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20.戦争におけるキリスト教の敗北

2015.04.21 (Tue)
争いの絶えない一神教


三億三千万の神が居るというヒンズー教も、それぞれが化身(アバター)とされ、教義の上では一神教であるそうですが、一神教といえば、やはりキリスト教、ユダヤ教、イスラム教が代表的な「御三家」と云うところでしょう。
この三つの宗教は、つまるところ同じ神を崇拝していることになりますが、歴史的にはユダヤ教が群を抜いて古く、彼らの暦は五千七百年を優に越えています。この民族の父祖はシュメール時代の人アブラハムであり、その末裔であるイスラエル民族の歴史と共に旧約聖書も書かれてきました。

しかし、この点でイスラム教も負けていません。確かにイスラム教のスタートは西暦一世紀ころのキリスト教よりも五百年も遅れているのですが、イスラム教の担い手であるアラブ人もアブラハムの年長の息子イシュマエルの子孫であることから、宗教としての始まりは遅くとも歴史は共に古く、教祖のムハンマドは自分の教えがユダヤ人の賛同を得られるものと思っていたところが、これはユダヤ人が宗教にどれほど硬く固執するかを見誤ったというべきでしょう。結果として、ユダヤ教はこれまで通りのユダヤ教であり続け、イスラム教は別の独立した宗教となります。

その以前にユダヤ教からイエス・キリストを掲げて現れていたキリスト教とあわせて、この三つはおおもとは同じ神を崇敬しながらもそれぞれに異なる一神教となりました。
しかし、それぞれがまるで別の神を崇拝しているわけではありませんから、そこで「自分の方が正しい」という考えが起こって当然の成り行きです。

そしてどの教理が正しいかを論じはじめると、ひとつの宗教の中からも様々な「正しさ」が唱えられて、分派が始まってゆきます。そのうえ、教理や崇拝方法の論争を名目に、誰が指導の権限を握るかという政治的な争いに変質し始めるのがまるで決まりのように組織宗教の弊害となってきましたので、いまだに宗教らしくもない敵意を互いに募らせているものです。
今日のわたしたちの時代に見る通り、やはりユダヤ教、キリスト教、イスラム教の宗教間の争いは苛烈ですが、更に同じ宗教同士、内輪の分派の対立や抗争も激しく行われてきました。

キリスト教の人々は「キリスト教は世界で最も規模が大きいので、争いなどの醜聞が目立ってしまう」とか、「人間に戦う傾向があるのは、キリスト教徒に限ったことではない」と言い訳をすることがあります。
ですが、所謂「キリスト教」によって抗争や戦争が惹起され、またその敵意が著しく煽られてきたことは覆い隠しようなく歴史に刻まれており、いまさら無かったことには到底できません。

多神教の場合には、様々な神の存在を認めるので、神同士の対立は弱められます。キリスト教を国教にする以前のローマは、征服地の神々と自分たちの似た神とを同一視することができたので、征服民の前でその土地の神々にも崇敬を捧げてみせることができましたから、それは民心掌握にも利用でき、宗教は争いのもとではなく、帝国民の絆として用いることができました。

しかし、一神教の場合には、唯一神が誰であるか、どのような意志を持ち、崇拝の方式がどうであるべきかを明確にしなければならない傾向が非常に強くなり、教理でも多様性を許すことがかなり難しくなるのは自明の理です。同じ唯一神であるはずだからです。
そこで、今日まで世界に争いをもたらしているユダヤ教、キリスト教、イスラム教が元は一つの神から始まって争っていることはまったく一神教の象徴的事例というべきでしょう。

キリスト教の中でも、派閥や教理を巡って多くの争いがありました。いや、この点で言えば最も争いを起こしてきた宗教がキリスト教であるというのが真実の姿です。
しかし、初期のキリスト教は迫害される宗教であるばかりで、けっしてほかを迫害したり、争いをしかけたりするようなものでは無かったことを歴史は明らかにしています。

ですがキリスト教内部の争いの起こりといえば、第四世紀に始まったローマ皇帝からの迫害に由来するキリスト教徒同士の対立が記録されていて、これは「ドナトゥス論争」と呼ばれています。
西暦303年、皇帝ディオクレティアヌスは、キリスト教徒が集まること、また聖書を持つことを禁じ、逆らう者また、皇帝への焚香を行わない者を処刑するとしたのです。

