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聖書というもの -綱領-

2016.07.23 (Sat)
聖書というもの


その内容は神と人との交渉の記録であり、そこに神の不変の企図が示され、神の介入や奇跡のない今日では信仰を生じさせる残された手段となっている。

この書は人生の指南書や啓発本のようなものでもなく、その内容に従うなら間違いのない生活を送れるということもない。
人にこの世での成功をもたらすためのものでもなく、読者の幸福をもたらす個人の利得が意図されているともいえない。

内容を一言でいえば、人類全体が陥っている倫理問題の解決、贖罪が語られた書といえる。
この問題の解決によって人は神と和解し、他の人々ともどう生きてゆくべきかを真に会得することになり、それを以って人は神との関係性の絆を得て、その創造物として復帰し、神と共に存在を続け永遠の命に至るという創造の神の人に対する目的が示されている。
聖書は、その目的に至る過程での神と人との関わりの記録である。

旧約聖書に含まれる歴史は非常に古く、最古の内容はメソポタミアのシュメール文明の粘土板に匹敵する文明の黎明にまで遡る。その後の永き時代に亘って書き継がれる過程では、何度か古資料が後代に編集されている。
例えれば、現在のモーセ五書は明らかに後代に編集された形跡があり、そのすべてがモーセの記したそのままではないことは広く知られている。しかも、新旧の聖書すべての巻の原典は存在しておらず、抄本によってのみ伝えられている。

それらの抄本は部分を含め、今日までに発見されてきた古写本だけで旧約六千、新約五千を越えており、その内容には意味の著しい改変は見られず、古代書でこれほど多数の写本で内容が伝えられているものはない。

発見された最も古い旧約の抄本でも西暦前2世紀のものに過ぎないが、その内容は前10世紀以前まで遡っており、その間の歴史資料の多くが聖書記述と整合し、また、当時の時代背景を詳述さえしているところから観て、その古代の筆記者が実在していたことを否定することは難しい。
加えて、この書の至る所に観られる神的な超越性と倫理性、即ち「聖性」には否定し難いものがある。


聖書を他の様々な書と異ならせるものは、その記された内容が人間を超える出所を指し示しているところにある。
この神的な超越性を顕著に示すのが預言であり、それは単に何かを予見するに留まらず、意思を伝え教訓をも教える。
また、史書はそれらの預言がどう成就したかを伝え、その真実性の証言者ともなっているが、多くの預言には更なる将来、即ち終末を含意する多重の予告が多い。

聖書記述には、示された神的な事柄に人間がどう対応してきたかについての記述がそれに伴っているが、その多くに神と人との関わりが記されている。

直接に記した筆者らは人間であっても、その記述内容には随所に人間の能力を超える物事が伝えられており、彼らはそれを神からの啓示であったと述べている。
したがって、聖書の価値はその神的な価値観を伝える聖性であり、その音信に人間を超える存在者の意思を読み取る可能性が開かれているところにある。

聖書の頒布数はどんな書物よりも抜きん出て多く、毎年6億部を上回るとも言われ、これまでの総数は推定諸説があるばかりの膨大数に上る。翻訳言語においても2500近いという驚異的な数に上り、他の追随を許さないほどに流布されている。
これほど広く行き渡った背景に、諸宗派の熱意ある人的貢献があるに違いないものの、そうさせるだけの諸々の魅力がこの書に備わっている。しかし、大多数の人々が愛読しているとは言い難い。その価値がどれほどかにまでは人々の多くが気付いてはいないからであろう。


旧約にせよ新約にせよ、今日「聖なる書」とされる文書は、初めから逐次綴じられてきたわけではなく、書かれた巻物が選ばれ編纂されて今日の姿を見せている。モーセ五書などの古い書は、原資料が組み合わされて後代に再編された書物であることは読み込むことでも明らかである。創世記にも神名YHWHが現れることはその編纂がモーセ後になされていることを示し、歴史的に考察するとダヴィド王朝成立後である蓋然性がある。
現在一般に「聖書」として新旧の巻がまとめられたのは、キリスト教徒が現れ使徒や直弟子らの文書が集められ、価値の高いものが選ばれた結果となっているが、古来底本の幅広い違いから様々な異本や、翻訳者の器量に応じて内容の信頼性にばらつきもある。

旧約聖書については、今日ユダヤ人が「預言者は眠りに就いた」と述べているように、前5世紀に書かれたとされるマラキの預言書の以降はユダヤ教から聖なる書物は現れていない。
後に旧約聖書を「タナハ」としてまとめたのはユダヤ人学者らで、それはエルサレムを追われた後の西暦90年以降のことであった。

