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原始キリスト教とキリスト教との違い

2014.12.23 (Tue)
「原始キリスト教」とは、キリストの使徒たちの時代の教えを指すもので、それから「教父たち」つまり、使徒の後を継いだユダヤ人ではない指導者たちの時代が「使徒後教父」の時期が続き、その間に原初の教えは徐々にヘレニズム文化の影響に曝されてゆきました。

その後、第四世紀に入るとローマ皇帝コンスタンティヌスが太陽神崇拝者でありながらキリスト教徒を自認するところから、キリスト教界に介入を始め、それでなくても原初の教えを離れ始めていたキリスト教は決定的な変化を余儀なくされました。
殊に、ミラノ司教アンブロジウスがふたりの皇帝を三位一体派に取り込んで後、「正しいキリスト教」を法によって規定し、その後ローマ国教化が完成を見ています。

カトリック最大の教父とされる「聖アウグスティヌス」も、その後に現れた指導者であり、以後の欧州的キリスト教の土台を据え、今日の大半の「教会のキリスト教」はその教えの上に成り立つものです。

今日「キリスト教」と聞けば、西洋文化のものと感じられますが、原始キリスト教はユダヤ=ヘブライ文化に由来し、東洋を土台としていたものでありました。

原始キリスト教は、今日の大半の教会で教えられる「キリスト教」とはまるで別の宗教であるかのように異なっています。

本来、「教会のキリスト教」というものは、ヨーロッパの歴史と文明の中で相互に作用しながら培われたものではあっても、中近東の原型からは大きく外れた別物です。今日でこそ信徒数と欧州の歴史と文化の厚みを頼んで「正統派」を自認していますが、ローマ国教化された前と後とでは「キリスト教」が大きく違うことはまるで意識されません。

日本の一般的キリスト教会も欧米由来のものがすべてと言ってよいほどですが、これらはヨーロッパで醸成されたキリスト教であり、イエス・キリストもその直弟子たちもユダヤ人、つまりは黒髪の東洋人であったことさえ忘れさせるほどに西洋化されたものです。


今日の一般的な「西洋キリスト教」の由来は、ローマ帝国がキリスト教を国教化し法制度化させたことから始まるもので、西暦第四世紀より前までに遡るものではありません。それが「教会のキリスト教」の正統性の限界となっています。
実際に、キリストやその使徒や直弟子たちが活動したのが第一世紀から第二世紀のはじめにかけての間であり、第二世紀にユダヤ教からの脱皮を遂げて新約聖書と共に新たな教えに結実したのが原始キリスト教です。
その後、更に二世紀が経過して、コンスタンティヌス大帝によるキリスト教への介入が起こって以降のキリスト教には大きな違いが生じてしまうだけの時間の流れが存在しましたし、その後も今日の欧州的キリスト教が趨勢となるまでには、なお百年以上を要しています。

その間に、キリストの教えた牧歌的で廉潔な教理は、周囲の無理解と迫害の中でひっそりとした集まりで教えられていましたが、ローマ皇帝の宗教となってからは、国家の宗教へと変貌し、大きく豪奢な建物の中で行われる礼拝の宗教へと変質しています。その崇拝の姿は、かつて動物の犠牲による神殿儀式の繰り返されていたユダヤ教に似たものとなりました。同じく国家の宗教となった結果というべきでしょう。

また、ローマ国教化を境にキリスト教らしい個人として自由に抱くべき信仰は、国民皆信徒制に移行してゆくに従い、生まれながらのキリスト教徒を作るという矛盾も孕んでゆきました。ユダヤ教が嬰児に割礼を施して生まれながらのユダヤ教徒を作るように、個人的信仰からコミュニティの宗教へと変質してしまった「キリスト教」は幼児洗礼を取り入れて同じ性質の習慣を持ち始めます。

これらの「儀式の宗教」、また「国民皆信徒制」は、本来はキリスト教のものではなく、それ以前のユダヤ教の特徴でありましたから、ローマ国教化を境に、キリスト教は本質的にユダヤ教に戻っていってしまったことになります。ならば、ユダヤ教に大革新をもたらしたキリスト・イエスの現れの意義はどうなってしまったのでしょうか。

