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救うために来るキリスト

2021.01.09 (Sat)


「キリスト教」とは、イエス・キリストに倣う教えであることはもちろんですが、それを一言で表すとすれば、何と言えるでしょうか。

『神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである』とはキリスト教徒の間でよく知られた言葉で、ヨハネ福音書の第三章十六節にあります。

確かに『この世』は、アダムの罪によって作り出された『空しい』世界ではあります。しかし、そこに生まれて来たすべての人が『アダムと同じ罪を犯してはいません』。(伝道1:1/ローマ5:14)
アダム以後に命を得た人々には、悪魔の道に入るかどうかは依然として問われていないので、死者について使徒パウロが言うように『人間にはただ一度死に、その後に裁きを受けることが定まっている』のであり、人は皆が『罪』のない状態に復活して、無垢であったアダムの状態で試される必要があります。それによって『愛』を選び取り、他者とどのように生きてゆくべきかを弁えなくては永遠に存在する理由もありません。(ヘブライ9:27)

そして、終末に生きている人々については、『生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことはない』と言われたイエスの言葉のように、復活を経ずに生きたまま再臨のキリストに試され、『神の王国』の支配する地を受け継ぐことになるでしょう。(ヨハネ11:26)

ですから、アダムの子ら以降今日まで人々は、だれも神の創造物としての試みを経ていないことになります。例外があるとすれば、それは亡くなった過去の聖徒たちでしょう。義なるキリストの仲介する神との契約により、聖徒たちは地上にいる間から『神の子』と仮承認されていたからです。彼らが天に召されるときに、その復活そのものが、裁きを通過したことの証しとなることでしょう。(ローマ8:14-17)

ほかのすべての人々については、それぞれに『愛』について神とどう関わるかを別に問われなくてはなりません。それは神に服従するかどうかということではありませんし、道徳的であるかどうかにも関わりません。親が子を無条件に愛そうとするように、神は一人一人に出来る限り命を与えようとされることでしょう。

神がカナン人の崇拝や習慣を嫌ったことは明らかではありますし、荒野をさすらうイスラエルの弱った人々に残忍な攻撃を仕掛けたアマレク人を神が呪ったとはいえ、その一人一人はやはり神の創造物であり、復活に価しないとは言えません。神はこう言われます。
『わたしは邪悪な者の死をさえ喜ぶだろうか。むしろ彼がその行いを離れて生きることを喜ぶのではないか』。(エゼキエル18:23)
この言葉を証しする例が、旧約聖書の中にも散見されます。

例えれば、ヒゼキヤの王位を継いだマナセ王ですが、彼は律法を守ることなく父王ヒゼキヤが壊した異教の祭壇を再建し、先住のカナン人をも越えて悪を行い、加えてバアルを崇拝し、自分の息子さえ火に落とし、エルサレムを罪のない者たちの血をおびただしく流した極悪人でありました。(列王第二21:1-)
彼の甚だしい悪行を見た神YHWHは、ユダ王国のバビロン捕囚を決意し、それは遂に翻ることがなかったのです。

ところが、YHWHがマナセを罰し、彼が異国で獄につながれると心を入れ替えたように変わり、大いに謙ってYHWHに祈りを捧げるようになったのです。その悔いは本心からのものであったのでしょう。ユダ王国のバビロン捕囚の意志は覆ることはなかったものの、YHWHはマナセの変化に目を留め、彼をエルサレムに戻して王位に復帰させています。確かにひどい悪人ではあったのですが、YHWHは彼が以前に犯した多くの殺人を含む重罪を赦しています。人がその思いを改めるとは、神の前にこれほど価値のあることなのです。(歴代第二33:12)

また、その以前の時代には、イスラエル王国の王アハブが挙げられます。
このアハブがフェニキアからイゼベルを娶って、イスラエルにもユダにもバアル崇拝を広めさせた元凶なのですが、YHWHは預言者を送り、何度も道を改めるよう促していましたが、遂にYHWHは彼を罰することを告げ、エリヤを通して彼の王朝を終わらせ、その子孫も絶え果てることを伝えると、アハブは悔いの表明として上着を引き裂き、粗布を身にまとって憔悴して歩くようになります。

その姿を見たYHWHは、預言者エリヤに向かって『アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか!』と喜々として言われます。
確かに神は、悪人の悔いることを喜ばれ、アハブに告げた王家の終りを彼の次の世代に先送りし、彼にはそれを見させないことにしたのです。(列王第一21:20-)

これらの例は、多くの流血の罪を負うひどい悪人といえども、神がその悔いを見せるところを評価することの証しと言えます。
また、創造の神が人をどう見做しているかについての貴重な情報をも伝えています。
神は、エデンの園で禁断の木を監視しなかったように、自らの『象り』である人の心を自由の内に保って、働きかけはしても強制しません。まして、生まれながらにアダムの罪にある人々には、不道徳性が避けられないことを神は熟知のうえで、それゆえにもキリストの完全な犠牲を人々に備えたのです。(ローマ3:23-25)
そして、そのキリストは『人には、その犯すどんな罪をも神を汚す言葉をも赦される』、また『人の子に言い逆らう者も赦される』と明言されています。赦されないのは聖霊という神の証しを故意に退ける罪だけであり、まず脱落聖徒のような者だけがその罪に裁かれるでしょう。(マタイ12:31-32/ヘブライ6:4-5)

神の慈愛は、様々な重罪を赦すまでに深く、初臨のキリストは罪人や娼婦、また悪辣な収税人たちを退けず、『わたしは義人たちではなく、罪人たちを招くために来た』とまで言われました。この『義人』とは、自分は律法を守っているのだから、当然、神に受け入れられ是認されていると思い込んでいたユダヤ人のことです。(マタイ9:13)
それに加え、イエスは『神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである』と言われたのです。(ヨハネ3:17)

