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14.キリスト教の信仰とは

2014.12.06 (Sat)
キリスト教の信仰とは何か

宗教にはそれぞれ信じるべき事がそれぞれに異なっています。
仏教では、この世の無常と輪廻転生が説かれ、神道では多様な神があり、自然や偉人への畏怖と、崇拝による利益があります。

ユダヤ教は、神から預言者モーセを通して授けられた『律法』を守ることで、神の是認を得て『選ばれた民』となり、『諸国民の光』となることを目指します。 彼らが信じるのは旧約聖書であり、それに付け加えられた無数の法体系である「タルムード」を守ることで、『律法』よりも厳格なこの教えを守るなら『モーセの律法』を犯すことを避けられると教えられます。ですからユダヤ教とは律法を守る宗教と言えます。

イスラームでは、人生は試練であり、唯一絶対の神アッラーに平服する生涯を送り、不自由ない生活のできる天国に召されることを目指します。 この宗教で強調されるのは徹底した服従であり、ユダヤ教並みに生活の細々したところにまで規則があり、教えと結びついた独自の行政法を持っているので、政治までも宗教によって規制されなくてはなりません。

では、キリスト教の目指すところは何でしょうか?

キリストとは一言で言うなら「任命された者」を意味します。 人々を『罪』という不倫理性から解放するために任命された方であるキリストの役割を信じること、これがキリスト教の根本です。

キリストの到来は旧約聖書の古代から予告されていましたので、それを「約束のメシア」と呼びます。メシアとはヘブライ語でキリストを意味します。
新約聖書は、そのキリストがイエスと言う人物であることを具体的に知らせ、イエスというキリストが、ユダヤ教徒の間で多くの奇跡を行い、人々の病気を癒しながら『神の王国』と言う、人類を救う国の到来を告げて回った事を知らせています。

このように、イエス・キリストを知らせるのが新約の聖書でありますが、新旧の双方の部分が無くてはキリスト教全体の意味は分かりませんし、キリスト教が成り立つために両方の聖書が必要不可欠です。この点で、新約聖書を認めないユダヤ教には、いまだにメシア=キリストが現れていません。イエスを「約束のメシア」とは認めなかったからです。

二つの聖書には基本的な違いがあります。
特に新約聖書では、ユダヤ人だけでなく、どんな人間も旧約の『律法』を正しく守ることはできないことが知らされます。その理由は、人間には皆、等しく『罪』があり、それは全人類の始祖アダムが罪に堕ちて以来、遺伝しているためなのです。 律法はその『罪』を明らかにするためにイスラエル民族に与えられたものであると新約聖書は説きます。

ですからキリスト教では、どれほど規則を守って善良であろうとしても、神の是認には入れないことを悟り、自分の善良さや義を誇ることから自由にされます。旧約の『律法』は人間の試す試金石であり、キリスト以外の誰にも『罪』があることを証明していたからです。

こうしてキリストの到来によって、『モーセの律法』はその役目を終えることになり、キリスト教によって聖書の教えは新たな段階に入りました。
『罪人の友』とキリストがユダヤの宗教家たちから呼ばれたのも、罪深い者とされて社会から見下された人々をイエスが避けることをしなかったので、律法を守ることを自負していた宗教家になじられた結果でした。

しかし人間の『罪』とは、この世の有様にはっきりと表れています。それは、人間の持つ倫理上の欠陥であり、その端的な姿が「貪欲」となってあらわれます。 この倫理上の欠陥が非常に多くの苦しみを人類にもたらしています。 人々は互いの貪欲に警戒して生きなければならず、警察や軍隊を必要とするのも、金銭に縛られて生きるのも、その根本には人の貪欲が存在するからです。
誰であろうとこの倫理上の欠陥、つまり不道徳性であり聖書が『罪』と呼ぶものから人類はけっして逃れることができません。 また、この『罪』は神と人との間を隔てる障害ともなっています。

しかし、キリストはその人類の『罪』を一身に担い、すべてのとがめを引き受けたので、人々が神の前に無罪とされて、アダムが創造されたときの状態に引き上げられる救いの道を拓いた、というのがキリスト教の基本的な教えです。
そこでイエスが罪人と呼ばれ蔑まれた人々を分け隔てしなかった姿も理解できます。 このキリストの自己犠牲を前にしては、何者も自分の義を誇ることなどできません。キリストはアダムの子孫ではなく生まれたので、どんな罪人をも許すことができるからです。

神の前における人の根本的な『罪』とキリストの『許し』、これがユダヤ教には無かった新しい教えであり、キリスト教の真髄を成しています。
そこで、新約聖書はイエス・キリストを『神と人との仲介者』と呼びます。
つまりイエスは、わたしたちの『罪』を除き、神に導くために特別に任命された『天からの方』なのです。

