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キリスト教の掟と見做され易いもの -綱領-

2016.09.16 (Fri)

前項が長くなったので、こちらに転載


◆キリスト教の掟と見做され易いもの


・エルサレム会議の議決
エルサレム会議の議決は、ユダヤ教の中から現れたユダヤ人イエス派の聖徒らに対して、どのように無割礼の異邦人聖徒がイエス派に参加してゆくかを定めたものであり、既にユダヤ教で会衆に無割礼の異邦人の参加を『神を畏れる人々』(フォボメノイ)として受け入れる際の会堂側からの条件とされていたもの(使徒13:16)淫行、姦淫、偶像崇拝や血の禁令を含んで(レヴィ17:12-16)当時のユダヤ教の最低要件であったものを、ヤコブがイエス派の会衆に交わるに於いても同じ要件を追認し裁定したものである。その目的は、依然ユダヤ教の習慣にあるイエス派信者らがその常識に於いて異邦人の習慣に躓き、あるいはユダヤ人が律法主義に頑なで集まりを共にできないこと(コリント第一11:20-22)のないための措置であった。背景としては、イエス派の集まりでも当時は律法の朗読が行われていたことも挙げられている。(使徒21:20-25)

この会議でのヤコブの裁定は、割礼の問題に端を発したユダヤ人聖徒と異邦人聖徒という『二つの民』(エフェソス2:15)の緊張関係の調停を図ったもの(使徒15:21・21:25)であり、今日のように、律法を守り続けるユダヤ教イエス派が消え去って存在していないキリスト教の現状(ヘブライ8:13)では意味を持たず、これを規則化するべき理由は今日のキリスト教徒にない。エルサレム使徒会議の要点は、割礼の問題を越えて、本質的には律法を遵守するべきか否かという大きな転換を孕んでいたのだが、議決ではその点は暈かされ、二つの民が会衆を構成できるように取り計らわれる事柄で終わっている。
(そこでパウロに主導する外地とヤコブが率いたユダヤのイエス派の間にはその後に葛藤を残しているが、そうして『先のものは後となる』。ユダヤはやがて『火のバプテスマ』を被り、神殿祭祀が中断された結果、律法の完全な施行は不可能となって今日に及んでいる)


・食物制限
ダニエルと三人の友らが野菜を専らに食したのは、血や汚れていると律法で見做された生き物の肉などが混じっていて、律法契約の下にあったヘブライ人の彼らが、捕囚のために異郷に在っても律法条項を犯すことのない強い決意から、異邦人からの給食に条件を付けたものであり、もちろん菜食主義が神から求められているわけでもなかった。彼らの律法遵守に対して健康を保つ神の助けがあったことも考えられる。キリスト教徒であれば、ユダヤ教のカシュルートに自ら従うべき理由はない。


・山上の垂訓の道徳規準
山上の垂訓で語られた道徳規準は、モーセの律法の精神、また真髄をキリストが示したものであり、律法の規準が如何に高いかを教えるものとなっている。それは人々に神の倫理的完全性がどれほど純粋なものか、また同時に、人の到達不能の領域であることも知らせる。
使徒ペテロは、律法を『父祖らも自分たちも守れなかった頸木』(使徒15:10)と呼んでいる。まして、イエスがその価値を掲げたのであれば、それは何者も履行ができるものではない。使徒パウロは『律法は違背を指し示すために加えられたもの』(ガラテア3:19)であり、『すべての口がふさがれ、世界が処罰を受けるため』に律法が与えられた(ローマ3:19)と述べている。
従って、山上の垂訓に示された無原罪の道徳規準を規則化することは無意味であるばかりか有害となる。律法の記述そのものより遥かに実行の難しい要求となるからである。


・自死・自殺
自死、あるいは自殺を聖書が罪としている記述は存在しない。十戒の『汝殺すなかれ』を適用して「自分を殺すことだから罪」という理由は、同じく律法での『その血の復讐する者』(民数記35:16-20)の対象が不在となり罰則がないので殺人と同じ罪に定めるには無理があるばかりか、そもそも律法の時代は過ぎ去っている。

