:14・47:26)
アブラハムは祭壇を設け、犠牲を捧げる相手を『エル・シャッダイ』『エル・エルヨーン』または『エル・オーラーム』などの一般的な形容付きの名称で呼んでいるが、少なくともその神が『地のすべてを裁く方』であることを知っていた。(創世18:25)
(大洪水前については、後にモーセに示された固有名を意味する「シェム ハ メフォラーシュ」が存在した蓋然性は低く、知られていたかも不明)

聖書中で、統一された神名によって実質的に諸国民の間で畏敬されたのは、大国エジプトを揺さ振った十の災い、そして紅海を分けてイスラエルを救い、ファラオの権力を葬ってから後である。
イスラエルも、神への畏敬ではほエジプト人とほぼ同じであったが、更に進んでシナイ山が激動し百雷轟き、竃のように黒煙を吹上げて燃えるのを見て怯え上がりYHWHの名をもつ神がどれほど畏怖されるべきかを目の当たりにしている。この名に込められた教訓は達し難い『聖』であり、人に親しみをもたらすよりは、よほど畏れを懐くべきであり、異神崇拝の諸国民を尽く滅ぼす意図をもち、且つ転向する者だけを許す神の姿は、堕罪前のアダムへのエデンの現れのような慈愛ばかりにはならず『裁く神』である。それは人に『罪』があるからであり、本来なら御前には出生することすら叶わない。人の存在はその後のメシアの贖罪と、すべての魂の現れの双方による創造の業の完遂を前提としている。(出埃24:11/イザヤ6:5)
そこで律法は、この名を徒に扱うことを禁じ(出埃20:7)、その後、神名はモーセからキリストの世代に至るまで律法契約の時代を通して存在し保持されていた。(イザヤ42:8)
預言者はその名によって語り、神を代弁していることを示したが、その予告が外れた預言者は偽り者であることを警告している。従って、その名によって語ることがそのまま正義とはならない。

この名は、聖なる四つの子音字で構成されるヘブライ語で記されたので、後に「テトラグラマトン」(希)と呼ばれる。
(その発音が捕囚後に変化している可能性が、神名を含む人名の発音の変化にみられる)

バビロン捕囚の後、律法契約は「新しい契約」が予告される中で不安定化するが、ユダヤ教は律法墨守に邁進し、前三世紀頃から神名の発音を贖罪の日の聖域に限定する(ミシュナ:ヨマー6:2)に従って、神名の神聖さの強調が進み(ミシュナ:サンヘドリン7)、排他的に扱われ、「ハ シェム ハ メホラーシュ」は、第二神殿の「イスラエルの中庭」に入域できる血統のイスラエルだけが発音を知るところとなっていった。その作法の由来は十戒の第三戒(出埃20:7)の徹底と、崇拝の中心地に神が『名前を置く』とされたこと(申命16:2/歴代第二33:7)に背景がある。また、境内の聖所への入域を許されたユダヤ人らの選民意識を高める働きを果たしてもいたが、それが却って後の発音の喪失を招くことになる。

第一世紀には、ユダヤ教徒は聖域外で神名を発音することが重罪となっていた(サンヘドリン10:1)ことは、ヨセフスの著作(戦記V:10)にも見える。
使徒らや初期のユダヤ人の弟子らも、ユダヤの神名の作法に従っており、聖域外での神名の発音は避けていたことは、固有名を識別するのにきわめて効果的に用いることのできた宣教の場面でそうしていないことからも窺える。(使徒13:16-17/14:11-18/17:27)
彼らが伝えるべき名(使徒4:10-12)はメシアとしてガリラヤから来られた方、ナザレ村のイエスであった。(ローマ15:20)
イエス自身がナザレの会堂でイザヤを朗読したときにも、神名発音で論争は起こっておらず、ユダヤの作法に従っていたと見うけられる。(ルカ4:17/ミシュナ:ソーター6) また、キリスト自身が神名の作法を咎めている場面も福音書になく、使徒らもこの件について何ら述べていない。

(聖書に見る限り、イエスが宗教家らと論争になったのは、ほとんどが安息日に関する事柄であったし、弟子らの場合はナザレのイエスがメシアであるか否かが論点となっている。神名についての論争は皆無であった。)

ギンスブルクの還訳での使徒言行録でも、アテナイやリュカオニアの異教徒らに対してさえ御名を宣明しておらず、彼らが伝えたのは常にキリストであるイエスであった。しかし、イエスは神であるとは言わず、『任じられた方』としている。(使徒17:18・31)

その後のヘロデ神殿の喪失は、ユダヤ教徒らにとって予想外の出来事であったが、聖域を失ったために神名を発音する機会を失い、なおもユダヤ人が神名を神聖視する作法を厳格に保ったために、却って発音そのものが忘れ去られる結果を招いた。
この事態は、神殿の喪失から今日まで『御名を置くところ』が地上に存在しないことをも表している。(申命記12:11)

新約聖書は旧約の引用を当時のセプチュアギンタに拠っていたが、それら旧約ギリシア語テクストはごく古い例外を除きテトラグラマトンが現れる抄本は存在していない。特にキリストの時代までには固有神名は見られなくなっている。
その結果を裏付けるように、今日まで五千にもなる新約聖書の古写本の事例でテトラグラマトンが現れるものは現時点までに皆無の状態となっている。

また、使徒時代の弟子らも神名の発音を避けていたことは、ユダヤ人らとの間でこの件での論争の記録が存在していない事からも明らかに見える。
従って、旧約聖書には神名が現れるが、新約聖書に神名が現れることは無いと言える。その理由は、はじめから記されていなかった蓋然性が圧倒的に高いからである。

