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15.政治と宗教という必要悪

2014.12.16 (Tue)
人間社会の避けられない余分なふたつのもの


政治と宗教の無い社会を想像することができるでしょうか?
実に、人間の社会は政治と宗教から逃れることができません。 

結論から言えば、このふたつの分野は、共に同じ一つの事柄に由来しています。 
それは、「倫理上の欠陥」であり、世界から争いが絶えないのも人間が道徳的に不完全であるからです。 政治と宗教に正解は無く、幾らかの正しさを巡って常に争いが避けられません。
つまり、我々人間は「隣人とどう生きてゆくべきか」を本当にはわきまえておらず、また、分かっている部分でさえ、その通りには出来るとは限らないのです。ですから、政治と宗教とは人間にまとわりついて離れることがありません。
そのうえ、その不倫理性のために、聖書によれば人間は創造神との関係も損なってしまっています。人間は正義も真理も持ってはおらず、あらゆる関係で倫理の問題を抱えているということです。

キリスト教は、人間の争いの原因を以下のように端的に指摘しています。 
『 あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。
求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。』 (ヤコブ4:1-3)

つまり、人々の内に宿る『貪欲』の結果、人間は互いに争うことを止めることができないでいる現実があります。 
そこに「正しさ」が主張されるにしても、程度の差のようなものでしかありません。

聖書は、人間すべてに宿るこの倫理上の欠陥を『罪』と呼んでいます。 (ローマ3:9-10)
つまり、この『罪』というのは、何かの特定の犯罪を指しているのではなく、人間は善を行えるにも関わらず、なお、悪に向かう拭い難い傾向を持っていることを指しているのです。正直に自分や周囲を省みれば、誰もこの『罪』と呼ばれるものから逃れることはできないことが分かるでしょう。 (ローマ7:23-25)

人間全体がこの『罪』を負っていることは、ニュースを眺め、社会を少し観察するだけでも明らかでしょう。
その『罪』の証拠の一つが、警察の必要であり、また、軍隊の存在です。 
この二つを持たないなら、人間社会は怖ろしく危険な無法地帯となってしまいます。いや、これらが有ってさえ、貪欲を抱いた犯罪者や、武装集団や軍隊の餌食となる人々は絶えないのです。 人間の貪欲とは際限が無く、真に恐ろしいものです。

そこで人間は互いの間に「防御の壁」を必要としているのです。どんな壁かと言えば、基本的に「権力」という強い暴力で出来上がった欲望を抑制するための障壁なのです。その「壁」となる「権力」について聖書は、『悪行に対する復讐者であり、いたずらに剣を帯びてはいない』と言います。(ローマ13:3-4) 

実際、悪に報復する権力によって「犯罪」と呼ばれるどれほど多くの欲深い行動が防がれているか知れません。 それでも明らかにならず罰せられる事も無く見過ごされている諸悪はどれほどあることでしょうか。
これは、人間の倫理性が当てにならない事の否定しがたい証拠というほかありません。
どうしても悪に傾く、この変えられない人の性質を聖書は『罪』と呼ぶのですが、それは個々の悪行や犯罪を指すのではありません。 

そこで人間社会は、まず善と悪とを法律に定める必要が生じています。 
しかし、法律を守っているからと言って、その人の倫理性が完全であるわけでもありません。 
聖書は、『自分には罪が無い、と言えば、その人は欺いているのであり、その人に真実は無い』と言っています。 (ヨハネ第一1:8)
それでも善悪を定めて人の行動を規制しなければ、社会の秩序は成り立ちません。

このように、人間の『罪』は貪欲を生み出したので、それぞれの貪欲を規制するために、法律と権力が生まれることになり、それは「政治」と呼ばれる分野を造り出しました。 

政治とは、人それぞれの貪欲の調停を行うもので、権力の上に立って、行き過ぎた貪欲を犯罪として規制し、通貨を発行し流通させ、その価値を保つよう努めつつ、欲望の遂げられる範囲を規制し、人間の持つ貪欲を抑え、世の中に一定の秩序をもたらす役割を負っています。 

しかし、経済が公正であるわけでもありませんが、人々は従わざるを得ません。そうしなければ人々は交換社会によって生活を支えらず、生きることも覚束ないでしょう。
ですが、経済活動とはせめぎ合う貪欲の調停であり、弱者を特に顧みることもなく、強者同士もしのぎを削る戦場のような場を作り、争いが絶えることがありません。それほど人の『罪』とは過酷なものです。

また、この『罪』は、人間と神の関係にも悪影響を及ぼしています。 (イザヤ59:2)
ですが人間を創造した神は、はじめから『罪』あるものとして人間を作ったのではありません。 

