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13.「魂」という死生観

2014.11.03 (Mon)


人は必ず死ぬものです。
病気や事故や災害でいつともなく死ぬ怖れからは誰も逃れることができません。
それでなくても、いつかは老化の波が身体を襲い、次第に衰えてゆくことは残念ながら誰にも避けられない定めです。

そして世界は常に様々な人の死の知らせに満ちています。
人は歳を経れば必ずいつかは誰もが死ななければならないのですが、それにも関わらず、世界の各地では紛争による殺し合いが絶えず、武器は日々急速な進歩を遂げ、頻発するテロでは犯行者が死ぬことでわざわざ他の人々まで巻き添えにすることが目的で、こうして人々の間では殺人が正義にされているのですから、嘆かわしくも世界の命の見方も価値感も余りに多様です。

そればかりか、様々な苦しみから自ら命を絶つ人々も少なくありません。
そこで、「自殺は自分を殺すから罪だ」と言うことはいとも簡単なことですが
自死に追いやられた人々の事情に誰かが配慮していれば、命を捨てさせることも無かった事例も多いことでしょう。
さらに加えねばならないのは、家族の絆が弱まっている今日、子供たちが親たちの横暴から物言わぬ犠牲者となって世を去ってゆくケースの少なくもない事は実に痛ましいばかりです。

しかし、親たちも社会で厳しい状況に置かれ兼ねません。
低い賃金で長時間働かされたり、体に必要な睡眠もとれないほどの残業があったり、職場での軋轢や嫌がらせに遭い、辛い毎日をしのんでいる方々も少なくはないでしょう。
正社員であっても、成果主義が進むと人間を見る価値観が変化してきます。
役に立つ人を評価し、そうでない人を低めます。職場に窮境が臨めば、非正規労働者の場合は最初に淘汰されるばかりです。
人々の便利さは近年の技術革新で驚異的な進歩を遂げているにも関わらず、貧富の差は相変わらずで、生活や仕事は楽になっても良さそうなところ、一向改善の様子もなく、かえって新手の搾取は犯罪に注意しなければならないありさまです。
人の境遇は一生の間、狡猾さを進める苦悪への抵抗と奴隷労働に費やされるばかりです。

この世では人間に価値の違いが生じていて、社会はそれとなく、あるいは露骨に、人を様々な仕方でランク付けしているのです。しかし、人は人を上下に分けたり、人の真の価値や命の重さを勝手に判断すべきでしょうか。そうすべきではないと理解していても、すべての人を公正に判断しようとする余裕も能力も個人にはありません。社会がその機会を奪ってしまうので、この世の利己的な価値基準がまかり通ることになります。
様々な社会活動での役職ばかりでなく、人は人の間に上下を決めてしまい、搾取を行い、差別し、不利益を被らせ、虐待さえ行うことも見聞されないことではありません。それは大人に成長する以前の学校から「いじめ」として始まっていて、この点での人間に根付く『罪』の拭い難さが明らかに見えます。命までも断つほどの苦しみを人に与えるとは、何者のつもりなのでしょうか。しかし、人間社会はこのような悪からずっと逃れられないでいます。
他方、社会から有能と評価され、よい待遇を得るために、親たちは子がよい学業成績を得て、安定的な職に就けるようにと心を砕きます。こうしたシステムについてゆけない子供たちや青年の憤懣が、反社会的な様々な行動となって現れることもあります。
ですが、成功した会社の経営者や政治家も、その高い立場のゆえに間断の無い勢力争いとストレスにさらされていて、僅かな油断でもたちまちに築いたものを失い、とてつもない負債や不名誉を刈り取る危険もあるのです。

これら世の罠から、うまく逃れたように見える人々は、自分たちの安泰に安住し、同情心や人間らしさを失うかも知れません。つまりは、世の苦しみも他人事になってしまうのです。
そしてどのように生きるとしても、すべての人に最期が訪れることになります。
こうして、この世を見回すと、人間の持つ愛情や叡智もさほど働いていないかのように見えます。

