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21.人の死後を問う

2015.05.04 (Mon)
人の死後を問う


人間は死という命の終りに常にさらされています。
ですから、人は自分の存在のおぼつかないことに不安を感じるものです。
そこで、人は自分にどんな存在意義があるのかということだけでなく、それ以上に自らの死後についてずっと尋ねてきました。

宗教がその問いへの答えを提供してきたのですが、その答えが一致しているわけでもありません。
それでも、様々な宗教に広く共通するものがあります。
それが、人は生前の行いによって、死後には「天国か地獄」に行くという教え、またその変形なのですが、やはりそれさえ宗教や宗派で教えるところが一致しているということはまずありません。
これは「死んでみなけらば分からない」実証不可能なところで何とでも説明でき、どれが正しくどれが間違いと断言できる人はいない点で、まさしく「信仰」の領域の問題となっています。

ヒンドゥー教では、人は分かたれた二つの世界を死によって行き来します。それは魚が川の一方の岸辺から他方の岸辺に行き来するようなもので、「あの世」また「彼岸」という別の世界があるというのです。

仏教の中には「輪廻」を唱え、人は死後、生まれ変わりますが、生前の行いの良し悪しに従って、次に生まれてくる姿や境遇が変わると教えます。
同じ仏教でも浄土教系では、キリスト教の「天国」とは異なり、「極楽」という西方十万億土の彼方(メソポタミアの辺り)に存在するという、理想郷のような環境に人は死んでから入ることになり、何に妨げることなく仏となる修行を積むことのできるとされます。

諸苦のない世界への憧れはイスラム教にもあり、こちらの「天国」(ジャンナー)は至福の楽園で、飲物、果物、肉も食べ放題なうえ、ひとりの男に70人(100人とも)の処女が与えられると言われます。

一般的な教会で教えられるところでは、洗礼を受けた信仰者は、死ぬと神のみ許に迎えられ過ごすのが「天国」であるとされていて、そこで「復活」を待つとも言われますが、この「復活」が確かに聖書に書かれてあるので、宗派によっては「復活」とは天国に行くことであるとも言われます。または、復活するのは、もう一度信仰を持つ二度目のチャンスを与えるためであるとも教えられるそうです。しかし悪行者、またキリスト教を信仰しなかった者は共に「地獄」に行くと教えがあります。

このように人の死後を宗教はそれぞれに異なることを教えるのですが、人は死後にその意識を保つと教えられる点では共通していると言えるでしょう。

しかし、その一方で旧約聖書が書かれていた古代のヘブライ人の概念は随分異なっています。

例を挙げれば、ソロモン王はこう語ったとされています。
『生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。
その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、定めない時にまでかかわることがない。』(伝道の書9:5-6)

つまり、死者は何も知り得ない状態に入るというのです。これでは至福を感じることもないでしょう。
これを裏付けるように、キリストは死んだ人について「眠りについている」と言うのです。
そして、同時に復活させることを「眠りから覚ます」ことに例えています。(ヨハネ11:11.25.43-44)

これら新旧の聖書の教えるところは、人間は死後に何も意識を持たず、神がその人を生前のように復活させる時期を無存在のまま待っていることになります。

では、キリスト教で教えられる死後にゆく天国や地獄の教えはどこから来たのでしょうか?

まず、広く人々には、人間の一生が束の間で空しいものであるという意識があります。
人々が「こうあって欲しい」と願うのは、愛するだれかが亡くなっても、どこかで「生きて」つまり意識をもっていてもらいたいことでしょう。この傾向は人間に広く見られるもののようで、仏教にも元々は死後の世界、「地獄」も「さまよう霊」も無かったと言われますが、いつのまにか混入してしまったところはキリスト教も変わらぬ趨勢にあります。

そこで人類一般にとってウケの良い教えが「死後の世界」を説くものであることが明らかではあるのですが、
特にキリスト教徒でなくても、亡くなった誰かが「天に召され」、天から生きている人々を見守ってくれることを願うような発言がよくされるものです。

まして、キリスト教徒があたかも天国や地獄が描かれているように錯覚する箇所を聖書の中に見出すと、それを自分の願望に従って故人に意識がある証拠に読み込むとしても不思議はありません。

そのように死者の行く場として誤解され易い代表例が「ゲヘナ」という聖書の言葉です。

日本語訳聖書の中では、この「ゲヘナ」を「地獄」と訳しているものもありますが、そのまま「ゲヘナ」としている聖書もあり、新改訳聖書が「地獄」と訳すことを避けています。
「ゲヘナ」とは、元々はヘブライ語「ゲーヒンノム」に相当し、元々これはエルサレムの南西側の斜面の谷を表す「ヒンノムの谷」を意味していました。

この「ヒンノムの谷」はユダ王国の時代から公共のごみ処理場とされていましたから、そこでは火が絶えることのないようにと着火し易い硫黄が散布されていました。
そこには価値の無くなったゴミが投棄されだけでなく、重罪人の死体も処置されていたとされています。

