FC2ブログ

エデンの二本の木 -綱領-

2016.06.09 (Thu)
エデンの二本の木


◆なぜ選択が求められたか

エデンの園の中央に植えられた、『善悪を知る木』と『永遠の命の木』という二本(群)の木は、アダムらに求められた選択を意味した。

神は人に自由意思を付与していたが、それは神が創造物に名を付けさせているところに表れている。明らかに神は、人の意思の独自性を楽しんでいた。この点で、人は神から独立した意識を持って何事かを決定できる自由な思考者、決定者としては神と対等とさえ言える。
神が人を自らの『象り』に創ったとは、こうした独立性を含むものと思われる。
従って、神は自らの『象り』に服従や隷属を望んだとはけっして言えない。

そこで『善悪を知る木』について禁令が与えられたのは、それが神という彼らにとっての存在の由来者との関係をどうするかという倫理上の決定が掛かっており、その結果によって『永遠の命の木』から食することを許され、彼らは神と結ばれて永遠の関係に入るはずであったが、そこに求められたのは「命令への服従」ではなく『忠節な愛』(ヘセド)であったといえる。

もし、神が人と生き続けるために服従を望んだとすれば、本能にだけ従う動物のようであって良かったところを、二本の木の選択の機会を与えた以上、人には本能に従うだけでなく自ら判断して行動する部分が備わっていることになる。創造者に対して服従を選択するということは、与えられた自由を自ら喪失させるという矛盾を孕んでおり、それは圧制者の望むところに他ならず、人が自ら神の栄光を汚すことであり、創造者の意図するところとは言えない。

二本の木の選択の問題は、特に神を含む他者との関わり方、即ち、人のように理知があり、生き方を選択できる創造物に、神が永遠に生き続けることを許すためには、他者とどう生きてゆくかという、「倫理」の問題が避け得なかったであろう。聖書では『罪』と呼ばれるものは倫理性に難があるものを指す。その対極に位置するのが『愛』であり、これはヘセドまたアガペーとして聖書に記されている。(詩篇25:10/ローマ13:10)

『愛』は自発、また自律的なものであり、プログラム化できないし、規則や法で縛り強制、強要できるものではない。
そのような表層を造ることができたとしても、強いられたそれは真正な愛でも善でもなく、その人の倫理性は問われないままである。

人から倫理上の選択の自由を奪うなら、機械的に厄介な『罪』を除くことはできたように見えても、真実の自発的愛や善を不可能にする。
全能の神が、人を初めから『罪』に陥らないものとして創れなかったのか、という疑問は、人間を不自由で、真の愛も善も持たないものとして創らなかったのはなぜか?と問うに等しい。それは人を動物の領域に引き下げ、人が神の『象り』としての自由を持つことを評価しないことになる。

そのように従属させて人を支配することを望む独裁者は歴史上に数多く現れたが、創造の神は人に従属を強いて支配しようとしていない証しが『二本の木』の存在意義であったといえる。
人間性の尊厳は、まさにその自由意思にあり、『罪』の影響が人間社会に如何に大きいとはいえ、神が悪の存在を許すのは、自由の中に真実の愛を造り出すためでもあり、また、強制して人から自由意思を奪うなら、今日にも不完全にせよ備わっている人間性の尊さを喪失させることになる。
実際に、不自由な圧制は人間にとって負担であり、不自然であることが歴史上で何度も証されてきたことであり、人間社会はずっと自由な主体性を人々に与える方向に進んできている。それは、生来的に人間自身がそのような自由な選択者であるべきことを示している。
(独裁制が人権を蹂躙すると言われる根底には、この原理が働いている。他者を徹底的に支配する願望を有する者には、人に備わっているとされる『神の象り』の尊重も概念もなく、我欲のために他者を犠牲とする傲慢な利己性を宿している。)