確かに、再臨のキリストはこの世を裁き、多くの人々が命を落とすことは避けられないことです。
しかし、それは人々が道義心や復讐心に燃えて悪人を敵視するようなものではありません。『人の怒りは神の義の実践とはならない』からであり、すべての魂を所有される創造神の見方は、やはり人間の想いを超えるものです。(ヤコブ1:20)
『邪悪な者の死を喜ばない』神は、最後まで悪人に気遣いを示し続けることでしょうし、放蕩息子の例え話からすれば、時には善人以上に気遣うこともあるでしょう。

やはりイエスは、自らの犠牲の死についてこう言われました。
『モーセが荒野で蛇を掲げたように、人の子も掲げられねばならない。それは、信じる者の誰もが、人の子によって永遠の命を得るためなのだ』。(ヨハネ3:14-15)

このモーセの時代、不信仰のために荒野を四十年さすらうことになったイスラエルは、度々に自分たちの境遇に不平を鳴らしていましたが、その旅も終わり近くなって、何十年も食べてきた奇跡の食物マナに不平を言い出し、それに対してYHWHは多くの毒蛇を彼らの中に送って咬ませて罰するということがありました。(民数記21:4)

次々に咬まれて死んでゆく者らを見た民は回心し、『わたしどもは罪を犯しました』とモーセに執り成しを願います。
そこでYHWHは答えて、モーセに銅で蛇を象らせ、それを木に打ち付けて民の間に掲げるようにと命じます。
すると、蛇に咬まれ毒の回る中にあっても掲げられた銅の蛇を仰ぎ見るだけで生き長らえたと書かれています。(民数記21:9)
まさしく、イエスはご自分の犠牲の効力について、この故事に例えられ、人が罪深いとしても、キリストの犠牲に信仰を働かせ、それを仰ぎ見る者には永遠の命を与えると言われるのです。

これらを考え合わせると、終末の大患難にあって、多くの人々の応報の死を神は喜んで見るとは言えませんし、悔いる可能性を残す人に注意深くあられるに違いありません。
「ハルマゲドンの戦い」の後で、洞窟に身を潜め『山や岡に向かって「われわれを覆ってくれ」』と嘆願する人々からも、また最終的な裁きである疫病の死の影に襲われている人々からも、荒野のイスラエル人が毒蛇に咬まれて毒が体に回りつつある中ですら、掲げられた銅のヘビを仰ぎ見るだけで命を長らえたのであれば、ヘビにはるかに勝るキリストの犠牲を仰ぎ見て救われないことがあるでしょうか。
人は皆が同じく「罪人」なのであり、キリストは『世を裁くためではなく、救われるために来た』と言われるのは、このようなことを指すことでしょう。

そして、この点は黙示録にも記されたことです。
ヨハネは天使から次のように命じられます。『わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで崇拝する者たちを測るように」』(黙示録11:1)

これは、来るべき天界の神殿の寸法を測ることですが、同時に『そこの崇拝者を測れ』とも言われました。
聖徒について理解を深めた方には、これが天界の神殿を構成する聖徒たちのことであり、彼らは建物の石が正確に積み上げられる必要から精密に測られ削られているべきことであると理解できることでしょう。
つまり、彼らは『新しい契約』について忠節で清い状態を保ってはじめてキリストを『隅の親石』とする神殿に組み上げられるにふさわしい石材となるのです。(ペテロ第一2:4-6)

しかし、注目するべきはその次の言葉です。
『聖所の外の中庭はそのままにしておきなさい。そこは測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所である。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう』。(黙示録11:2)

かつて地上に存在していた神殿の境内の外側は「異邦人の中庭」と呼ばれ、律法契約にない諸国民も入域を許されていました。ヘロデ王が改築したときに広げられた中庭には、ローマ皇帝も代理人を遣わして自らの名義による犠牲を奉納し、それが焼かれて捧げられる煙をその中庭から代理人が眺めたと伝えられますし、ユダヤに駐留するローマ兵の中にも神YHWHに犠牲を捧げる者があり、新約聖書には、イエスに僕の病の癒しを願って許された百卒長はユダヤ教の会堂を寄進しています。また、使徒ペテロを自宅に招き聖霊を注がれた士官コルネリウスは普段からYHWHに祈り、ユダヤ人に施しをしています。これらの人々を考えると、ユダヤを占領した諸国民であってさえ、神YHWHへの崇敬の念は薄いものではなかったことが窺えます。(マタイ8:5-13/使徒10:1-2)

ですから、ヨハネに話しかける天使が『外の中庭』と言った場所は、契約にはない聖徒以外の大多数の人々のための広場を意味すると考えられ、『そこは測ってはならない』とは、聖徒たちが天でキリストと共になるだけの忠節な行いと資質を問われるのに対し、『新しい契約』になく、むしろ聖徒たちの活動期間の『四十二か月の間』、それを『踏みにじり』反対し妨害する人であってさえ許されることが示唆されていると捉えられます。

そのように逆らった人々からも悔いて神殿の『外の中庭』に集う人々が出るのでしょう。ですから『そこは測ってはならない』のです。イエスの言われるように、『その犯すどんな罪をも神を汚す言葉をも赦される』からでしょう。
ですから『異邦人の中庭』の広さや人を測ってはならないのは、神がすべてを知る能力を持ちながらも、どのような人が、またどれほど人数が是認の内に収容されるかも事前に定められないということです。神は人の自発心からの信仰を望むからであり、エデンの禁断の木を監視せず、王たちの悔いた姿を予測されず、かえって驚き喜ばれる方だからです。
この事では、教会によって聖徒に当てはめるべき聖句を根拠に「だれでも救われる者は世の基が置かれる前から決まっている」と主張する余地はなく、その「予定説」は、神は人の自発心を尊重しないと言うに等しい誤解です。(エフェソス1:4)

