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略解教理之詞言

2015.06.08 (Mon)

略文紹介



1. 最初の人アダムを創造した神は、人間を「神の象り」に創りました。それは、人間が神と同じように自由な意思を持つことを表します。そこで神は人間と人格的な関係を望み、自ら忠節な愛を示し、また人にも望みます。それがエデンの園の中央に植えられた二本の木の意味するところでした。

一本は「善悪を知る木」、もう一本は「永遠の命の木」と呼ばれ、それは人と神の関係に関わる選択となりました。『神の象り』である人間を自らのように尊重する神は、この選択を人の自由に委ね、強制も監視もされません。そこで人は神との関係性が問われます。その焦点は『愛によって神と結ばれる』かどうかにあります。

天使のひとりは、この点で自分を愛することを選択し、既に神から離れていました。その者は逆らう者という意味で『サタン』と呼ばれるようになり、神の創造界に不調和が生じ始めます。

アダムは、天使であったサタンが操る「蛇」の誘惑によって禁じられていた「善悪を知る木」の実を取って食した妻と行動を共にすることを選んで、同じく神への忠節な愛を捨てました。
こうして人は倫理上に欠陥を負うものとなり、その子孫に不道徳な傾向が遺伝してゆきました。

この不倫理性によって人類は大きな害を受けており、人々は隣人と問題なく過ごすことができません。不正と争い、犯罪や戦争など世の害悪の大半は人間自身の倫理上の欠陥に原因があります。その傾向は聖書では『罪』と呼ばれ、このために人間は皆、神の創造物として不完全になり『神の子』の栄光から脱落しています。

しかし、この人間の状態は神の創造の意図ではなく、今の不調和な世界も神の意図するものではありません。この問題が解決されなければ、創造の業はいつまで完遂されないことになります。
そこで神は、人間からこの倫理上の欠陥である「罪」を除き、創造された当初の人間の状態に戻すこと、つまり「贖罪」(しょくざい)を行われることを計画されました。

その「罪の赦し」ため神はイエス・キリストを用います。キリストとは「任命された者」を意味します。
人類全体から「罪」取り除いて、人類世界を改めるのが「神の王国」の役割であり、その主要な王にはイエス・キリストが即位します。



2.神は早くもエデンの園で、人間が陥った問題への解決法を予告しました。それが『女の裔』と呼ばれる何者かのことであり、聖書はこの『女の裔』が誰であるかを巡って数千年を越える永きに亘り書き継がれました。その『女の裔』つまりエヴァの子孫の何者かによって、『蛇』であるサタンが創造界にもたらした害悪も、すべてがサタンもろともに除かれることになります。

やがて、その『裔』はシュメール時代の人アブラハムの子孫の中から現れること、また彼の子孫にパレスチナの土地を与えることを神はアブラハムに約束します。
やがて、その家督を持った子孫はエジプトでひとつの民族を構成するほどに増え、イスラエル民族となります。
しかし、エジプトの王朝の交代によって、彼らは奴隷身分に落されてしまいました。

この民族をエジプトでの奴隷状態から「約束の地」パレスチナに導き出すために用いられたのが預言者モーセでありました。
神は、紅海の水を分けイスラエルをエジプトでの奴隷状態から救い、シナイ山麓でモーセを介し、この民族と契約を結びます。
それは、神が与える『律法』を守るなら、イスラエルは『聖なる国民、王なる祭司の民』となるという契約であったので、これは「律法契約」と呼ばれます。その律法では、罪の許しのためには犠牲が必要であることが、崇拝での動物の捧げ物の要求によって示されていました。

しかし、イスラエルはこの契約を守らず、遂にパレスチナを追われてバビロンに捕囚となります。
それでも、神はバビロニアの帝国を終わらせて、パレスチナに幾らかの人々を帰還させ、神殿喪失から七十年が経過すると神殿を再建させます。この役割を担ったメシア(任命された者)はペルシア帝国のキュロス大王であり、エルサレム神殿の再建と祭祀の復興を命じたのはこの王でした。