いったい、誰が望んで社会はこうなったのでしょう。これでは人間は皆が犠牲者のようではありませんか。
人はこのように「この世」という世界に生まれ、いずれは去って行くにも関わらず、様々に意地の悪い目に遭わされなくてはなりません。

そこでは災害や事故や病気という諸苦があるというのに、人々は競争と差別、虚しい贅沢への貪欲と明日をも知れぬ貧窮、虐待や抗争をわざわざ付け加えているのです。
これでは、人が生まれて来た世界は「修羅場」のようではありませんか。

そこで、人々は「神が居るならなぜ・・」と疑問に思うにしても、この世の有り様の変わることのない非情さから、人が不信仰に向かうとしても、また、自分の幸運を願ってご利益宗教にすがるとしても無理もないことなのでしょう。
あるいは、自分たちだけのささやかな幸福を叶えてくれた何かの仕事や財産などを崇拝の対象のようにして感謝捧げる人もいるのでしょうけれど、この世の全体が苛酷でないわけではありません。

ですが、本当にそれで良いのでしょうか?
誰であれ、この世にまったく幸福な人が居るでしょうか。

むしろ、どうにもならない境遇に置かれた人々、取り返しもつかないほどの失敗に陥ってしまった人々
生きるだけで精一杯な人々、価値を低められ、自らを居場所を見いだせないような人々
社会からの配慮も意思の疎通も難しくなっている人々、そして、すべての人々を覆う人生の空虚さ

これらのこの世での人のありさまを、神はどう見ているのでしょう。
何の助けも差し伸べないのでしょうか。
もし、この世がすべてであるとすれば、世界を作った神とは、虐待嗜好のある理不尽な性格の持ち主ということになるでしょう。
もし本当に世界を創った神というものが存在するなら、その神は、人を一人一人を大切にはしておらず、能力や機会の不公正を与える差別主義者であることにもなります。


ですが、聖書なかでの「この世」は、けっして創造の神の意図するところでは無いというのです。
天地の創造者である神の霊感によって書かれた聖書によれば、世界のこうした乱れは、神の意図から離れてしまったところに原因があるのです。

創造されたばかりの世界は、神をして「大変良い」と満足させる出来栄えであったと聖書は伝えています。
ですが、そこに問題が起こります。
最初の人間夫婦が、神の創造の意図から離れ、自分たちの作り手に構わず、勝手に生きる道を選んでしまったのです。

今在る「世」、その苦難満ちる有り様への方向付けをしてしまったのが、わたしたちの共通の先祖であって、よくもこれほどまでの多くの苦しみをすべての子々孫々までにもたらしてくれたものです。

しかし、その子孫についてはアダムと同じ罪を犯したわけではありません。
それでも、人間は存在して以来ずっと、この世界の激しい不調和の中に投げ込まれてしまいました。

これまでに数知れない人々がこの世に生を受け、それぞれに儚い生涯をこの世で終えてきましたし、今なお、わたしたちの上には苦しみと死が覆っています。つまり、最初の先祖によって人間はすべて死刑を定められた収容所に押し込められたようになってきました。そのうえ、もし死が永遠の消滅であるにせよ、たとえ天国や地獄に行くにせよ、人はいったい何のために生まれてきたのでしょうか。

では無数の人々は、ただ偶然に生まれ、苦しみを味わうために生かされていたのでしょうか。宗教の中には、人生は試験であるとするものがありますが、聖書が伝えるところでは、そうではありません。


創造の神はこれまで存在したすべての人を、そして今生きている一人一人について知り尽くしているというのです。
神にとっては、『あなたがたの髪の毛までが数えられている』とイエスは言われます。
今も、わたしたち各人がどのような状況に在って、何を必要とし、何を考え、何を行おうとしているのかを神は知っているとイエスは言うのです。
そればかりか、当時にはまだ生まれていなかった、後の時代の人々についてさえ知っていたことを聖書は度々示してきました。