二本の木の選択は、人が神から独立した思考の持ち主であり、神が人にその自由意思を確保するためのものであったと言える。
そのように、人が神の『象り』である(創世記1:26)なら、人の自由な思考を保つことは神が自らを尊ぶことであり、神が全知性を抑制し、且つ大きな犠牲を払おうとも譲れるものではなかった。
神が禁令を課して後、これらの木を監視していなかったのは、明らかに自由意志を保つためであった。そう捉えるなら、神はその全知性を人に対して用い尽くすことはなく、彼らの選択結果を予知しなかったと言える。(創世記3:10-11)

また、その自由意思が『天使より低いもの』(ヘブライ2:7)として創られた人間に保たれたのであれば、当然ながら天使らにもそれが保たれることになる。
そして、ひとりのケルブが、その特に恵まれた状態から傲慢を選び取り、この自由意思によって利己的に振る舞い始めた。(エゼキエル28)

この天使はアダムらを誘惑し、神への『忠節な愛』ではなく利己心に基いて禁令を破らせることによって、後の人類全体を自分の側に引き入れることを企てた。
そこで、アダムが神から離れる誘因として妻への愛着に着目した蓋然性が非常に高い。

まずエヴァに禁令を破らせることが、直接にアダムを誘惑するよりも大きな可能性を持つことを反逆の天使は悟ったであろう。
そこで蛇を操り、エヴァがひとりでいるところで、禁令を破ることでの死はなく、却って神の様に賢くなると告げる。(創世記3:4-5)

エヴァはその言葉を信じてしまい、その実が美味であるかのように見え、それを取って食したが、すぐには死ぬことがなく、更に蛇の言葉に信を置いたであろう。
夫と共になったときに、その実を差し出したが、やはり『アダムは欺かれなかった』(テモテ第一2:14)。

しかし、それでも彼が禁断の木の実を食した理由について、創世記に僅かな痕跡を残している。
神は『アダムがひとりでいるのは良くない』と女を創られ(創世記2:18)、エヴァを目にしたアダムは『これこそわたしの骨の骨、肉の肉』と発言している。これは女エヴァの有用さ貴重さを示唆している。(創世記2:23)

そこで、禁令を破ったことのアダムの言い訳として『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』というアダムの神への返答に彼の誘因も描かれているように読むことができる。(創世記3:12)
ここでアダムは、神がエヴァと共にいるようにと彼女を創造したことを引き合いに出している。

これを敷衍すると、アダムは先に死の道に入ってしまった妻と命運を共にすることを選んだと見做せる。その愛着が神への忠節に勝ってしまったからである。
その選択が一度限り決定的なもので、完全な者が不完全へと堕ちたのであるなら、『罪』に影響される人類一般のように過ちを認めて謝罪するという余地がアダムとエヴァの場合にはない。後から訂正のしようの無い選択が禁断の木の実に関してあった。

エヴァは騙されたとはいえ、蛇に対して神を擁護しなかったからには、神の善意の中で生活していながら神への忠節な愛を選ばなかったことは明らかであり、それは過ちを謝罪して許されるものではないことになる、彼女はひとたび心の中にあるものを表して、裁きはエヴァについて終わっていたからである。木の実を食した決定に思い違いはなく、完全な選択で神を退けた以上、神を忠節に愛してはいないことがエヴァについて明白となった。そこにアダムの執り成しをする余地も存在しない。そこでアダムはエヴァと死によって分かたれることを悟ったはずである。アダムにはそれが受け入れ難いところで試みとなり、結果として倫理から逸脱し『罪』に堕ちた。そうして反逆の天使の思惑は達成され、そこでこの天使は「中傷者」を意味する『サタン』と呼ばれるに及んだ。

その影響として、二人の『目が開かれ』裸であることに気付くのがアダムと共に食した後であったのは、エヴァは『まったく欺かれ』ていたので罪の意識が無かったが、アダムとのこの食事以降はそうではなく、自分たちが存在の由来者から離反したことを二人共に意識し始めたからであろう。