しかし神のこのような寛容さは、もちろんキリストも見事に反映しています。
刑場に引かれてゆき、『どくろ』つまりゴルゴタと呼ばれる岡の上で十字架に釘で打ち付け、またその衣服を誰のものにするかとくじ引きしている兵士らに『父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです』とイエスは執り成しの祈りをされました。けっして報復を願ったりはしていないのです。(ルカ23:34)

それから共に磔にされていた重罪を犯していた者の一人も『わたしを思い出してください』と信仰を言い表しました。またイエスが息を引き取った後には、その処刑を指図しながらも起ったことを一通り見ていたローマ軍の百卒長は、『この人はまことに神の子であった』と讃嘆の声を上げています。これらはイエスの寛容さによって成り立った信仰と言えるでしょう。(ルカ23:42-43)

イエスの慈愛ある心は、その弟子にも受け継がれ、後にユダヤの宗教家らに石打刑を受けた弟子のステファノスも息絶えようとするときに『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい』との最期の言葉残しています。(使徒7:57-60)
その殺害に加担していたパリサイ派のサウルは、その後もイエスの弟子たちには苛酷な迫害者でしたが、キリストからの奇跡の働きかけを受け、やがて使徒パウロとされます。この人物はキリスト教という新たな教えを打ち建て、世界に広めることに於いて比べる者がほかにないほどの活躍を見せることになりました。

キリスト教徒であることに於いて完璧のように見えるその使徒パウロですら、『わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしている』また、『善をしようと欲しているわたしに、悪が入り込んでいるという法則がある』とも告白しています。(ローマ7:15-20)
そのうえ、彼は自分が迫害者であったことに非常な負い目を感じてもいました。(コリント第一15:9)
ですから彼は『わたしはなんと惨めな人間なのか。死にゆくこの体から、だれがわたしを救ってくれるだろうか』と問い、『わたしたちの主イエス・キリストを通して、ただただ神に感謝します』と言うのでしょう。

イエスに感化された罪人には、エリコのザアカイもいます。
収税人がローマの権力をかさに着て、税率以上を取り立て、払えない弱者には貸し付けたことにして、執拗に追い回し、当時のユダヤ社会から見下げられ、ユダヤ教の会堂に出入りして学ぶことは許されていませんでした。
しかし、イエスは最後のエルサレムへの旅の途上で、いきなりに彼の家に泊まると言われます。すると、それを目の前で聞いたエリコの群衆はひどくイエスに落胆せざるを得ませんでした。それほどザアカイは悪名を馳せていたのです。
ですが、その収税人も、メシアと噂される奇跡を行う方イエスを家に迎え、大きく感じ入ったのでしょう。『ゆすり取ったものは四倍にして返します』と言うまでに変わります。それにイエスは答えて『今日、この家に救いが来た』と言われるのでした。(ルカ19:1-10)

このように、キリストは確かに『裁くためではなく、救うために来た』と言われた通りです。ただ裁くばかりであるとすれば、人は誰も神の前に赦されないでしょう。また、神が人の心が行う決定をまったく予知するなら、創造界はただ圧制に落ち込み、人は神の『象り』でなくなり、そもそもアダムも後で変節するのなら、わざわざ創造されることもなかったでしょう。

そこで神の赦しがキリストの教えを形作るのであり、それは終末に在っても変わないに違いないことです。
たとえ、聖徒の迫害に加担し、あるいはその死にさえ責任を負う人であっても、それを悔いるのであれば神は赦されるでしょうし、聖霊の奇跡を通して「次なるパウロ」を救わないとも言えません。
人にとっては怨みがあろうとも、そのような人を神が赦すのであれば、誰もがその人を赦さねばなりません。(マタイ18:23-35)
石打で殺されたステファノスもパウロを赦さないということはもちろん考えられないことです。

キリスト以外、もとより人は皆アダムの子孫であり、神の前には皆が罪人です。
この世に多くの悪行が蔓延り、中には邪悪の極みのような事さえ行われて来たのですが、神の観点から見るなら、いずれもアダム由来の『罪』の行わせたことであり、本来、人は人を裁けません。
ただ、社会の秩序を保つために、人々は法を定め、違犯を取り締まるための権力を必要としてきました。
そこでは、社会一般の善悪規準によって裁かれる必要があるのですが、そうした人間社会での善悪規準と、神の観点とが同じものではないのです。

例えれば、イスラエルがエジプトで奴隷にされていた間に、アラビアにヨブという富裕な人物がいましたが、この人物から学ぶべき貴重な内容が旧約聖書のヨブ記の中に収められています。
彼の道徳性は並外れており、神でさえ『ヨブほど悪を離れ善を行う者もいない』と悪魔に豪語できるほどでありました。
突然の不幸が自分の家族と自分の身の上に生じたときにも、彼は神を一言さえ呪いませんでした。彼は子らのすべてと財産を失ってしまいましたが、そのうえに皮膚に難病を患い、ひどい痒みと潰瘍に悩まされ続けたのです。

しかし、その道徳の素晴らしさは、彼自身も自負するところでした。そこに三人の友人が訪ねて来て、彼に不幸が生じたのは、何かしら隠された悪があるのではないかとヨブを囲んで尋問を始め、ヨブ記はそれを長々と記録しています。

しかし、友人たちの疑いもヨブはすべて晴らしてしまい、彼の道徳性の立派な正義は「自分に不幸を与えた神に非がある」とするところまで進んでしまいます。
ですが、これは間違っています。
人がどれほど道徳的で義に適っているように見えても、やはりアダムの子孫であることには変わりがないからです。
そこでエリフという人物が論議に加わり、ヨブの間違いを徹底的に暴いてゆきます。
『あなたがどんなに正しくても、神に何を与えられるのか。神はあなたの手から何を受けられるのか?』と問われるヨブは、自負する道徳性の限界を言い当てられてしまいます。

