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この世   -綱領-

2016.08.03 (Wed)
この世


聖書中、旧約聖書においての『世』とは、人が生活する場という意味以上のものにはなっていないが、遊牧民であったテラハまたその子のアブラハム以降の族長らの生活様式は、流民(イヴリー)であり、「ヘブライ人」という言葉そのものに、シュメール以来の都市生活者との対照が見られる。
都市の生活は「世俗」を生み出し、それは具象性が強く刹那的で情緒的、気ままな想念や流行を人々にもたらした。その領域では経済が活発である中で我欲、貪欲が横溢し分裂傾向を免れないので動揺しており、醜悪な姿を免れない。(イザヤ57:20)この意味では『この世の基が置かれた』時期とは、アダムの堕罪以降とも、カインによる都市建設(創世記4:17)以降とも言える。

人間の基本的生活様式のもう一方である移動生活は、労働への関わりが薄く思索に適し、広い生活領域の中で抽象性と永続性の概念を育んでいた。この点は、イスラエルのカナン定住後の週毎の不労働を定めた『安息日』がイスラエルの民を清め、神との間を取り持つ印とされるべきものであったことが『聖である』印として預言されており(エゼキエル20:20)、過剰な、また空しい労働の奴隷となることが創造の神の求めるところでなく、人間の自然な姿でないばかりか、神聖な事柄から疎外されるものである事を示唆している。(出埃33:20/コリント第二4:18)
この俗と聖との二分は、偶像の神と、不可視の神との対照を生んでいる。(詩篇115:4-8)

俗世では人と人の関わりが多く煩雑で、抽象的な神存在を捉えることが難しく、個人の利得に関心が向かい易く、それは人間の倫理性にも影響を与えるものとなっている。キリストの犠牲に預かり『聖なる者』となった聖霊注がれた弟子らについて、使徒ペテロはこの世との対照に於いて『離散の寄留者』と呼び、使徒ヨハネは『我々は神から出た者だが、世は悪しき者の支配下にある』と述べており、そこで旧約聖書中に示された聖と俗の対立が、新約聖書に於ける神の王国とこの世の支配とに敷衍されており(ペテロ第一1:1/ヨハネ第一5:19)、創世記から終末を描く黙示録に至るまで首尾一貫した主題となっている。(黙示録11:15/ダニエル2:44)

族長時代には、定住者また都市生活者との交渉を持ちつつも、一定の相違が意識されていたことは考古学にも創世記の全般に亘っても見え、それは出エジプトに際し、再び荒野へと戻っていったところにヘブライの宗教の原点が現れている。(イザヤ40:3)
アブラハムは、カナン人やエジプト人の倫理性を信用しておらず、同盟を結ぶことはあっても、深く接触し関わることを避けている。(創世記14:22・12:11・24:3)

その後、子孫はイスラエル民族となってパレスチナへの定住を果たすが、それも条件が求められるものであったから、後に求められた『安息日』を介する聖性を喪失した結果としての捕囚期や、流浪の生活を余儀なくされてもいる。そこでも、やはり俗世との対立は常に生じていたが、その内包する原因は『律法』にあった。
しかし、『律法』そのものが俗世との相違をもたらすとすれば、それは外面だけの異なりであり、本質的には俗世の持つ刹那的また利己的な性質から離れようとするところに別の精神がなくてはならない。律法中に在ってその精神を最も表したものが安息日であったと云える。

この争点は、終末に於いて顕在化することが預言にも示唆され(エゼキエル39:16/エレミヤ25:31)、創世記においては貪欲な支配権と被支配の隷属の対照に於いて例示されている。(創世11:6)



特に新約聖書での『この世』([コスモス][アイオーン])とは、創造されたもので構成されているにも関わらず、創造の神の意図から逸脱して存在してきた(申命記32:5)人間社会の意味で何度も語られている。(マタイ13:22/ルカ12:30/ヨハネ1:10・7:7/ローマ12:1/コリント第一2:6/テトス2:12/ヘブライ11:7/ペテロ第二1:4・2:20)

それは『罪』を負っている(ヨハネ1:29)ので『贖い』なくして神の是認に復帰することはできない。(ヨハネ第一4:14)

