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背教と不法の人   -綱領-

2016.08.07 (Sun)
予告され、未だ到来していない『背教』と『不法の人』



『終わりの日』、即ち「終末」には、聖霊によって語る『聖なる者ら』に対抗して、人類を惑わす勢力が台頭することが予告されている。そこでは聖霊への信仰を求める神に着く側と、偽キリストを信仰させるサタンの勢力との衝突が発生することが聖書から読み取れる。

新約聖書ではテサロニケの書簡に主の日に起こる事象として『背教』と『不法の人』が記されている。(テサロニケ第二2:1-12)

この『背教』は、終末に臨んで開始されるもの(テサロニケ第二2:3)であり、聖霊の在った使徒時代が終わってから現今に至るまでのキリスト教の如何なる逸脱についても述べるものでない。

これまでにも多くの宗派が世の終りの予告を試みながら尽く外れている理由のひとつには、パウロの述べるように(テサロニケ第二2:2-3)この『背教』の見極めができていないところにある。それは終末に見られる際立った特徴であり、予め告げられなければ認識できないような性質のものではなく、現実に目前の恐るべき霊力を伴う脅威となって発生する(テサロニケ第二2:9/黙示13:11-18)。この『背教』に組みするにしても、その教えを信じるにしても、それは聖霊によるものを退け、敢えてそうすることになり、それは世の人々を分けるものとなる。

したがい、『背教』が生じる終末には、その以前に純粋なキリスト教が回復(使徒3:19-25)されている事が前提される。(イザヤ52:1・54:11-15・60章/黙示12:1)
聖霊によるキリスト教の回復(使徒3:19-21)と、それに対するこの背教(テサロニケ第二2:3)が始まらない限り、『主の日』は来たとは言えない(テサロニケ第二2:3)。

その『背教』は、キリストの臨在の開始と聖霊の地上への介入(ルカ19:15)の後に起こる『反キリスト』の行動(ヨハネ第一4:3)となる。それは聖霊に逆らうことに於いて、使徒ヨハネの晩年の時期にも顕在していた(ヨハネ第一2:18)が、第二世紀中頃には聖霊が引き上げられ、キリストの監臨が終わりを見てから今日までのキリスト教の逸脱は、パウロの指摘した終末の『背教』にはならず、将来には再び聖霊の注がれる聖なる者(マタイ10:18/ルカ21:15)の現れと預言に対して強い反対が起こる(マタイ10:34-42/ダニエル7:25/黙示12:17)ことになるが、『角』で表される権力に聖徒らへの迫害を使嗾し(ダニエル7:21)、更に旧来の組織宗教の集合である『大いなるバビロン』をも滅びに向かわせる(黙示録17:16-17)ところの、回復されたキリスト教から逸脱する新たな宗教上の勢力が『背教』と言える。(ダニエル11:37)

『背教』の以前に起こる将来の『回復』(使徒3:19-21)は、使徒時代に同じく、聖霊の注がれる者(ルカ21:12-15)について、『新しい契約』がキリストを介して、再び神と特定の弟子らの間に結ばれ(ダニエル9:27)、キリストの臨在と、贖罪された共なる『神の子』となる『聖なる者ら』(ヘブライ2:11)の現れを必要とする。(ローマ8:16・33) 従って『背教』とは『新しい契約』に対する『不法』であり、反対行動である(ダニエル11:32)。

『聖なる者』とされた人々のすべてが『新しい契約』を全うするとは限らず『入ろうと努めながら入れない者は多い』(ルカ13:24/ペテロ第一3:6)。キリストばかりでなく、契約の目的に達しない者らが出る(コリント第二11:3)ことは使徒らも旧約預言も度々に警告を与えている。(マタイ10:38-39・13:48-49/ヘブライ3:6/ダニエル11:35/マラキ3:2-3)

終末に於いては、聖霊の言葉によって(ヨハネ16:8)『この世』と『神の王国』の側との間に非常な緊張関係が生じる(マルコ13:13)ため、世の権力からの圧力に『恐れ』て屈し(ルカ17:33)『聖なる者ら』の中からも妥協するものが現れる(ダニエル11:35)ことをタラント(マタイ25:25)やミナ(ルカ19:21)の例えを用いてキリストは予め警告と戒めを与えていた。この「脱落聖徒」は、終末期の聖霊降下後、比較的早くに現れるらしい。(ダニエル11:32)

彼らはひとたび聖霊の力に与りながら(ヘブライ6:4-6)反対を恐れてそれを公けに表さず(マタイ25:25/ルカ19:20)、神とキリストとの優れた関係を失って(マルコ8:38)背信し(ペテロ第二2:1/ヨハネ第二7)、『神の王国』に敵して為政者と結託し(ダニエル11:30)『聖なる者』らを裏切り(マタイ10:23-34/ルカ12:51)、この世の側に渡す者らとなって現れる(ルカ21:16)。この者らは、『北の王』と呼ばれる覇権国家の支援を受け、相当な地位を得るらしい。(ダニエル11:30-31)

