FC2ブログ

5.イエス・キリストの救い

2014.05.01 (Thu)
イエス・キリストの救い


イエス・キリストほど有名な人がいるでしょうか。
今日、世界最大の宗教の教祖であればそれも当然かも知れません。
実にこの人物によって世界の歴史は大きな影響を受けてきたということは、間違いなく云えるところです。

しかし、人々のこの人物について知るところとなると、十字架に磔にされて刑死したこと、クリスマスに生まれたらしいこと、馬屋や洞窟で生まれたことや処女の母から生まれたとされていること、世間一般の常識で知られる事と言えばこんなところでしょうか。

こうして見ると、これほど有名であるイエス・キリストについて聖書が示すところのごく表面だけの、また、実は誤解がいろいろと広められてしまってもいるのです。しかし、名前ばかりが知られているというのも不思議なことです。
では、イエスという人物に込められた意義はどんなものなのでしょう。

例を挙げれば、「救いの御子」と歌われるこのイエスがどのように「救い」となるのでしょうか? このように一歩踏み込んだ途端に、その答えに困ったり、様々な意見が聞かれたりするのは、これ以上なく有名である反面、知られていないところの方がよほど多いということなのでしょう。

もう少し詳しい人なら、キリストの救いとは、イエスが刑死することによって、人類の罪の身代わりに罰を受け、こうして人々が罪の酬いから解き放たれることだ、と言うでしょう。
では、人間には罪があるのでしょうか?
そこで、ある人々は反論して「自分は法を犯すようなことはしていないのだから、罪は無いし、キリストの救いは必要がなく、神は自分を罰しないはずだ」と言うでしょうか。

法律といえば、聖書の古い部分、つまり「旧約聖書」と呼ばれる部分には「律法」(りっぽう)と呼ばれる部分があり、そこにある様々な法律条項には、イスラエル人に行うべきことと行ってはならないことが列挙されていました。この一続きの法律は聖書の二番目の書「出エジプト記」の第20章の有名な「十戒」という岩に刻まれた十の掟から始まっています。
その定めによれば、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽りの証しをしてはならない、仲間の物を欲しがってはならない。など所謂「十戒」に書かれた基本的な法律の他に、全部で六百ほどの掟が続いていました。

イスラエル民族は生まれながらにこの「律法」を守ることが義務付けられていました。
しかし、歴史のほとんどで彼らはこれを守っては来なかったのです。
旧約聖書はこれを俯瞰してこう述べています。
『「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、わたしに背を向け、顔を向けなかった。』(エレミヤ7:23-26)

後にキリストは「律法」の定めるところが如何に高い基準であるかをユダヤ人に教えてこのように言われました。
『昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『馬鹿者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
それで、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。』(マタイ5:21-24)
つまり、殺人をいう罪には、人々への憎しみを懐くことも含まれると云われるのです。
これはとても厳しい内容です。

また、姦淫については
『「姦淫してはならない」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。』(マタイ5:28)
と云われ、律法を守ることがどれほど難しいかを教えられました。

このように律法の求める規準が高かったので、そのような律法の精神までをも守り通すことができた人はいません。
キリストの使徒のひとりであるペテロは「律法」について『父祖たちが守れず、わたしたちも守れなかった頸木(くびき)』と呼んでいます。(使徒15:10)
つまり、神の倫理的規準に人は達することができないことが、律法によって焙り出されるのです。

では、初めから人間には守れないことの分かっていた「律法」を神はなぜイスラエル民族に与えたのでしょうか?
使徒パウロはそれに答えて『違犯を明らかにするために付け加えられたもの』であるとしています。(ガラテア3:19)
つまり、イスラエル民族をテストケースとして、人間には皆「罪」があることを明らかにしたというのです。(ローマ3:9)

また「律法」は、それが破られたときの処置の方法についても記されていました。
それが比較的軽い罪であれば、動物による犠牲を捧げ、その生贄によって神の前に赦しを願うことでありました。
つまり、「罪」の許しには命という対価が求められていることが教えられていたのです。

もちろん、律法に従って動物を犠牲にしても本当に神が罪を許されることにはなりません。却って、その犠牲は人々に罪の重さを知らせるための儀式となりました。そこで、神の民の一員となることができる人はいないという現実を受け入れなくてはなりません。

ですから律法に従うイスラエルの民は『決して罪を除くことのできない同じいけにえを、何度も繰り返して献げ』ていたのであり、神に捧げられた動物は別の完全な犠牲であるところの「キリストの犠牲」が『ただ一度限り捧げられる』ことを、旧約聖書が予め動物の犠牲を通して、唯一律法を体現できた天からの人、イエス・キリストの犠牲を指し示していたのです。(ヘブル10:1-3)

