FC2ブログ

ハルマゲドンに向かう世界

2020.12.24 (Thu)

『ハルマゲドン』という言葉に人々が何を思い描くかと言えば、人類の最後の戦争による世界の滅亡というイメージが広く定着しています。たいていの場合、描かれるのは破壊に次ぐ破壊でしょう。
オリジナルからして、黙示録という謎の書に現われ、この世の終わりに世界各国の軍隊が集まる場所の名として記される『ハルマゲドン』ですから、確かにそのように受け取られても無理もありません。

ですが、それはこの世がインフラも建造物もまったく破壊され、文明的な世界が終わるという、フィクションの主題にされているような大惨事と、黙示録が本来述べるところとは幾らか異なっています。
もちろん、聖書の『ハルマゲドン』に関する記述からすれば、それは「戦い」へと向かう状況を表す言葉ですから、確かに人間同士の軍事的衝突は避けられません。しかし、それはキリストの予告された終末も終わりの時期に起こる未曾有の災厄の中の一つではあるものの、それですべてが終わるわけではなく、むしろ『この世』という永遠盤石に見えた「巨大な体制」が、多くの人々の予想に反して自壊に向かうきっかけをつくるものです。

『ハルマゲドン』に集められた諸国の軍同士の戦いが始まる前に、忠節を守った聖徒たちが天界に集められ、キリストを『隅の親石』として彼らによる天の神殿建設と、『神の王国』の支配の準備が進むなか、地上では、偽キリストと脱落した元聖徒らの支配と崇拝が固められていることでしょう。天と地の二つの王国はいずれ対決が避けられません。

地上に対するキリストの業としては、信徒たちの『騎兵隊』の活動が見られるだけでなく、祭政の世界秩序を手中にした『不法の人』である偽キリストの支配と崇拝には、それが正しくもなく、善くもないものであることを示す凶兆が『神の怒りの七つの鉢』に込められ、地上を治める者、『野獣の数字を持つ者ら』に害悪が注がれ始めることになります。それは偽キリストによる地上支配について、人々の熱狂に水を射し、疑念を起こさせるものとなることでしょう。人々に何と唱えられようと偽キリストの支配は決して「神の王国」にはならないのです。

その一方で、黙示録も第16章の『怒りの鉢』の場面には、もはや地上に聖徒の宣教活動は見られません。むしろ彼らは天での祭司団としての祭儀を開始する用意が整っています。
そのため、黙示録では『キリストの権威が実現し』て後、天界の幕屋から七人の天使がそれぞれに神の怒りを満たした鉢を持って現れる場面となり、地上の偽キリストの支配のもろさが次々に知れ渡ってゆきます。
この間『聖所は神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、それら七人の御使の七つの災いが終ってしまうまでは、だれも聖所に入ることができなかった』とあります。(黙示録15:8)

このように視界が妨げられて崇拝儀式がしばらく行えなかった事例が旧約聖書に二回書かれています。
一度目は、エジプトからシナイ山麓に逃れたイスラエルが、モーセがYHWHの言葉に従って崇拝の準備を完了し、いざ、『会見の天幕』での奉仕を始められる状態となった時に、雲がわき起こって視界が遮られ、神との会見を続けて来たモーセですら天幕の中に入ることができませんでした。(出エジプト40:33-34)
このことは、後にソロモン王が第一神殿を建立し、祭司団が最初に祭儀に取り掛かろうとしたときにも起ったことです。(歴代第二5:13-14)

そして、黙示録はここに於いて、天界の崇拝奉仕の準備が整ったことを同じように視界を妨げる煙によって暗示しています。つまり、天の大祭司であるキリストと、それに従う祭司団がそろったことを意味します。
そのため、召されるべき聖徒は一人として地上に残されておらず、今や、その権能が発揮される直前にあるのですが、地上では相変わらず『背教』した脱落聖徒らの地上支配が行われていて、多くの人々が生ける偶像である『野獣の像』を崇拝してしまい、その印である『666』の印を右手や額に受けて洗脳されてしまっていることでしょう。『666』とは、つまり完全なものを決してもたらさない偽物です。(黙示録13:15-18)

しかし、天の幕屋から現れ出た七人の天使らが、それぞれの鉢から『神の怒り』を注ぐと、偽キリストが治める世界の不完全さが次々に暴露されてゆくので、人々には悔い改める機会がさらに開かれることでしょう。
地上では大権持った頭目となり、今や神を自称して世界の王として振る舞う『不法の人』からすれば、それらの凶兆を打ち消し、人々には認めさせたくないことでしょうし、なんとしても目障りな信徒の集団には自分への崇拝を強要させるか、さもなければ処刑してしまいたいことでしょう。
そこで、彼は遂に『荒らす憎むべきもの』の『荒らす』、つまりこの世の滅びを招く決断に走ることになります。

そのことを、旧約の預言者エゼキエルは『マゴグの地のゴグ』の決断として描き出します。(エゼキエル38:1-)
『あなたはわが民イスラエルに攻め上り、雲のように地を覆う。ゴグよ、終りの日にわたしはあなたを、わが国に攻め来らせ、あなた(の敗北)を通して、わたしの聖なることを諸国民の目の前に表して、彼らにわたしを知らせる』。(エゼキエル38:18)

このゴグのイスラエル攻勢の結果についてはこのように書かれています。
『わたしはゴグに対し、すべての恐怖心を呼び寄せる。あらゆる者の剣は、その同朋に向けられる。わたしは疫病と流血とをもって彼を裁く。わたしはみなぎる雨と、雹と、火と、硫黄とを、彼とその軍隊および彼と共にいる多くの民の上に降らせる。そしてわたしはわたしの大いなることと、わたしの聖なることとを、多くの国民の目に示す。そして彼らはわたしがYHWHであることを思い知るであろう』。(エゼキエル38:22-23)

そしてこの大敗北が、ほかの預言者たちによっても以前から語られていたことに神YHWHは注意を向けさせてこう言われます。
『わたしが昔、わが僕イスラエルの預言者たちによって語ったのは、お前の事ではないか』。(エゼキエル38:17)

その通り。この世の終りに際して神が諸国民を徹底的に裁き、世界が神の憤りに飲まれることは、イザヤ、ミカ、エレミヤ、ヨエル、ゼパニヤなども揃って語るところでありました。
特にヨエル書では、神に反抗する人間の連合軍の大敗北を、かつてのユダ王エホシャファトの大勝利になぞらえています。

それは、エゼキエルの預言した前6世紀より250年ほど前に起った事件を題材にして、さらに終末をも予告した二重の預言で、預言者ヨエルはエホシャファト王の時に起った事が終末にも起きると語っているのです。

エホシャファト王は、YHWHに信頼を寄せる善王でありましたが、あるとき近隣諸国の連合した大軍勢に攻め込まれる事態が発生してしまったのです。(歴代第二20:1-3)
民も王も、対抗する力も策もなく、ただYHWHの前に謙るばかりでしたが、律法契約に忠節さを見せる者に忠節であるYHWHは、この善王の危機に際して、一人のレヴィ人に霊感を与え『この戦いでは、あなたがたは戦うに及ばない。ユダおよびエルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられるYHWHの勝利を見なさい。恐れてはならない。おののいてはならない。明日、彼らの所に攻めて行け。YHWHはあなたがたと共におられるからである』と叫ばせます。(歴代第二20:17)

この神からの返答に信仰を働かせた王と民と共に、神殿合唱隊のレヴィ族が深い感謝を込め、例のないほどの大声を張り上げてYHWHを賛美して歌い出ました。(歴代第二20:18-19)
翌朝、ユダの軍隊は異例にも、そのレヴィ族合唱隊(おそらく288人)を軍の前に配置し、神への信仰を剣とも盾ともして進軍を始め、合唱隊が『YHWHを賛美せよ!その忠節な愛はとこしえに及ぶ!』と「賛美の詩篇」を歌い出すと、敵軍は混乱を起こして同士討ちを始めてしまい、エホシャファトの軍が敵軍を発見したときには、そこに生き残っている者を見なかったのでした。

ユダの人々は、敵の大軍勢から物資をはぎ取ってゆきましたが、一日では終わらず、二日でも終わらず、三日を要する大収穫となり、やっと四日目になって、その谷に国民が集合してYHWHへの感謝が捧げられるのでした。
それで、その場所は『祝福(ベラカ)の谷』と呼ばれ、神YHWHの民への善意を記念する場となったのです。

後の預言者ヨエルは終末に起るべきことを、このエホシャファトの勝利になぞらえて語り、『諸国民をふるい立たせ、エホシャファトの谷に上らせよ。わたしはそこに座して、周囲のすべての国民を裁く』と預言しています。(ヨエル3:12)
しかも、神はそれらの軍勢に加わるように諸国民を促しさえするというのです。
『諸国民の中で宣べ伝えよ。戦いの備えをさせ、勇士をふるい立たせ、兵士をことごとく近づかせて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌を槍に打ち替えよ。ひ弱な者にも「自分は勇士だ」と言わせよ。周囲のすべての国民よ、急ぎ来て、集まれ』。(ヨエル3:9-11)

この預言に表れているように、神は諸国民を一気に裁くために、そのすべての軍勢を煽ってさえいます。
その結末と言えば、同士討ちによる壊滅であり、それはほかの預言者たちも異口同音に述べるところで、やはりエゼキエル書もその一つです。
エゼキエルの終末預言の特徴は、世界の軍勢に働きかけて、終末の『神の民』となっている信徒の群れへの攻勢を行わせるところの、強大な権威の持ち主としての偽キリストに焦点を合わせ、そこではもはや『マゴグの地のゴグ』との別の呼び名を与えて、その素性の一端を明かしているのです。

