FC2ブログ

エホバの証人にお勧めしたいこと

2014.05.07 (Wed)
エホバの証人にお勧めしたいこと


最近になって、現役の「エホバの証人」の方々からメールを頂戴するようになり、それぞれご自分では疑念を感じ始めていながらも、そう簡単には組織を後にすることもできないご事情を伺うようになりました。
そこで外部からのセカンド・オピニオンのように参考意見をお聴き頂ければと思い、疑念を感じ始めていらっしゃる現役「証人」の方々に、いまや進退窮まったかのように観える御組織の現状にあってもお勧めできるところを申し述べたく存じます。

もちろん、こちら側である「新十四日派」がまったく正しいという訳ではありません。しかし、こちらからの視点で見えるところをお話することが無駄ではないように思えるのです。

お聞きするところでは、現役のエホバの証人であっても、これまで絶対的とも感じられてきた「組織」の正当性に疑問を懐き始めていらっしゃる方々が最近たいへんに増えつつあるとのこと。

情報を総合しましたところで原因と思えますものは、まず話題にどうしても上ってしまう性的幼児虐待に関わる事件ですが、これはカトリックでも、仏教でも起こっていることで、人間に共通の汚点なのでしょう。そこでそれぞれの宗教の真価も問われてくることになるますが、そこでものみの塔はこの挑戦にどう答えているのでしょうか。

これについては組織の管理者、つまり意思決定を行って来た「統治体」とよばれる上層部は、報道を「外部からの攻撃」と主張して情報を否定し、信者からの真摯な問いも受け付けず、その一方で密室で行われた事件にさえ「二人の証人制度」を適用し続けたために、ついに被害者側への「忌避」まで用いてもみ消しに走るという以前からのアプローチの積み重ねが、いよいよ裁判所からの口座凍結のような事態を招いてしまい、結果的に内部の誰の目にも明らかなほどの資金不足に大きな影を落としたことを挙げないわけにも参りません。それほどに内部には財産不足として、一般人にも醜聞の認知が進んでしまっているものですから。

伺うところでは、一件の敗訴でも十億円単位の罰金や保障が求められ、それも一件や二件ではなく、十件単位であちこちから訴訟が起こされているとのことです。これが欧米を中心に各国に広がりつつあるとなりますと、その負担額の大きさは傍目にも軽くないようです。これは背教者のデマがどうこうと云うところでなく、早急な解決が求められる、組織そのものの存亡に関わる重大事ではないのでしょうか?もちろんこれは、賢明な指導があるなら、すぐにでも正面から向き合うべき課題というべきものであることは外部からも明らかなことです。

この問題は、宗教団体の中から犯罪者が出たことが問題なのではありません。オーストラリアを始めとして、ものみの塔としての対処の仕方が犯罪として嫌疑が懸けられてしまったのであり、その被告が実に「ものみの塔」であるというのです。理由といえば犯罪者と犯罪を放置、隠蔽していたと司法から見做されてしまったからです。

原因といえば、性犯罪者の大半が長老などの立場ある人たちで、長老は「二人以上の証人」によらなければ裁かれないと、正しく聖書に従ったつもりでも、その規定が今日の現実には則さず、加害者を匿うかのように教えが作用してしまったところにあります。
しかし、これは聖書に責任があるとも思えませんし、エホバの証人の大半の品行方正な方々の直接の悪行ではないのです。
しかも、証人のみなさんには動揺しないよう知らされていないことで、それは却って知る機会を得た方々に衝撃を与えることになるでしょう。

この問題の根は、「聖書にある通りにすれば自動的に正しいキリスト教が実践される」という仮定が問われるべきだったのでしょう。聖書に書いてある通りにするだけで、指導層が良識ある判断を加えないとすれば、それは『忠実』のようでいて、『思慮深い』とは言い難いことでしょう。そこには非人格的で良識を欠いた規則主義が感じられますが、果たして神もキリストもそれを望まれるのでしょうか。
この点、ユダヤの宗教家たちが暗記するほど聖書に詳しく、却ってキリストを殺害したのが大きな教訓と言えます。硬直的な文字への正確な従順さよりも、宗教人らしく重きをなすべき意味を悟る「良識ある人格的判断」が求められたということでしょう。

ですが、宗教団体が訴訟を起こされるということはそう珍しいことでもなく、表沙汰になりにくいだけのこと、まして、米国のような訴訟社会であれば尚更でしょう。
そこでどう対処するかによって、本来の組織や指導者の資質が問われることになります。完全無欠な人も組織もどこにもないのですから。

ではそこで、「神の経路」と称される「ものみの塔」組織の対処法は主張に違わず立派なものとなっているでしょうか?
早期に適切な対処が出来ていましたら、今日一般にも伝えられるほどの不名誉までは免れていたことでしょう。

その当然の結果として現れた資金の危機に対して、ものみの塔側は(法的には独立した宗教法人の場合がほとんどの)各集まり(会衆)からの拙速な、信者の心尽くしの寄付や労働によって得られた集会所の名義や資金などの所有していた財産の収奪した上でこの世に販売するという、傍目にも良心的とは思えない方向にミスリードを重ねつつあるようです。犯罪の罰金や賠償のために悪行を行っていない人々から金品を集めることを、一般ではどう考えるでしょうか。そうしなければならないほどに強い切迫感が資金面に及ぶ事態に立ち至ったということでしょう。