エリフほ容赦なく、ヨブの問題をえぐり出し、こう指摘するのでした。
『あなたが悪を行っても、それはあなたと同じ人間に対するもの、あなたが正しくても、それは人の子に関わるだけなのだ』。(ヨブ記35:6-8)

さらに神自身がこの論争の場に大風に乗って現れ、ヨブに問いかけます。
『自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか』。(ヨブ40:8)
これにはヨブも返す言葉がありません。ここでヨブは自分の義への固執が間違っていたことを認めるに至ります。
『わたしは自分の言葉を撤回し、塵と灰の中で悔い改めます』。(ヨブ42:6)
どれほど道徳的であっても、それが神に対して是認を要求できないことを学んだヨブを神は祝福し、病を癒し失ったものを与えてヨブ記は終わります。

しかし、キリスト教界でこのヨブ記は、敬虔な善人であり続けることを勧める書と誤解されてきました。その理由といえば、「聖書は人に善い生き方を教えている」という決め付けから来るものでしょう。
いや、むしろ聖書の意義は、人類の全体を『罪』から救い、創造の神との関係を回復させる計画を知らせ、それがどれほど進展してきたかを教えるものではあっても、誰か個人を善人にならせ、神から罰せられない「正しい生き方」を教える本ではないのです。
これは大いに誤解されています。

逆に、どれほどの悪行を働き、どれほどの害を他の人に及ぼしたとしても、それで神の前に是認される機会をまったく失うこともありません。イエスは赦されない悪行として『聖霊を冒涜すること』だけを挙げるばかりです。(マタイ12:31-32)
ですが、これはどんな悪行をしても構わないという意味ではありません。そうすれば社会からの制裁を受けることでしょう。神は悪行を嫌うとしても、それはまず人間社会の問題となるからで、官憲という『上なる権威』は『いたずらに剣を帯びてはいない』のです。(ローマ13:1-4)

この違いを理解することは難しいことなのでしょうけれども、重要な真実がここにあります。
それは、この世で善人とされる人の善行であっても、それは人々の間で褒められるものであるばかりで、その善良さや正しさのために神はその人を特別に扱う義務を負うことはないということです。

しかし、これは人間の常識を超越しているため、キリスト教に於いてさえ理解されてきませんでした。
「聖書は人に敬虔で善良な生き方を教えている」と決め付け、「神に是認される生き方を送ることが神の意志であり、そうすれば救われる」と考えた人々はキリスト教の歴史上絶えたことがありません。
また、教理を理解し、信仰を持ったなら水のバプテスマを受けると「救われる」という単純な発想で、自分はほかの人々より神に近付いたと考えるのは自由にしても、そこで利己心を煽られてはいないのでしょうか。もちろん、それはキリスト教とは関係のない自負心です。

どこかの宗派に所属すること、また善行を積むことで、神に喜ばれ、または是認されると教えられる人々も少なくありません。いや、ほとんどのキリスト教の宗派はそのようです。しかし、それではキリスト教の真価を知らず、律法に従うユダヤ教から進歩していないというべきでしょう。
さらに「天国と地獄」など聖書にない教理が加わると、自分の周囲の同じ信仰にない人々は「地獄行き」になると思い込みさえしているのが実情ではないのでしょうか。それでは、自分たちは清くて『律法を知らないこの民は呪われている』と言い放ったパリサイ派、あのイエスに最も反発した宗教家らと同じ道を歩んでいるのではないでしょうか。(ヨハネ7:49)

この点で、大洪水を逃れたノアや、ソドムとゴモラの滅びを生き長らえたロトのようなキリスト前の例に目を向け、自分は彼らのような善人であろうと努めることは一種の罠となることでしょう。そのように装うことが本当に『義』なのでしょうか。その動機には何があるのでしょうか。ノアにせよロトにせよ、救われるために善を行っていたわけもないからです。
やはり聖書の示すところ、どれほどの善良さであっても「神の前の義」に達することはありません。それゆえにも「信仰」、つまりキリストの『義』に一心に頼ることではじめて人はキリストの義の中に含められる道がひらかれるのであり、それこそがキリスト教というものです。(ローマ3:22-24)

神がイスラエルに律法を与えたのも『罪を明らかにするため』であったとパウロは教えます。唯一キリスト以外に律法によって自らの義を証した人はいません。それは人の限界を超えた偉業だったのです。では、だれかキリスト教の信者が何かの規則や道徳を守ったから『義人』になれるのですか。(ガラテア3:19/ローマ3:20)
少なくないキリスト教の宗派が信者を獲得するために神の赦しを利用してしまい、「自分たちの教える条件を守るなら救われる」とし、ほかの人々を見下す原因を作って来なかったでしょうか。(マルコ7:7)

しかし、それはまったくキリストの教えとは違います。正反対に間違っています。
キリスト教の本質は『愛』と『赦し』であって、ほかの人を自分の踏み台にして自分の正義を喜ぶことなど、邪悪な方向に進んでいるというほかありません。(ルカ16:15)

そこで、終末の裁きで「自分の義」、人の間では通用するかも知れない「正しさ」などは、神の前にはその人を救うものとならず、むしろ逆の方向、つまり『自分を義とする』ユダヤ体制派に『火のバプテスマ』が降り注いだように、滅びへとその人を誘うものとなり兼ねません。(ローマ10:3-4)
神が人に求めるものは滅びの恐れからの「服従」ではなく、恐れの拘束のない自発的な『愛』であることはまったく明らかであり、『愛する者は神といつまでも結ばれる』とある通りです。(ローマ4:4-5/ヨハネ第一4:16)

