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信仰  - 綱領-

2016.06.14 (Tue)
信仰


信仰を一言で説くなら、上なる者への「信頼」と言ってよいと思われる。
これはヘブライ語にもギリシア語にも字義的にそう言えるだけでなく、信仰する者に決定や行動や発言が求められるところに於いてもそう言える。
特にギリシア語では、「信者」と「信頼できる者」が同じ「ピストス」という単語[πιστος]で表されるところで、信仰する者が同時に、その点に於いて信頼できる者であることを示すべきことが含意されている。即ち、ヤコブが言うように『業が伴わないなら、その信仰は死んでいる』(ヤコブ2:17)[ヤコブは律法の一ヶ条をも行うよう書いておらず、これは律法の業を指すのではない]

信仰の原型は、ヘブライ語の「ヘムナー」に由来し「信頼」という概念が強く、それはアブラハムの半生に亘る神との交渉を通して培われたものでもあり、エジプトから紅海を経てシナイ山麓へとイスラエルを導いたモーセを民が「信仰を置いた」、即ち信頼を持ったと述べられるところに示される。エジプトを出るに当たり、神が示した力にはエジプト人もが信仰を持ち、イスラエルに同行するほどであった。

しかし、律法契約に於いては、律法を守る行いに重きが置かれ、信仰はキリストの時代以降ほどには強調されていない。

メシア=キリストの到来に先立ち、預言者らの活躍する時代から、神の言葉への信頼と共に、神の意向や精神に対する共感が次第に強く求められてゆく、それは預言の中で、神が自らの精紳の意向の多くを語り、それが後に成就することを示したところによる。即ち、神と契約に在った人との信頼関係の醸成が目的であったといえる。
また、メシア到来に先んじたバプテストのヨハネは、神の王国の『知らせ』に信仰を持つよう、ユダヤの民に促している。これは続くメシア信仰が、神の経綸全体への信仰の一部であることを指しており、神YHWHへの信仰とは、唯、神を信じるというものではなく、一連の神の意志について信頼を持つべきことを教えるものとなっている。(マルコ1:15)

また、キリスト教での「信仰」とは、神が存在していることを認めること(ヘブライ11:6)を越え(ヤコブ2:19)、見ることができず客観的に認知できない神を(出埃33:20/ヘブライ11:3)自ら『吟味して確かめる』(証明する)ことであり(ヘブライ11:1)、人格の保持者として捉えることである(使徒14:17)。またその人の忠節な愛を以ってこれに接するよう努める(詩篇18:25/63:3)行為から観察する者にも明らかになるものを言う。(ヤコブ2:18)

『義人は信仰によって生きる』の言葉から、人にとって最重要のものと捉えられがちながら、アダムに求められたのは『忠節な愛』であって、エヴァが禁令を犯して後も、神の言葉が真実であることを悟っていた(テモテ第一2:14)がそれは『信仰』とは言えない。信仰と呼べるものは後の子孫からのものであり(ヘブライ11:4)、そこに『信仰』と『忠節』との関係が見える。
この点で、パウロは信仰が『愛を通して働く』ものであると書いており(ガラテア5:6)、パウロもペテロも『信仰』に勝るものとしての『愛』を最上級に挙げている(コリント第一13:2/ペテロ第二1:5-7)。

加えて、キリスト教の信仰では、神だけではなく、遣わされたキリスト=メシアがナザレのイエスであったことを信じることが大きな比重を占めている。その信仰に於いて、ユダヤ教は脱落し今日に及んでいる。(ヨハネ15:24)

信仰とは、自分の利益を待ち望むことではなく、神のなさろうとする事柄に深い価値を見出し(マタイ13:45)、その業に協働しようとする個人の動機となる。その内面では、神に対し忠節で熱烈な愛着を懐くことである(列王第一18:21)ので、知識を取り入れることがそのまま信仰を形作るわけではない。また「神の存在は信じる」というような中立的な「信仰」というものは有り得ない。(ヤコブ2:19-20)何かを選び取り、何かを捨て去るという倫理的決定が愛によって関わるものが信仰である。
したがって信仰は信頼でもあり、個々の信じる事柄が現実となる時にそれぞれに終りを迎えるものであるが、培われた信頼性は永続するものと成り得る。神からの永続する信頼性に最初に到達したのがキリストであり(ヘブライ2:10)、その完全性は最初の『不滅』をもたらした(テモテ第一6:16)。そこから敷衍して『信仰』とは、神と人との双方向に作用する絆であるとも言える。