もちろん、金銭そのものを惜しむ気持ちからではなく、その物事の行い方や起こっている事への説明の無さに義憤を感じられるとしても、それは自然な良心の反応であり、それを「不忠実」や「背教」と責めるのは的外れであるに違いないことです。まして意見の異なる仲間を「排斥」するというのは外から見ても余りにも行き過ぎです。

しかし、この状況も本来「罪」ある人間の集団である以上、どんな組織であってもこのような構成員の失態は避けられないことであると思われます。それは犯罪の加害者自身ばかりでなく上層部の対応にしてものことで、それが直視せねばならない「罪」ある人間のおしなべて現実の姿なのでしょう。
そこではやはり、世俗権力の機能、つまりパウロも従うよう求める『上なる権威』と言う、警察力や司法に頼り、また協力する必要のあるところはやはりそうしなければなりません。加えて、この種の警察からの捜査と、宗教弾圧としての迫害とを混同するとすれば、それはエホバの証人には良識が備わっていないと公表するに等しい愚行です。

もちろん、道徳的で知られるエホバの証人のほとんどの方々が不名誉な罪人として警察のお世話になることは無いことでしょう。
ですが、誰であれ倫理的不完全さを免れているわけではなく、そこで「道徳的完全を演出」するべく幾らかの事件を無かったことにしようと、もみ消しを意図し始めたときに、却って人間共通の大きな悪の罠へと深々と落ち込むことになってしまいます。むしろ、自分たちの崇拝にプラスになることであるとすら思えたとしても、もみ消しはやはり悪であり、善を装うところは更にあるまじき事に思えます。

それが「罪」ある人間がどうしても避けられない弱点であり、人の倫理上の欠陥はキリストの犠牲を要したと聖書も教えるところとなっております。(ローマ3:9) この『罪』という問題を、ひとつの宗教組織の中で処理しようとするには問題が大き過ぎます。まして皆さんのお仲間の中での、お心がけや努力で本当に警察が不要になると期待してよいものでしょうか。
もし、それができるものなら、パウロが『剣』を恐れるようにと弟子には言わなかったのではないでしょうか。

また、ひとつの集団が倫理的に潔白であると主張することは、人間全体に巣食うこの「罪」の実体や危険性を、信仰のお仲間については無視することでしょう。 どれほど道徳的に振舞うとしましても、エホバの証人の方々だけが特に救いに価するほど神の目にも清いと思うとすれば、それは間違った感じ方ではないでしょうか。
使徒ヨハネも『罪を犯したことがないと言うなら、その人は偽り者』と述べた通り、どれほど清い人格を誇っても誰も例外なくアダムからの罪を逃れることはできません。キリスト教徒であれば、自らの倫理的実態を正直に見つめてこそ、キリストの犠牲の価値がどれほど高く貴重であるか分かるものでしょう。

ですが、「ものみの塔」の指導的立場に在る人々からはこの組織においては性的幼児虐待のような不道徳は起こり得ないとする意識が強く働いていたのではないでしょうか。この団体こそが「神の経路」であると拳を高く振り上げるほどに、その「清さの演出」が実態から離れてしまい、却って組織をあげて性犯罪者を隠匿保護するような罪の上塗りになってしまったのでしょう。

この点だけ見れば、その宗教信条の是非はともあれ、九億人の信者のトップに立つローマ教皇自らが謝罪し、該当聖職者を罷免したカトリックは余程謙虚であり、同じ問題にあってもまだ道義的に対処したと言えるでしょう。

カトリックには聖職者の独身制と、人間の実際の道徳性のギャップとに問題の背景がありましたが、ものみの塔の場合にも、何かの制度上の無理が背景があるのではないでしょうか。もし、聖書の言う通りにすれば間違いは起こらないというのであれば、律法に厳密に従おうと腐心したユダヤの宗教指導層はなぜメシアを殺めたのでしょうか。聖書に問題の根はなく、問題の根は『罪』ある人間の方ではないでしょうか。

おそらくは「二人以上の目撃者」によるのでなければ責任ある立場の男子を裁かないこと、また、その二千年前の状況で有効であった裁きを今日の社会の実態から切り離して優越化したところに、『罪』ある人間というもの、また聖書そのものの意図を読み違えていたようにも見えます。
その「二人の証人」の句は、かつて古代に指導者をおとしめてエクレシアに混乱を持ち込もうとされていたときに、聖霊ある指導者を守るために機能した決まりではありましたが、今日実際には、その制度が悪用されてしまい、性犯罪者の温床を作って、会衆が悪の巣窟となっているのですから、古代とは正反対に作用しているではありませんか。
そこで、なお聖書にある言葉だからと固執するのは、人らしい良識ある判断をせずに自派の正当化のために聖書に従っているだけではないのでしょうか。

