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神の王国とは  -綱領-

2016.05.15 (Sun)
神の王国


キリストとその民によって千年間にわたり、生ける人類を統治し(黙示20:4)、贖罪を行って神の創造物としての栄光に復帰させる実際の支配権を有する国家。(黙示20:6)
その支配により、創造界に入り込んだ不調和を除き、人の『罪』を贖い、キリストの下に被造者を集め(エフェソス1:10)、神との和解を(コロサイ1:20)成し遂げさせる働きを行う。(創世記3:15)

統治と贖罪が行われるため、この国の民は人類に対して『王たち、また祭司たち』となる。(黙示5:9-10)
この王権は、貪欲に混乱する人間の諸政府を廃して神が終末に打ち建てる支配を表し、人の住む世界のすべてをその領域とする。(ダニエル2:44-45)

その主要な王権はダヴィデの家系に属するキリストのものとなり、『その支配は公正と正義とによって保たれる』また『その平和は増し加わって限りない』とも描写されている。(イザヤ9:7)


王国の選民

この王国の選民とは、支配を受けることになる地上の民を意味しない。
むしろ支配し贖罪を行う祭司権を持ち統治する民を意味する。

主要な王であるキリスト以外のその『王なる民』は象徴的な「イスラエル」であり、キリストの血に預かることにより、アブラハムの子孫、またダヴィデの王権相続者と認められ、共にこの王国を相続する者とされ(エフェソス2:13)、その一員として召されたことが、注がれる聖霊によって証しを立てられる。(エフェソス1:13)

この『祭司の王国、聖なる国民』に召された者は、キリストの仲介する『新しい契約』に入り、忠節と清さを生涯にわたって保つことを契約の条件に(コリント第一6:20)、終末での天への召集に預かることになる。(出埃19:6/ペテロ第一2:9/テサロニケ第二2:1)

キリストの公生涯の業は、彼に従う国民となるアブラハムの子孫を集め出すことが目的であったので、血統上のイスラエル人に対して『神の王国は近づいた』と宣明された。(マタイ4:17)
当時のイスラエル民族は、メシアの到来を見たことでアブラハムの相続財産としての『神の王国』をまさにその内に有していたのであり、そのことを『あなたがたの内にある』と指摘されたが(ルカ17:20-21)、その不信仰のゆえにメシアを退けたうえ、弟子らをも迫害して自ら王国に価しないことを示した(使徒13:46)。そこで『神の王国は、その実を生み出す国民に与えられる』ことになった。(マタイ21:42-43)

キリストの帰天後は、アブラハムの子孫を集める業は使徒らや初期の弟子らに受け継がれ、パレスティナから世界へと広がり出て『その実を生み出す国民』が諸国民からも集められ始めた(ヨハネ14:12/マタイ8:11-12)。それはイスラエルの民と諸国民とで構成される複合の民(エフェソス2:15)となり、血統上のイスラエル民族に対して『神のイスラエル』と称される。(ガラテア6:16/ローマ11:17)

帰天後のイエスは彼らを聖霊を介して集める業を導き(使徒18:9-10)、第二世紀の半ばにはこの業を一旦終え、以後、聖霊の降下は見られなくなってキリストの不在が始まっている。(ヨハネ9:4)
しかし、終末の臨在が起こると、聖霊により活動する弟子らが居ることは明瞭に知らされており(マタイ10:18/ルカ21:12-15)、その時期には再びキリストの聖霊を介した監臨が予想されるが、それが『雲と共に来る』という不可視の『臨在』(パルーシア)と呼ばれるものであろう。(ヨハネ第一2:28)

この王国が設立され権力を得るのは、これらのアブラハムの子孫が地を去って天に揃った後のことであり、諸国の為政者らが敵対行動を起こしている状態で王権が神から渡される。(詩篇2:1-12/110:1-2)
したがって、終末に聖霊を注がれた弟子ら『聖なる者ら』が地上に居る限りは、王国の権威は実現してもその設立は無い。

王国の民となる『聖なる者』についてキリストが語ったところからすると、主に神から『与えられた者』(ヨハネ17:9-10)の数が、百匹の羊や、12ドラクマの例えなど、数が欠けることへの配慮や、『集める』という表現が多い事、またパウロがイスラエルの『数が満ちる』という表現などに(ローマ11:25)、一定数への言及が多いことからすると、天でキリストと共に王国を相続するアブラハムの子孫『神のイスラエル』の総数は、黙示録第七章に記される十四万四千人が実数である可能性が高い(黙示録7:4)。
但し、聖霊を注がれる者の総数はそれよりも相当程度多い(マタイ24:41-42/22:14/ルカ13:24)。


実効支配の開始

キリストは、帰天後には大祭司としての職分を得ているが、(ヘブライ4:14/8:4)終末には、戴冠して(ゼカリヤ6:9-15)王権を神から拝受し、地上の征服に乗り出すことになる。したがって、ヘブライ人書簡が述べたように『今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。』という状態は現在も変わっていない。(ヘブライ2:8)
この王権による支配の未成就は、ローマ覇権下での諸王の皇帝からの王権受諾と、その後の現地での実効支配を実力により有効にする有様に前表されていたと云える。タラントやミナの例えも、当時の王権受諾の慣例に沿っている。(ルカ19:27/黙示19:15/マタイ25:15-)