しかも、「キリスト教」では死刑のための刑具である十字架を自分たちの表象としたうえ、それに向かって祈りをさえ捧げるという異様な変化までが起こっているのですが、以後、今日まで「クリスチャン」と呼ばれる大半の人々には、それに違和感なく、処刑の道具も却ってキリストに近づくありがたい媒介物のようにされているのです。

この十字の表象は国教化なくして有り得ないものです。なぜなら、皇帝がキリスト教徒を名乗るようになって迫害を止め、帝国内から十字架刑を廃止した後でなければ、とても首から下げられたものではなく、それが迫害下であれば「逮捕の標的にして下さい」と信徒自ら言うようなものだからです。十字架は国家と妥協した産物として登場したものであり、原始キリスト教時代には、一筆で書け、直ぐに消せるような「魚」を仲間である暗号としていたほどに緊迫した状況にあったのです。

そして将来、聖書が随所で明らかにしているように、キリストが栄光に輝く王として「終末」と呼ばれる世の終りに再臨されるのなら、十字架に掛けられ、うなだれる姿を見て感傷に浸っているとすれば、悪魔さえ無に帰せしめてしまうほどに畏怖すべき御厳の大王キリストの到来の栄えある姿を讃えず、却ってサタンの手に掛かった姿のキリストを、自分のご利益を願って眺めていることになり、それを喜ぶのはけっして神ではないでしょう。(創世記3:15)

そればかりか、国の定めた宗教になった以上は、戦争が起こった場合に、キリストの教えのゆえに戦闘に参加することを断る者は、却って「キリスト教信仰」を否認されるようにもなってしまいました。
つまり、キリスト教徒であった四世紀の聖人マルティヌスのように、『剣を執る者は剣によって滅びる』と諭された兵士らが、キリストの教えにそのまま従い、帝国の兵士として戦闘を拒むなら、国教化以後には背教者とされてしまったのです。以来、キリスト教は国家と共に戦う宗教となって今日に及んでいます。⇒ トゥールのマルタン

こうしてキリストの教えの無効化が始まると、内容においてそのキリスト教らしさを相次いで失い、本質的にはユダヤ教に近付いていったのですが、実際にはローマ帝国時代のキリスト教徒はユダヤ教徒を特に嫌っていました。今日、欧米を中心に日曜日を休日にする習慣は、土曜日を安息日とするユダヤ教徒に対抗して始まったもので、やがてキリスト教に帰依したローマ皇帝によって法に定められ、欧州に広まり、やがて世界へと広まったものです。

こうしたユダヤ教嫌いは、キリスト教勢力が未だ弱体であった第四世紀より前の時代に、ユダヤ教徒たちが自分たちから現れたキリスト教を無くしてしまおうとすることにたいへん熱心で、キリスト教徒の迫害には大いに協力し、執拗に密告や通報を行い続け、拷問ばかりか火刑や獣刑などの残酷な処刑の手伝いまで進んで行っていたところに原因があります。

今日のユダヤ教徒は、歴史上で常にキリスト教徒からの迫害の被害者であったと主張しがちですが、キリストを処刑に追いやり、その直弟子らに苛烈な迫害を自ら行ったこと、またローマ帝国がキリスト教迫害に乗り出したときに、弱体であった彼らを殲滅させるべく率先して加担したことは都合よく忘れているようです。

しかし、やがて第四世紀以降、迫害していた皇帝がキリスト教徒を名乗るようになり、ローマ帝国がキリスト教を国教としてゆく過程で、ユダヤ教は次第に片隅に追いやられ、迫害する宗教から迫害される宗教へと転落してゆきます。その一方で、キリスト教は入れ替わるように、帝国の権力を背景に遂に迫害する側に立ちました。

この時代には皇帝までもが、ユダヤ人を「主殺しの民族」と呼ぶほどになり、キリスト教がユダヤ教を嫌うあまりに、イエスはユダヤ人でさえなかったかのように教えられてゆき、キリスト教の基本であるはずのユダヤ教の重要な事柄も忌み嫌って、別の極端に傾きはじめます。