しかし、果たして、思い違いの避けられず、また非倫理性のある人間が聖書の字面の通りにすれば、いつでも正義や真の宗教が出来上がるものかといえば、やはりそれは無理でしょう。その「忠実さ」にどんな実際的知恵や判断があったものでしょうか。むしろ、良識を働かせることを捨て、神に責任を負わせるようなことになるなら、それは神を賛美してはいない結果となりましょう。

ですから、エホバの証人がカトリック信徒の倫理的不完全さを何か云えるものでもありません。カトリックだから倫理的に不完全なのでしょうか。外部からはけっしてそのようには見えません。

そのうえ被害に遭った信仰の仲間が裁判に訴えるとなれば、自動的に信者とはされなくなり、他のメンバーから遠ざけられ、家族も他人以下の扱いをするというのはまったく理に適わないように見えますが、どこかが間違ってはいないのでしょうか?
それでは、「道徳的で知られるエホバの証人」らしくなく、まるでナチのように非情です。思うに教理がどうかという以前の良識や道徳の問題でしょう。

さらに、その教理について言えば、長らく「1914年からひと世代のうちにこの世が終わりを迎える」とされてきたものが、近年になって「ふたつの世代が重なる」という教理の変更が行われたことに、内心では残念な思いを感じた方々も少なくはないように拝察いたします。

そこで「年代に信仰を持ってきたわけではない」とご自分に言い聞かせ、これまでの1914年からひと世代の内に「新体制」が臨んで、「楽園」が到来することで人生の様々な問題も解決されると熱意を込めて信じて来られた希望が静かに消滅し、新たな決意を胸に「この組織を信じよう」あるいは、「ほかにどこに行けばよいのか」と念じてこられていることを、それぞれの方々の誠実さの表れと見ることもできましょう。

しかし、この問題の淵源はこのような方々には無いように思えてなりません。
原因は、それら多くの誠実さを無駄にしてしまう、より大きな力が働いていることのように見受けられます。

それこそは、最も悔い改めるべき少数の上層部の頑なさであり、ネット上では、これに気付いている方々も実に少なくはないようです。
つまり、組織の意志を定める指導者ら、おそらくは「統治体」とよばれる人々こそが、まず第一に、信者の方々がみせるような誠実さを発揮させるべきなのでしょう。

この上層部の人々の陥っている問題に的を絞って見ますと、その実態に関わらず「とにかく自分たちは正しい」という自己義認から抜け出せない点に帰着するようです。その動機には信者を失うことへの恐れがあるようですが、これは逆効果にならないものでしょうか。聖霊に霊感されてもいない限り、人は誰もが間違いを逃れられないのは当然のことだからです。

つまり、人間の誰もが『罪』ある実態に関わらず「神の是認の下にある」あるいは「批判は許さない」という態度を改められず、この源から様々な害悪が増幅されつつあるように見えます。ですがこれは逆効果で、現実とのギャップに気付いてしまった方々に失意を、また「罪ある者」同士の一方が「正しい」と主張する傲慢な対人関係が激しい義憤と重苦しい閉塞感をもたらしているのでしょう。

また、この点に関しては指導を受ける側に問題がないとも言えません。
「正しい自分たちに間違いはない」という願望的妄想に対して、宗教組織や圧政下では人間が本来賜物として持っているはずの「英知」や「判断力」というブレーキの利きが著しく悪いのです。

判断することは常に上に上にと委ねられ、そのために本質的には「誰が偉いか」を問う宗教となってしまい、皆が同じではなく、階層社会を作り上げてしまうことを許しています。証人の皆さんは余り意識なさらないかも知れませんが、皆さんの全体に浸透しているのは上から下への特権欲ではないのでしょうか。

組織の中では「兄弟姉妹」と呼び合いつつも、巧妙に上下の層が幾重にも作られております。その「偉さ」の根拠と云えば、「霊性」という奇妙な優越感ではないのでしょうか。楽園も永遠の生命もその「偉さ」を確立するための燃料にされてはいませんか。

このピラミッドの頂点を成す統治体が、いよいよ「異例と思える指示にも・・」となりますと、危険運転さながらの「暴走も覚悟せよ、しっかりつかまれ」とのことなのでしょうか。 当然ながら、これは個人の持つ良識や判断力を抑え込んでしまう圧政国家の施策と変わりなく、キリスト教とは何ら関係の無いものです。

この点では、カトリックやプロテスタントは歴史が長く、これまでに多くの失態があって、自分たちがまったく潔白であると主張するには程遠いことを内心弁えております。ですから、まだ過ちを認めて謝罪もできますが、ものみの塔に限らず新興の宗教となりますと、まだまだ子供のような潔癖妄想が抜けず、パリサイ派以来の業の清さの主張が、どれほど罪ある人間にとって非現実かを知るだけの経験が足りないようです。

もちろん、皆様の支配層の人々も間違いを犯すことを認めないわけではないのでしょうけれども、特定の事柄においてはそうしようとしているようには見えません。
その頑なさは、人の「罪」を無視したような仮想の潔白性においてだけでなく、すべての証人に対する「統治」の権限に関わる事柄においてそのようです。

