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律法契約と新しい契約 -綱領-

2016.05.12 (Thu)
ふたつの契約



聖書中には神と人の間に結ばれた幾つかの契約が記されている。
その中でも重要さにおいても、影響の大きさからしても際立っているのが「律法契約」と「新しい契約」である。
この双方は「アブラハムへの約束」を成し遂げ、その『裔』を登場させる働きを負っている。


契約の目的
この二つの契約は共に同じ目的を有していた。それは『選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神の所有に帰する民』を生み出す事にあった。これはアブラハムへの約束に基き、エデンで語られた『女の裔』の具体化を意味しており、真の意味でのアブラハムの後裔である象徴のサラの子(ペテロ第一3:6)嫡流の民「イスラエル」を創出させる目的を有している。(イザヤ43:15・21)

律法契約について神はモーセを介してイスラエル民族に次のように述べている。
『もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』(出埃19:5-6)

また、使徒ペテロは非イスラエル人を含むキリスト教徒に宛てて次のように書いている。
『あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり』『あなたがたは、選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神の所有に帰する民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さった方のみわざを、あなたがたが語り伝えるためである』(ペテロ第一2:9-10)


ふたつの契約の関係
このように同一の目的を持ちながら、二つの契約を要した理由について使徒パウロはエレミヤの預言を引用してこう述べる。

『神は彼らを責めて言われた、「は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約[ברית חדשה]を結ぶ日が来る。
それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約に留まらないので、わたしも彼らを顧みなかったからであると、が言われる。

わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、とが言われる。即ち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。』(ヘブライ8:8-10/エレミヤ31:31-33)

モーセを仲介者として、神がイスラエル民族と結んだ「律法契約」は、イスラエルの不履行のために廃棄された。しかし、それでは律法契約の目的は果たされず、神のアブラハムへの約束、即ち、『あなたの裔によって地上のすべての家族は自らを祝福する』という『世の光』となる真の『イスラエル』は現れないことになる。(創世記22:18)

しかし、エレミヤが預言していた『新しい契約』は、メシア=キリストを仲介とし、ナザレのイエスにメシア信仰を見い出した血統上のイスラエル民族に対して、神はその契約を締結するに至る。この契約の発効が知らされたのは、キリストの死の後の五旬節の日であった。

しかし、メシア信仰に至ったイスラエル人は少数であったため、神は、諸国民でメシア信仰を表わす者らをもこの契約に含めることになったが、マタイ福音書の中で、不信仰のゆえに血統のイスラエルの優越性が脅かされることを、イエスは『多くの人が東から西からきて、天の王国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』と警告していた。また、パウロは異邦人のイスラエルへの参加を『接木』として例えたが(ローマ11:17-)、そうしてイスラエル人と諸国民とから成る混成の民『神のイスラエル』が新たな契約の民として現れることになった。(ガラテア6:16)

この『新しい契約』によって初めて『選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神の所有に帰する民』が生み出され始め、その人々には聖霊の油注ぎと、その証しとしての聖霊の賜物とが与えられた。即ち、この契約によって、神のアブラハムへの約束が果たされ始めることになった。

しかし、律法そのものは、アブラハムの裔を警護しメシアまでの期間にわたりイスラエル民族にその登場に備えさせ、予備的な知識をもたらした。更には、律法はメシアによって成就され、メシアが誰であるかの指標としての役割を果たしている。
そのため、律法は『負う事のできない頸木』であり、『律法による義』はメシア以外に到達されることはなく、メシアの死によって『木』に掛けられ、『霊』による崇拝に置き換えられるに至った。

そのため、律法契約は『業』を、新しい契約は『信仰』を契約参与者に求めるものとなった。


新しい契約の優越
また、パウロは『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかった。』とも述べている。(ヘブライ8:7)

律法契約の祭祀制度は、動物の犠牲を以って贖罪の儀式を行っていたが、パウロは『羊や山羊の血は罪を取り去ることはない』とし『キリストは一度限り捧げられた』としている。(ヘブライ10章)
律法の祭祀は、『来るべきものの影であり』動物の犠牲は象徴であり、その実体はキリストの犠牲を表していた。(ヘブライ10:1)
ゆえに、『前の掟が弱くかつ無益であったために無効になると共に、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせる』とも述べている。(ヘブライ7:18-19)