自死や自殺が、苦境に耐えかねた結果として死への逃避を選ばざるを得ないと個人が判断したものである場合、そのような逃避としての死を願った例(民数記11:15/サムエル第一31:4-5)が聖書中に観られるが、神はそのことを咎めていない。また、そうした者を咎める言葉を新約聖書に見出さず、その復活も特に否定されていない。(使徒24:15) 特に自死は奨励もされず、断罪もされていない。

永らくキリスト教徒が、これを罪と見做した由来は、ローマ帝国からの迫害期*(特にデキウス帝期)に、迫害もされていない状況で集団自殺が流行するまでに殉教が美化されたために、これを重罪として戒めなくてはならないほどであったところから始まっている。エジプトの初期殉教者が自ら火炎に飛び込んで果てた女性の一例を罪とするべきかの論争に於いて、アウグスティヌスは免責と判断した。
カトリックが自殺を明確に罪に定めたのはその後452年のアレラーテ会議の議決からであった。*(皇帝の側に迫害の意図は薄かったとの新説もあり)
以後も、宗教的熱狂から自死、あるいは自殺を行う事件も起っているが、教えのためにそれを行うとすれば、その教えは極端に偏っている。
また、自殺者の葬儀を拒む教会の慣習が存在して遺族の服喪や感情を無視してきた。英国では1554年から「自殺法」が制定され1966年に至るまで、自殺者の遺骸を傷つけ、墓地に埋葬しない慣習が存在していたが、これらは本来のキリスト教とは関係を持たない。

確かにパウロは、自らの肉体を指して『生きることも、死ぬことも益がある』と述べ、『真に願わしいのは、解き放たれて主と共になることにある』(フィリピ1:21-23)とは言っている。
それでも、『聖なる者ら』は、迫害を受けることになるものの、自ら喜び進んで殉教を受けるわけではなく、浸礼を通して『キリストと共に死に』、聖霊を注がれることを通し、キリストの復活によって『共に生きる』(ローマ6:8)聖徒らにとって自死、あるいは自殺に地での試みを避ける意図があるなら、相応しいものと見做されないのであろう。(コリント第二5:15)



・離婚と別居、再婚の自由
まず、結婚とは神の前に在っても永続的関係ではなく、死別によって解消されるものである。(コリント第一7:23)
また律法も、離婚を容認していたことは事実であり(申命記24:1)、配偶者を得ることには『生めよ増えよ』という創世記の下命と、子供を養い育てること、また『日の下で神から賜わったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮すがよい。これはあなたが世にあってうける分、あなたが日の下で労する労苦によって得るものだからである。』という相互扶助の役割を負う制度である。

キリストは上記申命記を引用して
『「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」』(マタイ5:31-2)
これは、山上の垂訓の場面であり、律法が如何に高い基準を本来持っているかを説く場面であり、山上の垂訓の他の多くの訓話の通りに行うことは生身の人間にとっては不可能であり、アダムの罪に在りながら、垂訓の通りに行えていると思うなら、それは仮面の正義を付けているだけである。

それゆえ、キリスト教に於いて、姦淫は強く戒められていたが、やはり結婚が永続的な契約関係であったとはいえない。
もし、家庭が相互扶助を円滑に行えないときには、家庭制度も結婚関係も危機に面しており、さらに外部からの助けを必要とする。しかし、その原因が配偶者間の不和にある場合、それは当人らによる解決を促す以外になく、現状で結婚関係は法制度に中に取り込まれており、止む無く家庭裁判所などに問題を持ち込むことも避けられない場合も有り得る。

コリント第一7章に含まれる離婚と別居また再婚の自由についてパウロの述べる事柄は、この部分の対象は聖なる者らであり(コリント第一6:19)、それでなくとも、当時のエクレシアは『神に召された』(コリント第一7:17)弟子らでほとんど構成されていた。
但し、未信者の夫や子が『聖い』とここで語られ(コリント第一7:14)ているのは、彼らが聖霊を受けた『聖なる者』となったことを意味しない。それは『聖なる者』となった信者の清さにその家族が関わっていることを表している。
『聖なる者ら』の婚姻については、律法にレヴィ族内の結婚や祭司への規定が存在していた(レヴィ21:1-14)が、それはレヴィの子孫を浄める目的をも有していた。(レヴィ21:15)