エゼキエル書に描かれる『ゴグ』は、『「わたしは無防備の村々の地に上り、穏やかにして安らかに住む民、すべて石がきもなく、貫の木も門もない地に住む者どもを攻めよう」と言う。そしてお前はかつて廃虚であったが、今は人の住んでいる国、諸国民のもとから集められ、国の中心の山々に住み、家畜や財産を持っている民に対して手を挙げ、戦利品を奪い、ほしいままに略奪しようとする』。(エゼキエル38:11-12)
『かつて廃墟であった』とは、まさに『シオン』であり、そのときには信仰を抱いて集まってきた信徒たちによって賑わい、『家畜や財産』に恵まれていることでしょう。

この『マゴグの地のゴグ』に対する預言の言葉についていくつかの解釈がされていて、世界に終わりが臨んだときには、現実のイスラエルの国を北から諸国が攻め込んで来るとキリスト教界で広く信じられています。
その原因は、この一連の預言の中でYHWHはこの『ゴグ』とされる人物が『北の果てから来る』と記されているところにあるのですが、旧約聖書を調べると『北の果て』の『場所』といっても、それが必ずしも実際の方角を示すものとも言えません。
例れば、詩篇の第48には『高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都』とあり、王座を頂くシオン山上のエルサレムを『北の果て』にあるものとしていますが、北緯23度しかないエルサレムを『北の果て』というからには、これは地理上の方向や場所を指してはいません。(詩篇48:2)
古代での『北の果て』である北極は、全天がそこを中心として回るという天の最上の座を指して、古代人の深い畏敬を誘っていたものです。聖書がそこで言う『北の果て』が、メシアの「世界を統べ治める王の御座所」として詠われているのは明らかなことです。やはり『ゴグ』は偽メシアなのでしょう。そして『マゴグ』という北にある彼の故地は脱落聖徒らの集団を指すのでしょう。(詩篇45:6)

そこで、やはりエゼキエルがゴグが『北の果てから』攻めて来ると語ったとき、このような古代人の観点を考慮にいれないわけにはゆかないでしょう。
そうであれば、ゴグとは至上の権威の座に在ることを想定するべきことになり、それゆえにも、諸国の連合軍を集めて動かすことができるだけの立場が説明できます。
そして、世界人類を統治するほどの至高の座こそ、悪魔が切に求めていた地位でもあったのです。(イザヤ14:13-14)
終末に至り、悪魔サタンは偽キリストであるゴグという生きた偶像を介して、その人類連合への命令権を手中にしたと言えるでしょう。
まさしく、『マゴグの地のゴグ』とは、パウロが語った『神殿に座し自分を神として示す』絶大な指導者、つまり『不法の人』であり、この時に至れば、この世をまるごと神と敵対させて滅ぼすきっかけを作る『荒らす憎むべきもの』としての悪魔の代理の本性を発揮するでしょう。

そこで黙示録は、諸国の軍を集める指令の出所を明かしてこう述べています。
『また見ると、龍の口から、獣の口から、偽預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。
これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった。』(黙示録16:13-14)

確かに、ここには『ゴグ』、また『不法の人』の命令する姿は描かれていません。
しかし、『偽預言者』という単数で述べられる言葉の中に、すべての脱落聖徒らが含められているとすれば、その全体についてエゼキエルが『マゴグの地』と呼び『ゴグ』と二種類に分けていたと考えることはできるでしょう。つまり、脱落聖徒全体の集団を表す『マゴグの地』と、偽キリストを指す『ゴグ』であり、黙示録は『偽預言者』という一言にそれを集約しているのであり、そこでは誰が号令を下すかではなく、その意志の源と、それが悪魔の体制に広く一致して出される点に理解を向けています。

その世界を終わらせることになる攻撃の号令をゴグが下す前に、『龍』である悪魔と、今や並ぶものもない超大国となったキリスト教的国家、そして『偽預言者』である脱落聖徒の集団がそろってゴグを後押しすることになり、この世もろとも引き返すことが出来ない道に入ってゆくことでしょう。

さらに加えて、黙示録は有名な一言を加えます。
『それら三つの霊は、ヘブライ語でハルマゲドンという場所に王たちを集めた』。(黙示録16:16)

この『ハルマゲドン』という言葉は、俗に「世界の破滅」を表すものとして独り歩きを始めてしまっているようなところがありますが、この言葉そのものは場所を指し、戦いの性質を暗に表すもので、自然からの大災害で地球や人間の文明がまったく破壊されてしまうということではありません。
ここで『ハルマゲドン』とされる場所は、今のハイファの街に近いパレスチナの海岸沿いにある、カルメル山が地中海に落ち込むように見える切り立った難所があるために、道が非常に狭くなり軍隊の行進が阻まれるので、どうしてもそこを迂回する必要が生じて、五キロほど内陸の地点を通ることになりますが、その要衝となる場所を指します。
そこはエスドラエロンという平原を見渡す場所で、「メギド」と呼ばれる小山があります。『ハル』とは「山」でありますから、『ハルマゲドン』とは「メギドの山」と言う意味ではあります。

但し、それはただの小山以上の意味があります。そこの場所の地形から要塞が築かれ、古来から軍隊同士の決戦の地となって、「勝敗の決定的に分かれる戦いの場」という意味がこの『ハルマゲドン』の言葉に込められています。
まさしく、終末のこの世と神の王国との決戦も、勝敗のまったく分かれるものとなるのは目に見えるようですが、偽メシア『ゴグ』に惑わされた人々には、むしろ、現実世界を掌握している自分たち「地上の王国」に圧倒的な分があると思えることでしょう。

そして、やはりエゼキエル書でもゴグの軍勢の壊滅が描き出されています。
『あなたはわが民イスラエルに攻めのぼり、雲のように地を覆う。ゴグよ、終りの日にわたしはあなたを、わが国に攻めきたらせ、あなたを通して、わたしの聖なることを諸国民の目の前に表して、彼らにわたしを知らせる』。『わたしはゴグに対し、すべての恐れを呼びよせる。すべての人の剣はその仲間に向けられる』。(エゼキエル38:16.21)

この世の連合軍が同士討ちで壊滅することは、後の預言者ゼカリヤも繰り返し告げるところで『その日には、YHWHは彼らに恐慌を起こされるので、彼らはおのおのその隣り人を捕え、手を挙げて互いを攻める』と記しています。(ゼカリヤ14:13)

それは、あのエホシャファト王を大軍勢で攻めた諸国の連合軍の結末を思い起こさせるもので、やはり、その故事を終末の予告として語るヨエルはこう預言を続けています。
『鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ、酒ぶねは満ち搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい。
裁きの谷には無数の群衆が集まっている。YHWHの日が裁きの谷に近づく。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
YHWHはシオンから雄叫びを上げ、エルサレムからその声を轟かす。天も地も震え動く。しかし、YHWHはその民には避難所、イスラエルの人々の要害である。』(ヨエル3(4):13-16)

エホシャファト王の戦わない勝利によって、運ぶのに三日を要する戦利品をもたらし、神はそうしてユダの国を祝福しましたが、エゼキエルもゴグの軍勢の壊滅についてこう預言しています。
『イスラエルの町々に住む者は出て来て、武器すなわち大盾、丸盾、弓、矢、投槍、および長槍などを燃やし、また焼き、七年の間これらで火に燃やす。彼らは野から木を取らず、森から木を切らず、武器で火を燃やし、自分をかすめた者をかすめ、自分の物を奪った者から奪うと、主なる神は言われる』。(エゼキエル39:9-10)
おそらくは、同様にシオンの民も戦わずに守られ、諸国民の残された物を活用することもあるのでしょう。

そして黙示録第14章では、キリストの初臨でユダヤの体制が二つに裁かれたように、終末に二つの収穫があることを次のように記します。『見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠を戴き、手には鋭い鎌を持っていた。すると、別の天使が神殿から出て来て「鎌を入れて刈り取ってください。地の収穫物は実り、刈り取るべき時がきました」と叫んで言った。雲の上に座している者は、その鎌を地に突き入れた。そして、地の収穫物が刈り取られた』。(黙示録14:14-15)

こうして終末の穀物の収穫が終わると、もう一人の鎌を手に持つ天使が現れ、『その鋭い鎌を地に入れて、地のぶどうの房を刈り集めなさい。ぶどうの実はすでに熟しているから』と叫ぶ声がありました。
『そこで、御使はその鎌を地に突き入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。
そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどの深さになり、一千六百スタディオン(約288km)にわたって広がった。』(黙示録14:18-20)

これら黙示録の相次いで行われる刈り取りは、小麦とブドウの収穫を表しているのでしょう。
パレスチナでは、夏の前に小麦の収穫は終わり、それから初夏にかけてブドウの摘み取りがあります。
『人の子のような者』が、小麦である『聖なる者たち』を集め終わると、次にはブドウの収穫時期となっています。黙示録はブドウをしぼり汁を『血』になぞらえ、終末のこの世に臨む小麦とブドウの二つの裁きの収穫を予告しているのです。それがつまり、是認と呪いの二つの収穫です。

このように聖書は、世界に起きる神の裁きという一大事に焦点を合わせて語り、神と人との最終的な対立の始まりに、つまりキリストの再臨でも『顕現』(エピファネイア)の始まりに当たって勃発する「ハルマゲドン」の戦いを知らせています。
それは神が王キリストをシオンに立て、実力行使を行わせる時の始まりとなるので、世界はたいへんな衝撃を受けることでしょう。
そのため、この世は無防備な信徒の群れに圧勝できると思い込んでいたにも関わらず、まったくの敗北を被り、かつてエルサレムの滅びについて語られた言葉『そのとき、人々は山に向かって、我々の上に倒れかかれと言い、また岡に向かって、我々に覆いかぶされと言い出す』との預言の引用は、黙示録の中でもう一度繰り返されます。

『天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった。
地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。
そして、山と岩とに向かって言った、「さあ、我々を覆って、御座にいます方の御顔と小羊の怒りとから匿ってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。その前に誰が立つことができようか」』(ルカ23:30/黙示録6:14-17)