その中でも決定的な逸脱の極みが、神の変更となってゆくのでした。
つまり、イエス自身もユダヤの神殿で崇拝される神を『父』と呼び、ユダヤ教徒としての崇拝の務めを生涯果たしていたので、その時点では未だキリスト教も分化していませんでしたが、やがてイエスの弟子たちが「クリスティアノイ」と周囲から呼ばれるようになり、両者がはっきりと袂を分かつと、その後キリスト教徒らはユダヤ人と神を同じくすることさえ忌み嫌うようになってキリストの立場の強化を図ります。
しかも都合の良いことに、ユダヤのエルサレム神殿はキリストを葬った世代の生きている内に、ローマ軍によって完膚なきまでの破壊をされており、それ以降、神の固有名が何と発音されるのかも忘れるに至ったのです。ユダヤ教徒が勝手にその発音をエルサレム神殿聖域だけに限っていたからです。
ですから、ユダヤ人によって神は固有名でなく、ただ「主」と呼ばれており、キリスト教徒によってやはりイエスは「主」と呼ばれていたのです。ですが、双方の「主」が同じ対象を表すわけもありません。(詩篇110:1)

このようにユダヤ教徒とキリスト教徒の不仲は、双方共に多くの連続した教えを失なわせるものとなりました。
キリスト教徒は、イエスが崇拝したユダヤの神である「主」を無視して、「主」イエス自身を神の座に祭り上げることに躊躇しなくなってゆきます。
しかし、「キリスト」とは神から任命された人を表す言葉でありますから、そこで矛盾は避けられません。
キリストが神への『従順を学んだ』という新約聖書の言葉などを自ら理解できないものとしてしまいます。(ヘブル5:8)

その後はますますキリストの教えから離れてゆき、信者が増えるに従い、他の宗教からの教理や崇拝方式が混じり始めます。
そこに現れて来た極端な教えが「三位一体説」であり、元々のユダヤ教の唯一神と、その任命を受けたキリストという構図を変えて、キリストも神とするだけでなく、当時に流行したギリシア(ヘレニズム)神秘文化の「三神一柱」の影響を受け、聖霊も加えて、この三者の皆が同等で神を構成しているという教えがエジプトのキリスト教の中から姿を現します。⇒ Triple deity
その目的は『神の初子』であるキリストを、創造の神と同等に引き上げ、ユダヤの神と同一の存在にするところにあり、そうしてユダヤ教に対するキリスト教の優位を謀ります。(コロサイ1:15) 

確かに、キリスト教はイエスをキリストとして受け入れ信じるものではありますが、そのキリストを遣わしたのは神であり、ユダヤ教徒が崇拝を捧げてきた神に他なりません。なぜなら、イエス自身も生涯ユダヤ教徒であり、その神に祈りを捧げ、神殿での祭りにも参加する務めを果たしていたのであり、死に至るまでの忠節を示し、ただ一人「律法」を全うし、血の犠牲を捧げたのはその神に対してであったのです。(申命記18:18-19/ガラテア4:4)
ですから、三位一体説は神とキリストという重要な関係を打壊す古代異教の蒙昧でしかありません。

そのうえヘレニズムの三神組という当時の流行に取り込まれ、神とキリストと共に信仰を抱く上で重要な、奇跡の働きを行うことになる『聖霊』までも「三位一体」に含めて理解を妨げることは、その後のキリスト教信仰に大きな誤解の種を撒くことになります。

なぜなら、人は『聖霊』の働くときに見える奇跡を通して、信仰をはっきりと表明する機会を得ることにも、それを否認して裁きに至ることにもなるからです。ですから、『人はあらゆる罪を許されるが、聖霊への冒涜だけは、けっして許されない』ほど重い罪となることがキリストによって警告されていたのです。(マタイ12:31)

これをキリスト教徒は、自分の中にキリストが「聖霊」によって内住し、成功への導きを与えてくれると思い込み、信者個人のためのご利益信仰としてしまいました。こうしてキリスト教は信者の幸福を図る「内向きな」宗教に変質し、人類を虚無の『この世』から救うという壮大な神の目的は無視され、その利他的本質を失っています。水のバプテスマを受ければ「救われました」というのは茶番でしかなく、そこには単なる心理効果以上のものを見ることはありません。

