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愛・業  -綱領-

2016.02.02 (Tue)
・綱領の扱い

この綱領が完全であるのではなく、現時点で相応しいと思えるところを書き出したもので、規則や義務を見出すようにではなく、同意事項とそれに伴う事柄が記されたものと捉えてください。

新十四日派としては、出来得る限り規則や義務を設けない方向を標榜します。その理由は外からの拘束は人の中に自発的「愛」を育てることが非常に難しく、法遵守のユダヤ教に対し、それを超えたキリスト教は『愛することのほかに何をも負わない』ことを目標としていると考えるからです。

新約聖書中の行動規制に見える部分は、『新しい契約』に入った人々がその契約を全うする必要に応じたものであり、信徒には適用されないだけでなく、そこに何らかの行動規約を見出すべきでもないと捉えます。実に聖書のほとんどは、神との契約に属する人々に向けて書かれています。

それでも、派がコミュニティである以上、場合によっては権力の介入を受ける必要があったり、内規を設ける個別の必要が生じることもあるでしょう。しかし、それも特例として収められるならキリスト教らしさに貢献することでしょう。
(なお、本ブログでは素案として掲載し随時書き換えております)


・愛

最も重要な事柄は、何を信じるかではなく、神とキリストに感化され、人が他者とどう関わろうとするか、即ち「忠節な愛」または「アガペー」と呼ばれる愛にどう応じるかということに尽きます。この「愛」は大小様々に各人にある程度備わっていますが、働かせることによって強めたり質を高めたりすることもできます。しかし人にはそれぞれ限界があり、「愛」の行いは競うために比較されるべきものではありません。

エデンの二本の木の選択で問われたものは、おそらくこの愛(忠節な愛)であり、アダムは、神という第一の他者との関係を損ない、あらゆる倫理の基礎をないがしろにしたことを聖書は示唆しており、その子孫のすべても愛において不完全となっています。
そこで現実に、人類は法と権力とを必要とする状態に卑しめられ、これを除き去ることは人間には出来ないことを歴史は示してきました。


・業

神の是認や救いは信仰によるものであって「業」によるものではありません。(ローマ4:6)
それでも信仰はその人が行う業に反映されるもの(ヨハネ第一3:17)で、人はその業を見ることでその業を行った人の信仰を見ることになります。(ヤコブ2:18)
しかし、神に関する業は見せるためのものではありません(マタイ6:2)ので、その功績は誇るべきものではありません。(ローマ3:27-28)この点では、特に慈善的な行いに注意が必要なことが想定されます。

終末を前にしたキリスト教徒にとっては、信仰によりキリストの臨在に備えて整えられた一人となって、聖霊降下によるキリストの帰還を待ち、地上に聖徒の現れを予期した行動が求められます。(ルカ12:36)
それは、誤解されてきたキリスト教の基本的理解を知らせ、終末での聖霊の役割について人々の注意を喚起することにより、キリストの来臨をより相応しい信仰によって迎えるための業を行うところにあります。




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