もはや、世界はキリストの見えない来臨をその心の目ではっきりと『見る』ことになるでしょう。
つまり、自分たちの大敗北を通して『人の子が、天の雲と共に来るのを見る』ほかありません。それは強制的に見させられることで、刑の執行はすでに始まっているのですから、そのようにしてキリストの再臨を認めざるを得なくなることは、それだけ不信仰であったことになりますし、神を見出すことでは最悪の方法です。(マタイ26:64)

加えて、『偽キリスト』つまり『ゴグ』また『不法の人』にも最期が臨むことをパウロは『キリストはその顕現によって彼を無に帰させる』と述べています。つまりそれは創造物としての『魂』の喪失であり、永遠の無存在に去って行くことを意味します。おそらくは神に逆らって軍に加わった確信的な人々の死についても、復活の無い「永遠の死」を遂げるのでしょう。
それですから、終末の裁きと言うものを、誰であれ軽く考えたり、侮ったりすべきではありません。

では、これを読む皆さんが終末に直面するとしたら、それぞれにどう振る舞うのでしょうか。
もし、ここに書かれた情報がまるで的外れでなく、一定の真相が込められているとすれば、それは『人の心にも上らない』聖書の秘儀に触れたことになり、聖書が警告する「終末」という、短くも未曾有の大変化の起こる時期への心の準備になるところもあるでしょう。とは言え、それで悪魔の誘惑にうまく対処できるかどうかは別問題です。アダムも禁断の木の実を食べることの害は知っていたのですから、より必要なのは知識に勝るものと言えます。(テサロニケ第二2:8/マタイ25:41-42)

さて、『ハルマゲドン』の戦いの後でも、未曾有の大患難はそのままに続きます。もはや強大な政府も地上のメシアもなくなり、人間社会の支配機構としての権力である『天が巻物が巻かれるように消える』にしても、まだ地には多くの一般の人々が残されています。『天』で表される人間社会を治める権力機構が無力となった後、いったい世界はどんな姿を見せるのでしょうか。その中で信徒たちはどうなるのでしょうか。






関連記事

終末のイナゴと騎兵隊

2020.12.23 (Wed)


キリストの再臨によって『終わりの日』が到来すると、アダムの子孫である人類は『この世の裁き』に直面し、一連の格別な物事が次々に起ってゆくことを聖書は明かしています。旧約聖書の数々の預言や古代の出来事にも、新約聖書のイエス・キリストの言葉の数々にも『この世の終り』について焦点を合わせたものが随所に存在しているので、あの黙示録であってもそれら数々の終末の情報へと注意を促す「索引」のようにさえなっています。

さて、ここで『イナゴ』について述べるのは、やはり旧約の「預言者たち」の一つ、ヨエル預言書に書かれた、植物を食い尽くし、無数の群れをなして空を暗くするあの昆虫のイナゴを象徴とし、重要な予告となって後の使徒時代に一度成就した事柄と、それを通してさらに終末に起る事柄を予告しているところに注意を促すためです。

このヨエルの預言は、その第一の成就を記す使徒言行録なくしては神意を探れるものではありませんので、新約聖書を認めないユダヤ教には隠されたままですが、さらにもう一度の成就が終末にあるなら、それを知らせる黙示録の難しさのため、キリスト教界からも隠されたまま終わるのかも知れません。

『イナゴ』によって示された異象の意味を結論から言えば、『イナゴ』で表わされる「聖徒たちの働き」を表しています。
しかし、黙示録は、ヨエル書にイナゴと共に書かれたもう一つの要素である『軍馬』から、使徒時代には起っていない別の「軍馬」によって構成される『騎兵隊』の存在をも描き出しています。
ですが、その黙示録にある『二億』にも上る数の『騎兵隊』が何を指しているのかは、実際、今日のキリスト教界からも隠されたままに記述だけが存在してきました。

では、まず黙示録の第九章から「終末のイナゴ」について語るところを見てみましょう。
『第五のラッパ』が吹かれると、天から一つの星が舞い降り、地の下の『底知れぬ深み』にまで入ってゆき、牢獄の鍵を開けることになります。(黙示録9:1-3)

すると、かまどの濃い煙が立ち上って天を覆い、異様な姿の無数の蝗が現れては、すべての人々に苦痛を与えることになります。
黙示録9章はこう描きます。
『その煙の中からイナゴが地上に出て来たが、地のサソリが持っているような力が彼らに与えられた。
彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木を損なってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。彼らは、人間を殺すことはしないが、五か月の間苦しめることは許された。彼らの与える苦痛は、人がサソリに刺される時のような苦痛であった。その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行く』。(黙示録9:3-6)

これら、終末のイナゴについては木々を損なう実際のものではなく『額に神の証印の無い人々だけを害する』とあります。
しかし、『人々を殺さず』とあるように、これらのイナゴにはサソリのように人々を害するにしても殺すまでには至りません。
これらのイナゴが、なぜすべての人に苦痛を与えるかと言えば、アダムの子孫である人々にはもれなく『罪』というものがあり、神の前には『罪人』であることを告発するからなのでしょう。
人間が、どれほど道義的に振る舞おうと、貪欲と争いから抜け出ることは出来ません。戦争はおろか犯罪も無くせず、隣人とさえ問題なく過ごす保証もないのですから、理想世界を描いてもけっしてそれを実現できない理由が自分自身の中に在るのです。そのように人間が自らの問題を取り除けないのであれば、どれほど社会を良くしようとしても、その努力が本当に実を結ぶには至りません。また、これを知らされるということは、人間社会の重苦しい限界を認めることにもなりますから、人間の叡智を信じたい人々や政治に邁進し日々努めている人々は、人間の本質の暴露に反発することもあるでしょう。

これらの激痛を与える「終末のイナゴ」の正体については『額に神の証印の無い人々だけを害する』という言葉に現れています。
なぜなら、これらのイナゴには、仮のものながら聖霊の注ぎによって『額に神の証印がある』と言え、キリストからの『義』を分かち与えられているので『鉄の胸当て』を着け、義なる良心を保っていると言えるでしょう。その『義』なくして『罪』あるどんな人間にも『この世』を糾弾する資格などないからです。ですから、イナゴたちは自分たち以外のすべての人を襲うことでしょう。(黙示録9:4・9/ローマ8:33)
また、これらのイナゴに『金の冠』があるのは、彼らがキリストと共なる王権の相続者であることを明かし、女のように長い頭髪は、キリストという夫を持つことになる婚約の身を指すのでしょう。

こう捉えると、これら世の真実を暴くイナゴが『聖徒』であるとの理解の扉は大きく開かれることになります。
その活動領域は第一世紀のいなごの範囲であったユダヤ体制を越えて、全世界に行き渡るものでしょう。

では、かまどの煙のように現れるイナゴを解き放つところの、地底の牢獄の鍵を開けることになる、地に降りた『星』とは、キリストなのでしょうか。
黙示録での『底知れぬ深み』の用例はいくつか有り、特に17章8節の『昔はいたが、今はいない、だが、やがて底知れぬ所から上って来る野獣』についての句は、『底知れぬ深み』が『昔』と『今』という時間の大きな隔たりを指していることを教えます。
黙示録に描かれるその暗く不気味な印象からは想像しにくいところですが、使徒時代が過ぎ去り、古代の聖霊降下が終わって後、今日まで千八百年ほどのキリスト不在の時期が続いて来たことからすれば、再び聖霊を注いで遠い過去から呼び出すかのように、新たな聖徒たちを任命することは再臨のキリスト以外に出来るものではありません。

では、『底知れぬ深みの鍵を開ける』天からの『星』が解き放つ『イナゴ』は、以前にも存在したことのあるのでしょうか。
まさしく、聖霊が降ったその日に、使徒ペテロが先頭に立って、聖霊によって異国の言葉を話している弟子たちの上に預言者ヨエルの言葉が成就していることを証していました。つまり、聖霊が老若男女、奴隷や下女にまで注がれるという預言であり、その預言書は『イナゴ』の害がイスラエルを襲うことについても述べるものであったのです。(使徒2:1-24/ヨエル1:2-4)
『それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民がいて、山々の上を暗闇のように覆う』。『火は彼らの前を焼き、炎は彼らの後に燃える。彼らの来る前には、地はエデンの園のようであるが、その去った後は荒れ果てた野のようになる。これを逃れるものは一人もいない』。(ヨエル2:2-3)

イエスが去った後、聖霊を受けた弟子たちは、あのペンテコステの日以来、ユダヤ体制が、現れたメシアを退けてしまったことを暴露し始め、神は彼らに奇跡を行う賜物を送ってその業を支えられました。それはユダヤの宗教家らには痛みを与えるものとなりました。それは体制派がメシアを殺めたことを、残された弟子らによって聖霊の奇跡が行われるほどに、彼らの良心を苦しめるものとなり、その結果、神の是認から離れたユダヤ体制には破滅と荒廃に向かう以外の道は残されなかったと言えます。(使徒5:28)
ですから、第一世紀にイエスの後に残された弟子たちの活動は、ヨエルの予告したイナゴのように、ユダヤの体制を象徴的に食い尽くしていったということができます。(ヨエル2:7-11)

加えてヨエルは、イナゴの姿をこう描写します。
『その姿は馬のようで軍馬のように駆ける。山の頂を駆け巡って戦車のような響きを立て、わらを焼く炎のような音を立てる。これは戦いの備えをした強大な民のようだ』。(ヨエル2:4-5)

このヨエルの預言を後の黙示録が踏襲していることは、『これらのイナゴは、出陣の用意の整えられた馬によく似ている』と同じように述べているところに明らかです。(黙示録9:7)

つまり、第一世紀のキリストの死の後に聖霊によって現れ、その殺害の罪を暴露した聖徒たちの活動は、再臨のキリストにより『底知れぬ深み』という永い時間の隔たりをも越えて再び導き出されるということであり、終末にもう一度聖霊が注がれることを明かすものとなっています。