まず『救い』とは、信者に独占されるものでは決してありません。むしろ弟子たちを通して世界に向けて広げられるべきものであり、現状では不可能であっても、宗教も思想も様々な違いさえ乗り越えて、信仰を惹き起こす神の力が聖霊によって世界に示される時が到来します。それが『聖霊』の活躍する「終末」であるのです。(マタイ10:18・ハガイ2:6)

ですが、奇跡を行なうばかりでなく、真理を教えるのが『聖霊』であって、その教えはどんな人間にも由来せず、使徒たちの時代にそうであったように、教えは『聖霊』を通して知らされるのであり、『聖霊』が天からの伝達経路であった使徒時代に三位一体説はいまだ存在しなかったのですから、『聖霊』はけっして神ではなく、新約聖書にすら「三位一体」という言葉も考えも存在してはいない以上、そのようには聖霊自身も教えるわけもないのです。

しかも、その聖霊は「終末」のキリストのこの世への不可視の「臨御」を待って、再び注ぎ出され、それを受ける弟子たちは『聖霊によって語る』とキリスト自身が予告されました。
その聖霊の発言は、終末に在って論駁不能の驚異的なものとなり、世界中が傾聴し、震撼すると聖書は繰り返し述べています。
(マタイ10:18/マルコ13:9-11/ルカ21:15/ヨハネ16:8/イザヤ52:15/ヨエル2:28-32/ハガイ2:21-22)

古代にも、イエスの去った後、地上に残された使徒や直弟子たちに教えを授け、キリスト教の完成に携わったのが『聖霊』であって、使徒言行録の全般に見られるように、教祖が四年に満たない宣教期間で刑死を遂げた宗教が、世界にあまねく広がり、新約聖書に開花した理由も、超自然の『聖霊』の活躍無くして考えられないことです。(ヨハネ14:26)

三位一体は、この神と子と聖霊に関する根本的な関係の理解を阻むものであり、神が誰であるかという基礎中の基礎の教えさえ覆い隠すものです。しかし、ヘレニズム時代でもない現代に「三位一体」で何の益があるのでしょうか。そこで教会の教師が「三位一体」を説明するのに、神の事柄は人間には分かり得ないもので、むしろ理解する必要もないとしばしば教えるのも、それが理性的思考には堪え難い古代の迷信的な教えであることを自ずと表しているのです。(ルカ10:21/コリント第一1:19)

ですが、神を理解することがこのように難解なことであるとすれば、信仰も難解で不明瞭なものと成らざるを得ません。
神は三位一体であると言うと同時に、その信仰は理解し難いものとされますので、神に任命されたキリストの働きの意義も目的も充分に理解することは諦めねばなりません。(ヨハネ第一5:20)
しかも、『わたし以外の何者も神としてはならない』と十戒に命じられているのであれば、三位一体説を唱えることは神の前に余りにも大胆であり、怖れを知らぬ所業ではないのでしょうか。加えて『父はわたしより偉大』とも、『わたしは父を尊んでいる』と言われるキリストをも却って蔑ろにしてはいないでしょうか。

三位一体が教えられるところでは、信じる者はキリスト教が本来持つ優れた意義を教えられず、信徒が難解さにたじろぐ隙を突いて、天国や地獄などの俗受けする単純な教理が混入する機会を与えてしまい、却って、キリスト教がどこにでもあるような凡庸で幼稚な教理の宗教に格下げされているのです。
ローマ帝国の国教となり信者の拡大を得るに際して、本来のキリスト教が失ったものはこれほど大きなものでありました。

三位一体派がキリスト教の主流を成すようになったのは第四世紀末以降のことで、それまではユダヤ教以来の純然たる一神教がキリスト教の姿であり、こちらが普遍的(カトリック)であったのですが、第四世紀の後半、皇帝が遂に三位一体派となるに及んで「普遍的キリスト教」の名義を権力によって原始キリスト教から奪います。こうして今日見るように、キリスト教を名乗る教会の大半が三位一体を教えるものになってしまいました。 ⇒ 「アンブロジウス 俗世との岐路に立った男

しかし、原始キリスト教と今日の「キリスト教」を比較すると、変化したことはこればかりではありません。
キリスト教の教理は、三位一体を取り入れて神を分かり難くする一方で、国教化に伴い諸国の異教の風習を取り入れ、ローマの帝国民や大衆に受け入れやすくされました。その結果、膨大な信者数の増加を得ながら、一方では内容に大きな劣化が生じたのです。

