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主の晩餐 2021年3月26日夜

2021.02.28 (Sun)
『主の晩餐』を行うニサン14日が近づきました



『主の晩餐』とは、キリストが地上で過ごした最後の夜の食事において、イエスが命じられた唯一の定期儀礼を指し「復活祭」でも教会の「聖餐式」や「聖体拝領」とも異なるものです。
この儀式が陰暦14日に行われるべきことから、「新十四日派」と名乗る由来が込められており、使徒ヨハネの指導を受けた原始キリスト教「十四日派」の再興を図る上での最重要な儀式です。

その晩は、律法に定められた『過越の祭り』を行うべき夜に当たり、ユダヤ陰暦ではニサンの月の14日であり、現代の暦では毎年の三月から四月にかけての期間のどこかに迎えることになります。その夜に最後の晩餐の席にあったキリスト・イエスは、自らの死を予見して、出エジプトの夜を記念する食事から、新たにキリストのエルサレムからの出立を記念する儀礼を創始されました。

今日までパリサイ派であるユダヤ教徒が今年3月27日の夜、つまり「ニサン15日」に『過越し』の食事を行いますので
キリストと使徒たちがその前夜に『過越し』を行ったように3月26日の夜に『主の晩餐』を行うなら
当時に同じく、イエスの一行がしたようにユダヤ体制派に一日先んじてニサン14日を記念することになります。

この一日の差が、ユダヤ体制派が出エジプトと同日にメシア=キリストを屠り、出エジプトの子羊と『世の罪いを取り去る神の子羊』であるキリスト・イエスとの関連を作り出しました。このずれは神意に違いなく、当時までにユダヤ人の間で過越しの期日に混乱が生じていたからこそ、開かれた道であったと言えます。
そのようにメシアは、ユダヤ体制派からのはげしい敵意の中でこの儀礼を創始する場を守られたのであり、使徒二人に『水瓶を運ぶ男』を見つけるよう申し付けたところに祭司長派とその手先となっていたイスカリオテのユダへの秘匿性が表れています。イエスはこの機会を特に待ち望んで来られ、十二使徒は一人を除いてメシアの試練を共に耐え、天界での次なる会食が約される場面ともなりました。その間『神の子羊』であるイエスを屠る算段が外では進められていました。
ですから、『主の晩餐』を行うべき日付は、常にパリサイ派ユダヤ教徒の過越しの食事の一日前を守るべき理由があり、天文に従って算出するべきものとはいえません。それはユダヤ人が守る『過越し』の晩であるべきであり、太陽年の同日を求めるのは、ニケア公会議からの悪習であり、新旧の聖書の奇跡の連携を断つものというべきでしょう。

元々の『過越の祭り』とは、古代エジプトで奴隷にされていたイスラエル民族が、神の奇跡の数々を通したモーセとその兄のアロンのファラオとの交渉によって、ついにエジプトを出発する前の晩に起こった第十番目の奇跡と出エジプトを記念する年毎の祭礼でありました。
その晩には、各家庭で一頭の子羊が屠られて、無酵母パンと苦菜と共に晩餐にされたのですが、その血は、家の戸口の鴨居と柱に塗り付けるよう神は命じていました。
その夜、災いをもたらす天使が戸口の血を見ると、その家には害を与えずに過ぎ越していったので、害は儀礼を行わない家々に臨み、ファラオの宮殿も例外とはならず、皇太子の命も失われることになり、ついにファラオもイスラエルの出発を認めざるを得なくなりました。

そのときの子羊の血が、後の『神の子羊』キリストの犠牲の血を表していたので、出エジプトとキリストの最後の食事とが深く結びつけられています。その場でイエスはユダヤ教徒として『過越の祭り』を行うと同時に、新たな儀礼を創始されていました。
使徒たちを通して以後ご自分の死を記念して行い続けるようイエスは命じられ、それは後に『主の晩餐』と呼ばれるようになり、初期のキリスト教徒たちによって、ユダヤ教徒が『過越』(ペサハ)を行う時期に合わせて、ニサンの月の14日に入った夜に行われていたことを、最後に残った十二使徒のヨハネの弟子たちが伝えています。
それについては、第二世紀にエフェソスの指導者(エピスコポス)であったポリュクラテスの書簡に、彼らがユダヤ人の過越しを守る日に準拠させて『主の晩餐』(パスカ)を行っていたことが記されています。(教会史5:24)⇒ 翻訳