律法では、アロン系の彼らが離婚された女、または既に性関係が有ったり、犯された女を娶ることが禁じられていた(レヴィ21:6-9)が、新約では、主から賜ったというパウロの言葉(コリント第一7:10)の背景には、聖俗を分かつ律法祭司制度が新しい契約に預かる『聖なる者ら』に敷衍されている(コリント第一6:19)と見ることができる。
彼らは、配偶者が未信者であったとしても、信仰を得させることができたかも知れないことを『どうして救えないと分かるのか』の言葉に表されているのであろう。但し、それが妻の立場であれば、自らが信仰に邁進してゆくことではなく、『夫と子を愛し、慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順である』(テトス2:4-5)という家庭での基本的な役割を充分に果たすことにその努力を傾注されるべきであり、配偶者の離れることは仕方のないことであるとパウロは言うのは、宗教行為に邁進した結果がその理由であるなら本末転倒となる。(コリント第一7:15)

聖徒は霊体を身につけることで、人種ばかりか男も女も差がなくなる(ガラテア3:28)天界での彼らの姿(ヨハネ第一3:2)を考慮するときに、かつての肉の家族は意味を成さない。ゆえにパウロがコリント第一第七章で述べていたことは、地上に居る間の婚姻関係また家族関係に『聖なる者ら』としてどう向き合うべきかに関わるものである。(コリント第一6:11・15)

したがって聖霊のない今日、未信者はもちろんのこと、信徒もこれらの言葉に拘束されるものではない。
『主にある者とだけ』結婚を許す(コリント第一7:39)というは、確かに価値観を共有することの利点は非常に大きいものの、やはり信徒に対して規則化まではされるべきでなく、却って、これが多くの宗派の信者囲い込みの方便として利用されている。

上記のコリント第一7章に含まれる再婚の自由について『主にある者とだけ』を聖徒でない人々に当てはめるべき理由はない。
価値観を同じくする人と結婚することに多くの益があるにせよ、それだけが結婚関係を必ずしも良好にするとは言い難い。
或いは、異なる価値観を尊重し合える特質がより強固な関係を築くことも有り得る。宗教(政治)観念より重要なのは互いへの信頼という倫理性と愛着の度合である。
また、身内を同じ信仰者で固めることは、必ずしも良い結果を招かない。人の思想は変わり得るので、その自由を阻害する危険も存在することになる。身内の関係で重要なのは、共感や同情心を必要とする家族(親族)愛であって信仰や思想では無い。

キリスト教は一貫して民事的事象に踏み込んでおらず、婚姻だけでなく、出生の祝いも、葬儀についても何ら規定していない。
職業の選択についてもそのようであるが、各信徒個人の良心や善なる動機が反応するところに応じて行動することが「愛の掟」によって期待されるのみである。(コリント第一13:3)
俗世がそれらの事柄の決定や儀式において専ら宗教の意義を見出し、宗教自ら冠婚葬祭を商業化している中にあって、実にそれがキリスト教の本質ではないことが見えている。
殊に『聖なる者ら』は、『神の王国』で主と共になり、諸国民を祝福するという目的に信仰生活を合わせていたことは明らかで、そのための身の清さへの務めが婚姻関係に示されている。(ヘブライ13:3-4)
しかし、実質的に『レヴィの子らを浄める』のは迫害の試練の火であり(マラキ3:2-3)、そこで試されるのは行いの清さよりは信仰となる。(ペテロ第一1:7)


・同性愛と異なる性同一性障害(性別違和)
同性愛については、旧約聖書の原初史に於けるカナンの悪行から記録(創世記9:22・24)があるが、有史以来、同性愛は常に存在してきたようで、ソドムの街は全体がそのようであり、ロトの客人となっていた天使らを犯そうとして(創世記19:5)周辺の街々もろともに天からの火で焼き尽くされている。(19:24-25)

アブラハムの血統を警護すべき律法は、レヴィ記(20:13等)で、同性交接を死罪に定めていた。<但し、女性同士の性愛を律法が禁止している箇所はなく、ユダヤ教ではハラハーがその傾向を持った女性を妻に近付けないことを命じている>

キリスト教には律法が廃されている(ローマ10:4)以上、これをキリスト教徒の規則とすることも、同性愛者の神の処遇も確定はできない。(ローマ5:20)