同様に、神の王国の王らも神から権威を授かった後に、『敵のただ中から従え』抵抗勢力をねじ伏せる必要があり(詩篇110:2)、既存の諸国家を打ち砕いて終わらせる『聖なる者たちが受ける』王国である。(詩篇2:7-9/ダニエル2:44・7:18)。
これは『葡萄搾り場を踏む』ことに例えられ、そこから流れ出るものは諸国民の膨大量の血潮とされる。(ヨエル3:13/黙示14:19)『血は魂』であれば(申命12:23)、この象徴的「神の流血」からの復活はないことになる。

終末の諸国家は、キリストの臨在が『雲と共に』なされるために見えず、その実在性を信じずに聖霊で語るアブラハムの子孫『聖なる者ら』の発言に対して反対し(詩篇2:10/イザヤ52:15)、まず『聖なる者ら』を攻撃し(黙示11:7)、次いでその支持者ら(マタイ25:40)に攻撃を仕掛けようとするところで(ゼカリヤ2:5)、その軍勢は『ハルマゲドン』と呼ばれる象徴的場所に集められるが、王権を帯びたキリストとその聖なる者らとの会戦となる。(黙示16:16/ヨエル3:12)
この戦いは、神と諸国の論争であり(エレミヤ25:31)、また虐げる者(ヨエル3:9)を滅ぼし、弱き人々を救う(イザヤ52:10)神の裁き(イザヤ66:24)である。

キリストに従属する王らも、地上を征服する戦いにおいてキリストに従う。(ミカ4:13/ゼカリヤ14:5/黙示19:14) それは彼らを殉教へと追いやったこの世への『復讐』の戦いでもある(ミカ5:15/黙示6:10)。
『刺し通した者』が人の子の『雲に乗って来るのを見る』のは、血の復讐者であるキリストの象徴的姿であるが、実際に目に見えるものではなく、起こる事象を通してキリストの臨在を認識することになる。(ゼカリヤ12:10/マタイ26:64/ヨハネ19:37/黙示1:7)。

この戦いで、諸国の軍は完膚なきまでに敗退し(ゼカリヤ14:12-13)、無数の屍は鳥獣の食するところとなる。(黙示6:8/19:17)旧世界は秩序を失い(ルカ21:25-26)短期間に崩壊に向かうが(ダニエル12:7)、聖なる者らの聖霊の発言に信仰を働かせた人々(ヨハネ17:20)は守られ(イザヤ26:20/ゼパニヤ2:3/マタイ10:42)、神の名にかけて救いを得ることになる。(使徒2:21/ヨエル3:12-16)


王国の効用と価値

この千年続く王国が終って後に、キリストはその権威を神に帰し、その時にはあらゆる権力を終わらせている。(コリント第一15:24-28)
千年の後に、諸世紀の人々の復活が起こり(ルカ11:31)、その人々は『罪』のない状態で生かされる(ローマ6:7)が、王国の成し遂げた栄光ある世界を目撃してさえ(イザヤ20:10)、同時期に拘禁を解かれる悪魔の誘惑もあって、反抗の道に入る者らも少なくはない(黙示20:8)。しかし、神自らこれらを悪魔諸共に裁き(黙示20:11-15)、『罪を犯す魂は死ぬ』(エゼキエル18:4)、こうして、あらゆる創造物に創造者の意図が行き渡るところとなり(ゼカリヤ9:9-10/ミカ5:2-4)、キリストはその働きを全うする。(黙示21:4)

この王国に価値を見出すことをキリストは「隠された宝物」や「値高い真珠」(マタイ13:44-45)の譬えによって促している。また、「山上の垂訓」では、『王国と神の義とをつねに第一に求めよ』とも命じ(マタイ6:33)、主の祈りでは王国の到来の願いを重要なものとさせている(マタイ6:10)。

当時のイスラエル民族がアブラハムの血統にあったとはいえ、その王国にそのまま入ることはなく(マタイ3:9)、『新しい契約』に入り、なお不断の努力を傾注する必要があった(ルカ13:24)。


教理の沿革

『神の王国』が実際の支配権を有する国家となる認識については、ユダヤ教のメシア運動にも見られたが、初期キリスト教においても変わらなかった。小アジア出身で使徒ヨハネの伝統を伝えるエイレナイオスは、第二世紀にこの見解を保持していたことが知られる。

しかし、第四世紀に入ると、ローマ帝国の国教化が進むに従い、この王国の支配は象徴のものとされ、アウグスティヌスの著作に至ってまったく曖昧なものとされた。このラテン教父はエイレナイオスの抄本を作らせる際に手心を加えさえしているが、この不正は16世紀に発覚するところとなっている。

また、エイレナイオスの理解によれば、千年期はふたつの復活を隔てるものである(A.HⅤ:31)。即ち、死せる『聖なる者ら』の千年期前に於ける復活と、一般の死者がよみがえる千年期後の復活がある(A.HⅤ:35:2)。

キリストが宣教に於いて主題としたのがこの『王国』であり、様々な譬えは、多角的にこの主題を説明したものである。本来アブラハムの子孫としてこれを相続するはずであったイスラエルの民にその知識が授けられたが、王国に関する更に進んだ理解は使徒をはじめとする初期キリスト教徒に委ねられた。

しかし、キリスト教界は、後にこれを異教由来の安楽な「天国」に置き換え、権力交代を成し遂げる『神の王国』への信仰を失い、キリスト教そのものも通俗化また凡庸化してしまった。これはキリスト教がローマ帝国の国教化に際して世俗の権力と結びついたところに端を発している。(ヤコブ4:1-4)




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