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愛の掟と道徳規準 -綱領-

2016.09.13 (Tue)
道徳規準


多くの宗教が、人に善行を勧め、悪行を抑制することを教えの中心に置いてきた。
キリスト教に於いても、善良な人格を培わせることが、神からの是認を得る方法のように教えられる宗派は少なくない。
善行に富む人が、徳のある人物として賞賛されるのが社会の常であり、品行方正であることが社会から評価されるように、行状が神にも評価されると人は思いがちである。
この捉え方の背景には、宗教の独立性が失われ、社会一般の必要に仕えるものとなって社会秩序に貢献する役割を担い、そうして『この世』と同化した実態がある。

しかし、宗教が社会に道徳性を与えるという捉え方は法の整備と施行が行き届かないところで有用ではあっても、神の人に対する意志については大きな問題がある。
人にとって道徳性に価値を感じるにせよ、より本質的な善は明らかに『愛』であり、それこそが究極的に神が人に求めるものである。

旧約聖書の義人ヨブは善行に富み悪から離れていることが自分の義(ヨブ35:2)であり、それがなぜ神からの酬いに預からないのかについて疑問を呈した。(ヨブ10:2-3)
彼の人間的な義は、サタンの反論を退け、三人の友人らの執拗な審査にも打ち勝つほどに優れていたが、実に、彼の「義」にこそ問題があった。(ヨブ40:8)

ヨブの義が如何に優れていようとも、それは『人に対するもの』であり、『神に何かを与えることのできるものではなかった』。(ヨブ35:6-8)
したがって、ヨブの義を賞賛していては、そこから何も学べない。彼の義が優れていたからこそ、そこに陥穽があった。
律法遵守も同じく、その『業によって義と宣せられることは無い』ので、キリストが現れ『新しい契約』が発効した以上、律法の条項を守るべく腐心する必要はない(ヘブライ7:18)。
律法の中に、生活上の諸事に神の意向を汲むこともあるにせよ、例えそれが『新しい契約』に預かる聖徒らが留意すること(ペテロ第二3:11)があったとしても、その目的は『聖』を仮承認されたことへの自覚からくる責務であり、普遍的に規則化されるべき理由はけっしてない。

宗教経典に「正しい生き方」を求め、そこに何らかの益を受けようとする『律法』的信仰方式は、キリストの『新しい契約』に付随する『キリストの律法』(ガラテア6:1-2/ペテロ第二3:2/ヨハネ第一2:3)によって、その契約に預かる聖徒らにのみ課される(テモテ第一6:14/ヨハネ第一5:2/黙示12:17・14:12)よう変更されたが、キリストの成就した(マタイ5:17)ことによるモーセの律法の終了(ローマ10:4)を以って、律法の条項を守る務めについては、今日あらゆる人に課されていない(エフェソス2:15)。
律法はキリストの業によって一度限り『成就』され、キリストの倫理的完全性を担保したのであり、そのゆえにも律法の言葉は滅しない。

また、『キリストの律法』とされる(ガラテア6:2)聖徒らへの(ガラテア5:13.16)一定の道徳規準(コリント第一7:19/ペテロ第一1:15)も、聖霊を注がれた聖徒が存在しない(ダニエル9:27/ヨハネ9:4)状態では、誰に適用されるものともならない。

聖徒らへの道徳規準への要求も、本来は『愛』に動機を持つものでなければ『意味が無い』(コリント第一13:1-4/ローマ13:9/ヨハネ第一3:22)。
聖霊注がれた『聖なる者ら』は『新しい契約』を全うするために、キリストの『完全にされた』義の状態を分与されるに相応しい行状は求められている。

また、原則的に、神の前に是認を得、更には『義』を得るのは善行でも苦行でもなく自らの罪を認めたうえでの信仰であるとキリスト教は教える。(ローマ3:21-25)
これは、旧約聖書の多くの部分を費やし、イスラエル民族に与えた律法(詩篇147:19-20/詩篇78:5-7)を通して、遂にキリストの内に到達をみた重要な結論となっている。聖霊に対する冒涜のほかは『人はあらゆる罪を赦される』(マタイ12:31)ことをキリストは言明している。
ゆえに、イスラエル人に与えられた律法も守られなかったゆえに、また登場人物がすべて非イスラエル人らの論議であるヨブ記も共に人間の義の限界を教えるものとなっている。