ついにイエスが命じられた定期儀礼は、この『主の晩餐』だけとなり、クリスマスのようなものはローマ帝国の国教となるまで存在もしていませんでした。太陽暦の12月25日はローマ帝国で祝われていた太陽神の復活、また農耕神サトゥルヌスの祭日として広く庶民に守られていたものですが、ローマの庶民がキリスト教に改宗するに当たってそのまま取り入れられたものです。
『主の死を知らせる』べき『主の晩餐』が「復活祭」に入れ替えられ、ローマ帝国で法制化されたのも第四世紀以降のことで、ユダヤ教と祭事を同じ時期にするのを嫌った諸国民派のキリスト教徒の慣行からきたものです。

元々はユダヤ教を土台としているはずであったキリスト教が、次第にユダヤ人信徒を失って、すっかりヨーロッパの宗教となった背景には、ユダヤ人のほとんどにキリストと使徒たちの教えが根付くことがなかったところに原因があり、使徒たちを受け入れた異邦人たちは、律法に固執するユダヤ人の頑なさ、またしばしばキリスト教徒の迫害に加わる姿を見ては、ユダヤ嫌悪を強めてしまい、キリスト教はまったくユダヤ教と異なる宗教となってゆきました。

ヨーロッパがそれまでの様々な異教からキリスト教に改宗するに従い、それまでの異教の習慣や祭りが「キリスト教」に混じることになり、特にキリスト教がローマ帝国の国教とされた西暦第4世紀以降には、旧約聖書に属するヘブライ文化は影を潜め、代って当時に流行していたヘレニズム文化がキリスト教の土台とされます。

ヘレニズムとは、アレクサンドロス大王の東方遠征の結果として、古代ギリシア文化が中近東のアジア文化と混じりあった文明のことで、ユダヤ人も影響を受けていたものの、本来のヘブライ文化とは異なるものであり、ヘレニズムは異教の神秘主義が色濃いものです。

そのため、キリスト教は基礎にするべきユダヤ教からの貴重な教えを捨てて、異教神秘主義を土台に据えて、別の宗教として再出発することになりました。そこで12月25日の当時の太陽神の誕生日であったローマ帝国の祭りは、そのままキリストの誕生日とされ、ヘレニズムに良く見られた三つの顔を持つ神々の影響は「三位一体」としてキリストや聖霊も神に祭り上げられるのを許しました。つまり、崇拝する神までが入れ替えられてしまいました。

キリスト教がヨーロッパ的な宗教に質を変え、他方でユダヤ教がモーセの律法に留まり続けたため、旧約聖書と新約聖書は緊密な一致を持つものでしたが、教えに分断が起ってしまい、キリスト教徒は旧約に関心が薄く、ユダヤ教徒は旧約の意味を解き明かす新約を無視しています。これではキリスト教の教会で学ぼうと、ユダヤ教の会堂で尋ねようと、どちらにも聖書全体を一貫して知る環境になく、ほとんどの場合、現在も実際にそのようです。

キリストが最後の晩餐の席で創始した『主の晩餐』にしても、ユダヤ人はいまだにパリサイ派であり続け、彼らの伝統に従い、旧約聖書に定められたユダヤ陰暦のニサン月14日の晩ではなく、翌日15日の晩に『過越し』の食事セデルを行っています。
そこに一日の違いがあったために、イエスは正しく出エジプトの日に相当する14日に『神の子羊』として屠られる運びとなりました。まさにユダヤ教徒は今日まで、その一日のズレをパリサイ派として継承し、21世紀に至るまで15日から祭りを始めることで、イエスをニサン14日に処刑したことを今も証し続けていることになります。

