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聖徒と信徒  -綱領-

2016.08.14 (Sun)
予告されてきた聖徒


新約聖書に記されるあの五旬節の日の『聖なる者』(ハギオス)の現れは、聖書全巻を流れる神の足跡のひとつの到達点となっている。それはキリストの犠牲によって初めて実現されたものであり、神とキリストの双方の働きの結実である。

まず、旧約聖書中にも『聖なる者』(カドーシュ)が存在しているが、これはまず、神が自らについて『聖なる者』であることを示し(レヴィ11:44/イザヤ43:3)、またアロンをはじめとする祭司職やレヴィ族(レヴィ21/詩106:16)やナジル人の誓約を立てた者(民数6)、また預言者らを指す(マタイ27:52)。また、イスラエル民族の全体も聖なる者であるよう(民数15:37-41)律法で要求されている。また神自身を『聖なる者(方)』と呼ぶこともあるが、これは聖の根源をも表している。
ほかに『聖なる者』の語によって、天使ら、また敷衍してキリストと共になる者らについても語られている(詩89:5-7)。

それはエデンの園での『女の裔』の予告(創世記3:15)に源を発し、以下のアブラハムに神が誓約された言葉の実現に向かって進む事柄の非常に重要な部分を成しているが、旧約に於けるそれらの聖は予型的なものであり、キリストの到来と犠牲なくしては聖霊が降らず、真の『聖なる者』は現れなかった。(ヨハネ16:7)
新約に於ける『聖なる者』は、まずキリスト・イエスに適用され(ルカ1:35)、次いで、『新しい契約』が結ばれ、その犠牲の仮の贖いに預かった人々が『キリストと共同の相続人』また『神の子』(ローマ8:14-17)、『キリストの兄弟』(ローマ8:29/ヘブライ2:10-12)と見做されることを通して、キリストに同じく『聖なる者』と呼ばれるに至った。

『聖なる者』の存在意義は、早くもエデンの園で語られた、蛇の頭を砕く『女の裔』として示されているが、それがどのように具体的に現れるかについては、まずアブラハムを待たねばならなかった。

『わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫を増やして、天の星のように、浜べの砂のようにする。
あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。』(創世記22:17-18)
この言葉で、神はアブラハムの子孫を通して諸国民が祝福を得ることを誓約しており、そこに人類の祝福となる格別な民が用意されるという神の計画が表されていた。
そして後に、アブラハムの子孫がイスラエル民族となり、モーセを介して神と律法契約に入った。

イスラエル民族への契約の目的とするところは以下のようであった。
『もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』(出埃19:5-6)

ここに於いて、アブラハムに示された事柄から進み、その子孫の働きについて『祭司の王、聖なる民』という概念が現れている。

こうして、モーセの仲介による律法契約下のイスラエル民族には『聖なる者』(レヴィ20:26)、『諸国民の光』(イザヤ42:6)となる目標が意識されるようになった。殊に、大祭司と祭司をはじめとしてレヴィ族の神の買い取り(民数3:5-13)は、キリストの血の犠牲による聖なる務めへの人々の買い取りを予型し(黙示14:3-5/使徒20:28)、より精密に「聖なる祭司」となる『聖なる者ら』の姿を前表するものとなった。(ヘブライ10:11-14)
また、律法契約中の『安息日』条項を守り『神聖なものとする』ことは、イスラエルを『聖なるもの』とするはずであった(エゼキエル20:12)が、これは『安息日』が民を世俗の生活にまったく埋没することから浄める働きを成すことを象徴するものであった(出埃20:10-11)。そこに『この世』の不浄が対照されている。

だが、イスラエルは民族としては律法契約に従わなかったので、神はこの民をバビロンに捕囚に処し、神殿喪失の70年間に亘り完全な律法履行は不可能となった。(申命16:16)この聖所と至聖所の喪失はイスラエル民族に対する神の不興の表明であった。(ダニエル9:15-17)
それでも神はアブラハムへの誓約を果たし、その子孫を生み出すための『新しい契約』を結ぶこと(エレミヤ31:33)と、その契約を仲介するメシアについて多くの預言を与えた。(申命18:15/ダニエル9:27/マラキ3:1-3/使徒3:22)