例えれば、小さな教理を変更することはこの人々にとって、「統治」を然程に左右することではありませんから、訂正も容易な事でしょう。ですが、これが神の前に「唯一正当」であることを危ぶませるような教理については、実情とはまるで異なってしまっても変更を加えることがどうしてもできないようです。その中には「1914年からの臨在の始まり」や「忠実で智き奴隷」に関する教理が含まれることでしょう。

また、「ものみの塔」だけが「神のもの」であり、キリスト教世界とは異なり優れた教理を有しているので、「聖霊」の指導の下にある。という事柄に疑問を差し挟む余地は許されていないようです。

確かにキリスト教界が中世の暗黒を克服できていないような異教の教理をいまだ後生大事に抱えていることは事実でありますが、今日、誤謬を克服でき、神の前に潔白であると主張することが誰であるにせよできるものでしょうか?

ものみの塔の教理の場合、「1914年からキリストの臨在が始まった」というような根幹を成す教えは、元来どこから現れたのでしょう。
神からのものでしょうか? それとも人からのものでしょうか?

神からのものであれば、なぜにあれほど変更を重ね人々を欺き苦しめ宣明する御名まで汚したのでしょう。
人からのものであれば、なぜその教えを信じ込んで苦難の道をわざわざついて行ったのですか。

ある現役の方に「1914年という年代を信仰しないでも良いのでは?」とお尋ねしたことがありましたが、そのお答えは「エホバの証人であれば、それは無理でしょう」とのことでした。これは教会員に「三位一体を信仰しないでも良いのでは?」とお尋ねしても同じような返答をもらうことになるでしょう。

これらのどちらもキリスト教に付け加えられた「人間の教え」ではないのでしょうか。そのせいか、どちらもその聖書のごく一部を根拠にしたこれらの根本教理にはそれぞれに頑固で、それぞれ自己義認の根拠にしているため身動きもできません。
ですが、三位一体説がもたらすものと言えば、聖書理解の放棄と、神への無関心と言えましょう。

そして、仮に1914年が本当にキリストの臨在の開始年であって、実際にそれからがハルマゲドンを待つべき時代だとしても、その教えがもたらす「信仰」に、どれほどの価値があると思われますか??
一言で表せば、「時が来たので、神の悦ばれる道徳者になりましょう」と言っているのではありませんか?
果たして「神の裁き」とはそれほど外面的なものなのでしょうか?
その信仰の目的は「楽園への生き残り」であって、別に言えば「自己義認に安心して終末を裁きを迎えましょう」とも言っているのです。
もちろん、主人公は神ではなくご自分でしょう。ですから、神の御旨を探るにしても、ご自分が裁かれないためです。
そこで、証人の皆さんは、ご自分が何としても行きたい「楽園」の色眼鏡をかけて聖書を読んでしまい、また教えられたように読み、そうして偏った「生き残り」のための生き方を始めます。果たして最重要なものは『永遠の命』でしょうか?神は人間にとって『愛』を最重要にすべきことを教えてはいないのですか?『愛』は命の源であり、命そのものに勝ります。もし、人が命を優先するなら、逆に神は命を差し控えるのではないでしょうか?

命を最重要とするのは人の心を見る神を奉ずるキリストの教えとして異質ですし、例えればエレミヤの七十年という年代計算の起点の理解からして、伝道や集会のために聖書をあまり読んではいらっしゃらないようにこちらからは見えます。 なぜなら、年代計算が導く動機は「生き残り」であり、『愛』とは言えませんし、そもそも1914年の根拠は聖書そのものが根本から否定していることは、いくらか読めば誰にもはっきり分かりそうな事だからです。⇒「エレミヤの七十年の終点から起点を探る

特にエホバの証人のアイデンティティとも言えるほどになっているこの「1914年臨在説」という根幹的教理は、けっして崩すことのできない組織側と証人側の合意事項とさえ言えます。
なぜなら、これが危うくされるなら、証人の人生を懸けた「楽園」の希望がかすみ始めてしまい、組織側では証人への統治権の基盤が揺らいでしまうからでしょう。欲望のために神の意志の真意は探らず、ご自分のために組織以外の言葉の一切に耳をふさぐというのは真理や真相を求める態度なのでしょうか?

そこで、これらの最重要項目については「真偽を問わない」という双方の暗黙ともいえる合意が形成されていますが、その動機をはっきり申し上げるなら「ご利益の獲得」と「宗教指導者の特権の維持」というよりほかなく、どちらも純粋に神の意図を汲もうとしているか否かは、こちらからは判然と致しません。

しかし、今やその同意事項も上層部の不義理な行動の結果として危うい状況に入り込んでしまい、証人の方々には幾つかの分離の選択肢が生じ得る状況にあります。

ひとつには「ものみの塔」が改善されることを願うこと
また、この組織に見切りをつけて「大いなるバビロン」と呼んだ宗教に属すこと
あるいは、最初から信仰が育っておらず、まるで宗教を後にすること
もうひとつ、様々な事情があって、内心の信仰はともあれ所属を続けるという方も多いとお聞きします。