ですから、終末の大患難も最後の災いである疫病が人々を裁く中に於いてさえ、『銅の蛇』に当たるキリストの犠牲を仰ぎ見る人がいるなら、神はその人に注意深くあることでしょう。
そして、終末の前からキリスト教を教えられた『シオン』の人々も、この『愛』と『赦し』という神の意志をけっして忘れてはならないに違いないのです。そうでなければ後から悔いて回心する人々の受け皿がありません。
やはり、「人を赦す者は自らも赦される」とイエスは言われます。それこそが神に倣うことなのです。(マタイ6:14)







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大患難をもたらす四騎士

2021.01.06 (Wed)


「大患難」とは、イエスが『終わりの日』について語られた中で、『その日には、それまで起ったことがなく、その後も起らないような大きな患難がある』との言葉からのもので、いつかは分からないながら、かつてユダヤ体制に「火のバプテスマ」が臨んだように、いずれは世界が逃れられない災厄の極まる体制の終わりを指している言葉です。

これに関して『終わりの日』は、神がキリストを介して人々を裁くことを目的としていることが否定できません。
そこには、二つの裁きがあります。
第一は、天に召されるべき聖徒たちを練り清める裁きであり、第二は、その聖徒たちを通してすべての人々がキリストの右と左に分けられる『この世の裁き』です。

そのようにして、神は人類を創造されたままの栄光ある姿に回復するための『聖なる国民、王なる祭司』となる人々を天に選び取って任命しながら、その過程を通し、彼ら聖徒の語る聖霊の言葉への信仰が世界の人々に問われ、『天の王国』の贖罪の祝福に値するかどうかについて、地上に生きるすべての人が裁かれます。新約聖書が「救いは信仰による」と主張するのはこのことを表しています。それは『神と子と聖霊』に対する信仰であって、『終わりの日』に問われる信仰であり、今バプテスマを受けているから救われているわけではありません。

その日には、エデンでアダムが悪魔によって試みを受けたように、終末の人々の前にも試みが許されます。
その試みが聖徒にとっては「迫害」であり、一般の人々には脱落聖徒、特にその中でも『反キリスト』による「背教」が強烈な影響を及ぼすことでしょう。それが神に対抗して立ち上がる人類諸国の権力の集まりが、かえって自壊することに端を発する世界の混沌に至ることを聖書は随所で告げているのです。

『終わりの日』も進み、終局(テロス)が近付くと、聖書中で『マゴグの地のゴグ』とも呼ばれる『不法の人』また『反キリスト』は、その高い地位から諸国の軍事力を集め、いよいよ『天の王国』に信仰を働かせてその側に立っている人々を攻め立てるよう号令を下すことになりますが、これが大患難への入り口となります。

ですが、実はこの攻撃には目標がもう一つあり、それは公には秘められ隠されるため、その相手にとっては思いがけない突然の滅びが襲うことになるでしょう。
その隠された目標が、聖徒たちを妬むあまりに権力をそそのかせて葬らせた元凶である旧来の宗教「大いなるバビロン』であり、黙示録は、この大娼婦が以前には「七つの頭を持つ野獣」を使って聖徒たちを攻撃させたように、その同じ『十本の角』の軍事力によって大娼婦自らが終りを迎えようとしていることを示唆しています。
しかし大娼婦は、『わたしは女王の位にあるし、やもめなどではないのだから悲しみを見ることはない』と自分に言い聞かせる姿も描かれています。ですが、この娼婦はすでに神と何の関係もないことが『騎兵隊』によって暴露されています。つまり、『やもめ』になっているのです。(黙示録18:7)

この段階で、大娼婦の立場は短期間に悪化していることでしょう。その大きな原因となっているのが、反キリストを中心とした脱落聖徒たちの背教、『羊のような獣』が後押しをする宗教合同的な新しい宗教の急成長でもあるでしょう。
黙示録は『獣の数字』について、『羊のような獣』が『その(数字の)刻印のない者には売り買いできないようにした』と告げていますので、『666』を刻印とする『野獣の像』崇拝、つまり反キリストの『背教』の隆盛のほどが分かります。(黙示録13:17)

これに対して、それまでの諸宗教がどう振る舞うのかを黙示録は語っていませんが、反キリスト崇拝にどう反応しようと、例え賛意を見せて迎合しようと、敵視しようと、『大いなるバビロン』への陰謀は水面下で進められ、諸国の軍事力の集合である『十本の角』の攻撃目標は、表向きの信徒攻撃のほかに、この大娼婦への奇襲も練られていることでしょう。

その以前に、反キリストの世界体制への凶兆が『神の怒りを満たした七つの鉢』よって次々に暴露されている中で、大河ユーフラテスも『その水は、日の出の方角から来る王たちに対し道を備えるために、枯れてしまった』とあり、『大いなるバビロン』が多くの信者を失っていることを黙示録は示唆しています。(黙示録16:12)
この『日の出の方角から来る王たち』とは、古代バビロンを東方から攻略したメディア・ペルシアとその連合軍を率いて巨大都市バビロンを一夜で征服したキュロス大王の故事を示唆していることは明らかで、諸宗教からの信者の急速な減少が『大娼婦』という旧来の宗教の没落を招くことは聖書全体の理解からして疑えません。(黙示録17:15)

旧約聖書中には、同じように死を目前にして女帝のように振る舞った前例があり、その名はイゼベルという皇太后で、イスラエルが律法で通婚を禁じられたカナン人のフェニキア出身でしたが、イスラエルの王アハブは律法に構わずイゼベルを妃に迎えてしまいました。この王妃はYHWHの預言者らの多くを殺害させ、一方で嫁ぎ先の首都にはカナンの神バアルの神殿を建立し、フェニキアからバアル神の祭司らを招きました。