異教諸国、特に古代ギリシアの少年愛(パイデラスティア)は、自分の倒錯的嗜好のために人を囲うまでに進み(コリント第一6:9[マラコイ])、ヘレニズム圏に広がった各地の神殿で神殿男娼によって儀式にまで聖化されていたばかりか、ローマ帝国に於いても大衆に同性愛が広範に行き渡っていたが、使徒パウロはこれを強く批難している。(ローマ1:23-27/申命記23:17)

同性愛のきっかけが関係の強制であったり、今日では病気として認知されている性同一性障害や性別違和のように先天的に避けられないものも含まれていることを考慮の外に置くことは不適切と言うべきであろう。疾患は所謂「同性愛」とは一線をひかれるものと今日ではされている。

そこで先天的なものと、ロトの客人に対するような恣意的また強制すること、中世期にように人を意のままにするための方策として、また性の貪欲な嗜好の追求による結果として自ら同性愛に転ずる事とは異なっている。
強要によって同性愛への転向させることは、ほとんど強姦に類いする性嗜好の強要であり、創造の神の企図した男女の身体の働きに反している事へと人を貶めることであり、その人格の蹂躙は一般社会からして悪行の責めを免れまい。

これらはについてキリスト教に於いての一律な判断は難しいが、最終的な裁きの根拠は性道徳ではなく『信仰』にあることには変わりはない。


・嘘、欺き
山上の垂訓の中でキリストは偽証を咎め、是は是を否は否を意味するように語れと言われた。(マタイ5:37)
パウロも聖なる者らの間で真実を語るように命じている。(エフェソス4:25)
それでも、ペテロとバルナバが欺瞞に満ちた行動をとったときにパウロはこれを責めている。(ガラテア2:) しかし、彼らは聖徒としての立場を失っていない。

旧約聖書中では、罪される虚偽の隠蔽(ヨシュア7:1)もあれば、サライの笑いの否定(創世記18:15)、また恐れによる嘘(創世記26:7)相続に関わりその価値を見分けない者を欺く行為(創世記27:5-17・31:34-35)が記録されている。
そのほかに攻撃をかわすためのもの(ヨシュア2:4-7)、神の意図を実現させるために敵を欺く天使の発案(列王第一24:20-22)も記録されている。

その一方で、偽りは述べていないものの、その動機が汚れていたもの(ペテロ第二2:15-16)も、また欲のためにまったく偽りを語った者ら(使徒5:1-11)には厳しい責めが臨んでいる。

これらを総じて観ると、確かに、神は公正と正義を求められる(申命記25:13)が『罪』ある人が『罪』ある社会に在る以上、嘘や欺きをまったく行わず、山上の垂訓でキリストの示した規準に到達することは不可能であり、それを追い求めて努める以外にはないように思われる。
もちろん、人にはそれなりの発言に責任が伴うので、欺き、虚偽を語り、偽証を為すことなどにより社会からの制裁を受けることがあるが、逆に、自分は嘘、欺きを行ったことがないと主張すれば、その発言そのものが集約的な嘘となり、自他を欺く害になる。(ヨハネ第一1:8)


・偶像崇拝
ダニエルの三人の友らが、火の炉に投げ込まれても王の像に平伏さなかったのは、律法契約の根幹である十戒を犯さないためであったと言える。
『新しい契約』に於いても偶像を避けるよう求められているが、これは『聖なる者ら』への要求であり、本来は信徒に対しては契約に関わる要求ではない。現状の一般人に至っては、それが神の否認をもたらすことは考えられない。(黙示11:2)
それでも、偶像を崇拝することが聖書全巻を通じて戒められているところからも、また、殊に終末の究極的偶像崇拝が裁きをもたらすことからも、これを現状で信徒自らに許すことは慎むべきことと言える。だが、それは信仰と神への忠節の内に避けられるべきもので、戒律によるものではない。
但し、終末の時期に世界は究極的偶像礼拝に陥る事が予示されており(テサロニケ第二2:3-4/イザヤ14:12-14)、この偶像礼拝については世界の人々を二分するものと成り得、それはまさしく裁きに関わることになる。(黙示13:11-18/マタイ24:23-28)。






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