しかし、終末でのイナゴは人々に痛みを与える間の『五カ月』という、イナゴ本来の寿命を終えると、人々への痛みを与える業を止め、みな去ってしまうことも黙示録は示唆し、以後、これらのイナゴは黙示録に登場しません。(黙示録9:5/ナホム3:16-17)
これは聖徒たちが聖霊の言葉を終末に三年半語った後に、天界に召されて去ってゆく姿を、イナゴという現れては消えて行く昆虫に例えて示しているかのようです。(黙示録11:12)

しかし、黙示録では使徒たちの時代とは異なり、聖徒たちが去った後に、「イナゴに似た別の民」が、同じようにこの世を攻撃する姿を描いています。終末の聖徒たちである「イナゴ」が、『ライオンの歯を持ち』『さそりに似た尾があって』それがすべて『罪』ある人々に苦しみを与えたように、新たに現れる「イナゴに似た別の民」たちの姿も、それによく似て居るのです。

その新たな者たちについて黙示録のヨハネは『第六のラッパが吹かれた』後に何が起るかについてこう述べます。
『騎兵の数は二億であり、わたしはその数を聞いた。
わたしは幻の中で馬とそれに乗っている者たちを見たが、その様子はこうであった。彼らは、炎、紫、および硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭はライオンの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とを吐いていた。
その口から吐く火と煙と硫黄という三つの災いで人間の三分の一が殺された。』(黙示録9:16-18)

イナゴが去った後に突然現れるこれらの騎兵隊について、黙示録はどこからどのように現れるのかを示さず、ただ、「ユーフラテス河畔に囚われていた四人の使いが解かれた」ことだけを告げています。
これは『大いなるバビロン』からの解放を暗示していること、また去って行ったイナゴと密接な関係にあることが明らかではあります。

つまり、旧来の宗教から出て来る人々から、これら『二億』にも上る数の出所が示唆されていると言えるでしょう。
彼らの行動は、『人間の三分の一が殺された』という結果をもたらすというのです。
この『三分の一』が、社会を構成する「政治」、「経済」のほかの「宗教」を指すとすれば、バビロン河畔からの解放が有って後の事として、人々が宗教を責めるとすることには整合性があることになります。

かつて神を崇拝すると唱えるイスラエルの民にこう預言されていました。
『この民は、口でわたしに近づき唇でわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、人間の戒めを教え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねてこの民を驚かす。賢者の知恵は滅び聡明な者の分別は隠される。』(イザヤ29:13-14/マタイ15:9)
この言葉は聖霊の言葉により終末にも力を及ぼすことでしょう。
黙示録の際立った樹木、海の生き物と船、川と水の源、天の光明のそれぞれ『三分の一』が損なわれ、この世に以前から権威を持ってきた知恵も賢さも崩れています。もったいぶった宗教家たちの教えの無益さが暴かれ、むしろ、殺人の汚名を受けるばかりです。(黙示録8:4-12)
イナゴは誰をも殺しませんでしたが、次に現れる騎兵隊が『人間の三分の一が殺す』というのは、その『三分の一』に属する人々を断罪し、聖徒を実際に殺めさせた事を責めて、『血』の責任を問うことになるからでしょう。

これら騎兵の馬も、先に現れたイナゴに似て、ライオンの頭、ヘビのような尾を持ち、通り過ぎるときに人を害するところは同じです。つまり、その口から発せられる音信に人々が否定的に反応するなら、害を受けるのであり、イナゴと違って後の騎兵の攻撃には致死性があります。人類一般の『罪』を指摘する以上の、実際の『血の罪』、やはり聖徒殺害の応報を告げるからでしょう。

しかし、これらの馬の乗り手である「騎兵」そのものについてはその害を受けないのでしょう。なぜなら、彼らは『火のような赤、煙の紫、燃える硫黄の色の胸当てを着けている』のですが、これらが火と煙と硫黄とを表している以上『ゲヘナ』に対する防御を備えていること、つまり、滅びに犯されない保護を受けていることを表していることになり、これはイナゴとは異なる装備です。

しかも、騎兵の馬のライオンの口からも『火と煙と硫黄』が吐き出されているのであれば、その音信には『ゲヘナの裁き』が込められていることになり、永遠の滅びをもたらすこれは重大事に他なりません。聖徒殺害の罪を負う宗教界は、これらの騎兵隊による暴露の攻撃を逃れられないことでしょう。それでも、『大いなるバビロン』を実際に処刑するのは、これら騎兵隊が行うものではなく、彼らが行うのは旧来の宗教に対する罪の宣告であり、それによって『大いなるバビロン』が滅びに面する時に、『二億』もの騎兵隊の告発行動により、宗教体制自身の悪の大きさを恥や自責の念とを以って悟らされることでしょう。

こうして、古代に記されたヨエルの預言書から使徒言行録、そして黙示録へとイナゴを追ってゆくと、終末の聖徒たちと、その業を受け継ぐシオンに集まる信徒たちの活動について、使徒時代を鏡に映すようにして観察することが出来ます。
これは、終末の『北の王』の崩壊の後の信徒たち、つまり彼らが『騎兵隊』となってどう働くかを知らせる極めて重要な情報というべきでしょう。
聖徒たちが、まだ地上に居た間に、迫害を受け窮境に陥った彼らに親切を示して、聖霊の言葉への信仰を表した人々については、イエスが言われたように『まさしく言う、わたしの弟子だという理由でこれら小さな者の一人に冷たい水一杯でも飲ませる人は、必ずその報いを受けないことがない』のであり、また、キリストの右に羊として分けられることになるでしょう。(マタイ10:40-42・25:31-36)

しかし、聖徒たちに善意を示してキリストの側に立つ機会は、彼らが天界に去った後にも、なお開かれていると考える理由はいくつもありますが、この『騎兵隊』に加わることもその開かれた機会の一つとなることでしょう。

終末の『北の王』の恐ろしい脅しを信仰によって耐え抜いた「シオンの民」には、聖徒を葬り去った元凶である宗教体制全体『大いなるバビロン』を告発し、そのあまりに重い罪を暴露する活動を行うための期間が聖徒たちの三年半の世界宣教の後に訪れることを新旧の聖書は証していると言えます。

しかし、その期間はさほど長いものとはなりません。『大いなるバビロン』の滅びが近いからです。
その間に、キリスト教的な覇権国家と脱落聖徒らによる活動が活発化していることでしょう。
それが、神YHWHを無視した新たな宗教、旧来の宗教が聖霊の前に崩れ落ち、すっかり魅力も失せているところに、それになり代る、究極の偶像礼拝への謀略であり、宗教心を持ち続けながらも、かつての宗教に失望した世の人々を広く受け入れ、多くの宗教を一つにまとめ上げる「平和の宗教」となり、強制によって無神論でいた人々は肩身の狭い世界になることも予想されます。(テサロニケ第一5:3/第二2:4)

偽のメシアの統治に、多くの人々が理想的な社会の実現を目前にしているかのように錯覚し、人類の未来を輝かせるかのような宗教社会のユートピア、目に見える地上の「偽の神の国」への支持を常識のように推し進めるでしょう。脱落しているはずの元聖徒たちは悪魔からの霊力を受けてさえ、そのまま神に属していると信じ込む者もいるでしょう。しかし、最後にはイエスから『不法を働く者らよ』と断罪されてしまいます。(黙示録13:15/マタイ7:22-23)
シオンの民の『騎兵隊』の暴露の活動と、この脱落聖徒らによる新たな宗教の進展に挟まれ『大いなるバビロン』には、その最期を迎える時が刻々と近付いています。

ここまで物事が進むなら、世界はキリストの再臨の時期の『終わりの日』も、いよいよ『終局』に起こる『大患難』が勃発する門口まで来ていることでしょう。






関連記事

危機から守られる『シオン』

2020.12.22 (Tue)



『シオン』が信徒たちの集団を表し、キリストの再臨により聖霊が再び注がれることから母体となって『聖徒たち』を生み出すとすれば、悪魔の側が『シオン』も放っておくことはないでしょう。
実際、黙示録第12章によれば、聖徒を生み出す前に陣痛の苦しみがあり、生まれてくる聖徒たちである男子の赤子を龍である悪魔が食らい尽くそうと狙うとあり、それでも赤子は神の許に引き上げられて悪魔の攻撃はかわされることになります。

これは、聖徒という聖霊に基く権威が神の前に確立されることを言うのでしょう。
イザヤ書は、『国民が一日のうちに生み出されるだろうか』と問い、『だが、シオンは産みの苦しみが臨むやいなや、子らを産んだ』とシオンによる聖徒の出産が一時に、『神のイスラエル』、『アブラハムの裔』の残りのすべてが生み出されることを予告しています。これは「サラの象徴」である『シオン』がすべての子を生む最終的な出産でもあります。(イザヤ66:8/ガラテア6:16/創世記22:18)

この短期間による聖徒の現れについては、黙示録とダニエル書が告げるように、終末の聖徒たちの活動期間が『三年半』『42ヶ月』『1260日』と三種類の数え方で言い換え、けっして長いものではないことと合致します。存在がわずか三年半であれば、全員が現れるのに世代にわたるような期間となる道理がありませんから、神の裁きは一気に人々の本質を突くものとなるからでしょう。(黙示録11:2-3/ダニエル7:25・12:7)

終末で人々をキリストの前に羊と山羊、つまり右と左に分けるものが、聖霊の証しをする聖徒たちへの反応となるのであれば、また、聖徒たちが天界でキリストと共に祭司団を構成し、千年期に人々を導き、贖罪を行うのであれば、悪魔はそれを何としても阻止したいに違いありません。しかも、キリストと聖徒たち、つまり『女の裔』は悪魔の頭を砕いて終わらせるのですから、聖徒を攻撃することは悪魔の存亡が懸かっています。(マタイ25:31-33/創世記3:15)