そこで人間は、誰もが神から見れば罪人であることを認めるべきこと、これを知らせることが旧約聖書に与えられたひとつの大きな役割でありました。
ですから使徒パウロはこのようにも言います。『律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となった』(ガラテア3:24)

この意味は、「律法」によって罪ありとされた人々が、その罪から逃れたいと思う場合に、キリストという犠牲に頼ることを促します。そこでは、罪の無いイエス・キリストという人物を信じ、また、この方の犠牲の死によって自分たちの「罪」が神の前に許されることを信じることが求められるのです。これがキリスト教の信仰を基礎を成しています。

パウロはこれを『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、無償で義と認められるのです。』と述べて、罪から逃れようとする人々に開かれた神の手立てがキリストであることを知らせています。(ローマ3:24-25)

ですから、キリスト教とは、ユダヤ教のように「律法」を依然として守ろうとするのではなく、「律法」によって「罪」が指摘されたことを悟り、一重にイエスの犠牲によって「罪」から救われることを信じることに意義があるのです。

その許しは、キリスト教徒であろうとなかろうと今は余り関係がありません。
なぜなら、「罪」からの救いは世の人々全体に及ぶことになるからです。

その救いは、「この世の終り」にキリストがこの世に再来され、それを信じるか否かで裁かれ、その時に信仰を働かせるなら、誰であろうと天ではなく、この地上が罪の許しを行う場となる『神の王国』へと導かれることになるのです。
ですから、その王国とは「天国」ではなく、地上に生きる人々から罪を終わらせ、人々を創造の神と和解させるものであり、その結果として、地は現在の住み難いところからまるで一変します。それでキリストが「救世主」と呼ばれているのです。
ですが、裁きのその時に人間に『罪』があることを省みず、また、世の苦難も悪も当然だと思うなら、また、自分の強欲のままに生きたいと思うなら、キリストの救いの価値を認めずに、その機会を自ら閉ざすことになり兼ねません。これが終末での裁きを分けるものとなるでしょう。(ヨハネ第一1:8)

さて、キリストの犠牲によって人々の「罪」が許されるには、当然イエスは「罪」のないことが求められます。つまり、罪の無かった方が罪人たちのためにその罪の咎めを負い、こうして人々を罪から解き放って神と和解させます。

それこそが、イエスがアダムの子孫ではなく、天から降誕された「神の子」であったこと、これが人々の「罪」を許して病気を癒し、死者にさえも命を与えた奇跡の業に表れていました。(ヨハネ5:36)
イエスはこのような奇跡を『父の業』と呼んで、自らの真実の父がエデンのアダムでも大工ヨセフでもなく、神であることを再三示されました。
ここにイエスが処女マリアから生まれたとされるべき理由があり、もし、普通の妊娠であったなら、イエスはアダムからの罪を持っていることになり、人類の罪を担うことができないことになります。

このようにキリスト教においては、「罪」を指摘するだけでなく、そこから逃れ出るためのキリストの犠牲という具体的な救いの備えが開かれているところが優れており、新約聖書はこれを「福音」(ふくいん)と呼んでいます。つまり、それは「幸福な知らせ」なのです。

例えればパウロは「福音」について『福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです』と語ります。確かに使徒たちは、イエス・キリストの犠牲によって開かれた「救い」の手立てを掲げ、その「福音」を宣明していたのです。(ローマ1:16)

それで、イエス・キリストによる「救い」が何であるかは、新旧の聖書がそれぞれの分担を果たして教えてくれるものとなっています。
それは、人間に「罪」があることを教え、そこから救い、そうして神の前に許しを得させることであり、キリストの犠牲に信仰を働かせる人々が、虚しく生きる定めを去って、神の創造された姿に、つまり「神の子」となって永遠に生きることを知らせるものなのです。

この「救い」については、人間の側から信仰を働かせることの他には何ら行えるところがありません。
使徒ヨハネはイエスを信じる人についてこう書いています。
『彼を受け容れた者、すなわち、その名を信じた人々に、彼は神の子となる権限を与えたのである。』(ヨハネ1:12)
これは、自分の行いや自分の正義に頼らず、一重にイエス・キリストの犠牲の死によって、人の「罪」が相殺され「贖罪」(しょくざい)されることを信仰し、希望を託すことを表しています。

ですから、キリスト教では、たとえ罪深い人であってもこの「救い」を得ることができ、他方で、品行方正な人であっても、信仰を持てないのであれば、この「救い」に与るところではありません。ここにキリスト教の優れたところがあります。一般的な善悪の観方を超えて、その人の外面に関わらず、内側の人格を問うからです。