『この世』に生きる空虚さ(詩篇103:15-16)、即ち現在まで人間に寿命が定められ、死にゆく虚しい存在であるのは『罪』のゆえであり(ローマ5:12)、神また隣人とどう生きてゆくべきかを弁えない『罪』ある者、即ち倫理に不完全なものは、神を含む他者と共にどう生きるかの関わり方に問題があり、永遠に生きてゆく適性も権利も創造者の前に有しない。(創世記3:22/エゼキエル18:4)

『この世』は争いによって特徴付けられており、利己的に振る舞い、強欲に従って動かされている。(ヤコブ4:1-4)
その原則は、互いの為には働かず報酬なしに労しない排他性にあり、且つ強いて取れるところから奪い取ろうとするので、一定の秩序を保つために法と権力とを必須とし、通貨などの報酬でその欲の範囲を規定する以外になく、相互報酬制度によって個々の強欲が規制されている。しかし、それを以ってしても報酬の基準で搾取や不公正や奴隷化や困窮の発生は避けることができないうえ、利己心の結果として人への価値観が歪むので、人は差別を止められず、富は偏在する傾向が強い。
また、強欲に由来する争いは流血を招く事態にまで進むことも絶えたことがない。騒擾から内戦、また国家間ではそれが戦争に悪化すると、制度として殺戮が合法化され、戦闘員に強制されるが、紛争地では人間本来の不倫理性を示す「自然状態」が現れ、野放図な貪欲による無法がしばしば横行する。

これらは神が創造に於いて企図したものでない。『この世』の有様は、アダムに働きかけた『この世の神』の利己性による。(コリント第二4:4)『この世の支配者』は創造の神ではなくサタンであるとされる(ヨハネ第一5:19)が、それは直接に支配しているのではなく(ルカ4:5-6)、世の趨勢を形作っており(コリント第二4:4)、それはこの世の非情さに表れている。キリストの栄光の獲得によってその支配は終わるべきものとされている。(ヨハネ12:31)
『この世』は人間の宿痾である『罪』の不倫理性のために人間自らの改善は不可能であり、人類は『罪』ある限り法と権力の支配、また不公正から逃れることができない。

そこに不足し、また欠けているものは『忠節な愛』(ヘセド)また愛(アガペー)である(ローマ13:10)。これらの愛は創造の神とキリストが示し、体現したものであった。(出埃20:6/詩篇18:50・33:5・52:1・86:5.15・100:5・118:1-4・130:7/ヨハネ1:14/ローマ8:35/コリント第二5:14/エフェソス3:19黙示15:4)


イエス・キリストは、『罪』ある状態の人類の為に『神と人との仲介者』(テモテ第一2:5)となって、この世の罪を贖う目的をもってこの世に来られた。(ヨハネ3:16)
この理由で、キリストは『世を裁くためではなく、救うために来た』(ヨハネ12:47)と言われる。もし、ただ公正に世が裁かれるとすれば、すべての人に救いはない。 畢竟、人間の諸苦の根本的原因は、創造の神から離れたことに由来している。


キリストの血の犠牲の贖罪は、まず使徒時代の『聖なる者』に適用されたので、キリスト死後のペンテコステ以降の彼らは『有罪宣告はない』状態に入った。(ローマ8:1・33)
これら『聖霊の浄め』(ペテロ第一1:2)に預かった弟子らは『罪』を贖われ、人類一般に先立って創造神と和解し、神を父とする関係に復帰した。(ガラテア1:4)
彼らもキリストと同様に聖霊を通して『神の子』(ローマ8:15-16)となったゆえに、キリストの『兄弟』(ローマ8:29)『キリストと共なる相続人』(ローマ8:17)とされるに至った。

彼らは『世から選び取られた』(ヨハネ15:19)のであり、もはや『この世のもの』ではなくなった。(ヨハネ18:36)彼らは『新しい契約』によって神の前に『罪』なしと見做されることを通し、『罪』によって形成される『この世』から離れることになる。
それゆえ『世が邪悪な者から出ており、わたしたちが神から出ている』との句(ヨハネ第一5:19)は、キリストの贖いをいち早く適用され、終末には『初穂』(ヤコブ1:20)とされる人々に関してのみ述べている。(コリント第一6:18-20)
彼らだけが『世の光』であり、人々を『この世』から解き放つ役割を担う。