それまで聖霊に取分けられ『聖なる者』に選ばれていたこれらの者(ペテロ第一1:2)には、引き続きサタンと悪霊らが奇跡を行う力を与える(マルコ13:22/テサロニケ第二:2:9)ので、『大いなるバビロン』が去った後で在っても(黙示16:13-15)、世の多くの人々の宗教心を集め(テサロニケ第二2:11)、新たなキリスト教*を興す(マタイ24:23-24)が、それは広く大衆(ハモナ)の願望をひき付け(エゼキエル39:15-16/テモテ第二4:3)、シオン恫喝の最中に突然亡失する(ダニエル11:45)『北の王』ではないところの、キリスト教の背景あるもうひとつの覇権国家の後援を得て(黙示13:11-13)その信仰を広く強要する(黙示13:14-18)。この動きが一連の『背教』であり、聖霊に逆らうことに於いて致死的であり(マルコ3:29)、この追随者らに赦しは無い(ヘブライ10:26-27)。
*(この宗教にはユダヤ教とイスラム教の終末概念が含まれる理由「メシアの地上への現れ」もある)

その目的は、聖なる者らを介した聖霊の言葉にまったく逆らい(ローマ16:17)、できるなら聖なる者をさえ惑わし(マタイ24:24/ダニエル11:35)、聖なる者らがキリストの下に集められることも阻止するため(テサロニケ第二2:1/黙示7:3)に、偽の音信を吹聴し(テモテ第一4:1-2)、その教えが宗教的合一だけでなく政治希望をも包含するために、それまで宗教的背景に無かった人々を含め、終末に生きる人類をサタンの側に集める(ヨエル3:9-/黙示16:16)ことにある。
従って、聖徒が天に去り、旧来の宗教『大いなるバビロン』が滅んだ後の地上で、二つの宗教が残ることになり、政治を巻き込み究極的な二項対立に進展すると言える。この世の『大衆』(ハモナ)は想いが霊に向かず(コリント第一2:14)、広範囲に蔓延するこの『背教』に組みする(エゼキエル39:11-16)ので、聖霊に信仰を働かせる人々(シオン)(イザヤ2:1-4)よりも数は相当に多いらしい。(エレミヤ25:31)

それらを主導する『新しい契約』から脱落した元『聖なる者』らの中でも、『自らを神とする』という(テサロニケ第二2:4)特に顕著な地位に就く者があるらしく、その者は『不法の人』と呼ばれ(テサロニケ第二2:3)、また背信者ユダ・イスカリオテと同じく、聖なる者らを裏切って権力に渡す(マタイ24:10)、ゆえに双方共に『滅びの子』と呼ばれるのであろう。(テサロニケ第二2:3/ヨハネ17:12)
この者は、現在でもキリスト教徒の中で既に信じられているキリストの「地上再臨」の誤謬(マタイ24:23-28)を利用してキリストを自称し『アンチクリスト』(ヨハネ第一2:22)となり、「三位一体」の教理によって『自らを神とし、神殿に座す*』(テサロニケ第二2:4)ことが可能と成り得る。この者は、世界覇権をも動かす権威を持つらしく、政治権力を用いて自らへの信仰を諸国民に強要するとされる。(黙示13:11-15/ダニエル11:36) *(ユダヤ教だけでなく地上のエルサレムに期待を寄せる宗教信徒は現状でも相当数に上っている)

初期教父のエイレナイオスも、アンチクリストが存在する時を千年期の直前に設定しており(反駁Ⅴ25:3)、『大いなるバビロン』の滅びの後に顕在するという内容の、使徒ヨハネに由来する原始キリスト教の理解を伝えている。

これが究極的な偶像礼拝、また人間崇拝となることが示唆されている。(イザヤ2:22/詩篇146:3)
キリストが終末預言に於いて、地上にキリストを捜すことのないようにと繰り返し戒める(マルコ13:21/ルカ17:22-24)のはおそらくこのためであり、パルーシアのキリストが『雲に乗って来る』(マタイ24:30)の意は帰天した後のイエスが肉の目に見えない(テモテ第一6:15-16)ことを指している。キリストについて『雲に乗って来るのを見る』とは、キリストを目視することを意味しない(マタイ24:27)。キリストの「臨在」の不可視は世に対して聖霊への信仰を求める(ルカ18:18)と同時に、個々の人の動機を明らかにし(コリント第二5:6-7)、世を裁くものと成り得る。(マタイ25:37-39)

かつてエルサレムと神殿がローマの勢力によって滅びに至った際に、神殿を不法占拠していた熱心党と強盗集団が当時まで永らく続いたユダヤ体制に徹底的な破滅をもたらしたように(戦記Ⅵ:i:3)、これら背教の者らはこの世の権力と大衆を煽動し(エゼキエル38:15)、『聖なる者』らによる聖霊の言葉に信仰を持った人々を攻撃させよう(エゼキエル38:12)として、神と人との戦いを誘発してしまう。(黙示16:13-14)

