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19.終末の裁き

2015.01.20 (Tue)
「神の裁き」といえば、恐れを感じさせるような、まず人気の出ない言葉です。
一般の教会に通う人々もその点は変わりなく、「裁き」を唱える宗派は異端のように言われさえします。
「裁き」には教会員の望む幸せなご利益を曇らせる響きがあるからでしょう。
ですが、原始キリスト教の観点からすれば、聖書に再三にわたり書かれている以上、「裁き」について語らないわけにはゆきません。

確かに「裁き」は陰気な雰囲気の言葉ではありますが、後に述べるように、この世の「終末の裁き」について聖書記述を追ってゆきますと、その「裁き」で人は厳格に言動を問われることはなく、むしろ、きわめて公平で寛容な裁きを受けることが分かります。
そこで、人々は恐れをなして「善人」の仮面をつける必要もありません。むしろ、神は人の内面を見ると言われるからです。

それにしても、神はなぜ「裁き」をもたらすのでしょう。
それはまず、人間の自由意志と深い関連があります。また「裁き」は「救い」とも関連しているといえます。

「救い」は「裁き」を通してもたらされることを旧約聖書が示しています。
神が裁きを行った例として、奴隷にされていたイスラエル民族をエジプトから導き出すにあたり、紅海の膨大量の海水が左右に分かれ、イスラエル人の逃げ道となって彼らを救い、その海の中の道にエジプト軍が追撃して入ってくると、その水はその兵士らの上に戻り、呑み込んでしまいました。ここに「救い」と「裁き」が現れています。虐げる者から弱き者たちを救うという裁きでした。

このような神の強力な裁きの執行が、過ぎ去った時代だけのものだけかといえば、聖書はそうは言いません。
むしろ、この世の終わりに臨んでは、神が非常に大きな力を振うことになることを繰り返し記しています。(エレミヤ25:31/ミカ7:15/ゼパニヤ3:8)

最終的に、神は人間のひとりひとりに救いを備えていますが、それは無条件なものではありません。
なぜなら、神からの救いにあずかったとしても、そもそも人間に救いを必要とさせた、その同じ過ちが繰り返されれば、苦しみの原因はいつまでも無くならず、世界を優れて良いものに創造し存在させた神の意図は永久に実現を見ない事になるからです。

その繰り返すべきでない過ちとは、アダムが犯した罪、つまり、自分を存在させた創造の神への不忠節さにあります。
それは、自らを存在させた方に尊敬も感謝も払わない事であり、自らの作り手に相応しい敬意を抱かないところで、道徳、また倫理のすべてを土台から覆してしまいました。 この人間の倫理上の欠陥を聖書は『罪』と呼びます。
人間に『罪』があることは、この世をいくらか眺めるだけで余りにも明らかです。

この世は、基本的にこのように創造の神を無視する状態にあり、キリスト教界にあってさえ、ご利益を求めて神を崇拝しているのであれば、神の意図には無頓着というべきでしょう。 また、自分が救われることばかりを願うことも、本当には神を知ろうとはせず、その関心は自分にばかりに向かせてしまうでしょう。

神との関係を低めたアダム以来、人類は神との間での道徳の基礎を失った状態にあり、神ばかりか人とも適切に関わってゆくことに問題を抱えています。つまり、人間は「他者とどう生きてゆくか」という倫理について、欠陥を背負って生まれて来るのです。

これについて聖書は『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだ』と記しています。(ローマ5:12)

この『罪』がアダムから遺伝している証拠は誰の目にもはっきりとしています。
それが証拠に、世界から争いや犯罪が絶えることがありません。倫理上の欠陥は、すべての人間が避けることができないのです。これが聖書の言う『罪』であり、誰かが犯した個々の悪行を指しているのではありません。人間は皆『罪人』であると聖書は明らかにしています。

アダムが禁断の木の実を取って食べた事、それがすべての『罪』のはじまりであったと創世記は告げています。こうして聖書は簡単な記述ながら、全人類が道徳的な問題から逃れられない理由を知らせます。