したがって、キリスト教徒であろうとなかろうと、何者も自分のどんな善行や徳性によっても神の前に義や救いを得ることはまったく不可能である。(エフェソス2:9)
人間が神の前に義とされる道はただ一つ、キリストの犠牲により贖われることであり、それを信仰し待望することである。人類一般は神の前に義とされ、創造物として認知されるために『神の王国』の千年期を必要としている。(ペテロ第一2:9/黙示20:4-5)
このように捉えるときに初めて『医者は病人に必要である』というイエスの言葉を得心することができる。キリストは『義人を招くためではなく、罪人を招くために』来られたとも言われる。(マルコ2:17)


◆『罪』と『愛』

人はアダム以来、外からの規制を必要とする倫理上の不完全者となってきた。この倫理上の欠陥を聖書は『罪』と呼ぶ。
『罪』の原因は、アダムが強い誘惑を受け、自らの欲のために創造者に忠節な愛を示さなかった事による(ローマ5:12-17)。

以来、人間社会は自らの不倫理性のために法と権力がなければ、その存立も難しい状況に置かれてきた。

旧約聖書の律法とは、その規定を通してイスラエルに民族国家としての秩序を与えるだけでなく、同時に人間の不倫理性をあぶり出し、律法の順守を目指したイスラエル民族を通して、すべての人が神の前に『罪』を負っていることを明らかにするものであった。(ローマ3:20/ガラテア3:19)
アダムの血がその内に流れる限り、人は誰が何を行おうとも神の規準に達することはない。(ローマ3:23)

しかし、アダムの子孫でないキリストの現れにより、『罪』に贖いが供えられることによって、不倫理性が除かれる道が開かれた(ガラテア3:22)。この『罪』を許すためのひとつの犠牲により『愛』というものは示された(ヨハネ第一4:9)。この犠牲の行為は、どんな人間の善行も及ぶことの無い『義』の『完全』に達した。(ローマ5:19/ヘブライ2:10)

そこでキリスト復活後の新約聖書は、『キリストは律法の終わり』であることを宣言し(ローマ10:4)、『律法の業を通して義とされることはない』(ローマ3:20)ことを再確認している。
キリストの弟子の時代に至り、外から人を規制する律法を去り、自発的に自らの言行を省みる道徳規準に改められている(エレミヤ31:33)が、それが『愛』アガペーであり、キリストは『愛することを掟として与え』た。(ヨハネ13:34)

『罪』という不倫理性には、法と権力とが必須であるのに対して、『愛』は『罪』の対極に位置する(ペテロ第一4:8)ので、『法を全うするもの』となり得る。(ローマ13:10/ガラテア5:14)
倫理とは、他者とどう関わり生きてゆくかに関わる判断であるので、神を含む他者との関係を利己心から破棄することを聖書中では『罪』と呼び、関係を求めることを『愛』(アガペー)または『忠節な愛』(ヘセド)と呼ぶ。

したがって、第一に神を含む他者との関係を『愛』の内に求めず、倫理上に欠陥を持ち続けようとする者は、他者とどう生きてゆくべきかを弁えてはいないので、そのような者が永遠に存在することは、創造者の意図に反し、神の創造の業はいつまでも完遂されない障碍となる。ゆえに、使徒ヨハネの言うように『愛さない者は死に留まる』。(ヨハネ第一3:14)『罪を犯す魂は死ぬ』とは(エゼキエル18:4)、創造者の生殺与奪の当然の権限といえる。

キリスト教に於いて、『愛』はキリストに於いて「アガペー」として示され、信仰し、その精神に倣おうとする者に最も希求されるべきものである。(ヨハネ第一4:12)
現在の人はアダム由来の『罪』のゆえに『愛』を十全に体現することはできないが、キリストに倣って愛するよう努めることはいつでも可能であり、そう努めることが広くキリスト教の根幹であり掟でもある。(ヨハネ13:34)

他方で、愛することは教条規則への従順では純粋に行うことができない。愛は常に各個人に内在するものであるので、自発性が保たれる必要がある。つまり愛する人の内側では、倫理上の自己判断が必須となるので、その人は神や他者の定めへの従順ではなく、神や他者への共感や同情が求められることになる。(ガラテア6:2)