他方で、キリスト教徒と言えば、『主の晩餐』を出エジプトで屠られた子羊がキリストを指し示していたことを尊重もせず、ユダヤ教を嫌うあまりに、厳粛な『死の記念』をキリストの復活にちなむ「復活祭」に仕立て上げ、目出度い祝祭としてしまいました。しかし、新約聖書は『主の晩餐』がキリストの『死を告げ知らせる』ものであると教えています。それはキリストが死を前にした晩餐であって、復活が起きた日曜日の昼間に行うものではなく、酵母入りのふっくらしたパンを用いるものでもありません。

こうして、イエスの命じられたままにキリストの死を記念する『主の晩餐』をニサン14日の晩に執り行う人々はすっかり絶えてしまいました。それはユダヤ教はもちろん、キリスト教であっても新旧聖書についての一貫した教えから離れてしまった表れと言えるほどです。

出エジプトの晩餐とキリストの最後の晩餐とをつなぐ聖書に明らかにされている事柄は、深遠で意義深く明らかに人間が考案できるようなものでもなく、あらゆる物事を自在に操る神の意図と業を示しているのであり、そのものが一つの奇跡であって、人はそこに神の偉大さへのおそれと、人類の罪を負うために犠牲を決意したキリストへの敬意を示すべきものであることは明白です。

この『主の晩餐』は、その儀礼において、無酵母のパンと赤ぶどう酒を食べまた飲む人が、すでにキリストの贖いを受けていて、『新しい契約』に含まれ、聖霊を注がれている聖徒であることを聖書は示しています。(ルカ22:20)
その契約は、『天の王国』をキリストと共に相続するキリストの『兄弟たち』、つまり真の『アブラハムの裔』に属する人々を召し出すという、極めて重い意味を持つものであり、人類すべての希望がそこにかかっています。

それは単に「信者がキリストと結ばれる」というような「おめでたいもの」ではなく、キリストと共なる道を歩む人々が厳粛な自己犠牲の精神の決意を新たにするものであり、他方でアブラハムの子孫イスラエルでないわたしたちは「諸国民」として、その重大な儀礼の場をしつらえ、キリストの再臨がいつ起こっても良いように待次ものです。初臨のキリストは確かに『わたしはすべての者に言う、いつも見張っているように』と命じられました。そのキリストが自ら命じられた唯一の定期儀礼をまもらずにいるなら、それはキリスト教信仰を抱いていることになるでしょうか?

ですから、使徒の時代の後に聖霊が注がれた人々が去って、すっかり絶えた後の千八百年ほどが経過した今日、キリストの肉と血を象徴するパンとぶどう酒を食べまた飲む人はいませんが、それでもこの儀礼の準備を怠りなくするべき重い意味があるのです。(しかし、いずれは聖霊を注がれた人々がそれらを飲食する日が来るでしょう)

キリストが再び到来される「終末」、つまり『この世』が終わる時には、再び聖霊を注がれ奇跡の言葉を語り世界宣教を行う弟子、つまり『聖徒』が現れることはイエス自身が再三に語られたところです。
加えて『主の晩餐』は、『主が到来するときまで』行われるべきことを聖書は教えます。即ち、この儀礼を地上で行っている間には『神の王国』は未到来である明白な証拠でもあります。聖徒が天のキリストの許に召され揃わないなら『天の王国』も建国されないからであり、その前に聖徒は『新しい契約』を地で全うし「キリストの道を歩む」試みを受けねばなければなりません。(コリント第一11:26)

イエスは、いつになるか分からない再臨に備えるよう弟子たちに命じて、『主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたなら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている者たちのようであれ』と言われます。(ルカ12:36)
それは初臨のときのような聖霊の降下をもたらし、そうして『義』の仮承認を受けた人々が再び生み出されることでしょう。
しかし、地上の誰も命じられたただ一つの難しくもない儀礼さえ守らないとすれば、人間とはそれほどの神の善意に値するものでしょうか?それはアブラハムの信仰の前に恥ずべきことです。彼は何を捧げようとしたのでしょうか?その行いによって彼は神が御子を犠牲にするに足りる者が地上にいることを示したのです。