では、なぜ「律法契約」は締結されたのかについてパウロはこう記す。
『律法は、約束を与えられたあの裔が来るときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使らを通して、仲介者を経て制定されたものである。』(ガラテア3:19)
即ち、律法契約下のイスラエル民族を用いて、人間には『罪』があり、自らの行いによっては清く成り得ないことが明らかにされたことを指している。(コリント第二3:7-11)

したがって、律法とは守るよう努められるべきものではあったにせよ、元々イスラエル人によって守り切ることが目的とされるものではなかったのであり、その要求の高さを味わい知ることの方に意義があったと云える。
同時に、律法契約は唯一人メシアの完全な義を生み出したということはできる。(ヘブライ2:10)
律法の示す基準が、一度キリストによって成就されて後には、律法に対してその条項の遵守に邁進するべき理由はもはや無い。人間はすべて『罪』が宿ることも明かされたからである。

したがって、律法がもたらしたのはメシアの義であり、その義が分配され始めるために『新しい契約』が意味を持っている。
ダニエル書は、メシアを『契約を固く保つ』者と呼び、マラキ書は『契約の使者』と呼ぶ、これらはモーセを仲介とする律法契約を意味していない。ネイヴィームは、エレミヤからはじめてマラキに至るまで、イスラエルの律法契約への不順守と別の契約への移行を指し示している。その礎は早くも申命記のモーセの予告に暗示されていた。(申命記18:18)

この過程をパウロはこう要約する。
『律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに導く養育係となったのである。
しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育係の下にはいない。』(ガラテア3:24-25)

そのため、『人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による』とも記している。(ガラテア2:16)
この「キリスト信仰」が「律法の業」に優越することが、神の一続きの教えを形作っているので、神崇拝が律法祭祀に後戻りすることはあり得ず、キリスト以後の地上に神殿を再建立すべき理由はもはやない。(コリント第二3:6/ヨハネ4:21-24/ダニエル9:27)


もたらされた義
『新しい契約』は、それに入った人々に神の前の『義』をもたらしたので、彼らは『キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はない』とされる。(ローマ8:1/コロサイ1:22)

そのために彼らは『聖なる者』と呼ばれるが、使徒ペテロは彼らに向かって『イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、霊の清めに預かっている人たちへ』と呼び掛けている。(ペテロ第一1:2)

即ち、キリストの犠牲の適用を最初に受けたので、彼らは『初穂』とも呼ばれる。それは彼らが人類全体に対し、一足先に『神の子』の立場を得たことによる。(ローマ8:14/ヤコブ1:18)


履行の必要
『新しい契約』は彼らを神の前に『罪』無しとさせるが(ローマ8:33)、それは仮のものであり、彼らには『義』が信用貸しされた。その『義』は彼らが生涯にわたり忠節であり、キリストの定めを守ることが求められている。(コリント第二5:10)

そのためにキリストは直弟子らに『狭い門と通って入るように努めよ』と訓戒していたのであり、その理由は『入ろうとしながら、入れない者は多い』(ルカ13:24)、その『入る』目標は契約の先にある『神の王国』であった。(マタイ21:31)

『聖なる者ら』が『神の王国』に入るためには『新しい契約』を全うする必要があり(ヘブライ3:14)、その求められるところが新約聖書中に見られる戒めの数々であり、これらは『新しい契約』に入った『聖なる者』に要求されるべきものであって、一般信徒に求めるのは的外れであるばかりか有害ともなり兼ねない。(エフェソス4:1-3/コロサイ3:12/テサロニケ第一4:7-8)

『新しい契約』が終了するのは、契約を守り相応しく生涯を終えた『聖なる者ら』が天に集められ、『神の王国』に揃ったときになる。(黙示録7章)
その召集が完了するのは、終末に現れる『聖なる者ら』が試練を越えて忠節を示した後の不定の時となる。(テサロニケ第一4:16-17)

これについて、十二使徒はキリストと共に『聖なる者ら』の裁きに預かることになる。(ルカ22:30)





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