古代のヘレニズム世界に広く見られた、死後にゆく天界の至福や責苦の地獄、地母神や母子崇拝、冬至の三日後に誕生する太陽神の祝いなど、かつてのローマ帝国の諸宗教は、今日のキリスト教界の中に形を変えて脈々と生き続けています。

キリスト教のものとして知られるクリスマスやイースターはローマ国教化の結果として異教の習慣が混じったものであり、ほかにメイポールやハロウィンまでも本来のキリスト教に関わりのないヨーロッパの異教の風習なうえ、カーニバル(謝肉祭)もそうですから、今日の主流を占める「キリスト教」の文化は、ほとんど他の宗教を集めたパッチワークで出来上がっていると言わねばなりません。

これについてイエスは、「からしのたとえ話」と「パン種のたとえ話」で預言して語っていました。
つまり、非常に小さかったキリスト教が巨大に膨らみ、世界最大の宗教となってゆくのですが、きっかけはわずかな異物が混入であることを、イエスもパウロも『パン酵母』を例に予告していたのです。(マタイ16:11-12/コリント第一5:6-7)
古代の諸国の人々がそれまで崇拝していた異教というパン酵母をキリスト教に取入れることによって、大量の信者を獲得して来たことは歴然たる史実で、否定のしようもありません。

また、キリスト教を生業とする聖職者の集団という鳥たちがその大樹に「住まう」ことになったのを確かに見ていますし、ヘレニズム以来、哲学者らの思索の場ともなってきました。ソクラテスやプラトンにも神が啓示を与えていたなどと、どうして言えるでしょうか。⇒アポカタスタシス
これは奇跡の『聖霊』も、旧約聖書で力強く神を証しする預言書ら(ネイヴィーム)の不動の言葉も、どれほど畏敬すべき内容がそこに込められているかを知らないからこそ言えた妄言に過ぎません。さらにキリストの例え話には、それらにも勝る秘儀が込められているのです。(マタイ13:31-33

まさしくヨーロッパの受け継いだキリスト教はローマ帝国の国教として妥協したキリスト教であり、そこでは教理の模様替えのようなものに留まらず、基礎であるべきユダヤ伝来の教えもヘレニズム宗教という土台に変えられてしまっていたのです。そこに原始キリスト教の面影さえありません。

イエス・キリストの教えのテーマは「神の王国」でしたが、これは世界に見られる不道徳性による争いと空しい一生を余儀なくされている「この世」の現状から人類全体を救うという、非常に壮大な目的を持つ「神の支配」であったのです。しかしローマ帝国の国教となって以来、キリストの伝えようとした聖なる「神の王国」は、俗世の「ローマ帝国」の存在によって曖昧にされてしまいました。

一般的教会が説く「救い」が信者の個人的な幸運になって俗化していることもそこに原因があります。
遠い昔に神がアブラハムに約束された、彼の子孫、「神の王国」が『地上のすべての国民の祝福となる』という大いなる目的はまるで見失われています。(創世記22:18)

十二使徒の最後に残されたヨハネは、小アジアの弟子たちの間に教えを残し、パトモス島に流刑にされていた間に黙示録の霊感を受け、その書は福音書や書簡類と共に保存されましたが、そこには『この世を征服する』という内容が繰り返され、また『神の王国』が千年続く支配と贖罪の期間であることを明かしています。
小アジアの弟子たちは、この理解を保っており、それは同地出身でヨーロッパで活躍した初期教父エイレナイオスの著作にも明らかです。それを否定したのがカトリック最大の教父でルターも敬服したヒッポのアウグスティヌスであり、彼は先達エイレナイオスの「千年王国」の記述部分を写本作成の際に自説擁護のために破棄までしています。

聖書の主題は『神の王国』であり、「天国での至福」でも、個人の「より良い生活」や「成功する人生」でもありません。聖書は道徳の本でもなく、人生の指南書とさえも言えません。今日の人々が「正しい生き方」や「戒律」を守ることを神が喜ぶとも言えません。
品行方正に生きる人を神が是認されるというわけでもありません。もし、そうであったなら、キリスト・イエスはなぜ『罪』のための犠牲となったのでしょうか。『医者を必要とするのは病人』ではありませんか。