この離反の選択を批判することは容易だが、唯一の伴侶として完璧に創られ、深く愛した妻を失うまいとしたのであれば、アダムへの誘惑は猛烈な効果を上げていたことになろう。そうであればサタンのエヴァに仕掛けた罠は狡知の極みであった。

神とどのように生きてゆくかに関するこの選択は、自らを存在させた方に忠節な愛を払わない方を選んだのであり、自らの作り手に相応しい敬意を抱かないところで、道徳、また倫理を土台から覆すことであった。それは神のみならず、あらゆる他者との関係をも崩したことは、貪欲と争いの満ちるこの世の姿に表れている。


◆堕罪し不倫理を負った人類

即ち、アダムの愛情は神よりもエヴァに向かっており、そこで最初の不義理が生じた。同時にアダムとエヴァは倫理の決定の執行者となり、『善悪を知る』に至ったと云える。

その倫理上の決定は、自らの存在の由来であり、忠節な愛が示されるべき神を差し置いた理不尽な決定となり、倫理上の問題『罪』を孕むこととなった。彼らに対して、神が『命の木』に監視を置き、最初の権力の発動を見たのは、彼らが堕罪したためであり、以後、倫理上に欠陥を負った人間には法と罰が避けられなくなった。(創世記3:24)

だが、権力と支配は人間に対して神が本来意図したものではない。
したがって、全能神が主権を好み、人類支配を望んでいると考えるべき理由はない。むしろ、自らの『象り』(ヤコブ3:9)を尊重するからこそ、多くの犠牲を良しとされたのであり、そうでなければ、全能神にとって悪魔を退け全世界を征服することに何の妨げもないし、最初からアダムの自由意思を試す選択などをさせる理由もない。

一度、こうして不倫理を犯した人間は、他者とどう生きるべきかを弁えない存在となってしまい、永遠の命の実を食するべきものではなくなった。したがって、死すべき寿命を持った存在としてその子孫を形作ることになり、その永遠の命を妨げる不倫理性が遺伝していることは、人類の今日までの歴史に誰の目にも明らかとなっている。(ローマ5:12)

この一度の選択によって、人類は苦難の生涯を余儀なくされており、そのままでは空虚な存在として終わる以外にない。
誘惑した天使は以後「中傷する者」即ち『悪魔』、また神に「反抗する者」『サタン』と呼ばれ、その後も神の理知ある創造物に対して誘惑を行っており、その対象は神以外のすべてに及び、キリストでさえも例外とはならなかった。(ヨブ1:9/ゼカリヤ3:1/マタイ4:3-/黙示12:9/コリント第二11:3)



◆命の木に行く人々

しかし、神は早くもエデンに於いて、陥った問題からの救いを予告する。それが『女の裔』と呼ばれる何者かであった。(創世記3:15)
これがキリストとその兄弟らで構成される『神の王国』であることは、その後に連綿と続く聖書記述を追うに従い明らかとなる。

その『女の裔』は、『蛇の裔』(ヨハネ8:44)によって『かかとを砕かれる』が、『女の裔』は『蛇の頭を砕く』と予告される。
これはキリストの死、またその兄弟らの殉教が起こること、また最終的には『蛇』で表される悪魔を全く滅ぼし、その影響を無に帰して、神への忠節な愛を示すすべての人々から『罪』を除き、神の意図した創造物『神の子』に復帰させ(ヨハネ1:12)、創造の業を真に成し遂げることに道を拓くものとなる。

そこで、『女の裔』である『神の王国』が人類に成し遂げる事柄を描写する黙示録に於いて、『命の木』が再登場しており、その木に与ることが許される人々が描写されている。
こうして創世記で起こった倫理問題は収束するに至る。

これが聖書全巻を貫く主要な論点であり、この観点を得ない限りキリスト教を真に理解することはない。








トラックバックURL
http://irenaeus.blog.fc2.com/tb.php/158-72eb36e7
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top