つまり、その人の道徳的な現状ではなくて、その人が「罪」をどう見做し、またそこから本当に逃れることを望んでいるかどうかということが吟味されるのです。たしかに、イエスに信仰を持たなかった人々の中には、宗教に熱心で自分の道徳性に満足している人々が多くを占めていました。そのような人にとっては、イエスの犠牲は高価なものに見えないのでしょう。

イエス自身はこうも言われました。
『人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されます』。『罪の深い者は多くを愛するのです』。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためなのです。』(マタイ12:31/ルカ7:47/マルコ2:17)

使徒ヨハネも次のように記しています。
『自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。』(ヨハネ第一1:8)

キリスト教では、旧約の「律法」が人には守れないことが明らかとなりましたので、自分の行いをどれほど正しいものにしようと努力しても、一般的な「善良な人」以上になることは誰にもできず、人に宿る倫理上の欠陥である「罪」は、誰からもけっして消えないことが教えられます。

ここにキリスト教の「救い」があります。これは一般に、また教会員にさえも誤解されていますが、死後に天に挙げられて天国で暮らすということではなく、世界のほとんどの人々の「救い」は人が創造された通りの地上で、「罪」から解放された人として生きることなのです。

そこでキリストの犠牲に大きな価値を見出す人は、キリストに倣った精紳を目指すようになります。
つまり『罪』の反対にある精神なのですが、それは『愛』であり、利己心を去るように努め『神と人を愛する』ことです。

これこそが、キリストの犠牲に感化されることであり、本来あるべき人間の姿を求めることです。人々から『罪』が除かれるとき、その人は本当に『愛』を体現できるようになり、「倫理」という事柄、つまり神も含む他者とどう生きてゆくかを弁えることができるようになるので、是認された神の創造物とされ、永遠に生きることが許されるでしょう。

このように、イエス・キリストの救いに与るとは、それまでの「罪」を許されるだけでなく「贖罪」されて神の前に「義」を得るに至り、創造者との関係を回復して生きる意味を見出し、栄光ある人間本来の姿に戻って、遂に不老不死に達し神と共に歩むことを意味しているのです。




.
トラックバックURL
http://irenaeus.blog.fc2.com/tb.php/103-29ae4a9d
トラックバック
コメント
KSさま

お気持ちのこもったコメントをお寄せ頂き感謝申し上げます。

おっしゃる如くに、宗教組織に所属することに「義」のようなものを見出してしましますと、多くの矛盾が生じてくるように思われます。
ひとつに伝道活動を取り上げましても、それに邁進するにしたがい、自分の中に人間由来の「義」が育ち兼ねません。それがまた、宗派に所属する理由ともなっているのでしょうか。
そうなりますと、心が「パリサイ化」を起こしてしまい兼ねず、これは大いに注意しなければならないことです。
ですが、残念なことに、ほとんどのキリスト教界で、これは然程に警戒されるところとはなっていないように見受けられます。
イエスの足を涙で洗い、髪で拭った「罪深いことで知られた女」のルカの挿話では、「多くを許されし者、多くを愛す」という有名な教訓が引き出されました。
例えある人が聖人君子に見えようと、この「女」との違いは僅か五十歩百歩でしかないでしょう。ともすると、我々は容易に『一万タラント』の借財を忘れてしまいます。
確かに、所属する宗派を脇に置いて様々な雑音を断ち、聖書と真摯に向き合うことは、ほとんどのキリスト教徒にとって最も重要な事柄となっているように思われます。
KSさまも共に、そのようになさることによって、キリスト教の神髄により良く近付かれますよう祈念致します。
Shema | 2014.05.06 00:03 | 編集
イエス・キリストを通してもたらされる救いについての記事ありがとうございます。いつも興味深い記事をありがとうございます。
記事を読んでいて、イエスがおっしゃった「罪人をまねくために来た」という言葉が浮かびました。イエスの全生活の記述が残されているわけではありませんが、改めて福音書を読んでいくと、イエスの人々への接し方に随所にそれが表れている気がします。自分の属する組織の伝道活動が、イエスのそれといかに違いすぎるかにも気づかされます。「イエス・キリストによる救い」が教義の「一部」にすぎないのかもしれません。

組織の教義の間違いに気づいてからのほうが、罪人であることの意識、贖いについて熟考することが多いです。それはそれでよかったです。
どんなに組織が清かろうと大きな「業」を成し遂げていようと、あるいは組織がどんなに邪悪であろうと、救いはただイエス・キリストの贖いに対する信仰からくること、組織が人を救うのでないこと、こんなことにも気づけたように感じています。
KS | 2014.05.05 22:40 | 編集
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top