その主要な教えは、キリストの犠牲による人類全体の「不道徳性の除去」と「神との和解」が最重要のテーマであって、敬虔で従順な信者だけが救われて恩寵に入ることなどではけっしてないのです。(コリント第一5:18-19)

キリスト教とは信者だけの「内向きな救い」ではなく、この世に難儀したあらゆる人に対してもたらされる「外向きの救い」であるのですが、聖霊によって『神の王国』に召される幾らかの人々(聖徒)について書かれている聖書の記述を、キリスト教の信者の大半は自分について述べられていると思い込んで、キリストの救いを自分たちに限定してしまい、イエスの自己犠牲の精神とは真逆の「自分たちの救い」ばかりを願う結果を招いています。

この点では、「天国と地獄」の教えも異教からのもので、天国に召される善人と地獄行きの悪人という平板な思考の汚染が「キリスト教」を狭く閉鎖的であるばかりか本質的に高慢な宗教にしてしまっています。
他方、聖書はあらゆる人の復活を教えているのであり、「地獄」と訳される『火の燃えるゲヘナ』とはエルサレムの「ゴミ処理場の谷」を表すものであり、復活してすら裁かれて『二度死ぬ』ことを象徴するものです。(ヘブル9:27/ユダ12)

しかし、自分たちは正しいので、神は必ず地獄から救ってくださるという独り善がりで神意を無視したその優越感は、けっしてキリストの教えではなく、キリストに激しく対立したユダヤ教パリサイ派の精神に他なりません。歴史上、キリスト教同士でさえも長く争い、許多の流血を見て来たことには理由がないわけではないのです。(ヤコブ1:18)

これは「宗教改革」を経てもその土台を回復するまでには至りませんでした。16世紀当時、キリスト教史を原初の時期にまで充分に遡ることができなかったことが一因しているのでしょうし、また急激な変化を大衆信者が望まなかったとも言えます。宗教改革期には、三位一体の否定など斬新な改革案も提出されたのですが、カトリックが幾らか改善されることを望むほどであった大衆信徒に動揺を与えないことを目的に、その「改革」も穏便な程度に収められていたのです。⇒ ミゲル・セルヴェトの死

たびたび現れる一神論者たちはカトリックからもプロテスタントからも排撃され、教師ばかりでなく一般信徒からオランダでは印刷業者までもが背教の汚名を着せられ、火刑の炎の中で息絶えてきたのです。この残虐非道を行わせたのはキリストの教えではけっしてなく、人間共通の「自分は正しい」という傲慢さ以外のなにものでもありません。

それはまさにキリストを刑死に追い込んだ精紳に他ならず、そこで神の義やその意志は無視されます。
神の許にこそ義があるとは考えず、自分たちは正しいのであるから神の是認が有って当然と考えるからです。(ローマ3:4/マタイ6:33/ヨブ35:6-8)

その動機として考えられるのは強欲であり、宗教家は神意を探ることよりも、ひとりでも多くの人を自分の下に集めておくことに権威の利得が有り、大衆信者は救いやご利益の確定を願います。こうして人間の都合による「人の義」で出来上がった「正しいキリスト教」が存在して来ましたし、このキリスト教の「教理」そのものは終末の裁きの日まで今後も存続してゆくことでしょう。

自分は「救われるクリスチャンである」というステータスは、個人を飾るアクセサリーのようなものにされ勝ちであり、キリストの強烈な反対者であったところの、清さを誇るパリサイ派の服装や態度に共通するところが濃厚に感じられるとしても仕方のないことでしょう。隣人を対等に扱う愛よりは自分を高める利己心という同様の精紳態度を持つからです。

これらは「自分は正しい」とするときに避けられない闘争性と傲慢さの発露と言うべきでしょう。「パリサイ」には「取分けられた」という意味があり、自分たちこそが神の是認を受けていると信じ込み、行いの清さを誇りつつ、周囲への蔑視を特徴としていましたので、下層民に寄り添うキリストとの衝突が避けられなかったのは理の当然と言えましょう。