また、ギリシア語の新約については、第二世紀中には福音書や書簡類の収集がなされ、キリスト教の初期ギリシア教父らにより、使徒ヨハネの五点の著作物を以って「聖なる書」(ハギオグラファ)の全体は閉じられた。

他方で、抄本が伝えられる過程で類似した書物も多数書かれてきたが、旧約について、ユダヤ人は前述の西暦90年以降の学者らの裁定により、ヘブライ語で存在を確認できないギリシア語だけの経典を「タナハ」から除外し、それらは外典または疑典とされている。旧約の構成については、このユダヤ人の22巻*の選択に沿うことで、価値の低い文書を取り混ぜて神の言葉への認識を下げ、無駄な労を費やすことを避けることができる。但し、マカベア書などのように聖なる書に達しないにしても、歴史を確認する資料としての価値を持つものもある。 *(あるいは39書)

新約聖書に含まれなかった類似の文書も多く存在しており、それらの発見も近年まで続いている。それら存在の背景にあるのは、西暦70年に神殿と律法祭祀制度を失ったユダヤ教徒らが新たに興したグノーシス主義の信仰である。これらグノーシス主義の信仰は当時のヘレニズム哲学の影響下にあり、ヘブライ古来の信仰と混交したもので、その教えはキリスト教にも接近し、あるいはキリスト教からの分離が起こって様々に枝分かれしたため、使徒伝承を保つキリスト教はこの著しい影響に曝されていたところに、類似してはいても価値が低く、内容の符合しない多くの文書の背景がある。

それらの文書は、不当に聖書から退けられたというよりは、内容そのものによって自ら部外のものであることを示した。
これは誰にせよ、読解力をもって聖書に習熟するなら価値観から明らかになる。

旧約にせよ新約にせよ、聖典の外に置かれた文書には、古来聖書が一貫して持ってきた神の聖性と力強い主題への関連性が観られないところが共通しており、それは筆記者を導く背後の「著者」の異なりを示唆するものとなっている。

また、抄本される過程での挿入や異文の混入も幾らか生じていることは、抄本の比較により明らかにされている。
したがって、聖書を一字一句間違いなく完全に伝承されたものとして受け入れることはできず、聖書を完璧なものとして偶像のように崇め奉ることは不合理である。

まして、翻訳される過程でも、必ず言語の違いによる辞義の変化が免れない。
そこで求められるのは、読み手の理解に基づく判断力であり、そのためには聖書へのある程度の習熟は欠かせない。

したがって、聖書を能う限り正確に理解しようと努めるなら、ひとつの翻訳聖書だけでは不充分であり、多様な翻訳だけでなく、原語の本文を参照する必要が生じることになる。また、本文にも異文があるので、問題になる箇所では、古代の抄本も検討することが求められてくる。そのうえ、元来母音を記録しないヘブライ語の特性から、発音が不明となっており、単語が確定されていない箇所、また、名詞が何を指しているのか歴史の経過の中で失われた知識も存在している。
この旧約聖書の意味を探る上では、ユダヤ人の監修の下に、前3世紀頃から始められたギリシア語への旧約聖書翻訳(セプチュアギンタ)には、ギリシア語との語彙の対照によって意味が双方から推測できるだけでなく、多くの付加的な情報も同時に伝えられており、重要な参考資料となる。しかも、新約筆者らは揃ってこのギリシア語旧約聖書から引用しており、キリスト教の観点を形成する上でも欠かせない。
但し、これはギリシア語がキリスト教理解に於いて、常に優勢であるということにはならない。なぜなら、イエス・キリストはギリシア語で話していなかったことが明らかであり、新約聖書の随所にヘブライ語の特徴のゆえに、ギリシア語としても他の言葉としても奇妙な言い回しが存在しているからである。

こうした聖書の実態は、聖書を超えるものを知らせている。
即ち、聖書は記録ではあっても神の言動そのものではない。歴史上の神と人の関わりの記録証拠であり、そこに神の意志や我々の将来に亘る預言が記されてはいるが、そのまま今日の読者に直接宛てた内容ではない。
また、預言などの記述の相当の部分が理解することさえ困難となっており、こうした深遠さは、聖書に正しく従えば神の是認を受けるという発想の脆弱さを示している。