その難局の中で預言者エリヤが対抗し、YHWHこそイスラエルの神であることを奇跡によって立証します。
しかし、神の奇跡を恐れぬイゼベルはエリヤの命を狙うのでした。
エリヤは、かつてイスラエルが律法を賜った砂漠の山シナイのホレブの峰にまで逃れてゆきますが、神は彼にバアル崇拝を罰するための三人を示します。それがエリヤの後継者エリシャ、シリア王ハザエル、そしてイスラエルの新王となるエフーです。

女帝イゼベルとイスラエルのバアル崇拝の最期については、新たに神から任命を受けたエフー王の活躍するところです。
預言者エリシャから油注ぎを受け王と宣せられたエフーは電光石火の行動で、イゼベルの息子でイスラエル王となっていたエホラムを一本の矢で心臓を射止め、次いでイゼベルの居る王宮へと進軍します。

息子の死を知ったイゼベルは厚く化粧をし、王族の衣をまとってエフーを出迎えますが、その姿にはいくらの恐れも見えません。
エフーはそれまでイスラエルの戦車隊の隊長でしかなかったのですから、イゼベルの背後にあるフェニキアとの同盟をエフーが必要とすると思い込んだのでしょう。実際、フェニキアの貿易商のもたらす富は絶大であり、地中海の各所に植民地を作ってもいました。

しかし、エフー王の心にはバアル崇拝の根絶という目的があったので、イゼベルにとってその死はあっという間に訪れることになりました。エフーが王宮に向かって「わたしに味方するものは誰か?」と問いかけると、寝返りを望む数人の官吏が顔を出したので、『その女を突き落とせ』と一言命じただけで、イゼベルは王宮から落ちて死んでしまい、野犬にむさぼり食われ、埋葬もできないほどになってしまいました。(列王第二9:37)

その後、エフー王は自分もバアルを崇拝したいからと偽り、バアルの信者を神殿に集めると、周囲に手勢を配置して、中に居た崇拝者を皆殺害させ、バアル神殿を公衆便所としてしまいました。

この故事を念頭に置いて黙示録の大娼婦『大いなるバビロン』を読むなら、そこに重なるものがあることに気付けます。
『大いなるバビロン』も、自分の最期が迫っていることを悟れず、イゼベルのように赤と紫の王族の衣裳をまとって悠然と『わたしは女王の位にある、やもめなどではない』と言っているかのようであり、それがあっという間に墜落死して、犬に食い尽くされるということは、黙示録の『あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、身に着けた物をはぎ取って裸にし、彼女の肉を食って、火で焼き尽すであろう』の言葉と似ており、旧約聖書をよく知る読者には、この類似には注意を促すものがあります。(黙示録17:16)

黙示録の大娼婦を滅ぼすのは、聖徒を滅ぼした野獣の『十本の角』であり、ここで言う『野獣』というのは、おそらく『野獣の像』のことを言うのでしょう。この『野獣』は宗教化した偶像であるので、旧来の宗教を『憎む』理由もあると言えます。
ともあれ、『大いなるバビロン』の滅びは当事者の予想外に起こり、水の中に石が消えて行くように突然に過ぎ去り、二度と見ることはありません。その滅びのあっけなさは、かつての関係者の驚きと嘆きを誘うほどのものであることを黙示録は強調しています。(エレミヤ51:63-64/黙示録18:9-11,21)

こうして反キリストは、諸国の軍を動員しておいて、王国の信徒を攻撃する前に大娼婦を平らげてしまい、それからいよいよ『シオン』に攻撃の矛先を向けますが、この時までに『シオン』は『神の民』となって、神から何かしら『新たな名』で呼ばれていることでしょう。
世界の連合軍が主要な目標とするのは、神の領域に入ったその民であり、そこを攻撃することが彼らにとって天の神に逆らう方法であり、自分たちの権力を固めるために避けられません。詩編の第二は、逆らう政治家たちの思いを描いてこう述べます。
『 地の諸国の王は立ち構え、諸国の高官らは共に謀り、YWHWとその油注がれた者とに逆らって言う、「われらは彼らのかせを壊し、彼らの縄目を解き捨てよう」と』。(詩篇2:2-3)
このシオンの危機にあって、遂に神はキリストを王として擁立することになります。
『天に座する方は笑い、YHWHは彼らを嘲ける。そして憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、「わたしはわが王を聖なる山シオンに立てた」と』。そしてYHWHは王としたメシアに命じて言われます『敵のただ中から征服してゆけ』。(詩篇2:5-6・110:2)

こうしてキリストは聖徒たちを率い、地に向かい王権の実効支配のために進軍を始めます。
それはかつて、イスラエル民族が『約束の地』を征服して入植するときに、自分たちに降伏することを願い出たカナン人の街ギベオンを他のカナンの諸都市の連合軍から救うべく、一晩中の行軍を続けてまでギベオンの異邦人を救おうとの熱意を見せたときの姿に重なるものがあります。(ヨシュア10:1-)

イスラエル軍はギベオン救出に間に合ったばかりか、敵対したカナンの諸都市連合の軍勢を打ち破り、カナン平定の基礎をも築くことまで出来たのです。
神も天からこの戦いに加わり、カナン連合軍は混乱に陥ったうえ、天から大石のような雹を降らせて敵兵を打ち倒したのですが、『剣をもって殺したものよりも、雹に打たれて死んだもののほうが多かった』とヨシュア記は伝えています。(ヨシュア10:11)

それでも、戦いが夕刻まで続いたのですが、イスラエルは敵軍に十分な勝利を挙げられず、そのまま夜を迎えれば、闇にまぎれて逃げる敵軍が、再び陣立てを建て直す機会を与えてしまう心配がありました。
そこでイスラエルを率いるヨシュアが空に向かって『陽よ、ギベオンの上に留まれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ』と叫ぶと、『陽が天の中空に留まって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。これより先にも後にも、YHWHがこのように人の言葉を聞き入れられた日は一日とてなかった』とあります。(ヨシュア10:12-14)