ペルシア帝国のバビロン征服により捕囚を解かれた民は(エズラ1:2-6)ユダヤ人と呼ばれるようになり、再建された神殿で祭祀を再開した。(エズラ6:15-22) 但し、律法契約の証しであった『契約の箱』、及び聖籤はイスラエルに戻らなかった。
イスラエルはその後、律法墨守の極端に走り(マタイ23:23-24)、その頑なさのために(ローマ11:25)遣わされたメシアをローマの権力に渡して処刑させてしまった。(マタイ26:63-68)

他方で、キリストの宣教活動は単なる弟子を求めるための布教ではなく、血統上のイスラエル民族(マタイ15:24)、特にパレスチナに住む同朋から(マタイ10:5-6)、シオンの子ら(マタイ23:37)、また『アブラハムの子ら』を集め出すことに第一の目的があった。(ルカ11:23/13:34/ヨハネ11:52)
神は聖霊の奇跡を以ってキリストが誰であるかに証しを加え(ヨハネ第一5:9-10)、その証しによってユダヤ人にはメシア信仰を抱く機会が開かれた。(使徒13:46)

しかし、イエスに信仰を働かせる者は多くはならず、ユダヤの体制としては(ヨハネ7:48)ナザレのイエスが自分たちの望むようなメシアではなかった為に却って『つまづきの石』となり(ペテロ第一2:7-8/マタイ21:42-44)、キリストに信仰を抱かない(ルカ11:18-19)ことにおいて聖なる国民となる機会を逸した。(ルカ13:6-9/マタイ21:19)

それでも、ガリラヤ出身の弟子らをはじめとしてイスラエル民族の中でメシア信仰を抱いた一部の人々から、聖霊によって奇跡を行うキリストに属する者らが史上初めて現れた。(使徒2:1-20)

キリスト帰天の後の五旬節の日に、聖霊のバプテスマを通して、アブラハムの遺産を相続するべき真の子孫が生み出されることになったので、使徒ペテロは彼らが『サラの子となった』と記している。(ペテロ第一3:6)これについてはパウロも、初代の弟子らが律法によらない、サラに相当する『自由の女』を母としていることを述べる。(ガラテア4:22-31) イサク同様に、その「出産」は奇跡によるものとなった。また、将来の終末にも同様の誕生が予告されているが、その時には象徴的サラの出産が終わり、すべての聖徒が現れることを意味する。(イザヤ54:1・66:7/ルカ1:35/黙示12:1-5)

これらの聖霊の注がれた弟子らは『聖なる者』と呼ばれ(ペテロ第一1:2)、律法契約が目指した『王なる祭司の民、聖なる国民』(出埃19:5-6/ペテロ第一2:9)が史上初めて現れた。それが起り始めたのは、キリストの復活の後50日後、即ち帰天の十日後の五旬節の祭りの日からであり、その日以来、キリストの犠牲が神の前に受け入れられたことが当時の弟子らに聖霊が与えられたことによって明らかとなった。(エフェソス1:13-14) 従い、イエスの公生涯後の使徒時代に入ってからは、『召された者』とも彼らはしばしば呼び掛けられている(ローマ1:6/コリント第一1:1-2・1:24/ヘブライ9:15/ペテロ第一1:15/ユダ1)

他方で、キリストを処刑させたユダヤ体制、また血統のアブラハムの子孫であるイスラエルは『契約の子ら』(使徒3:25)であったが、聖なる民となる相続権から自らを退け(ガラテア4:30)、聖霊を受けることなく西暦七十年の神殿破壊を以って、完全なモーセの律法施行は二度目に不可能となった。これはメシアを処刑したその『世代』への酬い(ルカ11:50-51)であり、その予告された滅び(マタイ24:2)についての「回復の預言」は語られていない。旧約預言での「回復」はメシアを退けた血統の民ではなく(ローマ9:6)、『イスラエルの残りのもの』(イザヤ10:20-23)、即ち神の聖なる民、聖霊注がれた選民イスラエルに使徒時代(使徒3:19)と終末に成し遂げられるもの(ヨエル2:27-3:1)である。聖霊降下の世代の内に、エルサレムに保管されていた系図も失われ、レヴィ族祭祀制度は終焉を迎え、この時代に神への崇拝は地上の神殿からまったく離れ、新しい崇拝が形づくられ始めた(ヨハネ4:21・23/ヘブライ8:4)。