しかし、そのときには終末での聖徒たちの現れによって、天の王国を相続する全員が生み出され、天界での勢力に変化が起こります。今やキリストは『女の裔』としての全員を手中に収めたと言えるからでしょう。
『天では戦いが起った。ミカエルとその使いたちが龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所はなくなった』。(黙示録12:7-10)

聖徒たちの全体が生み出され、『アブラハムの裔』がそろったことによる宣言である『今や、われらの神の救いと力と国と、神のキリストの権威とが現れた』との天界の声は、いまだ試練はあるものの、聖霊で油注がれた『女の裔』が出そろったことにより、滅ぼされるべき悪魔が天使の中から追放されるべきことが確定したかのようです。

天使長ミカエルが決起する場面はダニエル書にもあり、そちらでは亡くなっていた昔の聖徒たちの復活の際に、この天使長が立ち上がることが描かれていますので、時期としては黙示録とほぼ同じ期間に相当し、同じ事を述べているのでしょう。(ダニエル12:1)
一方の黙示録は、さらに詳しく語り、聖徒たちの全員が存在するようになったことで、悪魔とその一党は天から地に追い落とされ『自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって地に降った』とあります。(黙示録12:12)

ですから、悪魔が聖徒を生み出そうとしている女シオンをつけ狙うばかりでなく、聖徒が生み出されたことに怒り狂い、シオンを攻撃しようとすることは当然予期されることで、やはり黙示録はそのように告げています。

地に来た悪魔は『男児を産んだ女を追いかけた』とあります。つまり、聖徒を生み出した女シオンを攻撃目標として『ヘビは、口から川のような水を女の後ろに吐き出して、女を押し流そうとした』と、その攻撃が起こることを予告しています。しかし、それはうまくゆきません。『大地が女を助け、口を開けて、龍が口から吐き出した川を飲み干した』。(黙示録12:6)
この『女』を助ける『大地』というのは、おそらく人間の力ある機関、政府の権力や司法の権威を指すのでしょう。あるいは世論にも守られるのかも知れません。ともかく、地上に来て荒れ狂う悪魔は、聖霊の言葉に信仰を持つ集団、また『神の王国』を支持し、その聖徒たちを生み出した信徒の集団に強い敵意を向けることでしょう。

しかし、『女』には神からの助けの備えがあります。『女は荒野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるために、神の用意された場所があったのである』と黙示録は告げます。(黙示録12:6)
この期間は、ちょうど聖徒たちが聖霊の言葉を語って預言し、苦しみに遭いながらも証しする期間と同じです。それは黙示録の同じ文脈で念を押すかのように、『女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女はここで、蛇から逃れて、一年、その後二年、またその後半年の間、養われることになっていた』ともある通り、やはり三年半、42か月、1260日の安全が与えられるのです。(黙示録11:3・12:14)

一方で、聖徒たちにはいよいよ試みが臨みます。『龍は女に対していきり立ち、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守り通している者たちと戦おうとして出て行った』とあります。こうして悪魔は、その攻撃目標を女から聖徒たちに変更して狙いを定めます。(黙示録12:17)

それですから、聖徒の母である「女シオン」は、生み出した聖徒たちが神の崇高な世界宣教の証しの業を行っている『三年半』の間については、神によって悪魔の攻撃から保護を受けることになり、それはイエスの終末預言の中でも、イエスの困窮する『兄弟たち』に援助の手を差し伸べる人々が居て、その善意ある行いによってキリストの右に是認を受ける『羊』として分けられるとの言葉とも合致するものでもあります。(黙示録11:3/マタイ25:38-40)

ですから、シオンに属していた元からの人々だけがキリストの側に立って是認を受けるわけではありません。
預言者イザヤとミカは言葉をそろえ、まるで一人の証言者が語るように、まったく同じ言葉で預言をしているところがあります。
『終わりの日に、YHWHの神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、ほかのどのような峰々よりも高くそびえ立つ。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。「YHWHの山に登り、ヤコブの神の家に行こう。YHWHはわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。YHWHの教えはシオンから、その言葉はエルサレムから出るからだ」』。(イザヤ2:2-3=ミカ4:1-2)

ここに描かれる人々は、シオンに参集してくる諸国民であり、そしてその時には、すでにYHWHの山シオンは並ぶべきものがないほどに高められています。
ですから、この新たな人々は、聖霊の言葉を語る聖徒たちの世界宣教の結果としての心に抱いた信仰により、シオンを目指して来るのでしょう。それゆえにも、シオンについてはその受け皿として安全地帯になっているべき必要もあります。

そして、信仰する者たちの集団であった女シオンは、諸国民から頼られるほどに高められ、清い信仰を抱く世界の人々の行く先となることでしょう。小山であったシオンは、あらゆる秀峰をも見下すほどに高められ、どんな宗教や思想からも跳び抜け、他を凌駕していることでしょう。諸国の人々はそれが分かっているからこそ、真実の神YHWHを求めてシオンに『大河のようにそこに向かう』に違いありません。
おそらく、その間にユーフラテスの水位は激減してしまうのでしょう。そうであれば『大いなるバビロン』を滅びに向かわせることにもなります。聖霊の証しを前にして、もはやそこには何の優れたところも魅力もないからです。

旧来の宗教については、黙示録が『大いなるバビロン』と呼ぶ前の段階ですら存在意義すら失ってしまう様が、黙示録の前半『七つのラッパの吹奏』のはじめの四つの中に繰り返し描き出されています。
それらによって打撃を受けるのは『地』『海』『川』『太陽、月、星の光』のそれぞれ『三分の一』であり、木々は焼き尽くされ、海水は血となり、川は苦くされ、天体は光を失ってしまいます。
これが宗教という分野に起るであろうことについて簡単に言えば、終末というものの性質からしてそう言えます。
樹木は人々の間で優れた者を、海水は世界の人々を、川の水源は宗教の出所を、天体の光は教えを指していることでしょう。
しかし、神の真理が明かされるに従い、政治や経済と共に世界を構成する『三分の一』は大きな打撃を避けられません。

宗教指導者は羞恥に焼かれ、信者たちは死のような教えにまとわれ、宗教の根源は清涼なものでないことが暴露され、人々を導くはずの光明は消えてしまうということでしょう。

しかし、荒野に逃れた『シオン』の安全も、『一年、その後二年、またその後半年』が終わるとき、つまり「三年半」が終わると保護が解かれ、再び脅かされることになります。それは『野獣』という権力が聖徒たちに実力を行使して襲い掛かり、制圧することに関係しているのでしょう。しかし、恐れるべきでないことを新旧の聖書が示しています。(黙示録11:7)

その『野獣』という名の権力は、ひとつの国家が主導するものの、実際に聖徒を手にかけるのは一か国の権力ではないでしょう。
なぜなら、黙示録が描くように、聖徒たちを攻撃する『獣』は『七つの頭と十本の角と王冠を持つ』異形の生き物だからです。(黙示録13:1・17:7-14)
ダニエル書の第11章の中では、『聖徒の民を滅ぼす』のがマケドニア・ギリシアの王、つまり『北の王』エピファネスであることを指し示すのですが、同時にそれを、後から生えて来た『角』であるともダニエルは記しています。これは終末でのエピファネスのような『北の王』の国家が、後発のもので、それ以前の幾つかの強国を凌いで後、さらに強力な覇権国家と急成長することを教えるものです。(ダニエル8:20-24)

また、同書は『彼は軍隊を派遣して、聖所と要害を汚し、日毎の供え物を廃止し、荒らす憎むべきものを立てる』とあり、黙示録では異形の獣が聖徒を妨害し、遂には滅ぼすことが述べられているところからすれば、終末に聖徒を殺める直接の勢力は『北の王』が『派遣した軍』であり、それは『七つの頭と十本の角と王冠を持つ』という、国際的な集団の軍事力の行使であることを指し示してもいるのです。(ダニエル11:31/黙示録13:7)

もちろん、『北の王』は反宗教的ではありますが、国際的な集団の方は必ずしもそうではないのであれば、『北の王』が『大いなるバビロン』の訴えを利用すること、つまり『他国の神々と共に要害(聖所)を攻撃する』事も聖徒については有り得ることでしょう。ほかの宗教と共に、またはそれ以上に『北の王』は『神の王国』に激しく反対するからで、圧政者の彼にとってキリストの千年王国など到底許せないことでしょう。(ダニエル11:36-39)

こうして終末の『北の王』は、聖徒攻撃に着手しますが、それが成功してしまうことは、聖書がはっきりと繰り返すところで、疑いようもありません。
しかし、その神への反対行動の直後、この『北の王』が突然の崩壊に直面することも聖書は知らせています。
『彼らの国の終りに、罪人の罪が満ちるに及び、ひとりの王が起る。
その顔は猛悪で、彼は曖昧な言い回しをよく理解し、その勢力は盛んであって、恐ろしい破壊をなし、その行うところは成功して、有力な人々と聖徒である民を滅ぼす。彼は悪知恵をもって、偽りをその手に行い、自ら高ぶり、不意に多くの人を打ち滅ぼし、また君の君たる者に敵する。しかし、遂に彼は人手によらずに滅ぼされる』(ダニエル8:23-25)

このように『北の王』が聖徒攻撃に成功しながら、最後にはシオンにも押し迫ることもダニエル書はこう告げています。つまり、世界を二分する南北の王たちの覇権争いの中で、シオンにも危機が訪れます。
『終わりの時になると、南の王は彼に戦いを挑む。それに対して北の王は、戦車、騎兵、大船隊をもって、嵐のように押し寄せ、各国に攻め入り、洪水のように通過して行く』とダニエルは天使の言葉を記すのですが、この場面はダニエル書も終わりに差し掛かっており、その後には『神の王国』が設立されることを暗示する第十二章の幾らかの文章が残されているばかりです。(ダニエル11:40-)
つまり、終末に『南の王』が『北の王』に対して戦端を開くと、『北の王』は自軍の大きさにものを言わせて、素早く広く侵攻してしまいます。