キリストが『自分がして欲しいように他者にせよ』と言われた(ルカ6:31)のは、自由な自己判断、即ち、他者への共感や同情がキリスト後の教えにあっては必須とされていることを指している。(エフェソス4:32)
従順は、その行動の結果や責を、従う対象に求めるのに対し、愛は、自らの行動に責を負う点で自由な行為者として振る舞うことになり、『神の象り』としての『神の子』に相応しく、創造の意図に適うものである。聖なる書に最も通じたユダヤの宗教指導層は、厳密にその言葉に従うことで、遣わされたメシアを見分けずに却って退けている(ローマ9:30-32)。他方で、自らの価値判断を用いた下層の者らは、イエスをメシアとして見出している。(ヨハネ9:32-33)

キリストは弟子らに『互いを愛するように』と「愛の掟」を授けた(ヨハネ13:34)が、愛することには際限がないと同時に、教条でないゆえにその人の限界にも応じるので、愛の実践に努めることによりその人の内で『罪』は消えないが『愛』は育ち得る従って愛は、啓発を受けることはあっても、自発的環境を要する。

他者の悪行に対して、人は超然と潔癖さや清さを誇るのではなく、互いの内にある『罪』を認め、可能な限り見逃し、できるところで許すところにキリスト教の本質があると言える。(マタイ18:21) 許された者がそれを意識するなら、改善が促されることは少なくない。それは許す者にも、許される者にも益を与えるものと有り得る。そこで「愛の掟」には、行うことばかりでなく許すことも含まれることになる。

但し、悔いない悪行者について、忍んで許すか、あるいは指弾するかはそれぞれ個人の判断が求められる。
殊に世俗の法に触れる事には世俗に委ねる必要も生じる。パウロは世俗の支配者の『剣を怖れる』べきことをエクレシアに告げている。(ローマ13:4)
正義感と同情とは対立する観念であり、排撃と許容、優越感と堕落を惹起させるが、このバランスを保つのも『愛』の判断と言えよう。

それゆえ、キリスト教徒がただ規則を求めて、それに従順であろうとするなら、それはパリサイ的ではあっても、キリストの教えの根本的精神に反することになる。(ガラテア5:4)
禁欲を守り、慈善行為や苦行に没頭するとしても、人は自分の内面の『罪』を減らすことさえ不可能であり、禁欲や徳行が神の前に『罪』を軽くすると思い込むなら自らを欺くことになる。(コロサイ2:21-23)

律法体制が去って後のいまだに律法や何かの規準を守ろうとし、その「業」で聖なる民になろうとするのはユダヤ教的であって、キリスト教徒ではない。(ガラテア2:21)
人は誰であれ、神に近付くのに、何かの規準を守ることでそれが可能とする考えはまったく間違っており(ルカ18:11-14)、新約聖書に規準を見出して、それらを守れば正しい崇拝が現れると思うのは身勝手な妄想であり、神の前に近付く方途はキリスト・イエスへの信仰によるほかない。(ヨハネ14:6)



◆聖徒らへの道徳規準

キリスト復活後の新約聖書に記される多くの道徳規準が記されているが、それらは『信徒ら』(ピストイ)に要求されたものではなく、聖霊に預かり『新しい契約』に参与した『聖徒ら』(ハギオイ)に求められた(エゼキエル36:27)ものである。(コリント第一6:11/エフェソス5:1・3/フィリピ2:15/コロサイ3:12/テトス2:12-14)

新約の道徳規準に従おうとしても、それで『聖なる民』となることは無い。決定的なもの「聖霊」が欠けている(ローマ8:9)。
『聖なる者』が新たな掟に従うことを『新しい契約』によって求められており、彼らこそが天に召されることになる。(ヨハネ15:1-10)

『聖なる者ら』は、律法のレヴィ族や祭司に、民一般以上に要求されていたように、一定の清さが求められている。(ヨハネ第一3:5)『多くを委ねた者には多くが求められる』からである。(ルカ12:48)
彼らが、一定の道徳規準を守ることは、天界の祭司となる目的に在って『新しい契約』に関わる要求(ペテロ第一1:15-16)であり、奇跡の表明(ルカ19:20-21)と共に聖霊の注がれていたことへの応分の清さの表明となった。(コリント第一7:19-20)

