FC2ブログ

3.「聖霊」 信仰の第三の対象

2014.04.14 (Mon)
神の用いる『聖霊』


まず、ここでの第三に信仰される『聖霊』というのは、所謂「三位一体」の中の一つを言うのではありません。「三位一体」説そのものは、四世紀に入ってから、当時流行していたギリシアの宗教に便乗して、異教徒をキリスト教に取り込むための妥協点として採用された汚れのようなものであり、原始キリスト教には何の関わり合いもありません。

そこで、ここではユダヤ=ヘブライでの『霊』の概念から見てゆきましょう。
日本語での「霊」といえば、人間の身体とは別に存在する精神的なもので、死後に体から別れ出るようなものと思われることでしょう。
ですが、聖書中での『霊』は様子が異なります。まず、それは人のものではなく神からのもので、創世記では多様に創造の業に関わっています。
原初の地上は水に覆われていて、『その上を神の霊が行き巡っていた』とあります。

また、最初の人間であるアダムの創造については、地面の塵で人を作り、次いで、「霊」に相当する「命の息」を吹き込むと人は生きるものとなったと記しています。
ですから、人から「霊」が抜けてしまうと死んでしまうことも聖書は知らせています。つまり、聖書で言うところの「霊」とは人の精神のようなものではなく、むしろ、「電流」が様々な働きをするように「神の用いる力」であるといってよいでしょう。

このように日本語での「霊」とヘブライ語の概念の霊に相当する語の「ルーアハ」には違いがあることを念頭に置く必要があり、これはキリスト教理解に於いても非常に重要な「鍵」となるものです。

さて聖書中では『聖霊』という言葉も出てきます。
これは、単に人間を生かす「神の力」というだけに留まらず、神の霊が特別な仕方で働くことを指しています。
古代にはモーセがエジプトの最高権力者ファラオと向き合ったときに、神はモーセを通して十度の奇跡を行いますが、これに対してエジプトの僧職者はそれ留める力を持たず、モーセの神の奇跡を行わせる力を『神の指』であると認めています。

聖霊中でもう一度『神の指』とも呼ばれているのが、イエス・キリストが行った奇跡を指している箇所で『わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである』と言われます。(ルカ11:20)
キリストが行った奇跡の業について、イエス自身は『父の業』と呼んでいますし、その奇跡の数々も、神の霊である力によって行われていたからです。また、イエスは『もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。』とも言われました。(ヨハネ15:24)
つまり、聖霊の奇跡の印を見ながら、なお、頑なに信じない者らには、聖霊に対する罪が生じるということです。

また、イエス後の使徒たちにも奇跡を起こす聖霊が注がれることになりましたが、神の聖霊は彼ら選ばれた人に奇跡を行わせるだけでなく、預言を与えて神からの言葉を伝えさせる役割も果たしてきました。それらの預言は聖書に残されており、それらの予告の言葉が歴史の上で実際に成就しているだけでなく、それぞれに将来の二度目の成就の可能性も秘められています。
ですから、「聖霊」とは神がその意志を伝えたり行ったりする際に様々な働きを行うものであると言えます。

イエス・キリストが刑死して後、三日目に復活させたのも神の霊の働きでありますが、復活後のイエスは『霊の体』になって復活したことを聖書は教えます。(コリント第一15:45)
これは「霊者」となって復活したことを表していて、神は多くの「霊者」たちを地上の創造に先立って創っていました。これらは一般に神に仕える「天使」と呼ばれます。
彼らは、単なる霊ではなく、霊の存在者であって人格も個別の意思も持っています。(列王第一22:21/ダニエル9:21)

人格を持つこの天使たちも、自由な思考や意志決定ができる者たちですから、創造者を愛して忠節であることも、不忠節な道に堕ちることも自由意思に左右されます。神は独立した思考の持ち主たちに対して圧制や強制を望みませんし、真実の愛や忠節とは自由な中に初めて生じるものだからです。
そのため天使のある者たちはアダムがそうなったように、神と仲間を愛さず、利己的な選択を行って不忠節の歩みに敢えて入り込みました。これらの霊者は堕落した天使であり、聖書中では『悪霊』と呼ばれています。(ユダ6)