しかし、ある人の信仰が神の前に意味あるものとなるのかどうか、客観的には判断できない。しかし、その人は信仰に意義を見出して神との関係を主観的に得心しているので、『まだ見えていない事柄を確信する』(ヘブライ11:1)。そしてキリスト自身も多くの人々が示した信仰の数々を認めている。(マタイ15:28/マルコ10:52/ルカ7:9)

神は、人が信仰によって自らを見出されることを望まれ、人々に顕現を控えられる。(使徒17:27)
したがって、信仰を持たない状態にある人々に自らを強制的に認めさせることはなく、客観的観察で神を見出すことはできない。神から見て性向の悪く信仰に遠い人々には特にそう言える。(マタイ13:58)
但し、終末の裁きの帰結に於いてはキリストが聖霊と情勢に顕現するので、この限りではなくなる。(黙示1:7・21:8)

聖霊を持つ聖徒には『同じ信仰の霊』があり(コリント第二4:13)、『信仰はひとつ』(エフェソス4:5)の理解に導かれるといえども、その人の内面の価値観に左右されるので、人格がそれぞれ異なるように、信仰は厳密には誰もがまったく同じものにはならない。その信仰に応じて人はそれぞれの行いを導かれる。(ヘブライ11:33)


◆信仰による義と救い

究極的に人は信仰によって神の前に『義』を得ることになり、『救い』をもたらされる。(詩篇37:29/ガラテア3:8/エフェソス2:8)
(その『義』とは、倫理的完全性へと招かれるべき『義認』の状態を指すが、倫理的完全性そのものではない。)

その信仰の対象は神だけでは不十分であり(フィリピ2:9-11)、仲介者として(テモテ第一2:5)キリストが任じられていること(使徒10:43/テモテ第二3:15)、また、聖霊が働くところに神を見出す信仰が必要がある。(ヨハネ第一5:10/ヨハネ10:37-38)

人には『罪』があり、神と隔てられた現状(イザヤ52:9/ローマ3:23)にあることを神は啓示し、特に律法を通して知らせ(ガラテア3:19)、『罪』がもたらすこの世の苦境(ヨハネ8:32-34)から救出する手立てを講じた(ローマ8:21)ことを、その言葉を以って知らせてきた。(創世記3:15)

その「上からの言葉」は直接に、また霊感を得た人々を通し、更にはキリストを介して(ヘブライ1:1-2)、その後には聖霊を受けた弟子らを介して伝えられ(エフェソス3:10)、それらが記録され聖書に編纂されているので、今日に於いて神に信仰を働かせるとは、単に神の存在を得心することを越えて、神が行ってこられた一連の事柄(経綸)に希望を託する(ローマ8:20)ことになる。そこで一定の聖書理解は不可欠となる。

信仰の本質的な内容は、神が選民を通して人間を救うという事柄(ローマ8:21)について一貫してきたが、古来、知らされた事柄によって異なってきた。
アブラハムの信仰は遠い将来に神の約束を固く信じるところ(ヘブライ11:13)にあり、出エジプトの民は、紅海を渡る救出を経験したのちモーセに信仰を働かせている。(出埃14:31/34:10)
以後、律法下のイスラエルにとっては律法の掟を守る業が信仰の姿であり、その目標は彼らが人類の支配と贖罪を司る選民となる父祖になされた約束(出埃19:5-6)、またモーセに匹敵する偉大な人物を待つこと(申命記18:15)にあった。

そして、キリストが現れて奇跡を行う生涯の後に死を遂げられてからは、このナザレ村から来られたこのイエスがメシア(ヨハネ4:25-26/使徒4:12)であり、その犠牲によって神の選民イスラエルの『罪』が除かれ(エフェソス1:7)、やがて再び到来するキリストを第一の王とする『神の王国』(黙示20:6)によって、更には人類の全体が贖罪を受けることを信仰する必要があり、この贖罪するメシアの信仰(ヨハネ3:16)が無ければ、その信仰は依然としてユダヤ教に留まることになる。


◆キリスト教信仰に於ける信仰の優越

ユダヤ教の信仰形態が律法履行の業や、道徳や立場の清さを重要視したのに対して、キリスト教に於いては、本人の道徳性や行状の良し悪しに関わらず(マタイ12:31)、自発的に信仰を懐くことが深く評価され罪を許しの事前の宣告が各個人にされたが、この点がユダヤ教指導者とキリスト・イエスの大きな争点となっていた。(ルカ5:21)