古来イスラエル人は土葬を常とし、墓所も「記念の墓(シェオル)」と呼ばれ、故人の復活を期して丁寧に埋葬していましたが、他方で死体をゲヘナに投げ込まれる重罪人には、復活してほしくもないという気持ちが込められていたのは容易に想像がつきます。

この背景を考慮して、『おまえたち蛇ども、まむしの末裔ども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。』というイエスの言葉を読み直すとその意図が見えてきます。(マタイ23:33)
つまり、イエスにその悪辣さを糾弾された者たちは、復活の希望も無いものとしてゴミ処理場に捨てられる罰を受けると言われていたのです。

そこではたとえ死体が火で焼かれるとしても、死んでいて意識は無いのですから絶え難い苦痛に身をよじらせることもありません。ただ、復活してくることが望まれない死体として焼却処分されるばかりです。

ですがゴミ処理場を「地獄」と訳すと、そこには大きな誤解を招くことは避けられません。地獄で苦痛が与えられ続けるのなら、人は死後も意識を持っていることになり、本来ヘブライ人が持っている生死観とはまるで異なってしまうのです。

聖書で「墓」の意味であるヘブライ語の「シェオル」やギリシア語の「ハデース」を、ゴミ処理場を表す「ゲヘナ」と区別なく「地獄」や「黄泉」と訳してしまうなら、これはさらなる誤解を覚悟しなければなりません。カトリックとプロテスタントが共同で翻訳した新共同訳、また日本聖書協会の口語訳もそのようです。このような翻訳の背景には、一般的教会で教えられている教理とのすり合わせがあるというべきでしょう。

しかし、キリストの言葉にも明らかなように、復活を期する「墓」と不要品を処分する「ごみ処理場」とは意味が大いに異なります。しかも、どちらにも「地獄」の意味はないのです。

これに加えて、聖書には「天国」を描いているかのようなイエスの語った「富んだ人と乞食のラザロ」の例えがあります。
生前に乞食のラザロは富んだ同朋ユダヤ人の家の前で物乞いをしていましたが、両者が死ぬとラザロは天でイスラエル人の父祖アブラハムの許に上げられていましたが、ユダヤ人の金持の方は燃え盛る火の中に居ました。
その理由は、生前に一方は良いものを受け、他方は悪いものを受けていたからだと説明されます。(ルカ16:19-)

この例えは、確かにそれぞれに意識をもって生前の酬いを受けているかのようです。
しかし、イエスがこの例えで教えたかったことが何であるかに注目すると、これは人間の死後の様子を単純に知らせているのでないことが例えの全体を見渡すと明らかです。
「富んだ人」とは、当時の宗教家たちの恵まれた宗教環境を指していて、一方の「乞食ラザロ」はさげすまれた一般民衆を意味しているのです。

宗教家たちはキリストを受け入れなかったので、アブラハムのような祝福に与ることはなく、却って不信仰を咎められる責苦を受けることになりますが、民衆はキリストを受け入れたので、天からの祝福に与ることになります。
この例えで、その当時の状況が時の経過により逆転することをイエスは宗教家たちに警告していたのです。

また、聖書には黙示録に描かれる「火の湖」というものがあります。(黙示録20:14)
これも同様に実際の責苦の場所でないことは、そこに投げ込まれるのが「死」や「墓」という象徴物であることが示しているのですが、クリスチャンたちにはそこまで聖書に気遣うゆとりはないかのようです。この「火の湖」に「死」や「墓」が投げ込まれるとは、それらが永遠に不要のものとされ、人間からこれらの悲しみが過ぎ去ることを述べているのであって、地獄を教えているわけではありません。

これらの言葉も、初めから死後の意識を信じたいと願っている人々が見聞きする場合にどんなことが起こるでしょうか。
キリストの語った物事の真意を探ることなく、やはり地獄はあったと言葉の表面をなぞるような安易な解釈に安住してしまうのです。キリスト教の外から入り込んだ地獄は、第五世紀にはキリスト教指導者アウグスティヌスの下で苦しみの場所としての教えが確立されていました。
以後、「天国と地獄」の教えがキリスト教の主流となって宗教改革も潜り抜け、キリスト教界では今でも日毎に教えられ補強されつつあるという嘆かわしい現実となっています。

これに加えて、この死後の世界を教えようと躍起になっている勢力が存在します。
これこそがエデンの園でエヴァを誘惑した蛇であり、それが単なる蛇ではなく「サタン」であったことを聖書は知らせています。(黙示録12:9)

その後、この「蛇」には多くの仲間が加わって隠然たる勢力となっています。
これがつまり「悪霊」と呼ばれる霊の存在者たちであり、彼らはサタン同様に元々神に創造された天使であったにも関わらず、神への忠節を故意に捨て『そのあるべき立場を離れた』のです。(ユダ6)
彼らは『罪を犯した天使ら』でありノアの大洪水以降は『囚われ』の状態にあり、人々の間で生活することを許されていないのです。(ペテロ第二2:4/ペテロ第一3:20)

