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荒らす憎むべきもの

2020.11.30 (Mon)

この言葉『荒らす憎むべきもの』は、イエス・キリストが使徒たちの質問に答えて、神殿が破壊されてしまうユダヤ体制の終わりを語った一連の預言の中にあり、マタイとマルコが記録していますが、キリスト教界を見渡しても、創世記の『女の裔』から黙示録の『聖徒』を理解した明解な教えがされていないため、これがもたらすの害がどんなものかが明瞭ではありません。

イエスは受難の三日前に、エルサレム神殿を眺めるオリーヴ山で、37年後に到来するエルサレムの滅びと荒廃を予告し、その時期に起る様々な事、戦争の噂、軍隊の攻囲などを挙げて使徒たちの注意を促しました。つまり、ユダヤが『火のバプテスマ』を受ける患難についてであり、ユダヤ体制の終わりについてのイエスの預言が二重の成就を示唆している以上、ユダヤ体制の終わりは、延いては再臨、つまりこの世の終りの有り様を写す鏡像でもあります。ですから、これらの預言の言葉は今も生きていて「昔に済んだこと」にはなりません。

その預言の中でも、特にユダヤとエルサレムに居る者たちには、あるものを見たなら『山に逃げよ』とイエスは命じられていました。
ルカ福音書は「それ」が軍隊によるエルサレム攻囲であったことを告げています。実際にそれからエルサレムが何度も軍勢に攻囲される中で、イエスを信じた人々の群れが北東部の高地の街ペッラに逃れていたことを史料は記しています。その後、ティトゥスの率いるローマ軍の最後の攻囲によって、遂にエルサレムは神殿と共に最期を迎えます。(ルカ21:20-21/教会史3:5)

他方、マタイとマルコの福音書によれば、弟子たちがエルサレムを後にする契機の「それ」については、『預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たならば』『そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。畑にいる者は、上着を取りに戻るな』とイエスは語っていたとあります。
ルカ福音書との「それ」の異なりは、イエスの預言が、ユダヤ体制の終わりの日だけでなく、この世の終末についても述べていたことによるものなのでしょう。(マタイ24:15-18)

マタイとマルコで言われるところの『預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきもの』という謎深い言葉については、『これを読む者は悟れ』と、二人の筆者によってそれぞれ添え書きされていますので、イエスが警告された『荒らす憎むべきもの』が何であるのか、聖書を知ろうと思う人なら無関心でいるわけにはゆきません。(マタイ24:15)

確かに、『荒らす憎むべきもの』については、ダニエル書の中で三回言及されています。特に終末には二つの覇権国家の対立があることを述べるその第11章ではこのように書かれています。
『彼(一人の王)は、腕を起こし(軍隊を派遣し)、要害(城)すなわち(神殿の)聖所を汚し、日毎の供え物を廃止し、荒廃をもたらす憎むべきものを立てる』。(ダニエル11:31)
このように、イエスが終末について語られた通り『荒らす憎むべきもの』はダニエル書に書かれているのですが、この言葉を理解するためには、まずダニエル書の終り近くに描かれている、終末の時期の世界の情勢を知っておく必要があります。

ダニエル書の第七章以降には、彼が夢と幻で見た四種類の獣が登場し、次々に現れては消えてゆくことを通し、歴史上の世界覇権の流れを表していることが分かります。これは分かり易く、新教系の教会でも教えられているところです。
つまり、ダニエルの夢に現れた『ライオン』が意味するものは、ダニエルの当時に世界覇権国となっていた新バビロニア帝国、その次の『熊』がキュロス大王のメディア・ペルシア帝国、それを倒すアレクサンドロス大王のマケドニア・ギリシア王国の『豹』、それからどんな動物にも例えようもなく強大なローマがあり、これらの獣たちの入れ替わりが表わすものを歴史に照らせば容易に「世界覇権の流れ」を表していると分かることで、これがダニエルのバビロニアの時代に予見されていたことは驚くべきことです。

ですから、有識者の中にはかえって明解な預言が信じられず、そこにある通りにダニエル書が西暦前6世紀の著作ではなく、ローマが世界覇権国となった後に書かれたもので、「予言」を装った歴史書であるとする人も少なくありません。
その人々にとって、それは「有り得ない」ことであり、本来「信仰」とは無縁の学者だからでしょう。また、教会の指導層の中にさえ「ダニエル書や黙示録は聖書とは言えない」と発言する人がいます。人に道徳を諭すような「敬虔な書」という次元を超えているからでしょう。

それでもダニエル書は、捕囚の生活やバビロニアの慣習、著者自身のバビロニアやメディア・ペルシアの支配の下での役職、また、同時期の預言者エゼキエルが際立った人物としてダニエルに言及していること、また、近代考古学が知る以前からバビロニア最後の王ベルシャッツァルが父のナボニドスとの共同統治者であったことを伝え、ナボニドスが自らの王権の正当性を装うためにネブカドネッツァルの妃の一人を娶っていたことなど、ダニエル書の内容には当時の具体的正確さ、それに加えて、ネブカドネッツァルの言葉や布告を含めて、聖書中で例外的に当時メソポタミアの国際語となっていたアラム語でこの書の前半部分が記されているところなど、まさに現場の息吹を伝えるものがあり、この書を出所の知れない偽書とすれば、それは浅はかなレッテル貼りと言うべきでしょう。まして、イエス・キリスト自身がこの書に言及された以上、神の言葉として敬う必要があるのは明らかです。