この禁令に対してキリスト教徒の中からは様々な反応がありました。

兵士におとなしく聖書を手渡す者もいれば、渡さずに逮捕される者もあり、聖書は予め隠しておき、偽の書物を渡すという折衷派もいたとのことです。
焚香についても、激しく抵抗して処刑される者、役人が手を押さえて無理にその動作を行わされて許される者、中には焚香をしたという証明書を金銭で買う者もあったといいます。
こうした対応の違いが、特に迫害が過ぎ去ってから争いの種となりました。

迫害に妥協せずに辛い目に遭ったキリスト教徒は、自分たちが正しく、妥協した者、特に指導に任じられている者で抵抗しなかった者たちにはもはや指導者としての資格は無く、彼らが行った信者の入信の儀式であるバプテスマも無効だと主張し出したのです。

この妥協を拒んだ、自らを「正しい」とする集団はドナティウスという唱道者を中心に、ドナトゥス派と呼ばれる分派となってゆきました。彼らは北アフリカを拠点に侮り難い勢力に発展して、当時の主流派である普遍教会(カトリック)と対峙するところにまで進みます。

この事態を憂慮した普遍教会側は、遂にドナトゥス派を実力を以って排除することに着手しますが、これは史上初のキリスト教徒によるキリスト教徒への弾圧となりました。カトリック史上最大の指導者と呼ばれるアウグスティヌスが、この実力行使の容認するに至っています。

こうなると、「正しさ」というのは「強さ」と同義語になってしまいます。
その後も、カトリックはこうした「正しさ」を行使することを厭わなくなり、初期のキリスト教徒が見せた迫害に耐える姿勢から、迫害を加える姿勢へとその有様を大きく変えたのでした。

中世には、この「正しさ」はあの「十字軍」となって、イスラム教とユダヤ教に対する大規模な軍事行動へと発展します。イスラム側も「ジハード」を宣言して応戦し、それは西洋と東洋の衝突をもたらし二百年近くにわたって断続的に繰り返され、多くの命が「神」に捧げられました。

十字軍に参加する者には「全贖宥」と言って、すべての罪が許されることを教皇が請け負ったので、その粗暴さに拍車がかかり、ヨーロッパ諸侯や平民の軍隊は、途中でユダヤ人を襲い惨殺しつつ、血に飢えたかのようにパレスティナや、本来関係のない土地にまで侵入し、殺戮、暴虐、略奪を繰り広げてイスラム教徒の住む領域に侵入してゆきました。
驚くべきことに、これらの極端な悪行の数々は「聖地巡礼」の美名のもとに行われていたのです。何という「正しさ」でしょうか。
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Crusader Loui IX


この時期、教皇は数々の騎士修道会を公認しています。騎士修道会とは、武装して聖地の巡礼者を守り、異教徒を打倒すことが神の意志であり、罪の贖いを得る行いであるとする、「武力修道」というようなキリスト教からすれば矛盾を孕んだ宗教組織というべきでしょう。これらの騎士修道会にはチュートン騎士団のように慈善団体と形を変えて今日まで存続しているものもあります。

しかし、そのカトリックもやがて征服できない敵をヨーロッパに抱えることになりました。
それがプロテスタントという新手の分派だったのです。

それまでも、変質を続け異教や民間崇拝と混交してしまっていたカトリックの教理に疑問を呈する指導者が現れることもあったのですが、権力化したキリスト教会はそれらの唱道者に「異端宣告」を下しては処刑し、見せしめとしてきたのです。チェコのヤン・フスなどはその代表例でしょう。

しかし、カトリックは政治的にも横暴に振る舞ってドイツ諸侯に煙たがられていたところにマルティン・ルターが現れます。
彼は、神聖ローマ帝国の会議に呼び出され、フスのような最後を遂げてもおかしくはなかったところを、ルターの地元のザクセン選帝侯によって、その領地の城に一年も匿われたのでした。
所在不明となったルターは殺されたとも噂されていましたが、カトリックの「権力」にルターが対抗できたのは、やはりドイツ貴族による「権力」の保護が在ったればこそなのです。

こうして、カトリックは権力で打ち負かし得ない、やはり権力に守られた分派と遭遇したのですが、もちろん、それをすんなりと認めようとしたわけではありません。
そうしてドイツでは、カトリックとプロテスタントの諸侯が外国勢をも巻き込んで非常に過酷な「三十年戦争」を戦うことになりました。もちろん、その動機には様々な政治的思惑、貪りの機会を見出す貪欲さが裏にあってのことではありますが、それぞれに宗教上の「正しさ」を掲げていましたから、その戦いはほどほどの線引きを行って終わるような政治的戦争と異なった妥協の無い戦いとなり、信仰の違いが生死を分けるような残忍な殲滅行為が随所で起こります。
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近世に入って宗教の独善性は科学や社会構造の進歩によって薄められ、宗教そのものの為に戦争が起こる機会は随分減りましたが、それでも事有る毎にカトリックの旧教かプロテスタントの新教かで権力の闘争が散発し、ついこのあいだの20世紀の終わりまで武力闘争を行っていたのです。