もちろん、天文学からすれば到底有り得ないことでしょうけれども、聖書にはそう書かれています。
しかも、それは聖書中にもう一度示唆されてもいるのであり、それはやはり終末に関わる預言書の中、エルサレムが大きな地震に見舞われる日を予告したゼカリヤ書はこう述べます。
『あなたがたの神YHWHは来られる、もろもろの聖なる者らと共に来られる。
その日は、冷えて固まるもので満ちる。そこには連続した長い一日があるがYHWHはその日を知られる。これは昼でもなく、夜でもない。夕暮になっても光があるからである』。(ゼカリヤ14:5-7)

これは「ハルマゲドンの戦い」を指すのでしょうか。ゼカリヤは続けてこう記します。
『エルサレムを攻撃するもろもろの民を、YHWHは災いをもって撃たれる。すなわち彼らはなお足で立っているうちに、その肉は腐れ、目はその穴の中で腐れ、舌はその口の中で腐れる。
その日には、YHWHは彼らを大いにあわてさせられるので、彼らはそれぞれ隣り人を捕え、手をあげてその隣り人を攻めるであろう』。(ゼカリヤ14:12-13)

この同士討ちと『YHWHが知る日』の『夕暮れに光がある』とは、ヨシュアの大勝利と「ハルマゲドンの戦い」とを結びつけるものと言え、終末でのキリストと聖徒らの大勝利を暗示していると言えるでしょう。そして、その日を知るのはただ神お一人であられ、王キリストに征服の命令を下される時、その決定的な日を定められることでしょう。

黙示録では、神の怒りの第七の鉢が『大気に注ぎ出された』ときに『起ったことがなかったほどの地震が起り』『大いなるバビロンは神の御前に思い出され』『島々はみな逃げ去り、山々は見えなくなった。また一タラントの重さほどの大きな雹が、天から人々の上に降った』とあり、カナン軍と戦うヨシュアと、終末の地震を予告するゼカリヤとを結んでいます。(黙示録16:17-21)約26kg

終末のこの場で、救われるべき信仰を表すことになる世の人々は、神YHWHへの信仰を表したカナン人の街ギベオンのようであり、元々は罪ある異教徒であることは変わらないとしても、同じように終末に於いて、天のイスラエルが世を征服するために近付いてきた時には、信仰を働かせて自ら悔い改め、YHWHの側に着くことでしょう。
それは、キリストの前で右側に羊として分けられ、神の王国に入る事を意味します。そうであれば、終末のシオンの人々は、反キリストに集められる大軍勢が攻め立てるといえども、キリストと聖徒たちが救出のために急遽進軍し、大勝利を収めることを信じることができます。(テサロニケ第一3:13)

まさしく「真のイスラエル」によって、終末のギベオン人を救い出すために、全軍が徹夜で行軍したように、また丸一日勝利のために陽が沈まないような強大な奇跡を人々は目にすることになるでしょう。
預言者ミカも、それが出エジプトに際して、神が紅海の海水を二つに分けてイスラエルをエジプト軍から救ったあの大いなる奇跡に匹敵する事柄が再び起こり人々はそれを目にすると記します。(ミカ7:15-16)

さて、この大患難の始まりを画する戦いの後にこの世がどうなるかについて知らせるものに「黙示録の四騎士」があります。
それは天界に挙げられた使徒ヨハネが最初に見た終末への謎の啓示であり、子羊が開く七つの封印の最初の四つに当たります。(黙示録6:1-)
キリストを表す子羊が第一の封印を解くと、白い馬とそれに乗った騎手が現れます。
この者は弓で武装していますが、冠が与えられ、『征服のうえに征服を重ねるために出て行った』とあります。

次には第二の封印が解かれ、赤い馬とその乗り手が現れ、『人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きな剣が与えられた』とあります。

第三の封印が解かれると、黒い馬とその乗り手が現れますが、この騎手は天秤を手に持っていて『小麦一コイニクスは一デナリ。大麦三コイニクスも一デナリ。オリーヴ油とぶどう酒は損なうな』との声が聞えます。(1コイニクスは約1リットル、1デナリは日当)

第四の封印が解かれて現れるのは、青白い(病的な)馬であり、その乗り手は『死』(タナトス)と呼ばれ、その後を『墓』(ハデース)が追走しています。

これら四つの騎馬について『彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、剣と、飢饉と、死と、地の獣らによって人を殺す権威が与えられた』と黙示録は述べます。

これらの四騎士の中では、『人々が互に殺し合う』という「ハルマゲドンの戦い」を示唆する赤い騎馬について、やはり『地上から平和を奪い取る』とあります。
この赤い騎馬が、同士討ちの「ハルマゲドンの戦い」を指すものであれば、その後には食糧不足と疫病が続くことになるのは旧約聖書の故事に何度も描かれたところです。
『剣と飢饉と疫病』という三つの事柄は、旧約聖書中で繰り返し、軍隊に包囲されて終わりを迎える都市の運命として語られています。(エレミヤ14:12/エゼキエル14:21)
ですから、イエスがエルサレムの滅びを予告した言葉の中でも、ローマ軍による厳重な攻囲の中でエルサレム市内がどれほど悲惨な状態に陥るかを語られていますが、そこで起こったことはまさに『剣と飢饉と疫病』でありました。(ルカ21:11,21)

これら黙示録の記述が書かれたのは、エルサレムの滅びが起ってから二十年も後の事ですから、その四騎士の場合は、ユダヤの体制の終わりを超えて、『この世』という世界の終りについて語られていると見ることは間違いではないでしょう。