神はイスラエル民族が捕囚を経験する前から、預言者を通して律法契約に代る「新しい契約」とそれをモーセのように仲介する「メシア」の到来を予告していました。それは『契約の使者』とも呼ばれる新たなメシアとなる何者かのことでした。



3.パレスチナに帰った人々はユダヤ人と呼ばれるようになり、前五世紀の預言者マラキを最後に、旧約聖書はそれ以上書き加えられなくなります。
それからおよそ四百年が過ぎると、預言者の姿をした人物がヨルダン川でユダヤ人に『悔い改めの浸礼』を施し始めます。人々は久しぶりの預言者の到来を見て、この人が約束されたメシアではないかと噂しますが、その人「バプテスト(浸礼者)のヨハネ」はそれを否定し、自分の後に来る方がメシアであり、その方がユダヤ人らに聖霊また火でバプテスマを施すことになると告げます。

そこに北部ガリラヤのナザレ村から三十歳ほどのイエスという人物が訪ねてきます。ヨハネが水でバプテスマを施すと、この人には聖霊が降り、ヨハネはこの人をメシアとしてユダヤ人に示します。
それからイエスはメシア=キリストとしての活動を始め、多くの奇跡を行って人々の病気を癒し、『神の王国が近付いた』とユダヤ人に知らせ始めます。神はイエスに奇跡の力を与え、彼が来るべきメシア=キリストであることを証します。

しかし、メシアを受入れたユダヤ人は少なく、ここでもイスラエルの多くの人々は『新しい契約』に入ることを拒むばかりか、メシアをローマの権力に渡して無理に処刑させてしまいました。
その結果、メシアを受入れた幾らかのユダヤ人は「新しい契約」に入って聖霊が注がれるようになり、その人々もキリストの奇跡の業を受け継ぎましたが、その一方で、多くのユダヤ人はそれを妬みメシアの弟子らをも迫害するようになります。

そこで弟子たちはユダヤ民族を後にして世界に広がって行き、キリストによる世界の救いを知らせ、聖霊を受ける仲間を諸国民からも集めるようになります。キリストの弟子たちは、血統のイスラエルとは対照的に『神のイスラエル』と呼ばれます。こうして『女の裔』としての神の選びは、ユダヤ人から離れ始め、ユダヤ教とキリスト教は別の道を歩むことになりました。

キリストと彼に聖霊を注がれた者らが、アブラハムに約束された、世界の人々を『罪』というサタンの害から救う『女の裔』であり、律法契約が目指した『聖なる国民、王なる祭司の民』となる者らであり、新約聖書はこれを『聖なる者たち』と呼びます。彼らが『神の王国』、また『天の神殿』を構成する人々であり、天でキリストと共に『王また祭司』となることを目標にします。その働きの目的は、全人類から『罪』を除き、創造物としての栄光を回復させ、永生を得させることにあります。

彼らはキリストを仲介に『新しい契約』に入ったことを、その注がれた聖霊による奇跡の業と教理の知識によって示すことができました。新約聖書が書かれた時代には、キリスト教徒の集まりのほとんどが聖霊を受けた『聖なる者』で占められていたことが、その記述から分かります。彼らはキリストの犠牲による『新しい契約』に入ることで、アダムからの『罪』が仮赦免された状態に入るので『神の子』また『キリストの兄弟』とされます。

他方、キリストを退けた当時のユダヤの世代は、ローマ軍に攻撃され『火のバプテスマ』を受けることになり、エルサレムと神殿を失い、流浪の民となって「約束の地」から離れて行きました。神殿喪失の以降は、神の名が何と発音されるかも忘れ去られて今日に及んでいます。



4.その一方で、奇跡の『聖霊』を注がれていた『聖なる者』の中心的な使徒とユダヤ人の弟子らによって新約聖書が書かれ、旧約聖書の意味するところが明かされてゆき、最後の使徒ヨハネの著作が聖なる書に収められた文書の最後となりました。