『主の晩餐』の葡萄酒に預かる『聖なる者ら』には、『新しい契約』により(ルカ22:20/ヘブライ9:15)キリストの犠牲を地上に居る間から適用されている(コリント第二5:21)ので、アダムの『罪』が仮とはいえ(コリント第一4:4/ペテロ第一3:6)許された状態に入っていた(ローマ8:32-34)。当然ながら、彼らには『キリストの兄弟』として非常に高められた状態への感謝を表し、『聖なる民として』一般人に優る道徳的言動が求められて然るべきである。(ペテロ第一1:15-16)

しかし、彼らが肉体である間(ローマ8:10)には、アダムからの『罪』は依然として働くので完徳者となっているわけではない(ローマ7:20)ので、個々の悪行についてなお悔い改める必要がある。(ヨハネ第一5:16)

『聖なる者ら』には、「生活の聖別」によって清められるという行状による聖化の意識ではなく、『聖なる者』に相応しく敬虔に歩んで『不法を避け』(ヨハネ第一3:3)、『新しい契約』の成果に与るべきことが新約聖書中に繰り返されている。(エフェソス5:27/ペテロ第二3:14)イエスは『入ろうと努めながら入れない者は多い』と言われたのは、『王国に入る』ことで『救われる』ことになる『聖なる者ら』に対してであった。(ルカ13:24)

また、聖徒同士の問題が生じる場合に限り、彼ら契約に関わる立場の故に、聖徒の中での裁きは有り得る(コリント第一6:3)。
その手順はイエスによって示されており(マタイ18:15-19)、その地上の聖徒の裁きに関してキリストは監臨されるという(マタイ18:20)。しかし、これはキリストの聖霊による臨在の間のことを述べているのであり、単にキリスト教徒が二三人居るところに監臨があるということではない。



◆信徒に於ける悪行への対処

しかし、聖霊を受けない『信徒』が『聖徒』に課せられた新約聖書中の道徳規準を守ろうとすること、また、守らせようとすることには無理があるばかりか害となる。
なぜなら、天界の祭司となる目的もなく、一定の道徳規準を守っているとの意識は、無意味な自己義認が避けられない。
そこで、人々を心の内で裁き優越感を持ちつつ、神の是認を身勝手に想定してしまうことは、人々ばかりでなく、神をも愚弄する利己主義に陥り、その人がどれほどキリスト教に帰依していると思おうとも、実質的に反対の精紳を抱くことになってしまう。(ルカ16:15)

キリスト教の宣教がしばしば困難に陥る理由のひとつは、宣教される側が、宣教する側の優越感を機敏に感じ取り、その利己心に反発を覚えるところにある。(ルカ18:14)


したがって、パウロが『互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても義務があってはならない』(ローマ13:8)としたように、キリスト教の『信徒』には、キリストの命じた『愛の掟』のほかには負うべき道徳規準は無い。

但し、信徒同士の一定のコミュニティを維持させるために、特定の決まりを定め、何かの行動を抑制することがないとは言えないが、それは一時の便宜的な特例になり、世俗法との対立には及ばないものでなければならない。信徒同士のコミュニティといえども、そこに秩序を与えるのは本来的に世俗的な法の一種であり、聖なるものとはなり得ない。

また、人の様々な悪行については、それを裁くべき『上位の権威』が存在しており、一般の人々と共にその『剣を恐れる』こと(ローマ13:1-4)以上の怖れを抱くべきではない。
ユダヤ教は国家宗教であったが、キリスト教はそうではない。そこで、キリスト教徒が一般の法の他に規定と罰則を定めるなら、二重の法が存在してしまい『上位の権威』との衝突が避けられなくなる。よほどの独裁制でない限り、多くの国家の法は、人の行動を規制するだけでなく、その自由や人権の擁護をも目的とするようになっているので、宗教法と世俗法の対立にキリスト教を関わらせるような無駄な努力を払う必要はますます無いと言える。(テトス3:1)

だが、世俗の法を尊重するとはいえ、当然ながら信徒らがまるで法に触れないとは言い切れず、その責めは各自が負うものである。
同時にそれらの外部の法も完全ではあり得ず、信徒の内面での「愛の掟」に基づく個人の判断から、世俗の法を補完または反するするような言動が信徒に無いとも言えないことになる。その責は、やはり各個人が負うべきものとなろう。

また、キリストの臨御する終末に於いては、この世がやがて神に敵対するゆえに、キリストの弟子にあって世俗の法が制限されるべき事態を想定する必要もあるが、それは格別な危急の時となろう。(使徒4:19-20/ルカ16:9/マタイ25:40)




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