そこで、様々に曖昧な仕方で世の中に不思議を起こしてはいるのですが、はっきりと姿を現し、この世に干渉することは許されていないので、正式に人間にコンタクトはとらないのでしょう。
彼らを誘惑して神から引き離したのが頭目のサタンであり、この悪の根源者は創造の神以外のあらゆる者を神から引き離そうとするので「中傷者」(ディアボロス)と呼ばれることにもなりました。
当然に天使らも中傷を仕掛け、相当数を仲間にすることに成功したことが黙示録に示唆されています。(黙示録12:3-4)

この反逆した天使らは、ノアの箱舟で知られる大洪水以前に、地上で人を装って女性目当てに歩いていたという驚くようなことが聖書にあり、このあたりの事情は聖書の創世記の六章に記録されていて、その痕跡はギリシア神話にも数多く残っているように読めます。

聖書では、天使らの影響もあって当時の世が余りにも乱れたために、神は大洪水を起こして世界をリセットし、ノアの家族八人を除いた世界全体を流し去ります。(創世記6:1-8)
以後、地上に来ていた天使たちは拘禁された状態に入り、人の社会に出入りを許されず、心霊的関わりを専らにする以外になくなります。そのように処置しなければ、世界を流し去る大洪水は何度も地上を襲ったのでしょう。しかし、神は虹を生じさせて「全地を流すような大洪水を起こすことはない」と生き残ったノアらに約束しました。

以来、堕天使らが人間社会を歩きまわることはなくなったのですが、今でも起こる様々な怪奇現象の原因は、まずこの者らの仕業と言えるでしょう。
奇怪な現象が起こり、それを封じるかのような宗教上の儀式を行うとそれが止むというのも、かえって、その宗教を悪霊が援護しているのかも知れず、この種の出来事を表面で判断しては侮られるばかりです。

あのUFOも科学信仰を煽ろうとする悪霊の意図がないとも言い切れません。
たとえ、その原因が異星人であったとしても、そのもたらす精神性の余りの低さや暗い印象からして、まともに相手をする必要があるものでしょうか。

これらの悪霊にはサタンという親玉があり、その独特の命令に従っているようです。
なぜなら、悪霊たちはサタンの主張に沿って行動しているように観察されるからです。

その主張とは、サタンがエデンの園でエヴァに語った『その実を食べても、あなたがたは死なない』という言葉にあります。
ですが、神は『あなたは土だから土に帰る』と言われたように、アダムもエヴァも死んで今日どこにも居ないことは明らかな事です。(創世記3:19)

新約聖書にも『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ』とあるように、人類の始祖が敢えて選んだ道は、「死」という明らかに存在を失うことであったのです。(ローマ5:12)

しかし、それではサタンが中傷した結果、人類が死ぬことになったことが隠しようも無く広まってしまいます。(ヨハネ8:44)
そこでサタンは手下の悪霊たちを用い、死後の世界があり、そこでも人間が意識をもっているかのように見せる理由があるのです。

悪霊など霊の存在者は死ぬことがなくずっと人間を観察していますから、死者の姿を見せたり、その意識をまねたり人の前世を捏造したりすることができるのでしょう。ほかにも様々に不可解なことを行っては人々の好奇心を煽り、いつの時代にも占い、呪い、心霊現象へと誘ってきたのです。そしてこれに釣られて悪霊の教えを信じ込む人々は非常に多く、今日もスピチャルと呼ばれる領域を含め後を絶ちません。

それで聖書では、旧約で律法が与えられて以来、心霊術や占いなどを死刑に価する重罪と規定していたのです。それは神に反逆した者らに関わることになるからです。(申命記18:10)

そして多様な宗教にも悪霊らが関わっていることでしょう。(コリント第一10:19-20)
多くの宗教で死後の世界なり意識なりが教えられているということは、死の真相を知らせずに多くの人々を創造の神から引き離し、姿を表せない悪霊の表象としての偶像を崇拝させ、サタンの側に付かせるというのがその実態であることを聖書は知らせています。

この教えは世界の宗教の趨勢を形作っていて、死後の意識を教えない宗教というものを見出す方がよほどに難しいのが現実です。
これはキリスト教の中にまで入り込んで天国と地獄とを教え、サタンの『あなたがたは死ぬことはない』との主張を繰り返してしまう愚を現に行わせているのです。

キリスト教徒がいくらか聖書を調べるならこれらの誤りに気付けるでしょうけれども、そこには人々の「こうあって欲しい」という願望も絡んできて、どうしても神の言葉の意味するところが無視されがちになるのでしょう。
しかし、わざわざそのように信じる理由はないのです。

人の死後を問うということにおいても「伝統的なキリスト教」が必ず正しいということはありません。その教えは五世紀ころまでに元々のキリスト教を離れてしまっているからです。それでも、聖書の語るところに耳を傾け、神の語るままに死というものを問い直して、この貴重な本来のキリスト教理解に達する機会は誰にも開かれているのです。




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