『聖霊』の奇跡は彼らに働いて、外国語を話させ、預言を語らせ、使徒たちには病気を癒したり、教えの奥義を理解させていましたが、新約聖書はそれを今日に伝え、読む人々に神の一連の歩みを教えて信仰を促しています。

しかし、聖霊の賜物の奇跡も終わる時代が訪れます。『聖霊』が新たには注がれなくなり、世代が進むに従い『聖なる者』が減ってゆき、ついに地上から絶えます。歴史資料からすれば、それはおそらく第二世紀半ばの事であったでしょう。

『聖霊』を失ったキリスト教界は急速に本来の教えから離れ、ギリシア文化(ヘレニズム)やさまざまな異教の影響に曝され、ニケア公会議のあった第四世紀以降はすっかりとその姿を変えてしまいました。

今日、見られるキリスト教のほとんどは、この異教化したキリスト教なので、天国と地獄を信じ、三位一体の神を教え、刑具であった十字架を象徴としています。これらは『聖霊』がキリスト教徒を導いていた時代にはキリスト教のものではありませんでした。

しかし、イエスは「世の終り」の時期に弟子らが再び『聖霊』を受けることを予告しています。
彼らは為政者の前に引き出されますが、『聖霊』が彼らに臨み誰も論駁できない言葉を語り、それは諸国民への証しともなるというのです。ですが、このような弟子の姿を世界はまだ見ていません。しかし、聖霊を注がれる『聖なる者ら』が再び現れるとき、原始キリスト教が回復され、人々を救うという『神の名』も示されるでしょう。



5.「世の終わり」の時期は未だ到来していませんが、『聖霊』を受けるキリストの弟子が再び現れて、『神の王国』の王となるべきキリストの再臨と、その支配に従うべきことをこの世に明らかにするときに、はっきりと「世の終わり」の時期に入ったことを世界は知ることになるでしょう。そこで人類は忠節な愛を懐くか否か、つまり『信仰』が各人に問われることになります。
その後、『神の王国』がこの世を裁いて終わらせ、『この世』の空しい体制は終わります。

それは遠い昔にアブラハムに約束された『地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう』という神の言葉が、キリストの治める『神の王国』によって実現を迎える時となります。人々は祝福を享受し『罪』を去り、病気や老いから解放を受けます。

そこで「新十四日派」は神の次の一歩となる、『聖霊』が再び降ることを待ち望み、『神の王国』の到来に希望を託します。
『神の王国』は心に中に在るものではなく、この世に到来するものであって、この世の政治に取って代わる現実の支配であるというのが、最後の使徒ヨハネの指導を受けた第二世紀小アジアのキリスト教徒の信仰でした。

彼らの多くは「十四日派」と呼ばれましたが、それは「主の晩餐」を毎年のユダヤ暦ニサン14日に守ったからです。それは古代にモーセに率いられたイスラエルがエジプト出た前の晩に相当し、キリストの最後の晩でもありました。赤葡萄酒と無酵母パンを用いる「主の晩餐」はキリスト教に於ける最も重要な儀礼です。

終末の聖霊によるキリストの裁きの後に、人々は千年続くという『神の王国』によって、キリストの贖いを受けて『罪』の影響から遂に解放され、この世の苦しみは過去のものとなり、神の是認された創造物としての輝かしい姿を得ることになるでしょう。それがエデン以来変わらぬ神の意志であるからです。

千年の後、善人も悪人も含む、存在したあらゆる一般の人々の復活によって、人々はエデンの二本の木の選択に対応する、神の最終的な裁きを受けることになります。『罪』という利己心に固執する者は存在しなくなり、人を誘惑して神の裁きを意図せず推進したサタンもその邪悪な働きを終えて遂に滅ぼされます。
他方で『罪』を悔いる人々は象徴的に、『永遠の命の木』から食べることを許されて永生に入ることになり、以後は誰の死をも見ることもなくなります。こうして神の創造の業は本来の姿を取り戻すことになって完成され、永遠に及ぶことになるでしょう。
こうしてサタンである『蛇』はキリストたち『女の裔』によって致命傷を負って永遠の滅びに至り、人類はエデンの状態に戻されます。





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