おそらく、権力に支えられ神殿に立てられる(ダニエル11:31)という『荒らす憎むべきもの』(ダニエル9:27/マタイ24:15)とは、歴史上の荒廃の近付いたエルサレム神殿を占拠した無法集団の対型となって現れる者らとの関連が見られるように、かつて聖所に立て籠もってそこを血と奪略で汚し、常供の犠牲を終わらせ(ダニエル8:12・11:31/戦記Ⅵ:2:1)聖都と神殿の全き荒廃を招き寄せたのも無法集団の頑迷さであった(戦記Ⅵ:8:5)が、将来の『荒らす憎むべきもの』も、神の座に着いたまま神とキリストに敵対し(エレミヤ7:30)、却って権力を糾合して聖霊信仰ある人々『シオン』を攻めさせようと画策し、悪魔の霊力によりまがい物の奇跡を行って見せ(黙示16:16)世界を神に敵対させて遂にこの世を瓦解させることになるのであろう。(ヨエル3:9-17)

この攻撃に際し、神はキリストを任じて権力を持つ王と成し(詩篇2:1-6)、地上の民の火急の情勢下で戴冠させ、『敵中から征服するように』と命じる(詩篇110:1-2)。
メシアは『地から買い取られた』『聖なる者』たちと共に(黙示17:14)、『シオン』と呼ばれる(イザヤ62:1-2)信仰ある人々の救出のために差し向けられ(ゼカリヤ12:2-9/ユダ14-15)、神が『シオンを守る火の城壁となる』(ゼカリヤ2:5)なか*で、メシアは地上を裁いて決定的な勝利を収める(黙示19:11-21)が、その戦いに際して諸国の軍は象徴的に『ハルマゲドンと呼ばれる場所に集められ』る(黙示16:16)。この勝敗の決定的に分かれる意味を持つ名称も、この世の勢力の全き敗北を指し示している。(エレミヤ25:29-33/ゼパニヤ1:14-18/ゼカリヤ14:12-14)
『不法の人』はこの戦いもしくは、その後の大患難の中で滅びを被り『キリストの臨御の顕現によって』無に帰する。(テサロニケ第二2:8)
 *<シオンは城壁を持たない都市とされている(ゼカリヤ2:4 cf;エゼキエル26:10・38:11)>

キリストの「顕現」となるこの戦いでのキリストと聖なる者らとの勝利(黙示19:11-21)により、 『不法の人』や『偽預言者ら』は『火の湖』で象徴される永久の滅亡(黙示20:10・14)に渡され、ここに終末の『背教』が 『不法の人』の消滅により一旦終わる(テサロニケ第二2:8)が、その『背教』の影響はエデンの誘惑に比するほどに強く人を分かつものとなるのであろう。(テサロニケ第二1:6-10) 即ち、千年期直前に於いて、『自分に残された時節の僅かなことを悟った』サタンの誘惑は、全世界を相手にかつてない規模と質をもって多くの人々を惑わして集め(ゼパニヤ3:8)、引き返すことのない王キリストとサタンの世との闘争の最高潮を迎えると言うべき理由が聖書中にあり、多面的に繰り返されて描かれている。(黙示12:12)

この背教は、千年期後の一般の復活と共に悪魔の回復により繰り返され、新たに偽預言者に相当する者らマゴグが現れ、その中から中核を成すゴグも現れるらしく、黙示録ではエゼキエルの『マゴグの地のゴグ』の概念が『ゴグとマゴグ』によって繰り返されている(黙示20:7)。この双方は、大衆に対して同様の働きを為し、悪魔の代弁者となり復活する無数の諸国民を誤導する(黙示20:8)が、その際には、神によって直接に裁かれ『天からの火』によって永遠の滅びを被る(黙示20:9)。この裁きは最終的なものとなり、悪魔も遂に亡き者とされることになり(黙示20:9)、地に生きる人々は『罪』の影響をまったく受けることがなくなり、『死』や『墓』も永遠に過去のものとなる。(黙示20:14)

『背教』の全体を俯瞰すると、それがまず聖徒ら、次いで全人類を試し、分離を生じさせ、究極的な二項対立に至らせるための神の用いる手立てであることが見えて来る。もちろん、悪魔は神に敵する存在ではあるが、全能の創造神は悪魔でさえ創造したことを通して、神の側に着こうとする人々を誘惑の試練を通して倫理的選択を行わせ、それによって永生に導くことになる。これを箴言は『邪悪な者は義なる者の贖い、不信実に振る舞う者は廉潔な者たちに取って代わる』と指摘する(箴言21:18)。そのように神が処置する権限を有するのは、神こそが創造者であり、邪悪な選択をする者らをすら用いて、創造の業を完遂し、義なる選択をする者らに永生をもたらすことは不正なことではない。(ローマ9:21)



⇒ 小麦と毒麦の例え 「不法の人」の現われる時



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