その結果、『あの「麗しの地」も侵略され、多くの者が倒れる』とあります。(ダニエル11:41)
この「麗しの地」とは『約束の地』『乳と蜜の流れる』パレスチナですが、これは実際の土地を指すのではなく、象徴的な「聖なる地」を指すのでしょう。つまり、聖徒たちが迫害に倒れる中で、信徒たちの『シオン』の地までもが『北の王』の強烈な恫喝に曝されることになるということでしょう。

それが証拠に、その結果として『彼は大海*と麗しい聖なる山との間に、天幕の王宮を設ける』ともあります。(ダニエル11:45)*(地中海)
しかし、ここでダニエル書は、すでにエピファネス王やシリア王国のことを語ることからすっかりと離れて、別の事象を語り始めています。ダニエルに語る天使は、終末を知らせる材料として、ここからは古代アッシリアの出来事を用い始めているのです。

それは、まだダヴィドの王朝が健在であった時代のユダ王国のこと、つまり獰猛な大軍をパレスチナに送り込んだアッシリア帝国のセナケリブ王の故事に触れていると言えるのです。(歴代第二32:9)
なぜなら、セナケリブ王こそ、地中海とエルサレムの山地との間にある「シェフェラの台地」に大軍を布陣し、移動宮廷を設けてエルサレムの手前にある要塞都市を攻めていた故事があるのですが、その件でダニエル書、イザヤ書、歴代誌、そしてイエスの言葉に不思議な一致が見られるのです。

セナケリブは、ダヴィドの王統を継ぐヒゼキヤ王を恫喝して降伏させようとし、ユダの民はもはや命運も尽きたと覚悟を決めつつあったときに、預言者イザヤはヒゼキヤ王と民に神YHWHの言葉を告げてこう言いました。
『(アッシリアの王が)この城市(エルサレム)に入ることも、矢を射ることも、盾を持ってこちらに向き合うことも、攻囲の塚を築くことさえもない。』『わたしは自らのために、そして我が僕ダヴィドのためにこの城市を必ず守ってこれを救う』(イザヤ37:33.35)

当時の実際の状況からすれば、とても信じられないような預言の言葉であったことでしょう。
しかし、神はたった一人の天使に命じて、一晩の内にアッシリアの大軍十八万五千を亡き者としてしまいました。(歴代第二32:21)
『人間のものではない剣によってアッシリアは倒れる。人間のものではない剣が彼らを食い尽くす。彼らは剣を恐れて逃げ、その若者たちは奴隷労働に服すことになる』ともイザヤは預言していたのです。(イザヤ31:8)

まさにその通りの事が起りましたが、神はイザヤを通して必ずシオンを守ることを宣言し、恐れないようにと命じていたのです。
『(敵の)その声によって驚かず、その叫びによって恐れないように、万軍のYHWHは下ってきて、シオンの山およびその丘で戦われる。鳥がひなを守るように、万軍のYHWHはエルサレムを守り、これを守って救い、これを惜しんで助けられる』。(イザヤ31:4-5)

では、終末の『北の王』が聖徒を滅ぼし、その暴虐が信徒の集団である『シオン』に近付くとしても、神YHWHはその象徴的な地を守られないことがあるでしょうか。もちろん、世界覇権国家の脅しに耐えることには相当に強い信仰が要るに違いありませんが、信じる者たちのシオンには偉大で不動の神の預言がこのようにあったのです。(ゼカリヤ2:5)
聖徒たちを滅びに陥れた勢力も、その頭目である終末の『北の王』が世界覇権を目指して広く世界に攻め込んだことで意気も上がることでしょう。しかし、それはこの王の臨終が迫っている印でもあるのです。
おそらくは、強権支配の無理が高じて権力が内部から崩れてしまうのでしょう。それも『人間のものではない剣によって倒れる』と言えることでしょう。
飛ぶ鳥落とす勢いで北から攻め込んだ王セナケリブも、恥をかきつつアッシリアに逃げ帰り、やがて後継者争いから二人の息子に殺されて死を迎えています。(列王第二19:35-37)

実に、イエス・キリストもこの事態を先見されて語られているかの言葉を残しています。
『戦争や暴動のうわさを聞いても、おびえてはならない。こうした事がまず起こると定まってはいるが、世の終わり(テロス)はすぐには来ない』。(ルカ21:9/マタイ24:6/マルコ13:7)
この二大覇権国家の戦争は、世界最終戦争とも言われる「ハルマゲドンの戦い」とはなりません。最終的な神と人との戦いでは、世界連合軍は同士討ちで壊滅することを聖書は繰り返し教えますが、終末の『北の王』は、ただ自分ひとりの権力が崩れ去ってしまうからです。

終末の『北の王』は世界に広く攻め込み、また聖徒たちの多くを滅ぼし、その活動を終わらせることでしょう。
その勢いをかって、信徒たちの集団にも強烈な脅しの言葉が突き付けられることをイザヤとダニエルの預言は予期させるものです。そのときには保護の「三年半」が終わっているでしょう。
しかし、古代に神がシオンとエルサレムを守られたように、信仰を抱いて立ち続けるならその脅威も砕かれ、巨万の軍といえども目の前で総崩れを起こしてしまうのでしょうし、異形の『野獣』も活動期間の『四十二ヶ月』の時間切れを迎え、一度は姿を消しているでしょう。(黙示録13:5)
ですから、イザヤもイエスも、恐れおびえてはならないと言うのです。

ですから、聖徒を失ったとは言え、それこそは天界のキリストの許に彼らが集められたことの印でもあるのですから、むしろ、残された信徒たちには、更に信仰を強める理由であるのです。
そして『シオン』は、さらにもう一度保護されることになるのですが、それはいよいよ再臨の最終的な結末と「千年王国」とをもたらす時となるでしょう。

ここまで来れば、イエスが言われたように再臨から始まる『この世の終り』の中でも、さらなる「終局」(テロス)が『すぐには来ない』とは言え、目前であることには変わりません。
ダニエルに天使はこう語っています。
『聖なる民が全く打ち砕かれると、これらすべての事が直ちに成就する』。(ダニエル12:7)

ですから、聖徒が天に去った後についての聖書に書かれた終末の情報は、もはや聖徒のためのものとはならず、新たな『神の民』、信仰を働かせ『シオン』に集う人々に向けられたものなのです。
では、人々は『恐れてはならない』との言葉にどう反応するのでしょうか。






関連記事

終末に先立って現れる『シオン』

2020.12.06 (Sun)


『シオン』とは、エルサレムの街を乗せている小山を指す呼び名です。
しかし、この言葉『シオン』には、ただの場所を表すばかりでない深い意味が聖書中に与えられています。
エルサレムの街はたいへんに古い起源を持つとされ、四千年ほど前のアブラハムの時代には『サレム』とだけ呼ばれて、やはりそこは人の住む場所として記録されています。
それから四百年を経て、アブラハムの子孫がエジプトで増えてイスラエル国民となり『約束の地』パレスチナに到着したときに、そこは『エルサレム』と呼ばれるカナン系エブス人の街となっていました。

イスラエル民族にパレスチナが与えられるに際して、神は彼らがカナン系の諸部族を追い払って入植するように命じていましたが、イスラエルはカナン人をすべて追い払うことには失敗して、あちこちにカナン人の街を残していたのですが、シオン山上にエルサレムの街を構えるエブス人についてもその残りのひとつとなっていました。

その原因には、エルサレムの街が勾配の急なシオンの山の上にあるために攻め難い要害にあったということがあります。
今日でこそ「エルサレム」と言えば、イスラエルの都とされて有名ではあるのですが、この街がイスラエルに属したのはモーセの後継者ヨシュアの入植の時代ではなく、三世紀以上後のダヴィド王まで待つことになりました。

イスラエルの全部族から王位に就くことを依頼されたダヴィドは、『約束の地』の中ほどに近いエルサレムの攻略に着手しました。しかし、シオン山の要害に阻まれ、エブス人からは『お前はここに来られない』と山上から罵倒されてしまいます。
それでもダヴィドは、取水用の井戸穴を探り出し、そこから市内に侵入してエルサレムを占領することに成功するのでした。

その後は、シオン山上の街を指して人々は『ダヴィドの街』と呼ぶようにもなり、イスラエルの首都となるばかりか、二代目の王ソロモンによって神WHWHの神殿が創建され、エルサレムは政治的にも宗教的にも民族の中心地の地位を得ます。
このエルサレムは急斜面のシオン山に守られ支えられる街であることから、やがて『シオン』という言葉はイスラエル民族にとって聖なる故地を意味するものとなってゆきます。

さて、キリスト後の第一世紀まで時代は下り、イエスを退けたユダヤでは西暦七十年、ローマ軍によるエルサレムと神殿の最後の破壊をもたらした『火のバプテスマ』の後から、ユダヤ人は次第にパレスチナを追われ、諸国に流民となってゆきましたが、この民族にとってのパレスチナ帰還願望が近代に「シオニズム」と呼ばれたのも、シオンの地にユダヤ人の首都を回復する悲願を表す呼び名であったのです。(詩篇137:1)

今日のように、パレスチナにユダヤ人の近代的な国家が存在するようになるとエルサレムが回復されたかのように見え、イザヤやエレミヤなどの旧約の預言者たち(ネイヴィーム)が予告したイスラエルの帰還が神の意志の通りに実現したと信じる人々も少なくありません。(エレミヤ31:4-6)
それらの人々は、神はエルサレムを再び繁栄させるという預言の言葉が、二十世紀になってから文字通りに地上のシオンとエルサレムに成就したと思うのでしょう。イスラエルという民族国家が離散を経て再び集合し存在するようになったからです。(ゼカリヤ1:17)