ですから、神が「この世」の苦しみの存続を「終末」と呼ばれる清算の日まで待たれるのは、まだ生まれず、現れていない人々の登場を予見しているとも言える理由があります。

さて、日本語の「魂」の意味とは異なり、ヘブライ語で「魂」(ネフェシュ)は、元々「喉」を表す言葉です。
喉はその人の必要物が通過する場所で、その人の必要や渇望をも暗示します。つまり『魂』とは体の感覚や欲求に影響されるものであり、肉体と断ちがたく関係する何かと言えるものです。ですから、モーセの律法ではその日暮らしの労働者に給料の不払いがあってはならず、その日の内に必ず払うようにと命じ、『彼は貧しいのでその給料にその魂を乗せているのだ』と付け加えています。(申命記24:15)
主にヘブライ語を用いた旧約聖書では、「魂」は生きているその人そのものを表すかのように用いられてもいます。

ですから助命嘆願するときに『わたしの魂を生かしてください』と書いてあるのは、『魂』が精神的なものだけを指していないことを示しています。(列王第一20:32)
『わたしの魂を剣から、救い出してください』という言葉も、『魂』が肉体の生死と関係していることを教えますし、やはり『魂は死ぬ』ともあります。(詩篇22:20/列王第一19:4/ヨナ4:8)


それでもキリストは、弟子らに『体を殺しても、魂を殺すことのできない者らを恐れてはならない』と言われました。
つまり、人の体は死ぬとしても、魂までがまったく損なわれることはないということです。
そして、キリスト自身の魂は『墓に捨て置かれることなく、神はこれを復活させた』と聖書は述べています。(マタイ10:28/使徒2:27)

そこで『魂』は、生きている人の中に有り、体と共に死を迎え『死んだ魂』となりますが、まったく無に帰して神にも忘れ去れるわけではありません。もちろん、人は死後に意識を持たないので、この『死んだ魂』とはいわゆる「霊魂不滅」ではありません。(伝道9:5-6)

ですが神は、『すべての魂はわたしのものである』と言われるのです。それは生死に関わらずです。(エゼキエル18:4/ヨブ12:10)
つまり創造の神は、過去、現在、未来を含め、時間を超越して、人のひとりひとりを「魂」として見做すといえます。
これをご自分の刑死を目前にされたイエスは証されたのであり、古代に死んだ人々であっても『神にとっては生きている』と宣言されました。(ルカ20:38)

 神は創造者であるゆえに人を存在させ、また人を自在に復活させることができるからであり、『神にとっては生きている』とのイエスの言葉に違わず、最初にキリスト自身の『魂を墓に捨て置かず』に復活させて『死者からの初穂』とされました。
そこで、人を存在させた神は『善人も悪人も』すべての人について、創造者であるゆえに所有権を持つと云えます。
その通り『善人も悪人も』です。(使徒24:15)

創造者の人への評価に不公正はなく、ただ、あなたが存在することに価値があるのです。
なぜなら、神があなたを在らしめたからです。(詩119:73)
無情なこの世にあっては信じられないほどのことではありますが、すべての人を『わたしのもの』と言われる神により、最初の夫婦の子孫である誰をも『魂』という全能の創造者の侵し難い所有権の中に守られているのです。

ですから、わたしたちの空しい一生が「この世」ですべて終わってしまうことは決してないことを聖書は知らせます。(コリント第一15:13-)
その根拠がキリストによる「魂」の代替であり、すでに二千年も前、新約聖書にある通り、アダムの失った「魂」に対応するキリストの人間としての肉の魂の犠牲は確かに捧げられ、それを神は間違いなく受け取られているのです。(ローマ5:21)

エデンでは、人間アダムがその魂を損なったので、その子孫の全体は「父親」という拠って立つ存在の根拠を失ってきたと言えるでしょう。神にとってアダムの魂は犯された打ち消すことのできない『罪』のために、創造者からして再び生を与えるべきものではなくなっているからです。
加えて聖書は『罪の酬いが死である』と端的に述べて、アダムからの「罪』を背負った人類の死ぬ原因を知らせます。しかし、キリストはアダムの失われた魂を自らの人の魂に代えたので、彼は預言されたようにアダムに代わり『とこしえの父』となると書かれているのです。(イザヤ9:6)