わたしから見て、この何れもが善い方策には見えませんが、とはいえ、それは個人の倫理上の決定でありますから、断じることは致しません。

ですが、こちらのサイドから見て、次のひとつの事は「証人」の皆様にお勧めできるように思えます。

神からもたらされる真理に近づく方法があるとすれば、それは「捜し続けること」であると聖書は述べます。

それにはまず、伝道活動に費やしている時間の半分でも、個人で聖書を熟読することです
これはエホバの証人の皆様に限らず、キリスト教に近付こうとする方々でしたらどなたでもお勧めしたいことでありますし、これなら何も今ここでわたしが強調するまでもないことのように思われるかも知れません。

ですが、何かを見失いそうになるとき、基本に立ち戻ることは何せよ必要なことではありませんか?
皆さんの手には、これまで研究に用いて使い慣れた聖書があり、以前の新世界訳は教会員が誹謗するような悪書ではありません。
しかし、聖書の熟読は「塔」組織が勧める「通読」や「朗読の範囲」のようなところにけっして限ってはなりません!

通読というものには欠点があり、恰も「聖書を理解してはならない」と言うに等しいことで、通読の回数を誇る虚しい努力は、消化できないままに次々に読み飛ばして「終わること」を目標にしがちで、教会によってはこの通読を奨励し、信徒の間でも通読を何回行ったかを競うようなところがありますが、これは敬虔さをひけらかす手段となっており、却って嘆かわしいところです。
また、ものみの塔の「朗読の範囲」では組織の都合の悪い箇所は注目されず*に、決められた同じ観点が強調され、僅かな言葉のニュアンスに隠された理解の糸口も無視して通り過ぎてしまうでしょう。 *(エゼキエル34章など)

もちろん、聖書理解に助けは必要でしょうけれども、「詳しい」と思える他者に余りに任せてしまい、ご自分の判断を下さない習慣をつけることは、ご自分と神との間に人間の講釈師を入れることになってしまい、その人が間違えればあなたもそのまま間違えるはずで、実際、それは年代の件で何度も経験して来られたことなのでしょう。

ですが、それは本来、あなたご自身の間違いではなかったのです。
三位一体がエジプトの異教や哲学から入り込んだように、「年代計算」はアドヴェンチスト派に同意した、ひとりの人の思い込みを介して「混入」したものではありませんか。
もちろん神の聖霊の間違えであろうはずもありません。

ご自分よりは聖書に詳しい人また組織が、宣伝してやまない「ご利益」を聖書の教えと信じてしまい、そのために言われるまま、ほのめかされるままになって人生設計をそれに合わせたところが問題だったのです。

ですが、それはキリスト教そのものが間違っていたのでしょうか?

そこで、もう一度聖書に正面から向かい合うことにより、あなた個人が見落としていた点に気付けるところも多いのではありませんか。そこから思いもよらなかった価値ある理解に発展するところがきっとあるでしょう。あなたなりであっても、その新しい理解は、聖書の他の部分と合致し始め、やがて確固たる信仰へと実を結びます。

そうして、ご自分で判断を下す習慣を付け、ご自身の持たれる愛や良識や価値観など、様々な良い特質を伸ばしてゆくことは、もちろん今からでも可能でしょう。そうすると、何がより優れた見解かを見抜けるようになってゆくことでしょう。

そこでは、「ものみの塔」という宗教組織一つにつまずいたからと言って、よほど貴重なキリスト教の方を投げ出してしまう必要も、三位一体を教える教会に退行する必要もないのではありませんか。この世はあらゆる手段を用いて神の知識を得させまいとしていますが、その手段には宗教組織という巧妙な方法もあることでしょう。ご利益を使って知りかけた人々の欲を引き出し、そこに集めて蒙昧にしておくためですが、もちろん、そんな悪辣な罠に掛ってみすみす泣き寝入りをする必要など初めから無いのです。

是非、もう一度聖書に目を向けて頂きたく思います。それも真剣で集中的な熟読によって精査すれば、そう遠からず何かを得られるのではないでしょうか。つまり、ご自分と神との間を密接にして、神のご意志、その根底にある意向や精神により深く、また広範に触れることを通して、ご自身の前に置かれたものの真偽を見分け、それがキリスト教のものか、そうでないかを直感できるように感覚を聖書に合わせて鍛錬できます。

つまり、深く継続的な熟読によってキリストや使徒たちの、また古代の人々の環境にご自分を置くかのようにして読み込んでゆくことで、当時のキリストの弟子になったかのように、そこに語られる精神に触れることができます。
やはり古代のイスラエル民族に起こった事柄や、キリストという人物の現れには、徒ならぬ何かがあったに違いないのです。(使徒10:37-43)

現代に生きるわたくしたちは、まずこれを調査し、あるいは信仰の基礎とするべきで、他の幾らか詳しい人々から何かを聴くにせよ、それは本来補助的なものとされるべきでしょう。まる任せにしては、ご自分の重大な判断を放棄して、何事も人間の教えに従う奴隷になってしまうでしょう。