さて、『荒らす憎むべきもの』という言葉は、『荒廃させる』という事と『憎むべきもの』という二つの要素から出来ています。
まず、『憎むべきもの』または『忌むべきもの』という表現は旧約聖書のほかの箇所にも見られるもので、例えればモーセの律法の五巻の書の最後である「申命記」の7章26節には『あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も呪われたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌み嫌わなければならない』との掟があります。
この『忌むべきもの』(シクク-ツ)とは異邦人が崇拝する偶像を指していますから、偶像の神ではないYHWHとの律法契約にあったイスラエル人には、偶像を嫌悪して避けるべき務めがあったのです。

しかし、預言者エレミヤは、イスラエルが律法を守って来なかったことをとがめて、『彼らは憎むべき物(シクク-ツ)を、わが名をもって呼ばれる家(神殿)に据えて、そこを汚した』と訴える神の言葉を記しています。(エレミヤ32:34)
ですから、イエスが言われたように、神殿の『聖なるところに』『憎むべきものが立つのを見る』という状況は、かつて律法を守らず、神殿を異神の偶像で汚したイスラエルの歴史上にあった事なのです。

このような事態は、その後にも繰り返されました。
旧約最後の預言者マラキが語り終えて後、バプテストのヨハネまでの間の時代に、それがもう一度起っています。
これはキリストの到来する二世紀前のことでしたが、アレクサンドロス大王亡き後、マケドニア・ギリシアの王国は大きく四つに分裂し、その中でも二つの王国が強大となり、ユダヤを挟んで北と南で勢力を争いを繰り広げた時代の事でした。

それらの王国とは、北のセレウコス朝シリアと、南のプトレマイオス朝エジプトで、地図を見ると分かるように、イスラエルは今でもシリアとエジプトに挟まれています。
この二か国が強大になり、その間でユダヤは激しく揉まれ、何度も支配する国が入れ替わっていました。その後の歴史を簡単に言えば、ローマが強国となって東に支配権を伸ばして来たために、ようやくユダヤはこの闘争から逃れることになります。

この混乱の時期でも、特にユダヤを揺さ振ったのが、ユダヤから見て『北の王』である、シリアの王アンティオコス四世エピファネスでありました。
「エピファネス」とは「顕現者」という意味で、「神の現れ」の意味を含んでいましたが、実際、まるで自分が神でもあるかのように、支配地域の宗教や神々に迫害し、強制的にギリシア文化を押し付ける強引な王であったのです。

この王は、南の王の領域まで深く攻め込み、もう少しでプトレマイオス朝エジプトを征服してしまうところまで進んだのですが、それを許さなかったのが新興大国ローマであったのです。
あと少しでこのシリア王はエジプトをわがものに出来るところまで行ったところをローマに遮られてしまったものですから、エピファネスのくやしさは激しかったに違いなく、その帰路に立ち寄ったユダヤでは、その鬱憤が解き放たれます。

エピファネスは、なんと、ユダヤ人にユダヤ教禁止令を発布し、反対する者を容赦なく虐殺し、同調するユダヤ人には気前よく地位を与えます。そのうえに、やがては神YHWHの神殿にゼウスの祭壇と像を持ち込んだのでした。それは紀元前167年の事とされています。当時の出来事を記したマカベア記第一は聖書には含まれませんが、エピファネスの据えた偶像について、はっきりと『荒らす憎むべきもの』と記して、当時のユダヤ人がその言葉によって何を表していたかを今日に伝えています。(マカベア記第一1:54-63)

このように外国の王に崇拝を入れ替えられるということでは、イスラエルの長い歴史の中でも例を見ないことでありました。
敬虔なユダヤ人たちは、レヴィ族のマカベア家を頭にして北の王と戦いを始め、紆余曲折の後、かの名の知られた「マカベアのユダ」に率いられて遂に神殿を奪還し、自分たちの神YHWHに神殿を献納し直すことに成功しました。(マカベア記第一4:52-)
その後は、やがてローマの権力が伸びて来るまでの七十年ほどの間、ユダヤは独立した国家となることもできました。
さらにその後になってユダヤを治めたのが「ヘロデ大王」であり、その最晩年になるとイエスがベツレヘムで生まれることになります。さらにそれから三十三年後、そのイエスが受難を前にしてダニエル書の『荒らす憎むべきもの』に言及されたのです。
そこで、『荒らす憎むべきもの』とのイエスの言葉を聞いた当時のユダヤ人なら、それが「偶像」を指すことに気づいたはずです。マタイとマルコは、イエスのこの言葉を読むユダヤ人でない読者に『読む者は悟れ』と、ユダヤ人の観点に注意を促していることでしょう。

