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罪と贖罪  -綱領-

2016.05.11 (Wed)


・罪

聖書中で問題にされる『罪』とは、個人の犯す個別の「罪」を指すのではなく、アダムの子孫として人類全体が負っている倫理上の欠陥を指す。
人は神をはじめとする他者との関係において問題を持っており、利己的に振る舞う傾向にそれが表れている。

人間社会はこの倫理において多くの問題を抱えており、人類が経験してきた苦難の大半はこの倫理上の欠陥に由来するものとなってきた。
今日の世相、また歴史を省みるなら、人間に倫理上の欠陥があることは明白であるが、人類はこの問題を自ら解決することができない。

この『罪』は、人類の始祖アダムが、結果的に神への忠節を保たず、妻を選び取る選択をしたことから始まったもので、強い誘惑が有ったとはいえ、監視なく自由な意志を表明できる状態で、創造神という自らの存在の由来者に忠節を示さず、第一させるべき他者に対して倫理にもとる行いにより、陥った倫理上の欠陥を意味する。

始祖のこの堕罪により、その子孫もあまねく倫理上の完全さから離れざるを得なかった。
聖書はこれを『ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められた』と記している。(ローマ5:18)

『罪』を負った個々の人は、神の創造物としては欠陥あるものとなり、永遠に存在することから遠ざけられるに至った。
アダムの子孫は、老化と寿命を負わされ、いずれは死を避けられない存在となった。
これを聖書は『ひとりの人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだ』と記している。(ローマ5:12)

『罪』ある者が永続するなら、創造界には混乱、害悪、不公正、冷酷さなどの多くの不善がいつまでも避けられず、創造の意図は永遠に成し遂げられないことになる。そこで人の死は『罪』と共に存在するようにされた。『罪の酬いは死』である。(ローマ6:23)

この『罪の酬い』が与えられた結果、人は『死への奴隷状態』に置かれ、生涯にわたり死の恐れに拘禁されてきた。(ヘブライ2:15)


・贖罪

人は生きる限り、神の御前に『罪』を犯さずには済まない。
しかし『アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった』ことはその子孫にとっては不可抗力であった。(ローマ5:14)
そこで、自らに宿る『罪』を望まず、神と他者との関係を正そうと真に『悔い改める』人について、神は倫理を回復する手段を設けた。これは『贖罪』(しょくざい)と呼ばれる。(ペテロ第二3:9)

しかし、アダムは子孫の全体を一度限り『罪』ある者としてしまったのであり、『贖罪』はアダムの子孫への当然の処置ではなく、神の憐れみによるものである。(ヤコブ2:13)

『贖罪』は『罪』をもたらしたアダムの行為を相殺する、完全で『罪』の無い自由意思の持ち主の人間による『義』の行為を必要とした。(ローマ5:18-19)
アダムの子孫は尽く『罪』を宿しているために、この役割を誰も果たすことができない。

そこで神は、『創造の初め』である『独り子』を地上に遣わすことを意図され、それはアブラハムと独り子イサクの関係性に前表されていた。(創世記22章)
こうして創造者と創造物の関係性が究極の仕方で試されることとなると同時に、アダムの子孫が陥った『罪』ある状態からの救いの道が拓かれることとなった。

神の御子が処女マリアから誕生したのは、アダム由来の『罪』の無い人を『贖罪』が必要としたためでもある。
新約聖書が御子を『最後のアダム』と呼ぶのは、イエスがアダムに対応する『人』であったことを表している。(コリント第一15:45)

神の御子の人間としての犠牲の死は、アダムの『魂』の代替とされるので、イエスはアダムに代り人類の父となる。
イザヤ書でメシア=キリストが『とこしえの父』と呼ばれるのはこのことを表している。(イザヤ9:6)

キリストの身体については、『最後のアダムは命を与える霊となった』とあるように、キリストは霊の存在へと復活したことを述べているので、キリストが肉なる人に戻ることはない。キリストの復活後の現れは霊者の化肉であったため、物質的な移動の制限を受けていない。(マタイ20:19)

霊の存在者に戻った御子は、不可視であり(テモテ第一6:16)、聖なる弟子らについては彼らが天界に召されて後、御子を再び見ることになる。(ヨハネ第一3:2)

神の前の『罪の赦し』に犠牲の死が必要であることは、旧約聖書中のモーセを介してイスラエルに与えられた律法に定められた動物の肉と血を捧げる祭儀を通して前表されていた。
また、出エジプトの前夜にイスラエルの各戸で捧げられた『過越し』の子羊(または子ヤギ)は、特にイスラエルの長子の命を贖ったが、その代価によってレヴィ族が神に買い取られ、聖なる祭祀に関わる部族として取分けられ、年に一度の『贖罪の日』に民の全体の贖罪の儀礼を執り行った。(民数記3:11-51)

しかし、新約聖書では『雄牛や山羊などの血は、罪を除き去ることができない』ことが明かされ、『ただ一度イエス・キリストの身体が捧げられた』ことを指摘している。(ヘブライ10章)
バプテストのヨハネがイエスを指して『世の罪を取り去る神の子羊』であることを証ししたのは、イスラエルばかりでなく、人類全体の『贖罪』の犠牲となることを述べていた。(ヨハネ1:29)

神への忠節を全うしたイエス・キリストの死は、この人類の『贖罪』を可能なものとしたので、神はこの手立てとなったキリスト・イエスを信仰の内に受け入れる者に、その『贖罪』を行い、『罪』を赦すことを意図された。(ヨハネ3:36)
また、出エジプトの子羊がイスラエルのレヴィ族を買い取って祭祀を司る職に就けられ、年毎に民全体の贖罪の儀式を行ったように、イエス・キリストの犠牲は『聖なる国民、祭司の王国』(出埃19:5-6/ペテロ第一2:9)象徴的『アブラハムの裔』(創世記18:18/ガラテア3:28-29)、真実の『イスラエル』(ローマ9:27)を最初に贖ったので、彼らは『被造物の初穂』とも呼ばれる(ヤコブ1:18)。

その贖いは『新しい契約』に基づく仮のものであった(ルカ13:24/コリント第二5:10)が、キリストに対する信仰によって、その一員に予め選ばれた者ら(テサロニケ第二2:13)には、奇跡の賜物をもたらす『聖霊』が与えられ(コリント第二5:5)、それが彼らの身分を証しするものとなった。(エフェソス1:13)

そのキリストの契約による祭司団は、終末のキリストの臨御のときに裁かれ復活、または召し挙げられ(テサロニケ第一4:16-17黙示11:12/マタイ24:40)、天への召集を受け(黙示7:1-8)、千年王国に於いて人類全体を贖罪し、『アブラハムの裔』としての務めを果たすことになる。(黙示20:6)

『彼を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じることをしないからである。』(ヨハネ3:18)とは、『贖罪』が誰に行われるかを示している。だが、これは現状でキリスト教徒であるか否かを問うものではなく、終末に世界の人々が等しく信仰を問われることになる。それは聖霊を介した終末の『世の裁き』となる。(エレミヤ25:31/ヨエル3:12/マタイ10:18/ヨハネ16:8)




















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