これまでのキリスト教界は、そのように準備が出来ていることを示してきたかと言えば
主人が戻ったときに、すぐに受け入れられる状態というものは、使徒の時代のキリスト教がある程度は回復されていなければならないことでしょう。
キリスト教界の現状はとてもそのようでものではありません。

キリスト教で唯一の定期的な儀礼として残された『主の晩餐』という、キリストの犠牲の死を記念すべき崇拝をさえなおざりにしているのであれば、キリストの再臨に備えているとは到底言えません。

もし、聖書に述べられた内容に、人がもたらすところを遥かに超える価値を見出し、神からの言葉と類い稀な意志とを悟り、神と子と聖霊とに信仰を働かせるのであれば、年に一度の『主の晩餐』を行わずにいられるものでしょうか。

今日、依然として聖霊が降下していない中で、パンとぶどう酒を食べまた飲むべき人は居ないとしても、その食事の席をしつらえて、主人であるキリストの帰られるのを待ち続けるのは、原始キリスト教に信仰を同じくする者の務めです。
ユダヤ教にもキリスト教にも、また世界を見回してもそのように主人を待つ者がいないとすれば、人間とは何と救いに価しないものでしょう。この世に差しのべられた唯一の救いの手にだれも応じていないのですから。

信仰の無い人が、『主の晩餐』の席を整えないからといって咎められもせず、罪を負って滅ぼされるでもないのですが、心に信仰を働かせている人が出来るのにそうしないのであれば、その無頓着さは神の偉大な意志とキリストの崇高な犠牲を卑しることにならないものでしょうか。
神もキリストも信仰を強要することはけっしてありませんし、カルトの教祖のように横暴に支配することもありませんが、では、人は何もせず、ただ救いを待つのでしょうか。それは神の側を落胆させることになるでしょう。
イエスが『人の子が来るときに、はたして地に信仰を見るだろうか?』と問われた一言に世界はどんな答えを示すものでしょうか。

『この世』からの救済に信仰を抱く人であれば、キリストの最後の晩、それはユダヤ体制派の祭りの前日、『準備の日』のことであったのですから、来る3月26日金曜日の夜をどうに過ごすかに注意しないでは済まないことでしょう。
もし、『主の晩餐』を行うとすれば、それはまた最後の十二使徒ヨハネの薫陶を受けたかつての十四日派の二十一世紀に於ける復興を意味し、キリストの命じたまま出エジプトに当たる夜に『主の死』を記念する者が現代によみがえっていることを示すことになります。
それは『来りませ、主イエスよ』と天に呼びかけるものであり、苦しみ満ち空しい世から『神の王国』の到来を願い求めていることを表すものともなります。

3月26日金曜の夜を聖なるものとして無酵母パンと赤ブドウ酒を前に、飲食することなく一定の時を取り分けるなら、それは神の御前に、地に待つ者がいることを表します。儀式のそれらしい次第は聖書にありませんが、パンを(できれば12切れに)割り、ぶどう酒を(できればゴブレットに)注ぎ、聖書のヨハネ福音書の14章から17章のいずれかを読み、神にキリストの再臨を請願し祈り、いくらかの神聖な時を過ごすことができましょう。

原初キリスト教回帰の信仰を抱く皆さまが同夜を共に記念できますよう念願しております。


エイレナイオス



無酵母パンのレシピは ⇒ こちらを
全粒粉の小麦粉は、大き目で商品数の多いスーパーなどには置かれております
酵母を入れなければ、あるいは白い小麦粉でも構いません
無酵母パンを焼くのは捏ね台となるテーブル、延べ棒、ボールか鉢、フライパンとガス台などの加熱器があれば一時間ほどで作れます
赤ぶどう酒は、できれば混合されたものでないものがよろしいでしょう


なお、当日この儀礼を行われた方には、人数と都道府県名など、ご一報頂き、お互いの喜びに加われますなら幸いに存じます。
ご連絡には、このブログのコメントもお使い頂けます。(管理人にのみ表示をお勧めします)






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「聖書とキリスト教を知る」新十四日派教本

2021.02.17 (Wed)

