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12.人はなぜ生きるのか

2014.11.02 (Sun)

"Why do people live?"
人はなぜ生きるのか


これに似た問いに、「人生の目的は何か?」や「なぜ生まれてきて、死ぬのだろう?」などもあるでしょう。
こうした質問をする時期は、青年期に多いようですが、それは社会に出て、考える間もなく生きるための日常に追われる日々に入る前だからなのでしょうか。
あるいは、若者でなくとも、今日もどこかでこの問いを思い浮かべている人もいることでしょう。

しかし、「人はなぜ生きるのか」という問いに答えるのは易しいことではありません。

もう随分と以前のことで、おおよその内容を書くことになりますが
ある中学校では自殺する生徒が出てしまいました。
校長先生は、全校生徒の前で「死んではいけない、強く生きなさい」と訓示したそうです。

しかし、ひとりの女生徒は新聞(朝日)に投稿して大人たちに尋ねました。
「死んではいけない、強く生きなさい」と言われましたが、どなたか生きる理由を教えてください。
生きる理由が分からないのに強く生きることはできないとも、この女生徒は書きました。

これに対して、様々な返答が寄せられたものです。
おおよそ要約すると、次の三種類に分けられるように見受けられました。

「生きる理由は、生きているうちに見つかる」。
「人は生かされているのであって、理由はないが懸命に生きるべき」。
「人を愛しているので生きようとする」。

ですが、その女生徒はこれらの回答に感謝しつつも、満足せず、同じ問いを投書します。
やがて大人たちは、ひとつのことを共通の認識としていったように見受けられました。

つまり「人はなぜ生きるのか」との質問の答えは、人それぞれになり、すべての人に当てはまる解答が無いということです。

それでも、大人たちの回答にはそれぞれ真実が含まれていたように思えます。
人は何かに打ち込んでいると、それが生きる理由や目的のようになってくるものです。
また、わたしたちの誰もが、生まれようとしてこの世に来たわけではありませんから、確かに「生かされている」という感覚もうなづけます。
そして、誰かを愛するゆえに、生きようと努めることも、まことに価値ある理由と言えましょう。

では、これらに何が足りないものがあったのでしょうか?

これらの回答には共通するものがあります。
それらは、自分の意志によらず、いつの間にか生まれていた人間の側から、その存在の理由を自ら考え、何とか作り出そうとしているところは同じなのです。 しかし根源的な答えはそこにありません。人は皆、自分から生まれてきたのではないからです。なぜ生きるかの解答は人の限界の向こう側にあると言えましょう。

これを例えると、様々な用途に使うことのできる機械が作られたかのようです。
その機械は便利に様々な仕事をこなしますが、製作者が不在で、なぜ自分が作られたのかを知らずにいます。

時折に、自分が何のために作られたのかを考えても、自分なりの答えで満足する以外にありません。
そして今日も、せっせと自分の仕事と思える事をこなして忙しく過ごします。ですが機械にはあちこち不具合が出るようになり、やがて仕事を行うこともなくなり、スクラップとされます。
人の一生は、このように存在させたものとの繋がりが欠けているので、人はそれを見出そうと様々な宗教に問いかけてもきたと言えましょう。

では、ここから聖書に目を向けてゆきますと、こうあります。
『造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。』(イザヤ書29:16)

これはつまり、造られたものは造ったもの以上にはならず、造ったものに自分の存在意義を尋ねない限り、それを知ることはないことを教えていると言えましょう。
人は自分から生まれようとしてこの世に来たわけではなく、人は生まれながらに自分を在らしめた何者かを認識するわけでもありません。そこでジョン・ロックが17世紀に唱えたように、人々は生来的に「白紙」の状態の認識で生まれてくるので、宗教といえども神認識で一致しません。

ですから、多様な神や信仰がそれぞれの人々によって確信されてはいるのですが、その神も教理もバラバラで、その不一致が原因で時に互いの間に敵意をさえ生じ、それが宗教紛争などの厄介な問題を起こし兼ねません。
宗教といえども、神ではなく、やはり人間それぞれの思惑やご利益への願望が強いばかりで、本当には神に耳を傾けているとは言い難いものがあります。

しかし、このように自らを存在させた何者かに対してさえ人が無頓着で、何事も決め付けてばかりなら、果たして自らの生きる目的を知ることなどできるものでしょうか。

他方で、聖書には簡潔ながら人間の始まりからが描かれています。
「創世記」のはじめの部分には、天地の造り主である神が、自身の六日に相当する永い期間をかけて次第に地球を整え、最後に人間を地上に置いて地上の生き物を従わせる役割を与えることにしました。

創造神は第七日には、天地の全体が非常によく出来上がったことに満足を覚えたと創世記に記されます。
最初の男女はアダムとエヴァであり、このふたりから地上に人々が広がってゆくように取り計らわれます。
ふたりは「楽しみ」を意味するエデンと名付けられた園を与えられます。ですから、創造者はこの世のような苦悩の多い環境に生きるようにと、人間を意図して作ったわけではないのです。