その間に、神のアブラハムへの誓約の相続権は、諸国民を含むキリストの弟子らで構成される『神のイスラエル』(ガラテア6:16)へと移されていた。(ローマ9:6) 『新しい契約』の民となった 聖霊が注がれ奇跡を行うキリストの弟子ら(使徒4:29-30)の存在は、ユダヤ体制派にとっては激痛を与える刺となった。即ち、ヨエルの預言した蝗害であり、これは終末にも世に対して再び繰り返される。(ヨエル2:1-6/使徒5:27-33/黙示9:1-11) <キリスト教界への宣告は蝗害の後に起る(黙示9:16-19)>

『聖なる者』となる弟子らがユダヤ人だけでは不信仰のゆえに『王国』を構成するには足りず、諸国民までが含まれることは、キリストも公生涯の間にユダヤ人に警告を述べつつ(マタイ8:10-11)使徒ペテロに『王国』を諸国民に対して広げる権限を授けていたが(マタイ16:18-19)、諸国民の間でキリストを宣べ伝えたパウロは、この奥義について『接ぎ木』の例えを用いて(ローマ11:13-32)説明している。そうして初めて『イスラエルの全体の数が満たされて救われる』ことになる。(ローマ11:25-26)

したがって、『聖なる者』の天に召される定数があることも併せて示唆されており(ローマ11:25)、黙示録は血統のものとは異なる12部族を挙げて14万4千という人数と記している(黙示7:4/14:3)。但し、地上で召される人数はそれよりも大幅に多いことが示唆されている。(マタイ22:14/24:40-41)

これらキリストと共なる者らがエデンで宣告された『女の裔』を構成し、サタンの頭を砕くことになる。(創世記3:15)
それゆえ、パウロは自分を含めた聖徒全体を指して『神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選んだ』と記している。(エフェソス1:4)



キリストの犠牲によって登場した聖徒

五旬節以降に与えられた『聖霊』は、キリストの犠牲に基づく格別なものであり『約束の聖霊』とも呼ばれる。(使徒2:33)
その『聖霊』を注がれた者は、単なる弟子というばかりでなく、キリストを仲介者とする『新しい契約』に入り、アブラハムの相続権を得たことを意味した(ローマ8:16-17)。聖徒がキリストの犠牲に基づく『新しい契約』によって生み出されたことについては、『キリストは新しい契約の仲介者である。それは、初めの契約の下で犯された罪の贖いとしてキリストが死んでくださったので、召された者たちが既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかならない。』とされている。(ヘブライ9:15)

キリスト・イエスが『粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』と言われた(ヨハネ12:24)のは、その犠牲によってその自己犠牲の生き方に続く者らを『実』として生み出すことを言っている。(コリント第二5:15)
それゆえ『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。』とも言われた。(ヨハネ12:26)
そこで、彼らはキリストの死によって生み出されたことになるので、パウロも『キリストがわたしたちのために死なれたのは、覚めていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。』と書いた。(テサロニケ第一5:10)
これは、生死に関わらず(ローマ14:8)、聖徒らが、キリストの復活後に得た永遠の命に共に与ることを指している。(ローマ6:8)

その状態に入るためには、アダムの命に生きる事を止め(コリント第一15:50)、キリストの命の内に入る必要があり(コリント第一15:22)、イエスはそれを『水と霊から生れる』事とした(ヨハネ3:5)が、それは、あの五旬節以降に可能となった。(使徒2:1-4)
それゆえ、パウロはバプテスマによってキリストと共に死に、霊によって生かされた事を、その書簡の中で何度か説いている。(ローマ6:3-4.8/コリント第二7:3/テモテ第二2:11)

『神の子羊』であるキリスト(ヨハネ1:29)は、出エジプトの子羊がイスラエルの長子を、延いてはレヴィ族や祭司を贖った(民数3:11-13)ように、自らの血の犠牲によって『新しい契約』を地上に残った弟子らと締結し(ルカ22:20)、彼らを人類の長子(ヤコブ1:18)として新たな祭司職のために仮の贖いを行った。(ヘブライ9:11-14)

そこで弟子らは地上の生涯を主イエスに倣って生き、『新しい契約』を全うする務めが生じ、『聖なる者に相応しく』清く生活することが求められた。(コリント第二5:10/エフェソス5:5/ペテロ第一1:17)
それゆえ、イエスは『狭い門から入るように努めよ。入ろうとしながら入れない者は多い』。と戒めている。(ルカ13:24)
契約を全うすることにより、彼らは最終的に天に召され(ヘブライ3:1)人類の『初穂』として刈り取られ(ヤコブ1:18/黙示14:4)、『聖なる国民、王なる祭司』の一員となる。(ペテロ第一2:9)