この霊者たちが人の死後の霊を装ったり、各種のオカルトや超自然の現象を起こしたりして、ずっと神への信仰が広まらないように活動してきています。
ですから、聖書は心霊術や占いなど、堕天使らとの交友を戒めているのです。(レヴィ19:31)

そのような「悪霊」が跋扈する世の中ですが、「聖霊」もイスラエル民族に奇跡を行い、また多くの預言を与えてきました。
そしてキリスト後に、「聖霊」の働きは世界に向けて広がってゆきます。
キリストの弟子たちに与えられるようになった「聖霊の賜物」は、それまでに存在したどんな「聖霊」の働きをも超えるものとなりました。(ヨハネ7:39)
なぜなら、それはキリストの犠牲の価によって人類で最初に「罪」を許された弟子たちだけに特別に与えられた奇跡の業だったからです。この格別な弟子たちは『聖なる者』また『聖徒』また『初穂の人々』と聖書中で呼ばれます。

その「聖霊の賜物」はキリストの聖徒たちに、学んだことのない言語で神について話す「異言」という能力をはじめ、「癒し」の奇跡、また物事を先見したり、ある人の過去を知ったりする「預言」を与え、また神の目的に関する奥深い知識である『奥義』を教え、聖霊は弟子たちに教理を与え、キリストが去った後も導き続けました。
これはイエスが弟子たちに予告していたことで、この聖霊は『約束の聖霊』と呼ばれます。

この聖霊はキリストが行っていた『父の業』を使徒や聖徒たちに行わせ、イエスがイスラエルの中で行っていた聖なる信者を集める業を、弟子たちはより大きく働き、世界へと拡大させるものとなりました。

新約聖書の「使徒言行録」が記すように、弟子たちの赴くところで聖霊による奇跡が行われ、それを信じた人々からも聖霊が与えられる人々が現れます。その業は、当時のインドから地中海世界の西の果てまでに広げられ、各地から聖霊を受ける弟子が加えられました。

こうした勢いは、エルサレムの片隅でユダヤ人の迫害に怯えていたイエスの直弟子らに、異言をはじめとする聖霊が与えられて初めて可能となったもので、そのとき以降のキリストの弟子たちの広がりと教えの一致は、人間の意図して果たせるところではありません。

イエス・キリストはこのような弟子たちの業を予告して
『聖霊があなたがたに来るとき、あなたがたは力を受けて、ユダヤとサマリアのすべて、そして地の絶え果てる処までもがわたしを証しする者たちとなるのです』と語っていた通りです。(使徒1:8)

初期のキリスト教徒の集まりは、聖霊の奇跡の賜物を受けた『聖なる者たち』の聖霊を通した教えによって導かれていました。『聖なる者たち』つまり「聖徒たち」が聖霊を通して語ることを使徒パウロは『聖霊の顕現』と呼んでいます。ですから、その人に聖霊があることは誰からもはっきりとしているもので、有るのか無いのか、自分にしか分からないようなものではなかったと言えます。(コリント第一12:7)

しかし、このように聖霊の賜物を得た人々が次第に世を去るに従い、キリスト教界は聖霊を持っていないために、様々に人間の考え出した教理が現れて、互いに敵意をもって争い合うようになってゆきます。
かつての聖霊を持っていた人々は「聖人」として過去のものとされ、信者の祈りの対象とまでされてしまいました。

今日のキリスト教の多くは、自分たちに聖霊が働いていると信じ、また、バプテスマを受けた信者の中に存在し、その聖霊を通してイエスが自分の中に住んでいると考えます。ですが、それは『聖霊の顕現』とは言えません。

また、ある宗派では憑依状態、つまり霊に憑かれ、我を忘れる境地に入ることで初期キリスト教徒と同じく聖霊を受けていると考えますが、聖書の述べる『聖霊の顕現』は憑依状態に陥るものではなく、それぞれが自分で霊を制御できるものであったことが記されています。(コリント第一14:31-33)