この度、新十四日派としての教理教本を発刊するに至りました
「聖書とキリスト教を知る」と題し
「キリストはなぜ到来したか」を当該一冊目の副題とし
新十四日派の教理の基礎を周知するものです


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amazonから発刊

電子版なので、この通販サイトに登録し、Kindleの読み込みアプリを介し
ログインすればどの端末からでもその都度読めます
クレジットカードを使わずにも購読できるとのことです
コンビニ決済、ATM、ネットバンキングなどの支払い方法も選択できるようです。⇒アカウント作成方法


諸教会の一般の方々への教理教育が意外に整っていないという実情をあるようで、このような「教理本」を「教会のキリスト教解説」と見られるところがあるかもしれませんが、これらは原始キリスト教に基く教えを解説するものでありまして、一般的な教会の教理の解説をお望みの方には向くものではありませんのでご注意願います。

さて、「新十四日派」と銘打って新しい聖書理解をSNS上に公開して十年以上が経過しておりましたが、キリスト教には初心者である読者を対象とした明確な教本は初めての公表となりました。
その間、創世記から黙示録までに込められた教理教本を仕上げなかった理由には、聖書の黙示や預言の終末への視界がいくらか途切れていたところがあります。

何らかの仕方で教程本を作る方法もあったのでしょうけれども、これまでの自分の経験からするなら、聖書全体の理解が一応は一巡しないことには、先端的理解が分かると同時に基礎に近いところまで見直すような影響を及ぼすことが時折ありましたので、近年ようやく聖書理解が一周したかの感があり、今の時点で、ようやくこの書を出版するのは遅いようでも慎重を期して良かったのではとも思えるところです。

当然ながら霊感を受けて書いたのでない以上、新十四日派の教理としたものがそのまま正しいという確証もなく、また教本とはいえ子供にも分かるものではありませんが、平易な言葉を用い、蓋然性の高い事を取り上げ、省略できるものを大胆に捨てるつもりでは書あります。結果140頁程度の手頃な分量で、とりあえずの基礎の網羅として落ち着いたと思えるところです。

聖書にもキリスト教にも関心をお持ちの方でも、部分的な講釈ではなく、全巻にわたって首尾一貫した理解を願う必要にお応えできれば努めも報われるところです。ここに込められた内容は、人生訓や処世術のようなものではなく、まったく『この世』という人間の生まれ落ちる不条理で空虚な世界を糾弾するものです。そこに神の摂理など存在もせず、悪魔の言いなりになって利己心が横行し、創造の意図から逸脱している労苦の獄屋であり、人はみな出エジプトの時のように解放を待つ『罪』の奴隷です。

この前半の書では、人間という存在に苦難がついて回る根本的原因から解説を始め、早くもエデンで語られた解決のための神の手立て『女の裔』を巡って聖書が展開してゆくところを解説します。
この一冊の本だけでも、千年期に至るまでの概要はつかめるよう編集してあります。
アブラハムへの約束、モーセの律法契約、捕囚と回復、バプテストの現れとユダヤへの裁きの予告、キリストの到来と働きの意義、聖徒らに受け継がれたキリストの業、キリストと聖徒らによる『神の王国』の支配と贖罪、霊と魂の意味、信仰とは何か、など基礎的な項目は網羅しました。
聖書の概要を一通り知りたい読者の必要に応じられるよう願っております。


これらの内容は2020年秋から、エイレナイオスのブログ上に掲載してきたものに
二章を補筆、全体に訂正を施し、セクション分けをしました。
(紙媒体の場合には、もう少しの工夫をしたいとは思っております)

聖書とキリスト教を知る
- キリストはなぜ到来したか -


1.キリスト教の目的
§1.「この世」とは何か - 5 -
§2.神とは何者か  - 7 -
§3.人間の抱える問題とキリスト - 9 -

2.『罪』という死の原因
§1.悪に傾く危険性 - 11 -
§2.究極の倫理的選択 - 13 -
§3.悪魔の素性 - 14 -

3.神の人類救出の手段『女の裔』
§1.ヘビを無に帰させる何者か - 19 -
§2.死後の世界を吹聴する悪霊 - 20 -
§3.信仰の人アブラハム - 22 -
§4.国民となるイスラエル - 25 -
§5.不信仰から捕囚とされる - 27 -