そこで、まず手始めに比較的短めのパウロの書簡や、使徒言行録、また福音書の数章をどこかに定めて、数週間から一か月なりの期間に繰り返し繰り返し数章の同じ場所を丹念に読み込んでみることをお勧めします。きっと、これまでと違った聖書観を得られるものと思います。

そうして、毎月少しずつ熟読の場所を移動してゆくとよいでしょう。できれば小さな聖書を用い、シャープペンシルで書き込みを行い、余白に個人の「相互参照」を書き込むことは特にお勧めしたいところです。

やがて、書簡群と使徒言行録の密接な関係性や著者たちの主張の意味とその背景、また福音書でのイエスと使徒らの語らいや様々な譬えの意味がこれまでになく把握でき、理解することの幸福を味わうことでしょう。いや、これはもちろん、わたくしが申し上げるまでもなく確実なことです。

また、聖書全体にわたって文脈を知った上で聖句と聖句の関連を追うと、実に多くの発見に出合いますが、そのようにして神のご意志の詳細を辿り出す喜びは、あなたに深い価値を感じさせるものとなることでしょう。
更には専用のメモを取り、題目毎に聖句なり論点なりを整理するなら、ずっと明解に理解が進むはずです。それはご自分なりに気付いたもので良いのです。それでも、あなたにとって相互参照やメモはこのうえなく貴重なものと感じられるようになるでしょう。

こうして聖書を「面」として理解することを目指さなければ、書物として知ったことにはならず、いつまでも「点に線を引いただけの」辞書のようにしか理解しないことになります。

翻訳は引用に慣れていらっしゃる「新世界訳」を(改訂前の版を今のうちに確保して)主に用いて良いと思われますが、できれば他の訳本も比較できるように用意されるに越したことはありません。といいますのも、訳者によって意味が異なるところが出てしまうのは避けられないことで、特に理解の鍵となる聖句については様々な訳を比較したいと思うように促されるでしょう。

こうすれば、エホバの証人特有の聖句と聖句の間を抜いて結ぶような理解が、単に「点を線」で強引に結んだものに過ぎないことを実感されるものと思います。
そればかりか、聖書そのものが雄弁に語り始め、これまで見えていなかったこと、ご存じなかったことがどれほど多いかに気付かれることでしょう。それは知識の単なる更新とはならず、神への想いの変化を経験なさることと思います。

つまり、もう人任せの解釈の鵜呑みの段階を後にして、聖書を介して直接に神の言葉を聴く態度に変わってゆくでしょう。
それは本当に充実した時間となり、人に対する神の意図を探り出すという、貴重な経験となるはずです。それは自分が存在しているという価値への難問の解答を探ることでもあり、それに勝る重要な解答はありません。


それらの研究に加えて、ギリシア語やヘブライ語の原語で聖書の言葉を確かめたくなってこられるはずです。
この点で、「ものみの塔」が「この世」と呼んで蔑む世界はむしろ進んでおり、人々が本文(ほんもん)のそれぞれの単語の意味も調べられるようにとの善意を抱いて原語聖書写本の本文や逐語翻訳を無償で公開している寛大な組織や個人が少なくありません。

これらを活用することこそが、こうした善意に答えることになり、且つ、真に神の意志を探ろうとなさる方の謙遜さの表れとも言えましょう。

こうして、本当の意味で聖書を探求し始められますと、ご自分が「楽園」に行けるか否か、ご自分の生涯中にハルマゲドンが来るか否かを問うような、「ご利益信仰」は霧が晴れるように消えて行ってしまうでしょう。
そこにあるのは、神の行動計画であり、その偉大な意志、歴史の長さと変わらぬ神の善意、キリストの自己犠牲の重さなどに圧倒され、人の欲望の小ささに恥じ入ることにさえなられるように思えます。

加えて、聖書の書かれた当時の歴史や民族の習慣など、背景に注意が向いて来られるものと思います。最近では日本語でも多様な周辺の知識に関する本が出され、また訳されるようになり、徐々にこの方面でも知識を増やすのも容易になりつつあるのは喜ばしいことです。
これも加わることで、「面」の理解はいよいよ「立体」的把握へと更に進みます。しかもこれは興味深く、然程に難しいことでもありません。様々な知識を前にして、聖書と神のご意志を知ろうとする意欲の高まりをいよいよ感じられることでしょう。


以上のように、聖書を読み込む事や、並びに個人が深く聖書に通じる事は、イエスが音信をいつも「例え」で語ったことに関係してきます。
つまり、大多数の人々はイエスの講話を聴いても、深く悟ろうとはしませんでしたから、「例え」は「例え」で終わってしまったのです。

それは今日も同様に思われます。
多くの人々は「ご利益」を求めてキリスト教に集まってはきますが、自らの欲が満たされるとそれ以上は聖書を学ぼうとはしません。それは真剣に知ろうとしない人々をまるで聖書そのものがフィルターで濾し取るかのようです。
ですが、聖書は私たちが一生を費やしても学び切ることができないほどの内容が詰め込まれていて、一部を知っただけで満足することなど聖書の優れた記述そのもの、類い稀な価値あるその内容が許しません。その内容は読む人の価値観を呼び起こし、神の優越性は人を感化せずにおきません。その最たるものは『愛』であり、自然に読者をカルト的野蛮から引き離すことでしょう。

「楽園」の希望を知らせるだけが聖書の役割であれば、確かに「一度、真理を知ったのだから、もう探す必要は無い」との説得に耳を傾けてしまうかも知れません。
ですが、聖書は「求め続け、敲き続け」ることを命じていなかったでしょうか?