メシアはその犠牲の血を以って信仰を持った弟子らを『罪』から『新しい契約』によって(コリント第二3:8-9)仮に贖い(ローマ4:5)、清い立場を与え(ペテロ第一1:15)、自らの『兄弟ら』と成したので(ヘブライ2:11-17)、その者らは『キリストと結ばれ』(ヨハネ15:5)『聖なる者』と呼ばれるに至った。(コリント第一1:2)

キリストは、聖霊が弟子らに注がれるときに(使徒1:8)、彼らが諸国に向かって宣教を広げることを予告していた(マタイ28:19/ヨハネ14:12)通りに、聖霊を受ける弟子はサマリア人にも(使徒8:14-17)、ローマ士官コルネリウスを嚆矢として無割礼の異邦人にも広げられた。(使徒10:45)これは使徒ペテロに与えられた『王国の鍵』(マタイ16:19)の使用であった。

『聖なる者』として選ばれた証拠が『約束の聖霊』であり(エフェソス1:13-14)、奇跡を起こし知識を与える『聖霊の賜物』が与えられた者ら(イザヤ44:3-5)は、『キリストと共同相続人』(ローマ8:17)としてアブラハムへの誓約に預かる。この相続権が真に彼らを『アブラハムの子孫』とする。(ペテロ第一1:3-4)
使徒ペテロは、聖霊を注がれ奇跡の賜物に預かった弟子らを『イエス・キリストに従い、かつ、その血の注ぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、霊の清めに預かっている人たち』と呼びかけている。(ペテロ第一1:2)

使徒パウロは、ローマ書簡の第八章を費やして、聖霊に預かった者らの立場を詳述しており、そこでは彼らは既にキリストの血の犠牲によって贖罪されており『有罪宣告のない』『義と宣せられている』状態に入っていることを記している。(ローマ8:1・33)即ち、大祭司キリストによって、『罪』ある肉体に在りながらも神聖と見做された。(ヘブライ2:11/ヨハネ17:19)

聖霊に導かれる彼らは『罪』の無いことに於いて『神の子』となるので、彼らは神を『アッバ』と親しく呼びかけることが許される。(ローマ8:14-16)
彼らは、キリストによって罪への隷属から(ローマ6:17)の自由を得たので『家の子』、即ち自由人であり(ヨハネ8:34-36)、神の前にキリストに並ぶ『兄弟たち』とされる。(ヘブライ2:14-17)

また、聖霊は聖なる者らに真理を教える(ヨハネ16:13)ので、彼らは誤りを語ることなく(黙示14:5)新約聖書となってその教えが今日まで伝えられているが、それらは神が彼らに授けたものである。(コリント第二4:6-7)

初代の弟子の時代では、エクレシアの中のほとんどが『聖なる者』で占められていたので、福音書後の新約聖書はこれら『聖なる者ら』の信仰社会を描き出しており、聖徒ではない人についての記述はごく僅かである。(使徒19:1-7/ローマ8:9/コリント第一14:16・24/ユダ19)
当時には、キリストの名による水のバプテスマを受けたほとんどの人々が聖霊のバプテスマをも受けたことを示している。(使徒2:38)

(新約聖書のこの聖徒中心の世界に対する無理解が今日までのキリスト教徒に「聖徒理解」を阻んできているので、『あなたがた』と呼びかけられる大半の場所で、それを今日の読者が自分に語られていると見做すなら、キリスト教の基本の理解にも到達できないことになる。即ち『聖霊』というものが神の威力ではなしに、自分の中の心理作用と錯覚しているところに『聖徒』を理解しない原因がある)

『聖徒』即ち、『聖霊の賜物』を持つ弟子らについては、「教会史」をはじめ初期史料に記されており、第二世紀前半頃までの存在を確認できるが、その後に絶えたことも併せて知らされている。(教会史Ⅱ:14/Ⅲ:24・37/Ⅴ:3/牧者Ⅵ:8-10・13/昇天3:25)

また、カトリックや東方教会の伝承の「聖人」に痕跡が残されており、奇跡を行う人々であり、その多くが殉教者であった。
以後、今日まで初代の弟子らのように『聖霊の賜物』を受けた人々は存在して来なかった。
しかし、キリストは終末預言の中で、聖霊によって語る弟子がいることを予告している。