当時のユダヤ人の規準で清くあるためには、裕福で生活のゆとりがあることを必須としており、ほとんどの平民は呪われた(ヨハネ7:49)「地の民」とされ卑しめられていたが、キリストはこの人々をこそ、その信仰によって罪の赦しと救いに導いている。
しかも、起こった癒しの奇跡についても『あなたの信仰がそうさせた』と繰り返し言われた。(マタイ9:22/マルコ10:52/ルカ17:19/使徒3:16)
そこで人を罪から清めるのは、「業」による道徳性ではなく、「信仰」による価値観であることが示されている。

概して、自分が行う業によって神の是認を得るよう努めることは、その関心が自己に向かうのに対して、神への信仰を懐くことでは関心は神へと向かう(マタイ9:11-13)。そこで、真に利他的で倫理的であるためには、信仰によって関心を神と他者に向ける以外にない。神の前の『義』は業ではなく信仰によって得られる(マタイ21:31-32)からである。(ローマ3:28)自分の救いを求める願望から神の命令に従うべく腐心することは、却ってそれを逸し兼ねない(ルカ18:9-14)。なぜなら、それはキリストの犠牲の価値を充分に信仰しているとは言い難く、自己保身の態度が神の前に利己的で、人々に対して傲慢であることを示すからである。(ルカ16:15)

パウロは、業を重視するユダヤ律法体制とメシア信仰が相容れないものであることを強調し『律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。』と書いている。(ガラテア5:4-6)
そのうえ『信仰が到来した今、わたしたちは養育係の下にはいない』とまで言っている。(ガラテア3:25-26)
即ち、キリスト教の信仰は、ユダヤ教の信仰を遥かに超越したものであるので、パウロはアブラハムの約束による世の相続について『もし、律法に拠って立つ人々が相続人になるとすれば、信仰は虚しくなり、約束もまた無効になってしまう。』(ローマ4:14)と述べる。

キリスト教の多くの宗派であっても、依然として律法等に何らかの原則を見出そうとし、その信者らも内心では何らかの規則を願う。その従うばかりの奴隷的な業が自発的信仰の業より分かりやすく簡単で、他者頼みだからである。だが、それでは一向にキリスト教の自由な高みには達しない。(ガラテア4:24-5:1)
その周囲の人々との規則遵守による差別化は何ら本来のキリスト教信仰とは関係を持っていない。


◆聖霊信仰を要する終末

終末を前にして、神への信仰がメシア信仰までに留まっていてはならない。それでは、いよいよ近付く神の王国による救いに達しない。終末に於いてはキリストの臨在は『雲と共に』あって終始肉眼では見えず(マルコ13:24-26/ヨエル2:1-2/詩篇97:2)、そこで『信仰』が求められる。
そこで必要不可欠となるのが、聖霊への信仰となる。キリスト・イエスは、聖霊が到来すると『罪と義と裁きについて、世に認めさせる(誤りを示して言い開きを迫る)』ことを予告されている。(ヨハネ16:8)

終末での聖霊の顕現は、誰も論駁できない言葉となり(ルカ21:15)、諸国民への著しい知らせとなるので(マタイ10:18)、世界は大きな動揺を与えられる(ハガイ2:6-7/イザヤ52:15)

キリストが臨在を始めて、この世の終末の時期が到来すると、ある弟子らに再び聖霊が降下して、為政者と対峙し、その奇跡の言葉を諸国民が聴いて大きな動揺が起こることを福音書は明確に述べている。(マタイ10:18/ルカ21:15)

聖霊への冒涜がけっして許されることの無い罪(マタイ12:32)となる以上、この奇跡の聖霊への信仰を拒むことはまったく致命的な結果をその人にもたらすことになる。(ヘブライ2:3-4)
キリストに信仰を置かなかった者らが断罪されたのは、まさにこの聖霊による神の証しを受け入れなかったからに他ならない。(ヨハネ第一5:10)
したがって、終末の人は、その時期に顕わされる聖霊への信仰なくして救いはないと言え、現状で聖書を通して予め聖霊への信仰をもっているなら、それを最後まで維持して始めて救いを得ることになる。

終末ではキリストの姿は地上に最後まで無く、聖霊を注がれる『聖徒』という格別の弟子ら(コリント第二5:5)の奇跡的な働きに信仰を働かせる必要がある。(コリント第一2:4-5)
そのような聖霊への信仰を持たないのであれば、終末に於ける偽りの霊のもたらす『背教』(テサロニケ第二2:3-4)の非常に強い影響に曝され(黙示13:15-18)、異なった信仰を強要される危険が排除できないことになる。(ヨハネ3:36)





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