そうしてすべての死者を浄められた地に復活させ、どれほど悲惨な生涯を送った人であっても、いずれは輝かしい創造物としての祝福に報われるように神は取り計らわれました。
しかもキリストによって、わたしたちの「魂」はすべて神によって買い取られた状態に入っています。イエスの死を通してすべての人は『神にとっては生きている』と言うべき状態が確実となったのです。
創造者が御子キリストという最も貴重な犠牲を払って買い取ったものとは何でしょうか。それこそが人々の「魂」であり、一度は創造されたわたしたちが、命ある体を再び持つときに回復される一続きの意識、自分という真実の存在です。

それですから、神も人格といえるものを持つことでは『魂』を持つといえるからでしょう、『その魂は暴虐を愛する者を必ず憎む』と神について述べる言葉も聖書に存在しています。
このように『魂』とは、与えられた体の中で喜怒哀楽など様々な事柄を感じ、その必要に応じて求め、渇望を訴えるもの、つまりその人の明瞭な意識であるといえます。『魂』とは体を通して感じ、考えるものであり、情動と想いこそがその本質であり、そこにこそ神が知的創造物を存在させた目的があったことでしょう。神から独立した思考があるからこそ、神は孤独てはないからです。

それはやはりイエス・キリスト自身も人間としての魂を通して多くを感じ取られ、受難の前には『わたしの魂は悲しみのあまり死ぬほどだ』と使徒らに心中を告げたところにもその価値ある魂の働きがあります。受難を経験し『魂の叫び』を上げたことから、イエスは最高度の『義』に達し、それは天界での破滅性をもたらしています。
まさしく、『世の罪を取り去る神の子羊』として地上に肉の魂となって到来されたイエスは、魂の苦しみを越えて受難に伴う痛み、苦悩、侮蔑、に耐えて、その人としてのアダムの失った魂と同じ罪のない人の魂を神の御前に供して、自ら罪あるままの人類全体を買い取ったのでした。

その結果として、キリストの貴い贖いの価が罪の無かったときのアダムの魂に対応するものなら、買い取られたのは、実に子孫であるわたしたちのひとりひとりであり、善人も悪人もなく、すべての人がその価値において何らの違いもないのです。すべての人は、生きていようと死んでいようと、所有権を持つ神にあっては変わりがなく、その手にしっかりと「魂」として握られているのであり、それらすべての人の魂はキリストの捧げられた父祖アダムに代わる人としての魂により、再び命を得ることができる状態にされたのです。

いつの日か、創造者はアダムの子孫のすべての「魂」を肉体に回復して、必ずや栄光溢れる創造の業を完遂されることでしょう。
しかし、それだけでなく、今現在でさえも、この世の苦しみに喘ぐ個々の人々のために善意を施してくださいます。

イエスはこうも言われました。
『何を食べるのか、何を着るのかと思い煩ってはならない。天の鳥たちを見なさい、倉も持ってはいないが、天の父は彼らを養っている。野のゆりを見よ、栄華を極めたソロモンでさえこれほどまでには装っていなかった。』(マタイ6:29)

そこで、わたしたちにとっての最善を知るのは、実にわたしたち自身ではなく、『魂』の必要を知り、それを顧みる神です。人には誰も将来を見通せません。これはソロモンも諭すところで占いなどは無益です。(伝道10:14)
しかし、神は各個人が到来するのを昔から予見され、その復活までをも予定されているのです。

この世に在って、わたしたちが窮境に陥るときに、非常な不安に駆られることもあるでしょう。心細さに打ちしおれることもあるでしょう。
しかし、あなたも創造の神に所有されている「魂」であり、神に頼り、その助けを願うなら、神は自らの所有する「魂」を誰にも将来に『罪』のない命と栄光を与えるばかりでなく、今でさえ省みるとイエスは教えました。(マタイ6:25-)
神ご自身もご自分の『手の業(創造物)を慕われる』というのです。