まして軍隊を祝福する聖職者の姿は相変わらずに見られます。「キリスト教徒」の兵士たちも自分たちの戦いに正義を求め、聖職者の祝福を望んでのことでしょう。二十世紀に起こった二つの世界大戦において、日本が神道を精神的支えにしたように、欧米ではキリスト教をもって戦いの正義と信じようとしていました。

ナチスはカトリックと政教条約(ライヒスコンコルダート)を締結しており、カトリックの聖職者が共産主義に対抗する防波堤とすべく、ファシズムを後押ししたことはよく知られた事実です。しかし、カトリックといえばドイツが占領したフランスも国民の九割がそうなのです。
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他方、ドイツはプロテスタントの国でもあり、それは英米もまたそのようでありましたから、ヨーロッパはカトリックのイタリア、フランス共々、両陣営のキリスト教は新旧それぞれに入り乱れながら戦うことになってしまいました。
新教の聖職者も旧教の聖職者も、それぞれの兵士を祝福して戦線に送り出し、それぞれの従軍牧師や神父が戦場に赴き戦いを支援したのです。


戦闘行為は過剰なストレスを兵員に強制します。凄惨な殺し合いの現場に居るということが普通の人に対してどれほどの心身の負担となるかは、帰還兵の多くがPTSDに悩まされ、バックファイアにさえ身を隠し、退役後の健康を害し短命を招くということから推測できるでしょう。

その過酷で異常な現場で兵士らは自らの精神的拠り所を求めるのは自然なことでしょう。そこで従軍牧師や神父、またユダヤ教のラビも必要とするのでしょう。
しかし、そこには世俗の争いを助けるという宗教の姿があります。
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1944.jun.


もちろん戦争への参加を躊躇するキリスト教徒がいないわけではありません。
少数派の人々はこの点で、投獄されても兵役そのものを拒否したりしてきました。
それと共に躊躇する人々を説得する方法が軍隊にあり、それはキリスト教の発想の転換のようなものです。

例えれば、キリストは確かに『剣をとる者は剣によって滅びる』と言いましたが、『隣人を愛せ』とも、『友のために自分の命を与えるほどの愛はない』とも言っています。
そこで、「自分の身近な隣人を守ることはキリストの愛の実践なのだ」と言って、躊躇していたキリスト教徒も説得しようとします。それが崇高で神聖な責務であるというのです。

ですが、これは詭弁でありキリストの愛を戦いに置き換えてしまう悪辣な唆しです。
キリストが死んだのは、戦死したのではありません。イエスが一度も戦いを行わなかったことは、当時のローマ総督が何度も釈放を試みたところにはっきりと現れています。
イエスが『隣人を愛せ』と言ったのは、「隣人を守るために敵と戦え」という意味ではありません。むしろ『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』とさえ言われているのであり、『友のために自分の命を与えるほどの愛はない』とは、戦って死ぬことではなく、イエス自身が人々の『罪』を担って犠牲となる受身の死を述べていたのであって、人を殺す過程での死を意味しません。

このように、戦いへの参加を促す誘いには、戦いの攻めにではなく、守るということが強調されます。
ですが、「攻撃は最大の防御」というように、戦いではそれが攻めなのか守りなのかを一々判別して、守りだけを行うということは実際的でも可能でもないでしょう。

日本では戦没者を悼むときには、「国を守って死んだ英霊」というフレーズが用いられるのですが、防戦一方になった戦争末期にはそう言えたとしても、破竹の進撃をした初期に通用するとは思えません。
戦争の末期では、戦争という事態の収拾が出来なかった当時の政治の失敗が、「国を守って死んだ」という大義の陰に潜んではいないのでしょうか。いや、戦争に至ったことも関係するすべての国々の政治や外交で戦争回避に失敗したのであり、戦闘員も非戦闘員もすべてがその犠牲者であったと見做すのは間違いなのでしょうか。その時期に民衆が戦争肯定に煽られていたとしてもです。

