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祈り -綱領-

2016.06.10 (Fri)
祈り


祈りは、神に向かって心にあるところを語りかけることである。
人は上なる存在者だけでなく、亡くなった人など、直接には意志を通わせることの出来ない対象に対しても、語りかけることもあり得るが、それは、ここでの「祈り」には含めない。

人は自然に人間以上の存在者と意思の疎通を図ろうとする性質を表してきた。
世界の多様な宗教は、その根源的な欲求が人類に普遍的に存在していることを示している。

聖書において祈りは人が自らの存在の原因者に語り掛けることを意味しており、アダムによって隔たれた神との関係をその人個人にあっては復旧を求める行為とも言える。

神との交流には、儀礼、預言、賜物の顕現などがあるが、祈りは最も簡便で本来は個人の意識に基くものである。

創造者と人との間には『罪』の障壁があり、現在は神との契約に預かる人も無いので、その交流に限りがあり、祈りに対して答えが聞こえることを期待することはまずできない。
キリストは、その犠牲を以って神と人の仲介者となり、いずれ人から『罪』が除かれるときには、創造物として正しく『神の子』の立場を得て、人は神との自由な交流が可能となる。(ヨハネ1:20/イザヤ65:24)
人がアダムの罪に在り、契約に無いとしても、キリストの以前からキリストの犠牲が捧げられる可能性を以って、またキリスト後では更に根拠をもって人の祈りが聞かれることは否定できない。その確実性は祈る主体者の信仰と、その動機に関わるのであろう。

人は何であれ抽象的な存在に対して語りかけることがあるが、創造の全能者にしてキリストの父であられる神に語りかけること、わけても人格的な相手として見做して語りかけることをここで祈りとする。 (ヘブライ11:6)


◆契約関係にある者の祈り

かつてアダム以来、神は自ら人に語りかけることもあり、殺人を犯したカインであっても神は直接に語りかけ、その福祉を顧みている。また、ノアは大洪水の警告を受けている。 それらに増して意義深く神と語り合ったのはアブラハムであり、神とアブラハムとは人類救済に欠かせぬ『裔』の到来について目的を共にし、独り子を犠牲とすることを共に躊躇しなかった。アブラハムに対して神は自ら話しかけており、これは創世記に見られる特徴となっている。しかし、その相手は限定されたもので、神は自らの経綸を推し進めることについてそのようにされ、ほかに話しかける場合には預言者を用いており、これら神の側からの話しかけによる人の意思表示については「祈り」とは言い難い。

さらに、律法契約の時代まで、サレムの王メルキゼデクのように、イスラエル以外の他民族の人物であっても神WHWHの祭司が存在していたことを聖書は記している。それらの人々は、祝福の儀礼を行い、預言を託されるなどしている。また、直接に話し、また預言者を介して意志を通わせた場合もあるが、どれも神の経綸に関わる事柄についてばかりが聖書に記されている。その中にはバラムのように動機が不純になった者も含まれ、その預言には神の言葉が含まれている。しかし、彼を神が是認していたわけではない。

こうした神との関わりは旧約聖書の古い時代に見られ、モーセ以前からも彼のように『顔を合わせ』(出埃33:11)意思の疎通が行われていた例がある。しかし、モーセと神の関わりは、律法契約の締結の以前からあり、アブラハム契約を荷うイスラエルとしてのモーセに限った邂逅であったかは、モーセの舅がケニ人、バラムがアラム人でそれぞれ預言者であったことからすると、確言することはできない。 (創世記14:18/出埃3:1/民数22:9)

そこで、祈りとは人の側から神に近づき意思を伝達する行為と言え、その行為の実効性は、第一に神の能力に依存しており、第二に神の意向に沿うべきものであるか否かに影響される。

律法契約の成立後に於いて、神は主にアブラハムの子孫や関係者、また神との契約関係にある人々、預言者ら、また後にはキリスト自身と使徒らの祈りを聞き、それにはっきりと答えている。
だが、預言者イザヤが認識していたように、人は神の前には死すべき罪人であり、神と関わるところでは、省略がなされていたにせよ、贖いの犠牲を介してのことであり、それは後に捧げられるキリストの完全な代価を仮に充当してのことであったと思われる。(コリント第二1:20)

新約聖書中では『新しい契約』に属する聖なる者らには、特に祈ることが強く勧められている。(エフェソス3:12)
その理由は、彼らが人類からの『初穂』としてキリストに血の犠牲の仮適用を受け、その『罪を赦され』(コロサイ1:14)、『神の子』とされ(ローマ8:14-16)、『アッバ(父よ)』と呼びかける立場に立ったことへの感謝を表すことでもあった。