聖徒の働き

彼らの人類祝福の働きについては、律法の『贖罪の日』の祭祀規定に模式されており、大祭司は自らと従属の祭司団を贖罪し、然る後、民の全体の贖罪が行われていた。(レヴィ16:6/16:15)
使徒パウロは、キリスト・イエスを大祭司と見做し(ヘブライ9:7)、仲間の聖なる弟子らを従属の祭司団を構成する者らと見做していることを祭司団が奉仕の前に水を浴び身を清めることになぞらえている。(ヘブライ10:22/出埃40:30)

彼らはキリストの王国に於ける人類全体の贖罪に関わるために、終末に人類に先立って復活する者らがあることを黙示録は『この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。』(黙示20:6)
したがって、『聖なる者ら』がキリストを大祭司として祭司の奉仕を捧げるのも、王としてキリストと共に治めるのも、依然として将来のことになる。

しかし、キリストが臨在する終末については、地上で聖霊を受ける弟子らも居ることをキリストは次のように語っていた。
『人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。』(マルコ13:11)

これが終末に於ける聖なる者らの最大の試練であると同時に活躍の場となり、世界が聖霊による発言に注目することになることをイエスは次のように語っている。
『あなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対して証しをするためである。』(マタイ10:18)
イエス・キリスト自身は、ポンティウス・ピラトゥスの前に引き出されて語り聖徒らの先鞭をつけ、ステファノスも続いている(テモテ第一6:13/使徒7:54-60)。

また、キリストは聖霊の言葉がこの世の全体を糾弾するものとなることを教えている。(ヨハネ16:8-11/黙示9:1-6)
なぜなら、『聖なる者ら』はキリストに選び取られたゆえに『世の者ではなく』(ヨハネ15:19)、他方『全世界は悪しき者の配下にある』からである。(ヨハネ第一5:19/ヤコブ4:4)

聖霊の言葉を語る『聖なる者ら』の働きの結果として、世界がその発言によって動揺することを預言者らは次のように語っている。
『彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。』(イザヤ52:15)
また、イスラエルの相続財産のひとつとして『裁きの座であなたを争い訴えるすべての舌をあなたは論駁する』ことが挙げられている。(イザヤ54:17)

『しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、乾いた地とを震わせる。
わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、入って来て、わたしは栄光をこの家に満たす』(ハガイ2:6-7)
この預言は、終末に於いて聖徒らの聖霊の言葉が世界に衝撃を与えるので、そこで『万国民の財宝』である信仰を持つ人々が現れることをも予告している。

パウロはハガイのこの預言の『震わせる』の言葉を、『天から語る方を拒むことがないように』と適用しており、神の発言によって世界に激震が走り滅び去ることを含意しつつ、その言葉を聞くよう訓戒している。(ヘブライ12:25-27)

この聖霊に信仰を働かせる終末の人々の現れについて、イザヤとミカはこう記している。
『終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。』(イザヤ2:2-3/ミカ4:1-2)
これらの預言の言葉が成就を見たと言える事例は依然としてない。

また、聖霊の言葉に信仰を働かせる人々について、イエスは次のような言葉を祈りに含めている。
『わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにいるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。』(ヨハネ17:20-21)

この聖霊の言葉に信仰を働かせるか否かが世界を裁くことを、イエスは人々を羊と山羊とに分ける例えで示し、キリストの兄弟たちを見分け、彼らに親切を示すか否かがその結末を分けることを終末預言の中で語っている。(マタイ25:31-46/ヨハネ13:20)
だが、この人々には必ずしも共に殉教するほどを求めてはいない。(マタイ10:40-42)

終末に『聖なる者ら』真のイスラエルに信仰を働かせる人々については、『その日には、もろもろの国ことばの民の中から十人の者が、ひとりのユダヤ人の衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいますことを聞いたから』と言う」。』とゼカリヤは預言している。(ゼカリヤ8:23)

聖霊の言葉に信仰を抱く人々の数は世の趨勢とはならないものの、『億』の単位で描かれるほどの数に上り、この人々もこの世を糾弾する活動に加わることを黙示録は示唆している。(黙示9:13-19)



聖徒の天への召集

彼らがこれらの預言者としての働きを果たした後に、世界がどう反応するかについて黙示録はこう記している。
『彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。』(黙示11:7)
『地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。』(黙示11:10)