創造神はアダムに様々な動物の名を付けさせましたから、アダムは神から独立した自由な意思を持っていたことになります。それを神は喜ばれたのであり、創造者は主権をかざす強圧的な存在とは言えません。また、神は自らに平伏させるために人を作ったとも言えません。
そこでは、神と人間たちは意思を通わせ互いに会話することができました。両者の間に隔たりもなく、今日のような宗教を間に挟む必要もありませんでした。
しかし、それも変化する事態が起こります。

この創世記の最初の部分は「原初史」と呼ばれますが、これは神話のようでありながら、それだけでは済まされないような人間の本質を突く記述があり、それは「人はなぜ生きるのか」と問う人をして見過ごせないものとなるでしょう。

それがエデンの園の中央に植えられた二本の木なのです。
これらの二本の木は、実に創造者と人間の関係性を左右する決定的なものなので、エデンの園の中央に在ったと言えます。

さて、あなたが何かの機械の製作者であったなら、その機械をそれなりの目的に合わせて作ったことでしょう。そして機械がどう用いることが良いか、どう用いてはいけないかを知っていることでしょう。
しかし、機械も操作する者もそれを知りません。分かるのは適性くらいです。なぜなら製作者との意思の疎通が欠けているからです。

ですが、人間は単なる機械ではなく意思を持つ生き物であり、神と会話できるところは他の動物とも異なっていました。それで、意図せず生み出された自分が「なぜ生きるのか」を問うのです。
エデンの園の真ん中に植えられた二本の木は、人が自らの意思に従って生きることのでき、不自由なく神との意思の疎通を図れる者として存在し続ける条件を指し示していたと言えます。

一方の木は「善悪を知るの木」、もう一方は「永遠の命の木」とされますが、それぞれの木の名前に人の行う意思の選択が表れています。人がそのどちらか一方を食べることが意図されているのでしょう。

その選択は、まず「善悪を知るの木」に対する禁止によって与えられます。
創造者である神という存在を人がどう捉えるかに関する自由な選択がその木について一度開かれましたが、これは神と人の関係に関わるものです。人は創造者を敬愛して生きるでしょうか、それともないがしろにして生きるでしょうか。
そこで神は、人の選択の自由を保つためにその行動を強制せずにおくばかりか、「蛇」という第三者の誘惑をも許します。

つまり、創造者との良好な関係を望んで「永遠の命の木」からその実を食べるのか
あるいは、創造者を背を向け、利己的な願望に流れる生き方を選んで「善悪の知識の木」から実をもいで食べてしまうか、という決定的な生き方の二者択一で、そこに関わるのは生き方であり、倫理と呼ばれるものです。

結論と言えば、アダムとエヴァは、創造者からの禁を犯してその関係をないがしろにする方の木の実を食べてしまいました。
そこで人は倫理の問題を抱え込みます。倫理とは、他者とどのように生きてゆくかという事柄です。
人類は、神に対してばかりでなく、互いに対しても倫理の問題を抱えていることは、少しこの世の有り様を観るだけではっきりします。この世には人間の悪が多過ぎるのですから、今日のニュースを見回すだけでも、人間に倫理問題が在る事を確認するのには充分過ぎるほどでしょう。
神は、ふたりを「楽しみの園」から追放しました。つまり、創造者との関係が損なわれ、「永遠の命の木」からも採って食べることのないようにします。これによって、悪が永久にはびこり、創造界に対する神の意図がいつまでも成し遂げられないことが避けられます。

これが神の願うところでなかったことは、『善悪を知るの木から食べてはならない、死ぬことのないためだ』と忠告していたことからも、またアダムたちに示していた多くの親切からも明らかなことです。 しかし、彼らは神の善意に応えませんでした。 二本の木の選択に求められたのは、権威者への全き「従順」というより、自発的な神への「忠節な愛」であったといえるでしょう。

神はふたりに「永遠の命の木」から与えたかったに違いありません。創造者なのですから。
しかし、ふたりは与えられるのを待たず、奪う仕方で「善悪の知識の木」を採って食べてしましました。

それから、創世記は今日の人間の日常の理由を語ります。
人間は『顔に汗してパンを食べ、ついに地面に帰る』という生涯を送ることになり、『地は呪われ』雑草がはびこるようになって耕作は容易ではなくなり、やがて地上は不作や災害も起きる場となってゆきます。
アダムとエヴァがエデンから追放されたとき以来、人間社会は創造神とは隔たった根無し草のような生活を余儀なくされました。

それが今日までの人間の受け継いだ境遇であり、その一方で人々は、相変わらず神を意に介さず、または自己の義を立てるような崇拝を行って、やはり神に無関心であることを示してきました。
人は自らを存在させた創造者から心が離れてしまい、それはあらゆる道徳や倫理の基本を壊してしまいましたから、人類世界には悪や苦しみが絶えません。

もちろん、幾らかの善を行うこともできるのですが、人間は自らの悪を無くすことができなくなっています。
そこで、善と悪とを仮に定めて法律とし、それを守るよう強制しなければ人間は社会を維持できないばかりか、生活もおぼつかないことでしょう。