新約聖書に、弟子らに神名の発音を求める場面も文言も無い、従って、現状でキリスト教徒に神名の発音は求められていないばかりか、本来正しく神名を唱える事は、誰にも不可能となっている。
但し、終末に於いて信仰のうちに神名を呼び求める事が救いに関わると新旧の聖書が繰り返している。それはただ名を唱えることを超え、信仰という倫理上の選択を意味する。(詩篇79:9-10/ヨエル2:32/使徒2:21/ローマ10:13)
預言者らは、終末に於いて神名が全地で聖なるものとされ、至高の高みに挙げられるものとして何度も描いている。(詩篇69:35/113:3/135:13/イザヤ12:4/エレミヤ16:21/エゼキエル39:7/ゼカリヤ14:9)
したがって、終末には神名が唱えられる仕方で知らされるべき理由がある(詩篇9:10/エレミヤ10:25)が、それは人由来にもたらされることはないと思われる。

聖書は、キリストが終末に神名を知らせる可能性を知らせており(詩篇102:21/ヨハネ17:26)、特に聖霊を注がれて終末に登場する『聖なる者ら』には(詩102:18)、キリストの兄弟として(詩篇22:22)、また、神との契約に預かる当事者(民数記6:27)として、その証人となる(イザヤ43:10/使徒15:14)ことが期待される。

終末に『聖なる者ら』は為政者らの前で、聖霊を注がれて語ることが予告されている(マタイ10:18)が、モーセがホレブ山麓で神名を賜り、それを以ってファラオと対峙し、イスラエルの民の解放を迫った故事が予型となり(出埃5:1-2)、同じく『聖なる者ら』が『御名を負う民』(使徒15:14)として為政者と諸国民に対して神名を示し、民の解放を求めることになれば、終末に現れる彼らが神名を知らせる意義は非常に大きいものとなる。(黙示11:18)

初期教父らが幾つかの発音の情報を伝えているが、一致しているとは言い難い。
キリスト教界でルネサンス期から用いられてきた「イェホヴァ」は、「アドナイ」(主)と読ませるためにマソリームが付したニクード*をそのまま子音に当てはめたものであり、「ヤハウェ」は19世紀にドイツ・チュービンゲン大学の学者が推測し広まったものである。
*[יְהֹוָה]

今日、神名の省略形である「ヤハ」の音は残されており(詩113:1)、再び聖霊が注がれ、再び神名の発音が知らされる終末までの間、固有名としてこれを便宜的に用いる事が出来る。
もし、聖霊による啓示の無い今日までに、人の案出した神名を唱えているなら、それが口癖になってしまうと真の発音が示されても容易に変えることは難しく、それこそは短期間の終末に重大な障碍となり兼ねない恐れがある。(詩篇74:18/79:6)

固有名詞を用いることの重要性があるからといって、言語の違いによって発音が異なることを理由に、人に案出された何らかの発音を用いるとすれば、それは却って神名の重要性を引き下げることになる。それでもなお神名の発音を主張するなら、神の処置に異を唱えることになろう。(詩篇44:20-25)

人の関わる諸事情があったにせよ、もし全能の神がこれを隠されたのであれば、人が開示することはけっしてできず(ヨブ記34:29)、再びの啓示を待つよりほかにない。(詩篇9:10)
それは終末の聖霊の注ぎによるものとなるように思われる。なぜなら、神との契約に預かる者が現れる場合、その者が契約の一方の当事者の名の発音を以って自らの立場を明かさない事は考えにくいからである。

いずれにせよ、神の御名を知ることは願い求められるべきもので(詩篇80:18)、「主の祈り」に明示されているように、聖霊の再降下と共に御名の栄光は、日毎に祈られるほどの重さを帯びている。(マタイ6:9/ルカ11:13)

但し、終末においては、神名を明らかにする者が必ずしも『聖なる者ら』であり続けるかは別問題(ペテロ第一3:6)であり、聖徒らの現れから然程の時を経ずに「脱落聖徒」の危険が存在する(ダニエル11:35)。その場合は御名を知らせる者であっても、『あなたがたはイスラエルの名をもってとなえられ、ユダの腰から出、YHWHの名によって誓い、イスラエルの神を唱えるけれども、真実をもってせず、正義をもってしない』(イザヤ48:1)と糾弾されるべき、不忠節な『契約の民』に堕することも予期する必要がある。


◆聖書中での神名の扱いへの提言

神名が不明である間、旧約聖書中では、テトラグラマトンが存在しているところで[יהוה]または「YHWH」等に置き換えたローマ字で表記し、「ヤハ」と読むこともできる。この点で、今日まで続くパリサイ派ユダヤ教の「アドナーイ」また「エロヒーム」とする習慣に束縛される理由はなく、発音が不明である以上、御名の神聖は既に保たれている。だが、それが正当なものであるかのように「エホヴァ」や「ヤハウェ」と呼ぶのは、真相が持つ発音の不明さに対する畏れを欠く傲慢さを免れ得ず、普通名詞に入れ替えたユダヤ教の奉りに過ぎたる極端さの真逆の極端に走ることになる。
新約聖書では、古写本の有り様に従い神名は挿入する必要がないばかりか、もし、そうするなら初期の聖徒らの著作のあるがままを恣意的に捻じ曲げることになる。
但し、旧約の引用箇所でヘブライ語に[יהוה]がある箇所については新改訳聖書が旧約聖書にしているような方法で【】等に区別して記載することはできる。
それでも読み手が、キリストか神かで誤解を招くような箇所には脚注を付すことができる。



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