4.メシア=キリストの現れ
§1.神の沈黙が破られる - 30 -
§2.『新しい契約』を仲介するメシア - 33 -
§3.律法をただ一人成就したメシア - 37 -

5.天に建てられる『神の王国』
§1.「天国」ではなく『天の王国』 - 41 -
§2.ユダヤ人のただ中に来ていた王国 - 43 -
§3.真のイスラエルを集めるキリスト - 46 -

6.俗なる「世」と聖なる「安息」
§1.俗なる『この世』の始まり - 51 -
§2.空しい世の人生 - 57 -
§3.安息日の主であるキリスト - 60 -

7.子羊の犠牲による祭司団の現れ
§1.エジプトを出る『過越し』の食事 - 65 -
§2.神に買い取られた人々 - 67 -
§3.『神の子羊』イエス・キリスト - 70 -

8.キリストの贖いによる聖霊降下
§1.聖霊とは何か - 75 -
§2.様々に働く霊 - 78 -
§3.注ぎ出された奇跡の聖霊 - 81 -
§4.聖徒の身分を証しする聖霊 - 83 -

9. 『火のバプテスマ』に焼かれるユダヤ
§1.籾殻を集めて焼くキリスト - 88 -
§2.キリストに予告された滅び - 91 -
§3.律法体制の過ぎ去った後に - 96 -

10.聖徒と信徒
§1.アブラハムの裔と諸国民 - 102 -
§2.大祭司キリストと共に働く祭司団 - 104 -
§3.キリストと聖徒たちの千年支配と贖罪 - 108 -
§4.神の名を唱えて救われる - 113 -

11.『魂』として保存される人類
§1.動物にもある『魂』 - 117 -
§2 血で表された『魂』 - 118 -
§3. 神はすべての魂を所有する - 121 -
§4.神が悪や苦を許している理由 - 125 -

12.信仰というもの
§1.濃い暗闇に住まう神 - 128 -
§2.主の僕は争わず - 131 -
§3.神と子と聖霊 - 133 -



以上、上巻 全141頁


なお、同じ「聖書とキリスト教を知る」の表題で、終末の黙示や預言の指し示す将来の「終末」を扱った「下巻」に相当する「再臨のキリスト」と副題するもう一冊も続けて発刊の用意を進めております。

こちらは、上記の上巻が初臨のキリストの意義を伝えるのに対して、それを鏡像のようにしてキリストが再臨するときに何が起ると聖書が述べるかに焦点を合わせており、二冊が対になるものです。

本来は「聖書とキリスト教を知る」と題する一巻の書とするつもりで、厚手にならず150頁ほどのものを目指したのですが、最低限必要を思われるものを網羅しようと書き進む内に、300頁近くなってしまうようになり、「手軽で読み易い」という当初狙ったコンセプトから逸脱してしまいました。やはり教科書は読みやすく薄い方がありがたいものです。

一応は全体像をレジュメにまとめて書き始めたのですが、書き進む内に思わぬ方向に筆が進み出し、気づけばキリストの初臨と再臨とではっきりと二分される内容となったことから、ふたつの書に分ける事と致しました。

下巻の内容は、黙示や預言書を包括的に扱い、新約との関係性を終末の出来事に組み上げたもので、筆者の十年以上にわたる聖書探求から、能う限り凱旋性の高い事柄をまとめております。
とはいえ、未然の事柄が内容ですので、独断とならぬよう仮定文を多用しましたが、もちろん筆者としましては、慎重を期したつもりではあります。
然りながら、今後の次第では何か変わる可能性もあり、その点、分冊であることが有用となるのかも知れません。それにしても、類を見ない終末理解の全体像ではありますが、ほとんどの箇所で複数の聖句や史料を支持を根拠としましたので、まったく的外れとはならないことでしょう。

こちらも加え、みなさまのご購読とご感想など頂けますなら幸いに存じます。

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こちらは現在準備中で、3月中に上梓できるものと思われます。



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