つまり、今日の世は創造者の意図から外れてしまった状態にあり、それで人々はこの世を空しく感じます。
生まれて、育てられ、苦労して生活し、やがて子をもうけ、老化を避けられず、自分も去って行く、という世代の繰り返しを眺めると、それだけのために存在することに、人は満足できないものを自然と感じ取ります。
その一生にどんな意味があるのか、ほんとうにそれだけなのだろうか、という疑問は誰もが思い浮かぶものです。

しかし、創造神との間には充分な意思疎通が失われているので、それが「人はなぜ生きるのか」という問いの答えを得る事を阻んでいます。人に「なぜ生きるか」という問いへの普遍的で決定的に得心できる答えがないのは、わたしたちがまさしく造られた存在だからなのでしょう。われわれ人間が形造られたものであるなら、本来、自分で存在意義を決める理由がありません。
そしてやはり、人々には「なぜ生きるか」の答えが本当には見当たりません。その答えは創造者の許にあり、その以前に、神や人とどう生きてゆくかを弁えていないのですから、まず、神との間の垣根が取り払われねばなりません。

この簡潔でありながら大きな難問「人はなぜ生きるのか」について、聖書が伝えるところは、「人間を楽しませるため」とも「地上を管理させるため」とも答えることはできるでしょう。それは文字からの知識としてのことです。
しかし、二本の木に示されたように、より重要な解答は、「人間を存在させた神との関係」の中にあります。
つまり、創造した側からの、人の生きる理由というその答えを知る必要があるのです。

ですから、創造者との関係が途絶え、短い寿命に生きている現在、「人はなぜ生きるのか」の問いへの神の答えを得ることには無理があります。
もし本当に、「永遠の命の木」から採って食べ、永遠に生きることが創造神の人間への意志であったのなら、「なぜ生きるのか」の問いはまったく答えられなければなりません。

そうでなければ、人は永遠という時間にいつかは飽きて、生きることに意欲を持てなくなるに違いないからです。
ずっと生き続けるためには、充実した生涯を送り寿命を全うして満足することをも遥かに超えて、永続する目的意識を持ち、身体が生きようとするように、心も生きることに意味を見出していつまでも闊達としていなければ、永遠という時間に空しさが付きまとうに違いないのです。

しかし現在では、人が「なぜ生きるのか」の神の回答を得ることは無いといってよいでしょう。
やはり、わたしたちは創造者との十分な関係をもっておらず、人の内の悪に流れる傾向は、創造に当たって神の意図したところから脱線してしまっているからです。つまり、この世の有り様も、人の心の傾向も、神の意図するところではありません。そこで人間が自ら生きる理由をいろいろと考え出しますが、実感を伴った得心のゆく正解を得ることは不可能なのでしょう。

そこで人々は神を、また「上なるもの」を求めてきました。
そのために宗教があり、人はそこで自らの根本的な問いに答えを捜してきたのです。
しかし、それぞれの宗教は様々な答えをいろいろと並べることはあっても、誰もが納得できるような普遍的な答えにはどのような宗教も到達したとは言えません。多様な宗教が並立するのもそこに一因もあるのでしょう。

「生きる理由を教えてください」と、新聞に投書した女子生徒は、この端的な答えの無い問いを尋ね続けたといえましょう。
あまりにも純粋で無垢な問いに、知ったつもりでいた大人たちはたじろいだのではなかったでしょうか。
実は大人たちに正解が無かったので、正解と思える答えを並べるところで終わってしまったように見えるからです。

この堂々たる正面からの問いと、幾らか的を外した答えに漂う空虚さは、創造者との絆を失い、寿命によって生きる時間を制限されている人間の現状をさらけ出しているかのようです。

しかし、その一方で、創造の神はアダムの子孫のすべてに対して、自らとの関係を回復する手段を設けました。
その手段について聖書は『神と人との仲介者』と呼ばれるひとりの人物を指し示していて、その方はイエス・キリストと呼ばれます。

「キリスト」とは、一言でいうなら「任命された人」を表します。
つまり、アダムの子孫たちが、神との関係を取り戻し、「悪」に流れる傾向を正して、再び創造されたままの輝かしい姿を回復させるという大役を担うために、神から「任命された者」を指しているのです。
その「救世主」とも呼ばれるキリストは、「この世」という創造者との断絶の広大な暗黒に、差し込むたったひとすじの光のようであり、人類に残されたこの上なく貴重な助けです。

キリスト教とは、この任命された方を通して、神から離反している状態から人類が救われることを信じるものなのです。
「なぜ生きるのか」という問いの答えは、やがて「この世」が正されて後、「永遠の命の木」から実る果実を味わうときに、創造者が溢れるほどに示されるでしょう。その時には、深い実感をもって十分に得心のゆく正解を誰もが味わうことになるでしょう。それは命への本能的願望でも、人への愛着でも、物事を究めることでも、単なる知識でもなく、人が会得して永遠に生きようとさせる何かなのでしょう。





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