ですが、そのように信じるなら『新しい契約』を理解の外に押しやることになってしまいます。
つまり、律法契約を終わらせたメシア=キリストの仲介によって締結された別の契約があるのです。それはモーセ仲介の『律法契約』をも含めて成就する、より高次元で重要な、しかも聖霊の関わる「新たな契約」のことであり、それは旧約聖書にもはっきりと預言されていたものです。(エレミヤ31:31-33)

『新しい契約』の崇拝は、律法の動物の犠牲に代えて、キリストの完全な犠牲が永遠に捧げられ、律法の崇拝を完了させた上に成り立つ、より高度な『霊による崇拝』をもたらしました。それは『エルサレムでもないところで行われる』崇拝となるとイエスは明言されています。(ヨハネ4:21-23)
そのうえ、キリストの血は、信仰を働かせたユダヤ人から律法不履行の罪を取り除いて赦しを与え、キリストと共に『義』を得るようにさせ、それによって聖霊を介した崇拝が聖徒の集まりの中で行われる新しい次元を開いています。(ローマ8:33)
イエスが持っていたような奇跡を行う聖霊の崇拝は、それを持つ聖徒らがキリストと結びついた『兄弟』であることを証しするものとなり、彼らこそが『アブラハムの裔』、人々の罪を贖う「真実のイスラエル」であることを示したのです。

ですから、パウロは自分たち聖徒がユダヤ教徒とは異なり、かつてモーセを通し律法を与えられた山シナイではなく、キリストにより聖霊を授けられた場所である『シオンの山』に由来することを述べています。(ヘブライ12:18-24)
古代にはシナイ山の下に集まっていた民に、神は国家法となるべき律法を守らせるための強烈な恐ろしさを与えながら契約締結に臨まれました。(出エジプト20:18-20)
その一方でキリストの新しい契約では、シオンの山上のエルサレムにいた弟子たちには、キリストの完全な犠牲に基づいた天からの是認の内に、赦しの印としての聖霊が降っています。この脅しと赦しに於いて二つの契約には対照的なものがあります。キリストの教えは国民に対するような義務的な法律とはならず、自由の内に信仰を抱いた個人に感化をもたらすものとなりました。(ローマ8:14-16/ペテロ第一2:16)

パウロはまた、律法契約が多くの規則で成り立ち、民を縛って奴隷のようにしていた事と、新しい契約がそうした隷属的な定めの数々から解放されたものである事とを対照させ、イエスを受け入れず律法に留まったユダヤ教を奴隷女の『ハガル』に例え、新しい契約に属するキリスト教をその女主人の『サラ』に例えてもいます。奴隷ではなく自由人の『サラ』こそがアブラハムの正妻であり、律法から解かれた自由民である聖徒たち「真実のイスラエル」の母とも言えます。(ガラテア4:25-26)

実際、使徒パウロは『キリストがわたしたちを律法の咎めから買い取って釈放した』と断言し、使徒ペテロは異邦人を含めた聖徒たちについて『あなたがたも善を行い、またどんな事でも恐れないなら、サラの娘となる』と手紙に記しています。(ガラテア3:13/ペテロ第一3:6)
まさしく、彼らはイスラエルの血統によらず、『水と霊から生まれた』聖なるイスラエルの民であり、その一員である価値はもはや地上のエルサレムをどうこう言うものではありません。(ヨハネ3:5・4:21-24)

この観点に立って『シオン』を見ると、ただの地上の小山ではない、より意義深く抽象的な『シオン』というものが考えに入ってきます。
つまり地上の都市ではない、より高次で意義深いエルサレムを乗せる「抽象的なシオンの山」です。
やはり旧約聖書では抽象的な『シオン』について語られており、特に雄弁に語るのがイザヤ書と、同時代に書かれたミカ書です。

まず、イザヤ書に特徴的なのは『シオンの娘』という言葉、そしてその母親である『シオン』が擬人的に描かれていることです。
『シオンの娘』または『シオンの子ら』は、美しく装っていたことが描写されます。
その姿には『足首の飾り、額の飾り、三日月形の飾り、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、すね飾り、飾り帯、匂袋、護符、指輪、鼻輪、晴れ着、肩掛け、スカーフ、手提げ袋、紗の衣、亜麻布の肌着、ターバン、ストール』と持ち物に恵まれ、娘として栄えの中に恵まれて生活していた様が語られます。

しかし、やがてこの娘は高慢さを帯びてしまいます。
『シオンの娘らは高ぶり、首を伸ばして歩き、目で媚を送り、その行くときには気どって歩き、その足飾りをりんりんと鳴り響かす。』(イザヤ3:16-17)
これは、イスラエルが律法から離れた事を指します。ですから裁きを前にした時期の預言者エレミヤは『背信の子らよ、帰れ』との神の言葉を預言しました。
つまり、その『子ら』は律法契約で結ばれたはずの神YHWHから離れ、異教に流れてしまったからで、それは契約違反でしたから、神は罰する事を差し控えず、イスラエル民族はアッシリアとバビロニアに捕囚とされ、遠く『約束の地』から引き離されます。(エレミヤ3:14)

そのように神が『シオンの娘』を処罰したことについてイザヤは続けてこう語ります。
『芳香は悪臭となり、帯は縄となり、よく編んだ髪は禿となり、華やかな衣は荒布となり、美しい顔は焼き印ある顔となる』。(イザヤ3:24)
これは覇権国家によって征服され、民が捕囚とされる事を指すので、イザヤはさらに『あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れる。シオンの門は嘆き悲しみ、シオンは荒れ果てて、地に座わり込む』とも語っています。(イザヤ3:25-26)

エルサレムは人の住まない廃墟となり、その街を載せていたシオンの山は、まるで子らを取られた母親のようで、神殿も失って、夫に去られた寡婦のようにされてしまいました。
『人々は「あれが見捨てられた女、だれも顧みることのないシオンだ」と言う』と、捕囚の間の落ちぶれたエルサレムの廃墟が異邦人に卑しめられるさまをエレミヤは預言していました。(エレミヤ30:17)

しかし、やがて赦しの時期が到来することになります。イスラエル民族は依然として『契約の子ら』であり、メシアの到来を見る必要がありました。
エルサレムの滅びから五十年ほど経過する内に、バビロニアはキュロス大王の率いるメディアとペルシアの前に倒れ、「当時のメシア」であるキュロスの寛容政策によって諸国の民と神々がバビロンから故地に戻されていったのです。

そのため、寡婦となって身を落していた『シオン』の許には、思いがけず『子ら』が大勢帰って来ることになったのです。
『あなたを破壊した者は速やかに来たが、あなたを建てる者は更に速やかに来る。あなたを廃虚にした者はあなたから去ってゆく。
さあ 目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたの許に来る・・その時あなたは心の内に言うであろう、「だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子を持たない。わたしは捕われ、また追いやられた。誰がこれらの者を育てたのか。見なさい、わたしは独り残された。これらの者はどこから来たのか」と』。(イザヤ49:17-18)

それからしばらくすると、シオンの子らは神殿を再建し、母親シオンの夫である神YHWHを呼び戻すことになります。
それは西暦前515年、以前の神殿の破壊の起こった前586年から七十一年目のことであり、エレミヤが予告した通り七十年の空白の後に、契約の民は異国の王に仕える生活を終え、再び彼らの神YHWHに崇拝を捧げることになったのです。(ゼカリヤ8:3/エレミヤ25:11)
これらの見事な回復について『YHWHはこう言われる。お前たちの母親を追い出した時のわたしの離縁状はどこかあるのか。お前たちを売り渡した時の債権者は誰なのか。お前たちの罪によってお前たちは売り渡され、お前たちの背きのために母親は追い出されたのだ』とあります。つまり、子らが帰るその時にはイスラエル民族の罪が赦され、シオンには繁栄が戻ることもイザヤによって三百年も以前から預言され、それがこうして成就していたのです。(イザヤ50:1)

これらのイザヤ書の回復の言葉はユダヤ人によって「慰め」(ナハムー)の預言と呼ばれるものとなり、イザヤ書の第40章以降に語られていますが、そこには古代の出来事を通して、終末の時期に関する多くの事柄が含まれています。つまり、バビロン捕囚からの民の帰還は、終末にもう一度象徴的な意味で起こる事柄としても描かれているのです。

例えれば、イザヤと同時代の預言者ミカは、捕囚に身を落していた『シオンの娘』が豹変する姿を描いています。
そこでは『シオンの娘よ、産婦のように苦しんでうめけ。あなたは今、町を出て野に宿り、バビロンに行かなければならない。その所であなたは救われる。YHWHはその所であなたを敵の手から買い戻される』として、まずその捕囚と、そこからの請戻しを預言するのですが、『娘シオンよ!立って脱穀せよ。わたしはお前の角を鉄とし、お前のひづめを銅として、多くの国々を打ち砕かせる。お前は彼らの不正に得た富を、その奪った富をYHWHに、全世界の主に捧げるであろう』とも書かれ、シオンの娘が諸国を粉砕するほどの強大な権力を持つようになるとも知らせてもいるのです。(ミカ4:10・13)

これはキリストの王国の到来による『この世の終り』と征服を指しているのでしょう。(ゼパニヤ1:14/ダニエル2:44)
やはり、ミカはエルサレムの土台に向かって語り『エルサレムの娘の王権が、お前のもとに再び返って来る』とも告げています。(ミカ4:8)

ですから、旧約預言の『シオンの娘』や『子ら』とは、新約聖書に於けるキリストに属する聖徒、つまり『神の王国の相続者』であることを聖書全体が知らせているのです。(ローマ8:15-17)
そして「シオンの山」が、それらの『子ら』や『娘』の「母」となることを、その昔から預言者たち(ネイヴィーム)がずっと指し示していました。まさしく、こうしたところが聖書という書物の驚くべきところです。寿命の短い人間などがこれら悠久の秘儀を考案することなど到底できないからです。