この情況下で、聖なる者らには世の敵意に立ち向かうことにおいて主キリストに倣うことが求められ、『自分の魂を救おうとする者はそれを失う』(マタイ10:38-39)

この世界との敵対関係は、聖なる者らを『精錬し清める』(ダニエル11:35)ことになり、恐れに屈し(ペテロ第一3:6)脱落する者らもあることをキリストは様々な譬え用いて繰り返し警告しているが、ミナやタラントの例え、引き網の例え、盛大な宴会の例えなどがそれに含まれる。

即ち、真にアブラハムの子孫となって人類を祝福する一員となるためには、『新しい契約』を全うし、彼らの主であるキリストに倣い、世に在って自己犠牲の道を最後まで歩まねばならない。(ペテロ第一2:21)

また、『一人は連れて行かれ一人は残される』(マタイ24:40/ルカ17:34)とは、終末での試みの後に地から刈り取られる(黙示14:15)聖なる者らが選らばれ、人類の『初穂』となることを指しており(ローマ8:23・29)、テサロニケ第一書簡に於ける空中への引き揚げもこの最終的な裁きの後の選びについて述べている。(テサロニケ第一4:15-17)

その直前には初代の聖徒らも天への召しに預かり、相応しい者は『(格別な)復活』(フィリピ3:11)によって天界のキリストに許に集められている。但し、その者らは地上の生涯を忠節の内に終えていなければならない。(マタイ25:1-13)

『聖なる者ら』が天界にゆくことになるので、使徒ヨハネは『彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。』と書いている。(ヨハネ第一3:2)

天に復活する古代の聖徒らは、キリストの臨在の時にはキリストと同じ霊体となって共に顕現する(コロサイ3:4)ので、彼を直接に見ることになる。(ヨハネ第一3:2) 肉眼では天界のキリストを見ることはできないからである。(テモテ第一6:15-16)
そのため、彼らは肉体を地上の『天幕』という住処に例え、そこに住む間は主イエスと離されていると述べ、また天界では霊体であるゆえに、もはや裸になることはないと言う。(コリント第二5:1-6)

他方で脱落した聖徒らは残された地上で背教を起こし(テサロニケ第二2:2-12)、サタンの霊力によって『偽預言者』と変じ(マタイ7:21-23・24:24)、ふたつの覇権国家の後援を順に受けて(ダニエル11:30/黙示13:11)この世を掌握し(テサロニケ第二2:4/イザヤ14:12-14)、各国の権力を惑わして聖霊の声に信仰を持った人々を攻撃するように仕向ける。(黙示16:13-14)

これらの試練の時に、精錬された『聖なる者ら』は天に召されるが、それは不可視の状態で行われる。彼らは一瞬にして霊体に変えられ(コリント第一15:52-53)、彼らはキリストを『見る』ことになる(ヨハネ第一3:2)。新約聖書は事々に、この決定的な聖なる者の裁きの時に至る忠節を彼らに求め、注意を促している。

招天の後、直ちに(ダニエル12:7)戴冠するキリスト(詩篇2:1-6/110:1-2)と共に『聖なる者ら』は王国を構成し(ミカ4:6-8)、地上にいる信仰ある人々をも亡き者とするべく(ヨエル3:9-12)この世の権力が揃って攻撃を加えようとする企て(黙示16:13-14)から救い出すために、聖なる者らは『天軍』となって主なるキリストと共に神から委ねられる王権(黙示19:11-16)の実力を以って介入することになる。(ミカ4:11-13/黙示6:1-8)

この戦い(黙示19:11-16)の結果、この世の権力は互いを攻撃して政治的カオスに陥り(ゼカリヤ14:12-13/黙示6:2-4)、飢餓と疫病によって民も裁かれ(黙示6:5-8)、『天地は過ぎ去る』(ペテロ第二3:7)。 キリストとその『聖なる者ら』の圧倒的な勝利は、『神の王国』の千年支配と贖罪(黙示20:6)の始まりを画することになる。(ダニエル2:44/ゼパニヤ3:8-9) ⇒ 「黙示録の四騎士

こうして『聖なる者ら』はキリストと共に生ける人類の祝福『世の光』(マタイ5:14)となり、アブラハムへの誓約(創世記22:18)、またエデンでの『女の裔』の宣告(創世記3:15)が成就され『奥義』は終了する(黙示10:7)。
それでもなお、神の経綸は終りに至らない。(黙示20:7)








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