新約聖書にある『罪を赦された人々』というのは、本当に聖霊を注がれた『聖徒』と呼ばれる初期のキリスト教徒にだけ当てはまるものであり、新約聖書の当時は信者のほとんどが『聖徒』であったので、聖書で『あなたがた』と書かれているところを、現代の自分に向けてすべてが語られていると思い込むのは大いなる誤解です。これは聖書を幾らか読み込むだけで分かるものですが、そこまでの関心もないのでしょうか。(ローマ8:1)

しかも、聖霊を介して『新しい契約』に入った『聖徒ら』は、聖霊によって奇跡を行う人々であり、主に続いて怖ろしい殉教をものともしない勇気の持ち主でもあったのです。この人々は自分の人生の成功を求めるようなご利益崇拝者などとは無縁でありました。(ペテロ第一3:6/コリント第二5:15)
この『聖なる者』たちの存在した痕跡は、カトリックの聖人伝に、奇跡を行い殉教に散った人々として残っていますし、「教会史」をはじめ多くの初期の資料も伝える通りです。

キリスト教は、誰かが幸福であっても、誰かが幸福でないことを望まない利他的な愛と、『世の救い』とがキリストの犠牲の精神であり、ただ自分の幸運を願う宗教とは根本的に異なっています。
また、人の思惑ではなく、神の真理と義を求めて『求め続け、敲き続ける』ものであり、そうしているところに聖霊が与えられるとキリストは言われます。つまり、今すでに聖霊を受けていると満足しているなら、どうして真実に聖霊を求め続け、また遂に受けることがあるものでしょうか。(ルカ11:9-13)

しかし、人間自身には真理も正義もありません。それは聖霊によって神から伝えられるものだからです。
真正なキリスト教の回復などは人間の努力を超えたものであり、聖霊の再降下なくして何人もできるところではありません。
また、自分は「クリスチャン」だから神の是認や恩寵の下にあると思うなら、それは不遜というべきでしょう。
なぜなら、あらゆる人が神の前に倫理的欠陥を負った「罪人」であり、それはこの世の有様を幾らか見るだけでまったく明らかなことであって、そのゆえにもすべての人がキリストの犠牲を要したのではありませんか。(ローマ3:23)

ですから今日、原始キリスト教の姿を知ることは、そこにキリスト教本来の深い意義や独自性を見出して、まったく新鮮な印象を受けることになるでしょう。それは旧来の「キリスト教」とは、懐くべき根本の精神が逆であるからです。

原始キリスト教によれば、人がどんな行いをしてきたか、また、どのような思想信条を持っているかにも、またその人の社会の評価や立場にも関わり無く、善人であろうと悪人であろうとすべての人に救いの差し伸べられる時が到来するのであり、キリストは『人はあらゆる罪や冒涜を許される』と明言しているのです。(マタイ12:31-32)
そのときに信仰を懐くか否かの選別を成し遂げるのが、神の威力である『聖霊』の奇跡と言葉であることをキリストは度々に予告しています。

世の終末のときに至れば、神は聖霊で語る弟子らを再びもたらし、彼らは為政者らに神からの言葉を告げることを福音書は揃ってはっきりと記しています。その言葉は誰もが論駁できないほどの内容となることもキリストは予告されました。それは四つの福音書が何度も語るように、それこそが神によるこの世への世界宣教となるでしょう。信仰が問われるのは聖霊によるその裁きの時であって、けっして今その人が「クリスチャン」かどうかではないのです。(マタイ10:18/マルコ13:10/ルカ21:15/ヨハネ16:8)

何を信じるもその人の自由な決定ですが、これら本来のキリスト教を信じるには、「ご利益信仰」ではなく、空しいこの世の有様から人類の全体を救済するという、人類史の初めからアブラハムへの約束を経て、キリストの『新しい契約』へと悠久の時に亘って歩みを進めてこられた偉大なる創造の神と、人類のために命(魂)を差し出した「アガペー」(慈愛)の体現者イエス・キリストに共感するだけの大志や広い愛が求められることでしょう。そこに信者だけの安楽を約束するような、狭い「ご利益信仰」の余地はありません。(創世記22:18/マタイ25:31-33)