つまり、創造の神という、まったく人間が存在する由来、究極的な第一者に対する関係性、すべてのコミュニケーションのはじまりにおいて、人間はすでにつまずいているのです。 これが互いにどう関係するかという倫理、また道徳上の問題の原因となって人類を苦しめてきたのです。

一方聖書では、『神と人を愛する』ことをあらゆることに勝るべきものと見なします。 『愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は法を全うするものです。』とあるように、 この『愛』こそが人が必要としていることであり、『罪』の反対側にあって、唯一人間の中に存在する真実な事柄です。(ローマ13:10)

そこで、まず倫理という他者との関係性に問題を抱えてしまった状態にある人間にとって、『愛』による神との関係の回復なくして、その欠陥を改善することはできません。 『罪』によって壊された神との関係を元に戻すことこそが、人間の最重要な事柄であり、それが倫理の基礎を取り戻すことになるのです。

しかし、人は誰も、自分から倫理上の欠陥から逃れることができません。
また、神がひとたび『罪』に陥った人類をそのまま無罪放免とすることは、神自身に倫理上の矛盾をきたらせることになりますし、創造界から却って倫理を奪い去り、秩序を捨て混沌に陥れることになってしまいます。それは創造した世界を虚しさに陥れることで、当然ながら神の創造の意図するところではありません。

そこで神は、人間の『罪』の責めを『もう一人のアダム』と呼ばれる『罪』の無い人間に負わせることをよしとされたことを聖書は明かします。 (コリント第一5:45-47)
それが『世の罪を取り去る』キリストであり、イエスが処女から生まれたとされる理由も、『罪』が遺伝しているアダムの血統に属してはならないところにあるのです。 (ヨハネ1:29)

『罪』の無いキリストは、死に至るまで試されても神との関係を捨てずに忠節を全うし、その犠牲でアダムの犯した『罪』を相殺し、人類が神との関係を回復する道を開きました。(ローマ5:17)

さて、そこで、アダムの子孫のすべてに、エデンの園でアダムの前に置かれた二択が同じように問われることになります。 なぜなら、貴重なキリストの犠牲を受け入れず、感謝しない者をその救いから除外するためであり、これが『裁き』となります。

キリストの犠牲を信じず価値を見出さないなら、それは大きな倫理上の問題となります。 それは『罪』の内に留まることを敢えて選ぶに等しいことで、アダムと同じ選択をすることになるのです。

アダムとエヴァはエデンの園で、神との関係をなおざりにし、忠節ではありませんでした。 そこで倫理上の欠陥を負ったので、あらゆるアダムの子孫は『罪』の内に生まれてきたのです。 一度低められた祖先は低められたものを生み出すばかりです。その『罪』が存在することはこの世の現状を見る限り否定のしようがありません。

アダム以来、人間の生涯は『顔に汗してパンを食べ、ついに地面に帰る』という、強制労働と死を待つ空しいものとなってきました。また『罪』は、人間社会にあらゆる争いや偽りや圧政を今日までもたらしてきたのです。

世界中では、すべての人々に行き渡るだけの食料が生産されていても、飢餓や過酷な食料不足がなくならない理由のはなぜでしょうか。近年の自然破壊も人間の『罪』と無関係ではありません。 そこには人類の身勝手な貪欲が作用していないでしょうか。

経済上の争いは富の偏在と不均衡を生み、財に有り余る一握りの人と、貧困にあえぐ無数の人々の世界がこの世です。
そしてすべての人が富を巡って日々争い、金銭の奴隷となってしまっています。
『アダムの子ら』は何と生きるのにむずかしい世界に生まれてくるのでしょう。

しかし、キリストがその『罪』を相殺する犠牲となった後、アダムの子孫には『救い』の道がただ一本開かれました。 それは隣人愛の精神を教える道でもあります。
ですがこの点で、アダムと同じようにその子孫についても試される必要があります。