どうか、「エホバの証人」の方々が、ご自分の聖書理解に満足しきって、「楽園に行くのに必要なことはみな知っている」などと思われませんように。それはこの世で成功することや「天国」に行きたがる教会員と同じ「ご利益信仰」であり、その自己本位な思いが、神のご意志が何かを探ろうとする聖書研究を曇らせてきたのです。



------------------------------
-日本語訳聖書で基本的なものは-

口語訳、新改訳、新共同訳、それぞれ利点があります。
岩波の翻訳委員会訳は註釈がすばらしく豊富で研究向きですが、朗読には適しません。
ほかにも質の高い個人訳や、ラディカルな訳も色々出版されていますが
それぞれの主張や特長に学ぶところがあるでしょう。

新世界訳にもあちこち意図的な翻訳の問題点もありますが、使えないような翻訳ではなく、市販の聖書にない優れているところも多々あります。
(私個人としましては、常々比較しておりますと、英文の「新ジェームズ王欽定訳」(略号「NKJV」)の安定性に気付かされます。
もし、入手できる機会がありましたらお勧めしたいところです。文語訳がこれに準じています)

但し、どんな翻訳も、言語の相違から必ず「危険の伴うもの」であります。
 それは、どんな宗派の教えでも、何らかの問題があるのと同じことです。
加えて、訳者の聖書理解の影響を受けずに済むことはまずありません。
 しかし、原著者の書いたひとつの意味が必ずあるはずでしょう。

そこで多くの場合に決め手になり得るのが、古代写本やそこから構成された「原語本文」です。
 翻訳される以前の元の言葉はどうであったのかを確認することで、訳された文章を見直すと、その訳文には随分と意訳や省略がなされているところがあるものなのです。また、訳者の迷いさえ読み取れるところもあります。
また、ある解釈に読者を誘導したり、特定の宗派の意図さえ感じられるような訳文も無いとは言えませんし、訳している側でも意味を測り兼ねる本文に出くわすことも避けられません。そこで『求め続け、探し続ける』姿勢こそが誰にも求められているという以外ありません。


-聖書本文の公開サイトの例-

・http://www.hebrewoldtestament.com/
旧約(ヘブライ語)聖書の本文に、新字体(アラム式)だけでなく、旧字体も添えられています。
加えて、ヘブライ語の発音とラテン・ウルガタ訳と何種類かの英訳も並記されています。

・http://www.greeknewtestament.com/
こちらはギリシア語で五つの本文とラテン・ウルガタ訳、それからいくつかの英語訳が平行しています。
フォントも安定しているようです。

・http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/Hebrew_Index.htm
旧約(ヘブライ語)聖書の本文に行間逐語を施してあります。
但し、単語はヘブライ語とは逆に左から右に並んでいますのでご注意ください。

・http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/Greek_Index.htm
上記に同じくギリシア語本文の行間逐語訳です。

・http://www.lexilogos.com/english/greek_ancient_dictionary.htm
ギリシア語辞典などがあります。

・http://stephanus.tlg.uci.edu/lsj/#eid=1&context=lsj
彼の「リッデル・スコット・ジョーンズ」のギリシア語辞典がオンラインで使えます。

・http://www.perseus.tufts.edu/hopper/
このタフツ大のサイトは単語を追いかけて様々な古典資料を比較するのに索引が非常に便利です。

・http://www.doitinhebrew.com/Translate/default.aspx?welcome=1#.UvoRDnmCi4B
ヘブライ語の辞書です。タイプしやすいように、ご親切にもソフト・キ-ボードが添えられています。

・http://www.ellopos.net/elpenor/greek-texts/septuagint/default.asp
セプチュアギンタが参照できます。新旧聖書の橋渡しで、多くのヒントがあり重要度は低くありません。

以上に相当する無料の日本語環境のものは、まだ存在していないようですが
インターネット上には他にもいろいろとありますので、検索なさればもっと良いものも見つかるでしょう。

まずは、一か所でも気になる言葉があれば是非調べてごらんなさい
きっと古代の息吹に触れる想いを味わうことでしょう。

ルネサンス期の人々もポツリポツリと始めていったのです
あの、ラテン語の大学者エラスムスでさえも、周囲に誰も教師の居ない環境で、新たにギリシア語に取り組みましたが、それも彼の人生では歳が随分進んでしまってからのことでした。
彼に調査できたことは、今日のネット回線に繋がったわたしたちよりよほど限られていましたが、それでも何とかあの新たなギリシア語本文にまとめ、それを底本にしてルターが、ティンダルが・・・と翻訳が続いていきました。今日、聖書を母国語で読めますのも、これらの先達たちの、荒海に小舟で漕ぎ出すようにしてまで探求しようとした決意と努力の積み重ねに多くを負っております。