こうしたフレーズに大義が単純化され、真相が見えなくなってしまう例は、戦勝国であるキリスト教国側でも変わりません。
もはや趨勢も決したかに見える1945年夏に、米国で原子爆弾の日本への投下を正当化するのに用いられたフレーズは「戦争を早く終わらせる」というものでした。そして、今でもそのように広く理解されているのですが、これは多くの無防備都市への絨毯爆撃と同様に、著しい無差別攻撃であり、国際人道法上に問題を含んでいるとも言われます。

当時の陸軍元帥アイゼンハワーは「原爆の投下は必要が無い」と言って反対していましたが、少数ながら米国には反対を唱える声がこのようにあったにも関わらず、それはトルーマン政権により、わずか三日違いで二度までも決行されたのです。

広島に向かったB-29エノラ・ゲイ号については、核爆弾を投下する任務を果たしてこの戦争を早く終わらせ、その搭乗員が「無事に」帰還するようにとの祈りが従軍牧師によって捧げられた後、この爆撃機は太平洋の島から飛び立ち、やがて「任務」を果たして兵士らは確かに帰還しました。そのうえで、「その祈りは聞き届けられた」というキリスト教徒(日本人)がいるのです。
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1945.8.6未明

宗教家たちは戦線の双方で宗教が兵士らに戦うための精神的支えを与えて戦線に送り出してきたのですが、戦うという行為そのものを宗教は問題としなくてよかったのでしょうか。
それこそが、宗教が抑制力として貢献できた場ではなかったのでしょうか。ここから見えるものは、世界大戦について宗教の無力と、意義における決定的敗北というべきでしょう。二発目のプルトニウム型核爆弾は、長崎のカトリック教会と多くの信徒の上に炸裂し焦土としています。そこでキリスト教も無力であったということでしょうか。

特にヨーロッパの戦線ではキリスト教の諸宗派の本質が問われたと言えます。
キリスト教の同じ宗派の祝福が双方の軍隊に対して行われ、実際に戦闘が行われるときに、さて神やキリストはいったいどちらの側についたのでしょうか? それはむしろ問題にはされてもいなかったことでしょう。つまりは神をそれぞれの心の支えに利用しただけというのが実態であったことがそこに見えます。
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それは「正しい」と唱えながら、その行うところはまるで正反対というべきであったでしょう。その戦いにキリストとの関わりが何かあったでしょうか。
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ですが、これらの争いの全体を眺めるときに、人間はともかくも、神はこれをどう見ているのかこそが問われるべきことに違いありません。
神は本当にこうした人間の「正しさ」をそのままに「正しい」と認めていたのでしょうか?
第二次世界大戦はキリスト教国による二つの原子爆弾の投下によって無数の非戦闘員の殺戮の後に終わりを見ました。いや、その後の混乱の中でも様々な犠牲者を出し続け、後遺症に苦しんだというべきでしょう。

ヨーロッパでは、民族浄化の証拠が示されていても教皇はナチスによる残忍なホロコーストを黙認していました。カトリック信者への迫害を恐れたのです。カトリックはこれをヨハネ=パウロ二世のときに謝罪することになりました。
ですが、これらの歴史をキリスト教全体としてはどう見るべきでしょうか?

『剣を執る者は剣によって滅びる』というのがイエス・キリストの教えであり、実際、初期のキリスト教徒は迫害を受けこそすれ、迫害したり、武器を振う集団ではなかったと歴史資料から言うことができます。
それがキリスト教もローマ帝国の宗教となったときに変化せざるを得ませんでした。ローマ帝国がどこかの国や民族と戦争を行うときに、その国教である宗教が戦いを禁じていては国は滅びるばかりです。実際、ローマがキリスト教を国教にしてからは帝国の弱体化が顕著になってゆく途上にありましたから、なおの事、兵士は戦わねばなりません。
そこで、キリストの教えに基づいて戦闘を避けようとする純真なキリスト教徒は、却って国教としての「キリスト教」を否認していることになってしまうというジレンマが生じていました。

キリスト教がローマ国教となる前であった四世紀には、例えれば「聖マルティヌス」として知られるキリスト教徒がいます。彼は十歳からキリスト教教育を受けていましたが、立場上ローマ軍騎兵の精鋭となっていました。しかし、その良心は彼を苛んでいたようで、軍隊に入って三年目で十八歳のとき、遂に「自分はキリスト教徒です」と申し出て、戦闘の放棄を宣言しました。そこで上官から与えられた条件は、敵の前に武器を持たずに立つならば釈放するということであったといいます。しかし、そこに蛮族の敵軍が和平を申し出てきたので戦闘にはならず、彼はそのまま釈放されることになったと伝えられています。