地上の彼らにはアダム由来の『罪』が残ってはいても(ローマ7:20)、キリストの『新しい契約』(エレミヤ31:33)に入ることにより、霊によって新たにされた『新しい人格』(コロサイ3:5)とも呼ばれる一定の道徳規準を守るよう努めることで神の前に『義』が仮に承認されている状態(ヘブライ3:6)にある。他方、聖なる『神の子』に課せられた道徳規準(エフェソス5:1.8)を聖霊の無い人々が守ったからと言って神の前の『義』を得ることは無く(ガラテア2:16)、むしろそこで生じる優越感は神の前に反作用を起こし極めて有害となる。(ルカ18:11)

したがって、キリストの『兄弟たち』以外のすべての人が依然として『この世』に属しているのであって、どのように悪行を避け善人と言われようとも、そこから出ることができないで居る。『この世』の『罪』は個々の人々の内に宿っている(ガラテア3:22)からである。それゆえ、今日『この世』とは異なるかのように自らの善行なり信仰なりを誇って、神の側に立ったと思うのは誰にせよ妄想であり、キリストの犠牲により『新しい契約』に参与する『聖なる者』でない以上、相変わらず罪深い『この世』の者であるので、神に各別な是認を唱えることはできない。(イザヤ43:24)

それでも、キリストとその兄弟らを通して神との和解に至る道が誰であれ残されており、『聖なる者』も『この世』の贖罪のために『和解の務め』を授かった。(コリント第二5:18-19)
その和解の根拠となる『この世』の贖罪が為すのが『神の王国』であり、それは律法祭祀に於いて大祭司(ヘブライ2:17)と従属する祭司団(黙示20:5)とによって前表されていた。これらの模式が成就するのは将来の終末後の千年期であり、現在までの『この世』の秩序が過ぎ去る必要がある。(ペテロ第二3:4)

そこで『この世』の支配と『神の王国』の支配とは相容れないもの(ヤコブ4:4/ヨハネ第一2:15)であるので、『神の王国』が権力を持つ終末には、『神の王国』が『この世』の支配を『打ち砕いて終わらせる』(ダニエル2:44)ことになる。(黙示11:15)
『この世』がキリスト教と対立関係にあることは、聖書ばかりでなく、ごく初期に書かれたキリスト教文書「十二使徒の遺訓」(ディダケー)にも『この世が過ぎ去りますように』(10:6)との祈りの言葉が記されている。

それは『この世』の為政者が『神の王国』に支配権を渡そうとはしない(詩篇2:1-3)からであり、その背後にはアダム以来、人類に利己的な道を歩ませた『邪悪な者』が介在して(エフェソス2:2)、最後まで『この世』を慫慂し続ける(黙示16:13-14)からである。*
その結果、多くを占める大衆(ハモナ)は、欲得を選んで『この世』の存続を支持し、遂に最期を共にする。(エゼキエル38:9-39:16)

しかし、大衆を使嗾する偶像者の背後に立つ邪悪な者であるサタンと悪霊らにせよ、現在までも、また将来に於いても『この世』のあらゆる摂理を動かしているのではなく、個々の人間の意志決定(テモテ第一2:14)が常に行われている。それゆえ人間は自らの行動の責めを負うのであるから、終末での『神の裁き』も意味を持つと云える。その裁きは、聖なる者らの聖霊の声に信仰を働かせ(マタイ25:40)、『この世』から神の支配の側に出ようとする人々を、『この世』の存続を願って攻撃しようとする大衆の支持を受けた勢力と、その顕著な指導者から救う神の行動となって現れる。



.⇒ 「この世」というもの


*<おそらく、この以前に、二大勢力の一方である、全体主義的な世界覇権は消滅するか、大きく躓いており、民主的な覇権が民意としてこの世の偶像化を推し進めているのであろう。(黙示13:11-18/ダニエル11:45)>
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