救いをもたらすキリストの犠牲を受け入れるということは、まず、イエスを神が人間のための犠牲となるよう遣わされたキリストであることを認めなければなりません。つまり、イエスをキリストとして信じることが求められるのです。 その信じるということには、その自己犠牲の精神に同意し、その人なりであってもキリストの歩みに倣う気構えが求められることでしょう。

聖書に『子(キリスト)を信じない者には、神の憤りが留まっている』とあるのは、このためです。 (ヨハネ3:36)
多くの教会では、このような言葉を根拠に、洗礼を受けた信者にならないと救われないと教えます。

ですが、キリスト教を信じてバプテスマを受ければ、それで救われるわけではありません。 (フィリピ2:12)
なぜなら、まだ『罪』はそのまま残っているばかりか試みを受けてはいないからです。 聖書ではこの世の終わる「終末」の時に、その試みを受けることが『裁き』となることを知らせています。(マタイ25:31-/ヨハネ第一4:17)

アダムの場合は木の実を取って食べるかどうかの試みが『裁き』となりましたが、その子孫の場合は『神と子と聖霊』に信仰を働かせなくてはなりません。人を救うのは洗礼ではなく『信仰』であると聖書は言います。 (マタイ28:19/ローマ1:17)

キリストがユダヤに現れたときに、その行う奇跡の業は神からの聖霊によるものでした。 (ヨハネ10:38)
しかし、多くのユダヤ人はその奇跡の業を見てもキリストを信じず、却ってイエスを処刑させてしまったのです。 (ヨハネ第一5:9-10)
つまり、ユダヤ人の多くは神は信じても聖霊が信じられず、キリストも信じなかったのです。 原因は彼らに偽善を行わせる利己心や高慢さにありました。

その一方でイエスは下層の人々、罪人として社会から遠ざけられ、ユダヤ教の会堂にも入れてもらえない収税人たちや娼婦らにも分け隔てなく接していました。
それを見た宗教指導者層は、そのイエスを「収税人や罪人の友」と呼んで侮蔑していたのです。(マタイ11:19)

このエリートらは、自分たちの敬虔さを誇って、会堂でモーセの律法を聴くこともできない下層民を「地の民」(アム ハ アレツ)と呼んで蔑視していました。
ですが、イエスはこうした差別をせず、かえって、この人々が『神の王国』に入りつつあることを指摘しています。この世の終わりの裁きも同じようになることでしょう。(マタイ21:31)

では、この世の終わりの裁きはどのようなものとなるのでしょうか。

この世の終わり、つまり終末のときには、キリストの使徒たちや直弟子たちのように、信者の中から聖霊を注がれて、奇跡の業を行う人々が選ばれ、その人々は『聖なる者』または『聖徒』と呼ばれます。 (ルカ21:15/コリント第一1:2.)

この人々は、聖霊を通して奇跡を行うだけでなく、『罪』にまみれた『この世』という体制に有罪宣告をはっきりと下します。 (ヨハネ16:7-8/コリント第一6:2)
その言葉を論駁できる者はいないともイエスは予告されました。 (ルカ21:12-15)

ですから、人類が裁かれるとき、アダムのように神から離れる人々は、意図的に、敢えて、『罪』に凝り固まって『神と子と聖霊』を信じない道を選ぶことになります。 具体的には聖霊の業を行い、その言葉を語る『聖徒たち』を助けないことによってその道に入りることをキリストは告げています。(マタイ25:41-46)

一方で聖霊の業や言葉を信じる人々はアダムの道を離れ、救いへの道を歩み始めることになるでしょう。 この人々は『聖徒たち』の言動に神を感じ取り、信仰を働かせるので、聖なる者たちを助けようとします。(マタイ25:31-40)

この裁きでは、自分が倫理上の欠陥を負った存在であることを謙虚に認め、それがどれほどの問題を引き起こしているかを味わい知っていなければ、聖霊の言葉に同意もできないでしょう。