では、さらなる謎としての、『終わりの日』に聖徒たちを生み出して母親となる「終末でのシオン」とは何者なのでしょうか。
この観点から新約聖書の中を探ると、ただならぬ身分の『子』を産む女が確かに見出されます。
それが、黙示録第12章の初めから現れる『女』であり、陣痛に苦しみながら、男児を出産します。(黙示録12:1-)
しかし、『初めからのヘビ』である悪魔は、その子が生まれたところで食い尽くそうと身構えていたのですが、その子はすぐに神の御許に保護されます。

生まれるその子は『鉄の杖をもってすべての国民を治めるべき者』とあり、『神の王国の相続者』であることが示唆されています。つまり『キリストと共なる相続人』のことです。(ローマ8:17)
黙示録のこの『男児』は、『娘』でもなく『多くの子ら』でもありませんが、ここにはかつて生まれた『独り子』イエスを亡き者にしようと動かされた『東方からの心霊術者(マギ)』と、ベツレヘムの二歳以下の男児を抹殺したヘロデ大王の故事が暗示されています。(マタイ2:1-16)
これはつまり、終末に聖徒たちが現れる初めの時期にも悪魔が彼らの登場を妨害しようとすることの警告と言えるでしょう。

他方、王国の子を生み出す母親について、黙示録にはこう描かれています。
『大いなる印が天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた』。(黙示録12:1)
聖徒を生み出すであろうこの女が、天空の光をまとい、また天の印として現れたからと言って天の領域のものと決め付けるわけにもゆきません。なぜなら、人間にとっての自然な上からの光はすべて天から注ぐからであり、太陽、月、星とは、そのすべてを指していますし、その幻が天に現れたとしても、それは映像を映し出す画面として天空の光を反映する女を見せる場として捉えることは可能です。まして黙示録での『赤子』は天の神のもとに逃げていますし、この『女』は地に来た悪魔の攻撃を受けてもいるのですから。(黙示録12:13)

しかし、より注目すべきは、黙示録のほかにイザヤ書も終末に輝く女であるシオンについて預言していることです。
『(女よ)*起きよ、光を放て。あなたの光が到来し、YHWHの栄光があなたの上に昇ったからだ。見よ、暗きは地を覆い、闇が国々を包む。だが、あなたの上にはYHWHが輝き出で、その栄光があなたの上に現れる』。(イザヤ60:1) *(動詞が女性形)
そして、この「女シオン」の許には多くの子らが四方から次々に集められて来るというのです。
『さあ目を上げて見まわせ。皆があなたのもとに集まって来る。息子たちは遠くから、娘たちは腕に抱かれて進んで来る・・それは海沿いの国々がわたしに向けて送るもの、タルシシュ*の船を先頭に金銀を持たせ、あなたの子らを遠くから運んで来る。あなたの神、YHWHの御名のため、イスラエルの聖なる方のために。主があなたに輝きを与えたからである。』(イザヤ60:4・9)*(スペイン)

こうして新旧の聖書はそれぞれに八百年も記録された時を隔てていながら、『シオンの娘』という聖徒たちと、その母となる女『シオン』の姿を描き出しているのです。

しかし、終末に聖霊が再び注ぎ出され、聖徒たちが再び現れるキリストの臨在の時が何時になるかは不明で、そのためにもイエスは『家の主人は、盗賊がいつ来るか分かっているなら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入ることなど許さない。あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子は来るのだ』と弟子たちに命じられています。(マタイ25:43-44)

ですから、終末のいつ聖徒たちが生み出され、再び聖霊を注がれるのかを知る者はありませんが、その以前に聖徒たちの母親は存在を始めていて、しかも『この世』の暗闇の中で光を放ち始めることを黙示録とイザヤ書とが教えているのです。
その『女』は、一家の者たちが起き上がって来る前から、かまどに火を入れ、朝食を用意する主婦のようでもあります。『終わりの日』の朝方、暗い中で働き始めるのです。

その女こそが『アブラハムの裔』を生み出す正妻『サラ』ですから、イザヤ書は『子を産まなかったうまずめよ、喜び歌え。産みの苦しみをしなかった者よ、声を放って歌いよばわれ。夫のない者の子は、嫁いだ者の子よりも多い」とYHWHは言われる』と、独り息子イサクだけをやっと生んだサラが、多くの子らに恵まれるという古代には起らなかった抽象的、霊的な意味での喜びを歌います。(イザヤ54:1)

イエスは盗人の例えに続けてこのようにも言われました。
『主人がその家の奴隷たちの上に立てて、時に応じて食物を備えさせる忠実な思慮深い奴隷は、いったい誰だろうか。
主人が戻ったとき、そのように努めているのを見られる奴隷は幸いだ』。(マタイ24:45-46)
この訓話はルカ福音書にも有りますが、そちらでは使徒ペテロがこの話に先立ってイエスこう質問しています。
『主よ、この例えはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、皆のためですか』。(ルカ12:41)

つまり、ペテロたち使徒が是認された聖なる者の立場を表すのであれば、イエスの不在の間に家の仲間の奴隷たちに定時の食事を備え続け、主人を共に待つ下僕たちが、聖徒であるか信徒であるかと質問していることになります。
しかし、イエスはペテロの問いには答えずに『忠実な思慮深い奴隷』について話しを始めました。

それが表すことは、聖徒であるか信徒であるかはそれが成就する時点で問題ではないということでしょう。なぜなら、キリストが再臨する以前には聖霊が再び注がれて聖徒たちが現れることはなく、『シオン』は『子』を生んでも集めてもいないからです。
しかし、「女シオン」という奴隷たちの集団は神の栄光を受けて輝き始めていることがイザヤ書と黙示録の記述の順から明らかです。

これらの聖書の言葉を総合してゆくと、終末に先立って活動を始める「主人の奴隷たちの集団」が形成され、この集団全体が聖徒たちを迎える母体『シオンの山』に相当することになり、そこに『子ら』が集められます。また、その以前にこの集団を世話して導くまとめ役の奴隷が居るということも分かります。
それらの者が『新しい契約』に属していることはないでしょうから、その『忠実な思慮深い奴隷』または『家令』(ルカ書では会計奴隷)も奇跡の聖霊で導かれるということはないはずです。(ルカ12:)

使徒ヨハネも言うように、メシアの栄光の以前には聖霊も無かったのですから、祭司でもレヴィ族でもなく後に十二使徒に含まれる漁師のアンデレやヨハネのように、聖霊はもちろん神からの任命も役職もないながら、自発的に神の意志を求めて活動を始める人々が終末にも現れ、後になってキリストの喜ばれる者となることは再臨の時にも有り得ることです。(ヨハネ7:39)

そのように仲間の奴隷たちを養うために努める『忠実な思慮深い奴隷』の働きを試みる者は一人だけではないかも知れません。
マタイ福音書では、『もしそれが悪い奴隷であって、自分の主人は帰りが遅いと心の中で思い、その奴隷仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その奴隷の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目に遭わせるであろう』ともあります。(マタイ24:48-51)

この意味は、本当に主人を待ち続けるのではなく、自分で勝手に時を前倒しして宴会を始めてしまい、主人の帰宅に無関心であるなら、それは悲惨な結果を招くということでしょう。
その『悪さ』は、主人の都合ではなく、自分の願望に従ったところに原因があります。

そこで、神への畏敬を持ち、キリストの再臨を待つ「信仰ある人々」は、神とキリストを中心とした思いを懐き続ける必要があります。そのような人々が現れないなら「女シオン」も登場せず、『忠実な思慮深い奴隷』も意味を成しませんし、終末さえ遠のくのかも知れません。
終末にキリストを主人とする『奴隷たち』となる人々の各自は「神は自分に何をしてくれるのか」ではなく、「自分は神に何ができるのか」を問う内心の動機がなくては、容易に神を無視した「ご利益信仰」に陥ってしまい、それは神を待つ姿勢とはならないでしょう。

はたして人は、神が自分に益を与えてくれるので崇拝するのでしょうか。
もし、そうなら、その人がどれほど恭しい態度を神に見せたとしても、実は神を自分の僕のようにしているのです。
あなたが神であったとしたら、そのような崇拝者に囲まれていたいと思うでしょうか。

いや、その利己性こそが『罪』となって創造界に不調和と苦しみをもたらし、神との関係を壊し、イエス・キリストを除き去った精神なのではありませんか。
では、そのように利己的ではないキリスト教、また宗教がどこにあるものでしょうか。
それは個人個人の心の奥にある良心と愛とに基く価値観によってはじめて見出され、あるいは形作られるものなのでしょう。

では、『シオン』という女はいつ現れるのでしょうか。
それは人間の側に投げかけられた問いのようです。
イエス自身がこう言われます。
『しかし、人の子が来るときに、はたして地上に信仰が見られるだろうか』。(ルカ18:8)
この言葉をキリスト教団体に所属している人々は怪訝に聞くことでしょう。自分たちの集団があるし、キリスト教界は世界一の信者を誇るのですから。
しかし、イエスの言葉には危うさが込められているのも事実です。
どれほど多くの教会や宗派があろうとも、イエスの求める『信仰』がそこにあるという保証はありません。

また『女』の現れは、ただ時間が経過するのを待てばよいのではないでしょう。
問題は、自分の願望を別にして、神の意志を探ろうとするだけの信仰を働かせる人がこの世にいるか、ということです。
神の意志は、人の思惑を遥かに超え『天が地より高いように』価値あるもので、それに気づける人には『全部の財産を売り払って買う』真珠商人の例えのように扱われるようなものなのですが、それを見出す人が今日いるのでしょうか。イエスが来られるときにそうしているなら、その人は幸いでしょう。(マタイ13:45-46)





関連記事
back-to-top