初期キリスト教徒に「聖霊の賜物」が有ったと史料に残る第二世紀以降、この聖霊の無い時代は現代までずっと続いています。
その間、キリストはこの世に対して「不在」となっていますが、この世の「終わりの日」(終末)にキリストは戻って来られ、世を裁かれることを聖書は教えています。
かつてキリストが現れたユダヤ人の間では、聖霊による奇跡がイエスを通して行われ、多くの人々が病から解放されるのを見て、人々は篩い分けられました。仲間が癒されることを喜べた人々と、そうではなくキリストを怪しい魔術師だという人々に分けられたのです。

聖霊を通して、人々はその心にあるものが明らかにされ、神と人を愛せるか否かが、そこで試されました。
この世の終末に、再び聖霊が地上に臨むなら、同様の裁きが起きることでしょう。
そのようにして、人々はキリストの前に分けられると云える理由があります。(マタイ25:31-33)

ユダヤ教は神を崇拝する宗教であり、イエスをメシア=キリストとは認めませんでしたから、いまだにメシアを待っています。彼に足りないのはメシア信仰、つまりキリスト教のように『子』を信じることでありました。
そして、キリストが去った後には『聖霊』を信じる必要が生じました。こうして三つの信仰の対象が示されています。
さらに来るべき終末では、すべての人にとって、これら三つを信じるべき時となることでしょう。



⇒「聖霊という第三のもの


イエスは「終わりの日」にある人々に聖霊を注ぎ、『聖霊が語らせる』弟子たち、つまり聖徒たちが再び存在するようになることを予告しています。それは世界に向けた証し、つまり神の力による世界宣教となります。(マタイ10:18-20)

この世はもう一度、聖霊の声を聞く必要があります。
それは、古代にイエスに働く聖霊の力を見て、信仰を持つ者とそうしない者が分けられたように、人々が分けられるためです。

ですから、聖霊は世の裁きに関わるものとなります。
イエスが『人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません』と言われたのはこのためです。(マタイ12:31)

一方で、多くのキリスト教徒は「三位一体」という、神と子と聖霊が皆同じ「神」を構成していて、どれもが同質、同等であると教えられています。ですが、イエス自身も知らないところで、聖霊が働いたことさえあったので、それは「一体」とはどうにも言い難いものです。(マルコ5:25)

「三位一体説」は第四世紀の以後、当時の古代諸国に流行したヘレニズム文化の宗教の影響から発生してきたギリシア・ローマの異物であり、ヘブライの概念に見つけることはできません。
「神の霊の力」を神そのものとして崇め始めたのは、当時のキリスト教界の勢力争いが関係しており、これは弟子たちの間から奇跡を行う霊がなくなって後の宗教改革でも正されることはありませんでした。宗派が争っている中で、自分たちに聖霊は無いなどと認めることは致命的弱点を曝すことになったに違いありません。ルター以後の16世紀になってもキリスト教界は原始キリスト教がどのようなものであったかを知るには歴史研究も資料も不十分であったからですし、まして、自分たちに聖霊が灌がれていると思うなら、それがどんなものであるかを知ることはますますできるわけもありません。

日本のクリスチャンは「聖霊さま」と呼んでいますが、これでは神も子も聖霊も混同して、聖書全体を流れる神のご意志が何であるか、キリストに与えられた務めが何で、聖霊がそこでどう用いられたのかを区別することが無く、すべてが曖昧にされてしまうことでしょう。

しかし、聖書中に語られる聖霊は、神の遣わす「力」であり、生物の体を生きたものとして支えるばかりか、ときに様々な奇跡を起こして、そこに神を見出す人々が信仰を抱くようにも働くものです。 それはどこに神の是認があるか、また神の壮大さを知らせ、人に霊感を与えて聖書の執筆をも導いてきました。

ですから、マタイ福音書の最後では神と子に並んで第三のものとされています。
つまり『父と子と聖霊の名によってバプテスマを施す』よう使徒たちにイエスが命じている場面です。
これは三位一体を示すものではなく、人が信仰を働かせるべき対象のひとつに聖霊があることを示しているのであり、その名を以ってバプテスマを受けるべきひとつの信仰の対象とされてるのです。

トラックバックURL
http://irenaeus.blog.fc2.com/tb.php/101-359c86bc
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する