即ち、聖書を頼りに神との関係性を人間の側から辿り出すには決定的なものが欠けている。
それは、神の側からの近づきであり、聖霊の働きである。
人間には、神に向かって関係性を強要することは決して出来ず、聖書はかつて神が人とどう関係したかを知らせ、終末に神とどう関わるべきかを考えさせるものである。

加えて、聖書をより詳しく知ることが必ずしも神の是認を招き寄せることにもならない。
捕囚後のユダヤ人の宗教家らは、律法墨守に邁進して聖なる書物に通じていながらメシアを見過ごし、他方で律法を幾らも知らず、それゆえに汚れているとされた一般民衆の中から多くのメシア信仰者が現れている。
この点で、神は聖書の中に「罠」とも言える言葉を幾つか残しており、ユダヤ人は正確な知識に忠実であることに却って誤導され、キリストであるイエスを見過ごし処刑させた。そこで問われたのは彼らの表面的知識ではなく内面の人格に属する価値観であった。このように、聖書は最も邪悪な者をも生み出しているゆえに、自己義認に用いることには恐るべき害悪が潜んでいる。

したがって聖書は信仰を抱かせる根拠であるにせよ、神に対して個人がどのような者であるかがより重要であることを教えており、どれほど聖書の知識に富んで行動しようと、その人の知識や従順そのものが神の是認をもたらすことはけっしてない。



聖書は、その大半が神との契約に在り、深い関わりをもった「アブラハムの裔」との交渉の記録となっており、それはイエス・キリストの「新しい契約」を通して新約聖書においても変わらない。
聖書の記述を霊感したのが聖霊であれば、終始一貫「アブラハムの裔」を導いたのも聖霊であり、その聖霊と人々との関わりの記録が聖書であるとも言える。

旧約聖書は、人類の陥った倫理の問題の始まりを知らせると共に、その解決の手立てである「女の裔」を知らせ、その裔がアブラハムから来ることを知らせる。
その子孫はイスラエル民族となるが、律法契約に届かず「女の裔」となることから脱落するが、これはキリストの死を以って決定的となった。

その後、「アブラハムの裔」は血統上のイスラエルを去り、異邦人も参与する「神のイスラエル」へ移行した。それがキリストを長子とする兄弟らを表し、こうしてキリスト以降「女の裔」が現れ、彼らに注がれた聖霊の教えは新約聖書に昇華していった。新約聖書の書簡類は基本的に聖霊に預かった「聖なる者ら」に宛てて書かれたもので、これらの内容を契約にない人々に当てはめるには様々な無理がある。ほとんどの箇所で聖書中の「あなた」とは今日の読者を意味しない。
第二世紀の後「聖霊の賜物」を受けた弟子らが過ぎ去り、新約聖書も閉じられている。

したがって、今日の我々は新約聖書の中にだけ純粋なキリスト教を見出すことができるが、これを再現することは「罪」ある人間を超えることであり、それは神の側から聖霊が降るのを待つ以外にない。
だが、他ならぬ聖書そのものが、将来の終末に神がキリストと共に聖霊を介して再び社会に関わることを知らせている。しかも、その規模は全世界に及び、これを尽く裁くほどの顕現を伴うという。

聖書は新約ばかりでなく旧約に於いても随所でアブラハムの裔と終末とに焦点を合わせており、そこに音信の今日的価値が最も大きいと言える。
今日の聖書の役割は、この終末についての情報を伝え、一定の人々にそれに備えさせるところにあると言え、その人々が少数であっても、終末の時が開始されるときには世界にとって重大な意味をもつことになる。

その終末には、この世が神の言葉によって糾弾され、現れることになる「アブラハムの裔」の残りの者らは、これまでの歴史上にかつてなく大きな役割を担うことになる。その聖霊による発言は世界を揺るがし世界を二分するという。その言葉も神の言葉であり、それはいよいよ全人類に向けた神の発言となる。

したがって、「神が聖書を書き終えた」とも「聖書は完成された」とも断ずることはできない。また人に必要な啓示は与え尽されたとも言えず、「永遠から永遠に亘る神」が生きていて、再び語られることを否定することができない。


我々が聖書について知り得ることは神の外縁に過ぎず、多くの部分が未だに謎のままであることを謙虚に認めるべきであり、創造の神を崇めようとするなら、聖書に対して無関心と同様に慢心をも避けなければならない。人は一生涯を尽く費やしても、聖書を知ったと言うことができるものではない。

それでも、新旧の聖書を貫く骨格のような経綸を理解することで、その概要を把握することは許されている。
その主題は、人間が不倫理性を贖われて清められ、神の創造物として復帰することにある。

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⇒ 「聖書の目的


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