⇒ 「キリスト教の救いとは

新十四日派の要諦
------------------------
⇒ 「三位一体の来歴と影響
⇒ 「非三位一体論者の戦い


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⇒「キリストとは何者か
⇒「キリスト教を1ページに要約
⇒ 「キリスト教の「救い」とは
⇒ 「聖霊と火とのバプテスマの異なり
⇒ 「初期キリスト教徒の様子 第二世紀の小アジア
⇒ 「ローマ国教化でキリスト教が失ったもの
⇒ 「アンブロジウス この世との岐路に立った男
⇒ 「聖霊という第三のもの」.
⇒ 「聖徒 聖霊が指し示す者たち

⇒ 「原始キリスト教再興の試み」(新十四日派)

[三位一体とキリストの地上再臨の教えは、終末に於いて恐るべき役割を果たし兼ねません]⇒「不法の人

「終末」に起るとされる事柄



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コメント
-虎の口を逃れて、龍の咢-


三位一体が古代ヘレニズムから来た異教の汚れであることが分かったからといって、それがどれほどの意味を持つものでしょうか?

三一の蒙昧に気付いた方々が、神が三一ではないと確信を得られたとしても、まだどの方向にも進み得る、ごく当たり前の出発点に立った以上に何があるのでしょうか。どんな格別のことをしたというのでしょうか。

それでは、まだ歩き出してはいないというべきでしょう。
神がエルサレム神殿に名を置き、キリストにも崇拝されていた方であると知っただけでは、その神の意向も歩みも理解したことにはなりません。

諸教会で教えられるご利益信仰を去り、信者ではなく人類の全体に対して創造の神が意図される偉大な経綸を知ってこそ意味が幾らか生じ始めるものです。

より重要なことは、経綸全体を俯瞰する教理の理解をも超えて、その人がどう感化を受け、どのような人になるか、というところにあります。

或いは、三一を信じている人であっても、唯一神信者よりキリストの精紳を反映する方々もいらっしゃることでしょう。

当然のことですが、教理の理解の段階を超え、意義を悟ってはじめてその人に益となるのです。

唯一の神を信じることなら悪霊でさえそうしているとヤコブも書いている通りです。

唯一神を信じるというだけなら、何かを評価することは依然できません。

Eilenaios | 2017.06.19 00:48 | 編集
RMさま

コメントをいろいろ頂きましてありがとうございます。

つきましてはYahooにメールを出してございます。
まず、そちらをご覧くださいますようお願い申し上げます。
Eilenaios | 2016.04.30 13:01 | 編集
匿名希望RMさま

コメントを頂戴し感謝申し上げます。

様々な教会に通う知人に、三一論を信じない人々がおりますので、内面では承服していない人々をも含めた全体数は意外に多いのではないかと思っております。

何を以って「正統」や「異端」とするかは宗派の自由ですが、そこで神探求が停止してしまうことが蒙昧への入り口となっております。「正統」定めて安心する代償として、神を差し置き自分を正しいとするヨブが悔い改めた誤りに自ら入ってゆくからでしょう。⇒「ヨブ記の結論」http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51863598.html

どんな人間の解釈もそれ以上のものにはなりませんが、神の御旨については、それを探り出そうと常に求め続けるばかりです。
神のキリストを通した人間救済の御旨のおおよそが見えて参りますと、三一説は次元の低い神秘主義の呪文のようでしかありません。「正統」か「異端」かと言う以前に、人が得心できるような論理を備えてもいないのです。

それを哲学の見事な手法で捏ね繰り回したところで、土台である前提が違っていたのではまるで無意味です。最初からヘレニズム異教のものなのですから。

そこで、多くの教会員の方々が三一説という百害あって一利ない教理から逃れるためには、神の御旨の概要だけでも得心することにあるように思えます。それが原始キリスト教の教えでありまして、これを知ることは、驚きと神への畏敬と敬愛とを初めてのように数多く得ることになりましょう。

それぞれの教会の指導に従い、この件では黙してはいる信徒の皆様も、本来は深く尊崇できる神を求めていらっしゃるに違いなく、また、そのような神でしたら原始キリスト教のなかに見出すことができることでしょう。




Eilenaios | 2016.04.28 15:54 | 編集
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