そこで「ハルマゲドンの戦い」に敗れた『この世』がその後どうなるかの様子がこれらの騎馬に知らされていることになります。
キリストと聖徒たちに敗れたこの世の体制は、権力を著しく失って『山々も消える』つまり政府として成り立つことにも危機が訪れていることでしょう。
この段階での人々の切実な想いをイエスはこう語っていました。
『人々は、その住む全地を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失う。天の万象が揺り動かされるからだ』。(ルカ21:26)
そこでは、それまで神の王国に強硬に反対していた無信仰な人々にも、キリストが来臨していることは認めざるを得なくなるに違いなく『そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを人々は見る』とルカ福音書は続けて記しています。

確かに、国々が同士討ちをしたのであれば、貿易を介した便利品の流通も製造も、食糧の輸出入サイクルも失われることも想定しなければなりません。今日の世界の生活がどれほど貿易に依存しているかは言うまでもないことですが、諸国の関係が失われて、経済活動だけは回り続けると期待する理由がありません。おそらくは、平常時のような生活は出来ないことでしょう。
人々が生活の糧を求めて食料品の価格は高騰し、日当で一日の食糧を確保するのがやっとの日々となるのでしょう。そのうえ社会が機能を果たせなくなってゆくなら、人々が仕事によって給与賃金を得るシステムそのものさえ危うくなり、生活が逼迫することも考えなくてはなりません。

では、神の民とされた人々の境遇はどうなるのでしょうか。
おそらくは影響をまったく受けないとは言えないでしょうけれども、何もない荒野で数百万のイスラエル民族を四十年に亘って奇跡の食物『マナ』で養ったのであれば、またイエスが『天の鳥を見よ』と言われたからには、神を持たない人のように絶望する理由もないことでしょう。(申命記8:3-5/マタイ6:26)
この点で、預言者エリヤは、天が閉ざされ干魃が続いた間、フェニキアのザレファトの地に住む困窮し切った寡婦の家に身を寄せ、かえってその親子を救っています。贅沢などは到底できませんが、不思議に食物は絶えることがありませんでした。この世に在っては意識しないことですが、わたしたちの生活を支えるのは、自分たちの働きである前に、すべてを存在させた神であることを知る必要があります。(列王第一17:12-16)

この食糧危機の後には、第四の騎馬が現れ、人々の間に疫病が蔓延し始めるのでしょう。
この災厄が決定的な神の裁きをもたらすことは、第四の青白い馬の後を『墓』が追っていることから明らかです。

しかし、神からの疫病という災厄は、『神の民』の一人一人をまるで『奥の間』に匿うかのように選択的に臨むのかも知れません。そうであれば、救われる人々は実際のシェルターを必要としないでしょう。
詩篇にはこうあります『あなたの傍らに一千人が、あなたの右に一万人が倒れるとしても、それがあなたを襲うことはない。
あなたの目が、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみとなる。
あなたはYHWHを避難所とし、いと高き神を住まいとした。
あなたには災難も降り掛かることがなく、天幕には疫病も触れることがない』。(詩篇91:7-10)

この世が自壊してゆく中で『神の民』はそのように象徴的な「保護の奥の間」に隠されることになるのでしょう。
『さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。激しい憤りが過ぎ去るまでしばらく隠れよ』とイザヤ書にはありますが、それは隣人に差別的に振る舞わせるという意味ではないことでしょう。そうしなくても守られるという信仰こそがその人を利他的にさせ、キリスト教本来の『隣人愛』を行わせることでしょう。
そうでなければ、秩序を失った『この世』の醜いありさまのまま、自分だけは救われようとして、かえって滅びに価する利己的な資質を見せてしまいます。

この状況を使徒ペテロはこう書いています。
『主の日は盗人のようにやって来る。その日、天は激しい音を立てながら消え失せ、天の万象は焼け落ちてしまい、地とその業とが暴かれてしまう』。(ペテロ第二3:10)
これは、『天』で表されるそれまでの人間の支配であった政府が無力となり、地上には無秩序と混乱が蔓延して、人間に宿る「アダムからの罪」が露わにされて、その闘争性や利己性がどれほど醜いものかを暴かれ思い知らされるということなのでしょう。
しかし、神を知る人は、もとより『罪』こそ人の悪であることを教えられているので、信仰がないかのように、無秩序な悪行に同調することもないはずです。

さて、黙示録はこうした四騎士の災い記述の終りに、『彼らには、地の四分の一を支配する権威、また、剣と、飢饉と、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが与えられた』と結んでいます。(黙示録6:8)
青白い馬の後をついて来た『墓』が、同じ個所で『地の獣』に変えられているのは、死にゆく人々の墓が野獣たちの腹の中となることを暗示するのでしょう。
実に、「ハルマゲドンの戦い」で戦死する人々を黙示録では鳥たちがついばみ、エゼキエル書ではその食事に野獣も加わっています。(黙示録19:17-18/エゼキエル39:17-18)

また、『地の四分の一』というのが、滅ぼされる範囲を指すのか、それぞれの災厄が地の四分の一に臨み、白馬の騎士の分の四分の一だけが救われるのかは分かりません。
もし、白馬の騎士の管轄する『地の四分の一』が救われるのであれば、この第一の騎士はキリストを表すことになります。
しかし、この白馬の騎士がキリストを指すのか、反キリストの人類連合軍の出撃を指すのかについては、はっきりとしていませんが、終末には聖霊を持つ聖徒たちが明かしてくれる事柄なのかも知れません。
本書ではとりあえず、原始キリスト教の指導者たち、使徒ヨハネの薫陶に在った小アジアの教えに敬意を払い、白馬の騎士をキリストと想定することにします。

しかし、それで救われる人々が人類の四分の一であるかどうかは分かりません。
なぜなら、これら四騎士が現れた後になってもなお、人々が救われる可能性を聖書が語るからです。
そのような多大の寛容さを示したのは、まずほかならぬイエス・キリストであったのです。








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