最初の人間であったアダムに、神は話しかけ多くの親切を行っていました。神は、アダムがその愛に応えて、神との関係を保ち、生き続けることを望んだに違いありません。そうでなければ、はじめからアダムを創造しなかったでしょう。 

アダムは神のように自分の独立した思考を持ち、自ら愛を抱くことのできる知的存在者という意味で『神の象り』であったと聖書に書かれています。 (創世記1:27)

しかし、アダムはその自由な意志を悪用し、創造者に愛も感謝も示さない生き方を選んでしまいました。
それがエデンの園の中央に置かれた二本の木の選択であり、創造者を退けるなら倫理は根底から覆され、以後、人はすべての他者との関係に問題を抱えます。 (ローマ5:12)

人は、神の創造の意図から離れ、社会は神と関係なく存在し始めます。これは聖書で『この世』と呼ばれます。
その結果、人間と創造者との関係が壊れてしまい、人間は自分勝手な生き方を始め、今ある世の中が出来上がってきましたが、「この世」は神の意図するようなものではありません。 (ヨハネ第一5:19)

「この世」は神を敬わず、何らかの宗教を信じていてさえ、神の意志を探ろうとはしません。利己的に御利益を望んだ崇拝を勝手にしようとするからです。これもまた『罪』の影響であり、人間は宗教に於いてさえ神との間に問題を抱えているのです。 

こうして、神と人間の間には、越え難い溝があり、自由な意思の疎通が妨げられてきました。 
そこで、人間は自分の存在理由を知るために、また、「この世」の空しさの理由を知ることを求め、住み辛さの解消などを願い「上なる存在者」を答えを求めて、「宗教」という分野も登場させることになりす。 
つまり、人間は空しい「この世」に生きるようには造られていないのです。

ですから、「政治」と「宗教」とは、同じく人間の『罪』を根源としているもので、『罪』がなければ必要の無いものなのです。 

人間の『罪』は、「政治」と「宗教」と云う、必要であるのに非常に厄介なものを生み出しました。 

これらには、人間の倫理上の欠陥が関係しており、初めから正しいもの、完全なもの、正解がないので、どうしても適切には働きません。 
政治と宗教とが、人々の争いの原因であるのは当然の事で、このふたつは、共に人間の『罪』に対する「応急処置」としての必要に迫られ、人間が何とか編み出した欠陥だらけの一時的な対症療法に過ぎないからです。 

しかし、神は人間の『罪』への根本治療法を用意されました。 
それが、『神の王国』であり、人間の『罪』を浄めるだけでなく、完全な支配を行い、神への道を拓きます。 (マタイ6:10)
この「王国」が到来するまでは、政治も宗教も人類に十分な益をもたらすものにはなりません。それらは常に神の意志からかけ離れた『この世』の一部でしかなく、『罪』のための「対症療法」に過ぎないからです。

その一方で、『神の王国』が真に人間を益することが出来る理由は、『罪』の無いキリストを王として正義の支配をもたらし、『罪』の無いキリストの犠牲によって、人々の『罪』を相殺するからです。 (ヘブル9:28)

どんなに優れた人間にも、このような事はけっしてできません。 
これまで、人間は甚だ不完全な政治と宗教に翻弄されるばかりでしたし、今後も『この世』の終末まで、この苦しみを忍耐しなければなりません。

しかし、これらの必要悪から解かれ、『罪』の無い栄光ある人間の姿を得ることは、神によって可能であり、創造者はそれを望まれるからこそ、人間の『罪』を除くためにキリストを遣わされたのです。 

その結果として、『罪』から浄められた人間に対して、アダムと会話していたように、神と人は直接に意思の疎通を図るので、宗教という「取り次ぎ」の必要は無くなってしまいます。(イザヤ65:24/黙示録21:3)

『神の王国』は、人間を『罪』から開放することを成し遂げると、『一切の権威や権力を無に帰せしめ』『すべてを神に返し』こうしてその働きを終えることになります。(コリント第一15:24.28)

そのときに人間は神と直接に意思を通わせることができ、政治と宗教はその必要性を失って、神の創造の業は完全な成就を見ることになり、創造界は神の栄光で満ち溢れるところとなるでしょう。もちろん、警察も軍隊も必要がなく、貪欲の調停である政治の必要もなく、常に動揺する市場経済から不公正な貨幣交換制度に至るまでが過去のものとなる以外にありません。

この遠大な神の計画に、今日の人々も協働できる道が一本開かれています。
それが神と人との仲介者であるキリストに希望を託すことであり、これは「信仰」と言います。それこそが本来の「キリスト教信仰」なのです。

もし、『この世』に対する神の意志に信仰と同意を抱けるなら、その人には神の意志が成就する事を世に知らせることが勧められています。(黙示録22:17)



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