そこで、人間が神との関係を回復するときには、『罪』は過去のものとなり、倫理上の欠陥が無くなるので、人々は貪欲を去って争うことがなくなり、創造の神との関係に復帰するので、様々な病気はもちろん、老化や死さえも過ぎ去り、すべての悲しみの涙が拭われることを新約聖書は告げます。 端的に一言で人間の苦しみの理由を言えば、それは人間の持つ『罪』であり、それによって創造の神から離れてしまったことにあるのです。

この教えは人間を死後に天国の召すのではなく、人間を創造された姿に回復し、この地上に『神の意志が行われるように』することにほかなりません。

ですからキリスト教とは、単に神の存在を信じるものではなく、神に任命されたキリストがイエスであり、この方を通してのみ、人間が神に立ち返る道が開かれた事を、深い共感の内に信じるものなのです。

しかし、信仰を持ったからといって『罪』から解かれるわけでも、良心の咎めから自由にされるわけでもありません。むしろ、信仰を抱くことにより、自分の『罪』の深さに対するキリストの犠牲に共感するので、『罪』を出来る限り避けようと努めるように促されます。これを『悔い改め』と呼びます。

キリスト教に信仰を持ったからといって、人は自動的に『救い』に入るわけでもなく、終末の『裁き』を前にして、『罪は』相変わらずわたしたちの身心から無くなることもありません。しかし、キリストへの信仰によって、その人が自分の『罪』をどう見なしているのかを神の前に示すことは今からもできるのです。

『罪』があることを望んでいないのであれば、その想いは『悔い』を生じさせ、『罪』を除いてくださる神とキリストの意志のゆえに、また人々への愛のゆえに、貪欲や放縦な行動を避けようという願いが自然と湧いてくることでしょう。これがキリスト教信仰による感化といえます。

この神からの影響が、キリスト教徒に『愛』という印を与えますが、その敬虔さから起こされる自発的行動は、規則によるものであってはなりませんし、誰かと比べるべきものでもありません。こうして『信仰』は、今日でも『愛』を介して『悔い改め』という実を結ぶことになります。

そして、『罪』を除き、神と人との和解を具体的に成し遂げるのが、『神の王国』であり、キリストの伝道の主題とされていたものです。

将来、この神の国が到来するのは、神に無関心な『この世』が裁かれる『終わりの日』または「終末」となります。
今日の貪欲に動かされる世界は、人間の努力で愛によって推進される世界へと代わることは決して無いからです。

そのとき、キリストは再びこの世に臨むと新約聖書に予告されています。 そこで人々に問われるのは「善行」ではなく「信仰」であり、一般的な「善人」ではなく真に「信仰を抱く人」を神は望まれます。

『この世』は創造者である神と和解していませんし、ノアの時代のように「終末」に至って神を知らされても神を信じず認めないと預言されています。

しかし聖書には、イエスは『世』のために遣わされたとも書かれていますので、やはりキリストが「この世」の全体を救うと考えるかもしれませんがそれは誤解です。キリストの救いは、この世の中の信仰を働かせる人々の救いのためであって、神を信じず尊ばない『この世』という体制全体を救うことも存続させることもありません。聖書はキリストが『この世』を裁くことをもはっきりと告げているのです。

ですから、キリスト教徒も『この世』を改善するために専ら活動するのではなく、政治には関わらずに争い事から離れ、キリスト・イエスと『聖なる者たち』を天の支配者とする『神の王国』の到来を待ちます。しかし、けっして自分が救われると利己的に考えるのではなく、利他的に人類への救いの手段であるキリストと神の王国を、『この世』に向けて知らせるのが本来の務めです。

加えて、その人はキリストの治める『神の王国』の到来を待ち、その『福音』を知らせつつ、『終わりの日』に聖霊を介した神からの言葉が世界を揺るがすようにして知らされるときに、自らと人々の多くが、その音信を聴き信仰を抱く者となることを願うことでしょう。そのように信じた人々を、神はキリストの治める王国に導き入れて救います。

以上がキリスト教の基本的な内容であり、まず、このように信じる人をふさわしくキリスト教徒と呼ぶことができます。

そこで信徒の生活においては、キリストのような自己犠牲的な愛を原理とし、この世の貪欲や争いから離れようと努める結果として、キリスト教独特の『聖い』印象や特質が信徒にもたらされることになるでしょう。

本来のキリスト教信仰には、善人を気取るような規則への盲目的服従からの自由があり、他方で、『神の義』を求めて自分の義を立てず誇らず、自発的な愛を行動の指針とし、欲得や俗事から離れた聖らかさが観られることでしょう。




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