また、この裁きの終わるまで、キリストは人類に対してその姿を現しません。そうしなければ、人々は自分がどちらのものであるかを信仰によって自由に示すことにならないでしょう。
そこで、終末のキリストは『雲と共に来る』ことを新旧の聖書は揃って語ります。それはつまり、裁きのためにキリストは見える姿ではけっして来ないという意味です。(マルコ14:62/ダニエル7:13)

しかし、裁きが終わり、人々が分けられて後、不信仰な人々は信仰を持つ人々に手を下そうとするときに、神は介入して不信仰な人々に終わりをもたらし、信仰ある人々を救われます。そこでは、あらゆる目が神とキリストの力を認めざるを得なくなり、その意味で雲と共にいたキリストを『見る』ことになるでしょう。(エゼキエル38:16/黙示録1:7)

こうして神の裁きを見渡すと、奇跡の業と言葉をもたらす『聖霊』が非常に大きな役割を果たすことが理解できます。(マルコ3:28-29)
また、聖霊を注がれる『聖徒』と呼ばれる選ばれた人々に対してどう振る舞うかで、将来の終末の「この世の裁き」の結果が個人的に決まってくるということも視野に入ってきます。(マタイ10:42)

そこで求められるのは『信仰』であって、善人であるかどうかということにはなりません。品行方正な人を神は選んで天国に召すというのは、まったくの誤解です。(フィリピ3:9)

聖書によれば、天に召されるのは『聖徒』だけで、その目的は人類の罪を贖いながら、彼らが天国ではなく『天の王国』を構成して新しい世に人々を導くためなのです。世界の人々はこの『王国』の支配の下に入ってはじめて、本当の意味で『罪』を除かれて生き方を改めることができます。その裁きの以前では、どんなに善人を振る舞っても、それは仮面をつけただけのことで、内面は本質的に変わってはいません。

ですから神の目的は善人を集めて良い世界を造るのではありません。むしろ、罪深くとも悔いる人々を神は見過ごさず、キリストの犠牲をその人々のために当てはめ、その罪を消されます。 罪を除くことは、人間がどんなに努力してもけっして出来ない事だからです。『自分には罪はないと言うなら、その人に真実はない』と聖書は言うのです。(ヨハネ第一1:8-9)

ですから、今、善良にしていれば、または信仰があれば神は救ってくれると期待する理由はありません。また、過去にどんな犯罪や過ちを行ったかもそこでは問われるものではありません。この点で、キリストは『どんな罪も許される』とまで言われるのです。(マタイ12:31-32)

教会で教えられるように、バプテスマを受けた「キリスト教徒」を救うのが世の終わりの裁きというわけでもありません。
どんな宗教を信じていようと、どんな思想を持っていようと、どんな立場にあろうと、終末に働く聖霊の奇跡を信じるか否かによって公平に裁きが将来世界中に臨むことになります。それこそが「神の裁き」であるからです。

聖書の預言は、終末に神が『あらゆる国民を激しく揺り動かす』ことを知らせています。それによって諸国民から多くの信仰を表す人々が現れることでしょう。(ハガイ2:7)これこそが、聖霊を通した神の世界宣教ともなり、人々を二つに分けるものとなります。(マタイ10:18-)

そこで人々は、それぞれに自分が本当にはどんな者であるかを、自ら納得しながら、迷いなくあらわにすることになるでしょう。
人は『聖霊』を前にしてはじめて、心の中の決定を自由に表すことになるからです。
それは、神とみ子だけでなく聖霊をも含んだ信仰でなければなりません。

試みを経て神との絆を選び取る人々について、聖書はキリストの自己犠牲の愛の許に集められ、『神の子』とされることを知らせます。この意味は、神の創造物として完成され『罪』をまったく去って、神と共に生き続けることです。
ですから、試みの後に『死は火の湖に投げ込まれ』もはや存在しないことを示しています。


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