『聖なる者ら』についてイエスは、その神の意志に関わる事柄に於いては『だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成る』『なんであれ祈り求めることは、すでに叶えられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる』(マルコ11:22-24)、『山も動き海に入る』とされた(マタイ21:21)。
これらは、イエスがユダヤ体制の崩壊を預言する場面で語られており、第二神殿建立と祭祀の復興に向けたゼルバベルについて『大いなる山も平らにされる』(ゼカリヤ4:7)との預言に対応するものであろう。(イザヤ40:3-5)
即ち、恣意的な人の目的ではなく、神の目的が推進されることを阻むものは何も無いことがその言葉に強調されている。(マルコ11:23)

キリスト・イエス自身は、もとより『神の子』であり、ヨハネからバプテスマを受けて以来、事々に多くの、また長い祈りを捧げていたことが福音書に描かれており、それには『激しい叫びと涙とをもって・・祈と願いを捧げた』ことをも含んでいる。(ヘブライ5:7)


◆契約にない者の祈り

普通の人が自己の及ばないことへの願いを神に述べることで、自分の思う方向に事態が動くか否かを聖書が保証している言葉を見出すことはない。
それでも神は、契約関係にある人々にだけ関心を限ってはいない。その契約そのものも契約に含まれない人々全体のために結ばれたものだからである。

旧約聖書では、ソロモン王が神殿の奉献に際して、その神殿の方角に向かって祈りを捧げる異邦諸国民の祈りの言葉に神WHWHが耳を傾けるよう取りなしの請願を行っている。(歴代第二6:32-33)

新約聖書では、キリストの聖なる弟子らは、天界の神殿を構成する一員となるよう招かれていたが、イエスはこれらの弟子ではないものの彼らの言葉に信仰を働かせる者らについて取りなしの祈りをなさった。 (ヨハネ17:20)


旧約聖書中に於いては、アブラハムの奴隷エリエゼルの祈り(創世記24:12)、また新約聖書中では、ローマ軍の士官で無割礼のコルネリウスの祈りが(使徒10:4)、神との契約関係に無い人のものとして挙げられるが、いずれも聞き届けられ、大きな酬いを得る結果となった。

スロフェニキア出のギリシア人の女が、悪霊の娘への憑依を解くように願い求めてもイエスは応じなかったが『犬も主人の食卓から落ちるパンに与ることはできる』と言ってはその謙虚で執拗な信仰を言い表した(マルコ7:26-30)ところで、また、ローマ士官が自らが無割礼の異邦人であることでのキリストへの謙りを見せてユダヤ人を仲介に入れ、且つイエスへの手間を掛けまいとして強い信仰を表明した場面(ルカ7:2-10)で、共にそれらの願いが叶えられている。これらは共にイエスへのメシア信仰に基づいており、祈りではないが、神の奇跡の働く道への確信によるものとなっている。(ヤコブ5:16)



◆祈りの意義

聖書中で、神は人の贅沢な願いや貪欲を是認せず、律法の条項の中を見ると、この世の住み難さの中で苦しむ人々、特に貧しさに配慮した取り決めが散見され、それらは神の苦しむ人々への眼差しがどのようなものであるかを知らせている。 (申命10:17-19/24:19-21)

アダム以来、その子孫のすべてが創造の意図から離れ、『罪』の横行するこの世を構成してしまっているために、その中で人々の苦しみは絶えない。
この状況にあって、創造の神に祈りを以って話しかけることには、ご利益信仰とは異なる意義がある。
神は人の贅沢や貪欲に耳を傾けることはしないが、生存を脅かされるような状況にある人々の叫びのような祈りにその関心を傾けるということができる。 (申命24:15/詩篇62:8・102:17)
また、神は律法中において困苦にあるなら異邦人に対しても慈愛を持たれることを示している。(出埃22:26-27/申命24:6・19)

神は聞く以前からどんな人の状況も必要も知っている(マタイ6:8)。苦しむ人々を創造の神がまるで放置しているなら、救いの手立てであるキリストの犠牲も『神の王国』もなく、聖書も存在しなかった。 (ヨハネ3:16)

キリストの犠牲が捧げられ、『聖なる者ら』が現れた以上、創造者が生まれたすべての人の処遇を深く顧みていることは明らかであり、それは所謂『悪人』であっても同様であり、神の人への関心は、現状でバプテスマを受けたキリスト教徒であるか否かにも左右されない。 (ヨブ14:15/エゼキエル33:11/マタイ10:40-42)
人はこの世の労苦を免れることはないとしても、神に向かって命をつなぐ助けを求めることはできる。(詩68:5-6・146:7/マタイ6:11)