この時代にはキリスト教徒は少数で、帝国の宗教ではなかったからこそ、却ってキリストの言葉に従おうと願う軍人も存在できたといえます。
当時はキリスト教が軍隊を含む様々な場所に浸透し始めた時期で、軍隊の中でもキリスト教に徐々に改宗しつつある人々がいる過渡期でありましたから、却って純粋な動機で信仰に従い戦いを放棄することもできたでしょう。
しかし、キリスト教が帝国の宗教となってしまうとキリスト教そのものが変質してしまい、ユダヤ教やイスラム教のように「戦う宗教」とされました。そこでは戦いを拒否することは却って「信仰を否定する」ことになってしまうのです。

その原因といえば、『王国はこの世のものではない、もしそのようなものであったなら、わたしの弟子たちは戦っただろう』と言ったキリストの『王国』が世俗を離れたところにある別物であるという意識の無さがあります。
まさに、カトリック最大の教師とされるアウグスティヌスは、それ以前のエイレナイオスのような教師の教えた「この世の終わり」に実際に到来する政府としての『神の王国』の教えを無視して、その先達の著作の写本を作らせる際に、その一部を意図的に破棄までしたのです。

アウグスティヌスはローマ帝国がキリスト教を国教とすることに大いに賛成しており、この世の終わりの神の王国が実際に到来することを信じてはいませんでした。かえって彼は曖昧模糊な解釈を施してその教えを封じる方向に動きます。そこで、ローマという世俗の帝国の歴史の果てに『神の国』が教会の中に完成されるという、俗世との折衷を意図して、世俗との無関係を唱えた本来のキリスト教からはっきりと離れました。
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Aurelius Augustinus

アウグスティヌスにとって『神の王国』はイエスの誕生以来始まっていて現在進行形であり、原始キリスト教の言うような将来の終末に、現実の権能を持った政府として現れるものではなかったのです。そこから神の国は信じる者の中に存在するものともされてゆきます。

つまり、神の治める国はすでに来ていると唱えたのです。
その結果、神の意志は摂理となって地上に表明されていることになり、起こる事柄には神の思し召しがあっての事とキリスト教徒に理解されるようになります。

しかし、この世が神と対立するものであることは聖書に何度も語られています。
ひとつ挙げればヨハネ第一の手紙の5章19節に『わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にある』と記されており、キリストの死後であってもこの世が神とは無関係で、むしろ悪魔の側にあることを教えているのです。
この世の有様が神の意志であるというなら、それは何と酷いものなのでしょう。争い合うこの世が神の意志に従っていると言えば、それではかえって神を冒涜することにはならないでしょうか。

アウグスティヌス以来、キリスト教は権力と結びつき、上記のような争いの宗教となってきたのは歴史の証明する通りです。『この世』は神から離反しているので、争いは避けられません。ですからキリスト教徒といえども『この世』の権力に組みすれば、争いに巻き込まれるのであり、そこに「神の義」などはありません。聖書にそのようなキリストの姿を見ることはけっしてないのです。(ヤコブ4:1-4)

ローマ国教化以後のキリスト教の歴史には、戦いを度外視して除くことができず、イスラム世界に対する十字軍に加えて、内部の敵と見做した異なる教理を持つ宗派への流血は、ドナトゥス派迫害から中世を越えて宗教改革期の戦争以降も「異端審問」を通して繰り返されてきました。これに欧米の多くの立場の弱い女性たちを虐殺することになった狂信的で無慈悲な「魔女裁判」もそう無関係とは言えないでしょう。

聖書の中には『汚れたものが清いものを出せるだろうか?だれもいない。』とあります。(ヨブ14:4)
まさしく、ひとたび権力の流血に染まったキリスト教は、そこから元に戻れずにいます。そしてユダヤ教やイスラム教共々に、苛烈な宗教紛争の当事者となってきたことは覆い隠しようのない歴史の事実です。
それでも武器を執らないキリスト教徒が、新興の宗派などでわずかに存在はしたのですが、「キリスト教」と一言でいうなら史上最も戦いを行ってきた宗教と言わざるを得ません。
しかし、それはキリストの言葉に逆らってのことなのです。

ここでも、ローマ国教化以前の原始キリスト教に目を向けるべき理由があります。
そこには政治に組しないキリスト教がありましたが、それはコミュニティや地域集団で信仰する宗教でも、国家を後押しする教えでもありません。国全体の教化、つまり「福音化」を目指して信者の比率を上げようとしたり、巨大な教会堂や組織を維持したりする理由もありません。
個人の信仰が本来のイエスの教えであり、そこにこの世に知られていない本来のキリスト教がいまだに隠されているのです。



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