そしてキリストは苦しむもの、弱きもの、虐げられ卑しめられたものに寄り添い、障害や難病にある人々をも癒し、神の善意を施し示されました。(ヨブ14:15/マタイ9:11)
神はご利益を与えはしませんが、苦難にある人の『魂の叫び』には道を拓かれます。

それに加え、『神の子』としての立場に戻された将来の生活を送る人々について神はこう言われます。
『彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らはYHWHに祝福されたものとなり、その子孫も共にいる。彼らが呼びかけるより前にわたしは答え、まだ語っているうちに聞く。』(イザヤ65:23-24)
人は短く空虚な人生を後にするだけでなく、アダムのように自由に神と会話をするというのです。
これほどまでの神と人との関係をつないだイエス・キリストはまさしく偉大な仲介者であり、人々に永久に続く命をもたらした救世主となったのです。

確かに、現状のこの世に在って、人々は皆アダムの罪の影響下から逃れてはおりません。
しかし、全能の神の所有権以上に確実で強固で信頼できる保護が他に何かあるでしょうか。
神は人類の創造を生殖に委ねましたから、今の世で人は次も世代を生み出し、育て上げてはこの世を去らねばなりません。

しかし、すべての魂が一度生を受け創造され存在したなら、神と共に生きる機会が一人一人に差し伸べられます。その要諦はキリストの愛を受け入れることであり、その愛に感化されるべきことも意味するでしょう。創造神との絆を失うなら、アダムのようにその魂は再び存在する機会を失い、土に帰ったまま虚無に飲み込まれる定めに従うほかありません。誰を生かし、誰を土に帰らせるかは神の権威によるところであることに誰をも異論を唱えることはできません。創造者なのですから。

聖書は『人は一度死んで、その後に裁かれることが定められている』と教えます。つまり、人々は復活を通して神と共に生きるか否かが改めて問われるので『義者も不義者も復活する』とも書かれています。

しかし、その裁きの下る前てある今、わたしたちがどのような境遇にあるとしても、また何が起ころうとも、たとえ死ぬようなことがあってさえ、神はすべての人のひとりひとりをしっかりとその手に握られ、それらのあらゆる「魂」を何者にも奪われることをゆるしません。
なぜなら『すべての魂は』神のものだからであり、その神があなたという存在の由来であり、あなたはあなたのものであるよりもはるかに創造神のものであると聖書は言うのです。

この世が続く限り、人の苦難は絶えず、死も避けられませんが、それらを乗り越える力強い神が、何時の日か、必ず「この世」を終わらせて、人々に栄光を回復する日が到来します。
聖書はまさにそれを告げており、キリストは命を懸けてそのための働きを地上で全うされました。キリストの死と復活は、存在したあらゆる創造物の魂の先駆けとして『死者からの初子』とされましたが、それは他の魂も続いて生かされるためであり、キリストは愛の絆を示して、ほかの魂に命をもたらす礎となられました。愛こそが命の源、魂が生きる理由であるからです。(コロサイ1:18/ヨハネ第一4:8-9)

人が創造された魂であるとは何と心強いことでしょうか。苦難にあるとき、あなたを在らしめ、御子イエスに受難を許したほどに人々の魂の再生を意図された創造者に心を開き語りかけることができ、そうして頼れる理由があるのです。これが『祈り』というものであり、神はご自分の創造物を必ず顧みると言われるのです。そのために最初の創造物である御子の肉の魂を一度供し、そうして示された偉大な愛により、あらゆる人々を一つに結束させ、創造界を完成させると神は言われます。(ヨブ14:15/エフェソス1:10)

ですから神に頼り、自らを委ねることは弱さではなく、見えない創造の神に信頼を寄せる「信仰」と呼ばれる大胆さの証しであり、『人が弱い時にこそ、神は強い』と聖書は言うのです。(コリント第二12:10)
これはなんと慈しみ深い含蓄に富んだ御言葉ではありませんか。






この記事は、「現代人にキリスト教を説く」と題する以下の本からの引用です
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