「主の祈り」では、その内容の順により信徒が重要視するべき事柄が示されている。(マタイ6:9-15)
まず、神の名が高められることであり、これは神が神であることを創造界が認めて関係を回復することを願うものであり、創造界の一致ある姿はこの神の至高性なくして実現しない。

次いで神の意志が創造界に行き渡り、世界が神の創造の意図のままになることを求めている。この世に利己心の横溢するのは、この世に神の精神が行き渡っていないからであり、神の意志に満たされることは、創造界に陰りの無い幸福が満ちることになる。
これは神と人間との失われた関係の修復を意味し、人類にとって最も必要でありながら、不当にも人類が無視してきたことである。

それから自分の必要について求めるが、それは不公正なこの世に在って、人生の成功や富むようなものではなく(テモテ第一6:6-7)、実直な人々に日毎の必要物が備えられ、生活の危機を逃れることを指しており、神がこの世の生き辛さの中での人の福祉を顧みることを表している。(マタイ6:25-26)

負い目のある者を許すということは、『罪ある』状態にある人間が互いの関係に於いて配慮すべきであることを表しており、その最大の理由が神の贖罪の意図にあることを教えている。(マタイ18:23-35)

最後に『誘惑者』からの保護を求めているが、これは当時のユダヤ人の場合に契約履行を妨げる誘いを意味したであろうが、終末には聖なる者らも、神の側に立ち聖なる者らを支持するあらゆる人々にとっても喫緊の課題となり(コリント第一10:13)、それに対処することは人の能力を超えるものとも成り得ることを教えてもいる。(マタイ26:41)

このように、祈りは神への語り掛け、また請願であると同時に、祈る者の想いを整える働きも果たすものと言える。(歴代二7:14)

今日、聖霊によって語る聖なる弟子らは存在していないが、エデンの園以来の様々な神からの言葉が旧約聖書に、またキリストと聖なる弟子らの言葉が新約聖書に聖書に収められているので、我々はそれらの記述に信仰を働かせることができる(ヨハネ20:29)。その信仰をもってキリストの取りなしの許に創造の神に祈ることは分けても意義深いと言える。 (ヘブライ2:18)
また、山上の垂訓にあるように、人類救済の手立てである神の名の栄光、王国の到来、義の実現などに関わることについては更にそのように言える。

したがって、人が創造の神に祈ろうとするときには、その人がどのような精神態度を持って祈るのかが問われる(ローマ8:27)ことになる。 祈りを通して、その人が廉潔であるか貪欲であるか、謙虚であるか高慢であるかが露呈することにもなり、自らの言葉を通してその想いを顧みるべきでもある。(ルカ18:9-14)

また、誰の身の上にも起こり兼ねない事故について、キリストは『シロアムの塔』の倒壊による18人の死を挙げて(ルカ13:4)、それが死者の敬虔さや徳性の欠如に原因するものでも、神の摂理や意志によるものでも無いことを語られている。そこには物理的原因があったにせよ、避けられない偶然がこの世に起こることを示している。(伝道9:11)

従い、この世での不遇や不運を神の責とすることは的外れなことになる。神はその意図から離れてしまったこの世(ヨハネ15:19)に対して責任は無い(申命32:4-5)。むしろ、アダムが悪魔の誘惑によって人類を売り渡した『罪』の世界がこの世であって人は許多の害悪と死を免れないが、神はそこからの人類の救出を意図され(ペテロ第二2:9-10)、キリストの犠牲により人々の復活も確かなものとされている。それでも、神は『ご自分の手の業を慕われる』ゆえに、この世に一度は生まれてくるそれぞれの『魂』を見守られ所有される。(ヨブ14:14-15)

どんな祈りが捧げられるにせよ、キリスト教徒としての祈りの中心は、基本的にはこの神の経綸を軸にされるべき理由がある。その神の意志が成し遂げられるときに、すべての問題への最終的解決をもたらされ、そのときには祈りそのものも、より優れた意思の疎通(神との会話)に変えられることになる。(イザヤ65:24)


◆規則化の不利益

モーセの体制下では一日に三度祈る習慣が行われている。キリスト教の修道院では詩篇119番を根拠に一日に七度の祈りが規定されるところがあり、更にそれを超えて修道僧によって交代制で間断なく祈祷が続けられてもきた。祈りの文言は祈祷書に記され、祈る者の意思に関わり無い内容が繰り返される事態はもはや祈りの原形から離れた儀礼となっており、キリストの示した祈りの捉え方に照らすなら、様々な宗教一般に見られる敬虔さの誇示という人間の陥り易い誤謬であると思われる。その祈りは神殿儀式に近付いており、神に意思を伝える祈りの機能は抑え込まれている。(マタイ6:7)