もちろん、あなたなりでも良いのです。要点はご自分で情報を確認し、自ら神と向き合うよう努め、ご自分で吟味して判断をする習慣を持つことです。
これを他の人、それも幾らか詳しいだけの人なり組織なりに丸任せにしては来られませんでしたか。それでは「信仰していた」のはどなたなのでしょう。

しかし、今やご自分で何かが分かればそれも成果ですし、分からなかったとしても、事が複雑であることは「分かった」のでありますから、そこで「何でも知っている」という傲慢を去って神の御前に謙り、物事への「慎重さ」や「謙虚さ」という貴重な特質を身に着けることはできたのです。

そして、まったく収穫が無いという事はまず無いでしょう。少なくともその部分については詳しく知ったのですから。
熟読に至って初めて、これまで様々な人々が、聖書の様々な部分を理解しようとしてきた蓄積から学ぶという補助的手段があなたにとって真の意味での助けとなります。

しかし、補助的手段の注解の方に支配されては本末転倒というべきでしょう。人々が第一に読むべきは何を以っても聖書であることが明らかなことではありませんか。
聖書を深く理解し把握するための参照資料はあるにしても、辞典を調べるようにして聖書が証拠に参照されるような「研究」をしてはこられませんでしたか。
それでは、初めに結論ありきと、後から聖句を証拠に挙げるような指導者に何かと誘導にさらされる危険は避けられないでしょう。本当には聖書そのものに精通していないからです。



-聖書理解の時代背景については-

まず、ヨセフスの「ユダヤ戦記」加えて「ユダヤ古代史」
そして重要性の高いエウセビオスの「教会史」
特に「ユダヤ戦記」と「教会史」は何を置いても読んでおきたく思われるでしょう。
またローマ帝国の歴史にも幾らかの知識が欲しくなることでしょう。
これらは近年文庫本となっていますので大変入手し易くなっております。

この辺りの書物を揃える過程で、次から次へと興味尽きない資料が現れると思われます。
もちろん、旧来の「塔」の資料も(年代以外のところで)良い意味で役立ってくるでしょう。

そうなれば、これを基礎として、あなたはキリスト教だけでなく、様々な事に於いても熟考しご自身で判断なさる習慣を身に着けられ素養とリテラシーの持ち主となられ
今後何を為すべきかも、集団行動によらず、聖書に学ぶところからご自分で判断なさることでしょう。

そうして「神の象り」に相応しく、宗派や組織によらず、個人の信仰と尊厳を持ったキリスト教徒となられるに違いありません。
即ち、聖書そのものが、誤謬をあなたから遠ざけ、圧政者の頸木から解いてくれるので、もう何者にも宗派にも隷属することはないでしょう。
ここでわたしが「塔」組織の揚げ足をとるような批判の苦々しい駄文を長々と連ねる必要もありません。

すぐに結果を期待できるわけではありませんが
それでも、熟読を始めると心は晴れやかになるように思います。

今日からでも、聖書(できれば新約〈ギリシア語聖書〉中が善いでしょう)
の何処か一か所を定めて始められますように


(ちなみに、私は決意してガラテア書を一か月間何度も読み込み、翌月には使徒言行録の前半に向かったのを覚えております)



翌日まで怒りを持ち越すことのないようにとのキリストの教えはまことに心身を癒すもので、軌道から外れたかのように観える上層部に従う苦衷から、皆さまの想いと身体が壊されませんよう、神YHWH(ヤハ)の御祝福がありますように





エイレナイオス
.



トラックバックURL
http://irenaeus.blog.fc2.com/tb.php/104-63299098
トラックバック
コメント
ありがとうございます。お手数おかけしましてすいません。早速取り寄せたいとおもいます。
TY | 2014.06.29 12:19 | 編集
筑摩書房から六巻セットで出ております。
Shema | 2014.06.07 16:52 | 編集
上記のヨセフスの「ユダヤ古代誌」ですが、旧約・新約合わせて全6巻(文庫本)で合っておりますでしょうか?何冊もあるようですので、全何巻なのかなと思いました。
KS | 2014.05.29 18:05 | 編集
お勧めの熟読を既に始めたものみの塔の方がいらっしゃることは、まことに喜ばしいかぎりで、これを更に深めていらっしゃり、この不断の習慣が実を結びますように。

聖書の理解を深めようと努める多くの方々が、確固たるキリスト教徒と成られますよう祈念致しております。
Shema | 2014.05.08 21:52 | 編集
熟読の大切を教えてくださりありがとうございます。
今のところ、ヨハネ書を読んでおります。ノートをとりながら読んでいますが、ただの国語の勉強にならないよう注意し、そこに流れる神のご意志に注目するよう努めております。
文脈を考慮して熟読すれば、例えばテモテ二3:1~5が本当に世相を表しているのかどうか、また箴言4:18が組織の教義が変わることの根拠として使えるのかどうかも分かってくるのかなと思いました。
KS | 2014.05.08 15:50 | 編集
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top