また、後代のラビは「祈ることなく何物も食してはならない」との規則をユダヤ教徒に課しており、それが初代のユダヤ人イエス派を介して初期キリスト教に入り、キリスト教界に伝播してきている様が新約聖書に窺われ(使徒27:35)、給食また愛餐や聖餐に於ける「パン裂きの(神への)祝辞」でも食事と祈りが関係している。(ベラホート5:1)
但し、ミシュナーに従う場合に、食事の祈りを忘れた場合、それを思い出した場所か、または食事を行った場所に戻って祈らなければならないという規定があったが、それが機械的な反復であれば、祈る側の自己義認のために食事への感謝を捧げている実態を明かしていることになってしまう。(ベラホート8:7)

パウロは書簡中で筆記者に語りながらそのまま神を賛美する言葉を含め、その後に「アーメン」を自ら唱えており、そこが賛美であったことを読み手に示している。このように会話の中で直ちに賛美に入ることは当時までに培われたユダヤの習慣ともなっていたが、それらの賛美はたいへん短いもので、当時のユダヤの習慣としての食前の「祝祷」も、それが過越しのハガターのような長いものではなかったことを窺わせる。キリストの給食の祝祷も文面にされず、一言それが有ったことを福音書は書いている。

キリスト教徒について、食前の祝祷を明確に要求する記述はないので、ユダヤ教徒のように規則化するべき理由を見出すには至らない。そこで重きを成すのは、食事する信仰者の状況や意識と言える。
食前の祈りには、神が創造物を顧み、困窮者を支えることの認識を表すものであるとも言える。それは荒野のマナによって数百万を支えた神の配慮と能力から敷衍し、世界に糧を生じさせることが人の労働だけでは達成されないことへの認識と感謝を含むことができる。(マタイ4:4/ルカ9:16)


規則で祈りが形式化したり、神を余りに畏敬して言葉遣いに注意が傾いてしまうこと、また、他者に敬虔さを見せるために徒に長い祈りを行うことなどが様々な宗教に見られる陥穽となってきたが、キリストはこれを山上の垂訓に於いて戒め(マタイ6:5-8)、あるべき祈りの姿を示している。それは祈る本人の意思を神に伝えるという根本的な役割を果たすものでなくてはならない。

祈りによって陥りやすい別の誤りには、自己正当化もある。
自分が祈って決定したことについて、神の後ろ盾があると思い込み、自分の行動や思考を義化してしまうが、これは『罪』ある人という現実を無視したアニミズムへの堕落であり、呪術に傾いている。キリスト教の場合には、平素、神からの明解な返答を期待できない事実を忘れるべきでない。聖霊を注がれることのない限り、その人に格別な神との繋がりは生じないと見做すべき理由は多く、この点で、只の人が神に何らかの「確約」のようなものを得ることは期待すべきでない。

「主の祈り」によれば、祈る内容の重要性の高さがその順位に示されている。神の名が崇められるようになること、第二に王国の到来を求め、それから自分の必要に願い、他者を赦したように自分が赦されるよう願うことを、最後に誘惑者から逃れることの五つの事柄が含められていた。(マタイ6:9-13)

但し、この祈りを祈祷文のように繰り返すなら、キリストの戒めに再び逆らうことになってしまうので、ここからより重要な事柄を弁えることをもって神に語り掛ける上での教訓とするべきである。そこで価値観の精錬が進み、祈る度にその人の意識を集中させるべき事柄が明らかにもなる効果がある。(ルカ11:8)

また、祈りに仲介者としてのキリスト・イエスの名を含める習慣は、キリスト教徒の中から始まり、ユダヤ教との差別化に役立てられるものであったが、聖書中にその事例を見ることはない。ただ、聖霊の働きを求めるときに用いられた例がある。即ち聖霊はイエスの『名によって求める』ものだからである。(ヨハネ14:14)
しかし、贖罪に関わる大祭司職としてキリストを経路(ヨハネ14:6)と見做す場合、祈りについてそれを退ける理由もない。但し、『わたしの名に拠って求めよ』と命じられたのは直接には十二使徒であり、敷衍すれば聖徒たちであった。(ヨハネ16:24)

また、『互いのために祈る』よう新約聖書は随所で勧めているが、これは互いの福祉を省みる心を持つよう促されているのであり、人への関心を特に仲間に集中するよう求めているわけではない。
むしろキリストは敵のために祈るようにさえ言われ、自らを処刑する人々の罪が赦されるようにと祈り、それは最初の弟子の殉教者ステファノスに受け継がれている。(マタイ5:44/使徒7:60)


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