エピファネスによるこれらのすべての事が起こる以前に記されたダニエル書は、ユダヤを挟んだ南北の王国の勢力争いの様子や、北の王の横暴を二世紀も前から予告していましたから、イエスに至る時代を予見するだけでなく、さらなる将来をも見通した驚異の書といえます。
イエス・キリストが、終末について語る中で『預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たならば』と言われたのはこのこと、『北の王』によるかのような『偶像』、つまり『憎むべきもの』が『聖なる場所に立つ』ような事態の二度目の発生に注意を促していたということになります。
これは、使徒パウロの言葉、『彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の神殿に座して自分は神だと宣言する』という『不法の人』についての言葉を思い起こさせるものでもあります。(テサロニケ第二2:4)

やはり、ダニエル書第11章の『北の王』は、まさしく『この王は、その心のままに事を行ない、すべての神を越えて自分を高くし、自分を大いなる者とし、神々の神たる者にむかって驚くべき事を語り、憤りのやむ時まで栄える』と描写されています。(ダニエル11:36)
では、かつてのシリア王エピファネスに相当するダニエルの描く「終末の北の王」が、そのまま同じく自分を神として、終末のさらに『終局』(テロス)で滅びる『不法の人』であるのかと言えば、そう単純ではありません。

というのも、ダニエル書が知らせるところでは、終末の『北の王』は世の終わりの最終部分、つまりキリストが聖徒たちを伴い実際の権力を持って到来し、世界の人々を裁く決定的な場面までは存続できないのです。これは世の終わりも、その最後の場面となる『終局』で、つまり『キリストの顕現によって』最終的に『不法の人』が滅ぼされるというパウロの言葉と一致しません。(テサロニケ第二2:8)

他方で、ダニエル書の第十二章のはじめには『その時あなたの民は救われる。すなわち書に名を記された者は皆救われる。
また、地の塵の中に眠っている者の中から多くの者が目を覚ます。その中で永遠の生命に至る者もあり、また恥と限りなき恥辱を受ける者もある。賢い者は大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は星のようになって永遠にいたる』とあり、終末の聖徒の天への復活と、生ける聖徒の召集、つまり『女の裔』の完成、『天の王国』の設立が描かれていることが分かります。(ダニエル12:1-3)

ですが、『北の王』については、その直前で『彼(北の王)は遂にその終りに至り、彼を助ける者はいない』とあり、古代のエピファネス王に相当する終末の『北の王』は、古代と同じように神の崇拝を妨げるものの、自分自身が偶像そのもの『不法の人』となるのではなく、かつて神殿にゼウスの偶像を立てたように、終末の偶像『憎むべきもの』を立てる役割を果たした後に終わりを迎えてしまいます。しかし、この世はその後もしばらく存続し、それから『終局』を迎えることになるのです。(ダニエル11:45)

将来の『北の王』は、終末の聖徒らの活動である『日毎の供え物』を止めさせ、背教によって聖徒らの『聖所を汚す』ことをダニエルは暗示していますが、それは自分が起こした『腕』、つまり何らかの権力によって聖徒を妨害することが『彼から軍勢が起って(派遣して)、神殿と要害を汚し、日毎の捧げ物を取り除き・・』とあることから明らかです。『北の王』が興した権力、つまり聖徒を攻撃するために派遣された軍勢は『獣』であり、それは黙示録でも共通しています。(ダニエル7:23-25/黙示録11:7)

ですが、『北の王』がローマに征服を妨げられたさらに後、最後の最後で南の王の領土に大規模に広く侵攻しながら、何かの理由で不意に自分の終わりを迎えてしまうことをダニエル書は続けて予告するのですが、これは実際の歴史には起こらなかった記述であり、シリア王国の歴史と合わずに謎とされてきたところです。(ダニエル11:31・40)
つまり、ダニエル書による『北の王』の『南の王』への最終攻撃があってから、急に『北の王国』が終わってしまうというこの部分はいまだ一度も実現していないので、終末にだけ起こることを述べていると考えられるのです。(ダニエル11:40-)

それが証拠に、実際の歴史でのシリアの王国はエピファネスの後も百年間存続し、十人以上も王が次々に即位しているのですから、ダニエル書が記すようには、エピファネスの代で終わっていませんし、シリア王国はローマによって滅ぼされています。
ですから、エピファネスで『北の王』シリアが滅んでしまうように書かれたダニエル書は、古代のエピファネスを通して、将来の別の事態、つまり攻め込んでいながら崩壊してしまう「終末の北の王」について述べていると言えるのです。⇒「突如瓦解する北の王

その「終末の北の王」は、古代とは別の何かの偶像『荒らす憎むべきものを立てる』、つまり、自分自身ではない『不法の人』を神殿の神の座に据えるということになるのでしょう。
その『憎むべきもの』は、聖徒攻撃の『獣』と関係があることをダニエル書の上記の節は明かします。
一方で、『悪霊の働きによって存在する』という『不法の人』が脱落聖徒の主要な者であれば、ダニエルが言うように、『北の王』が『聖なる契約を捨てる者を顧み用いる』ときに、その『北の王』が据える『荒らす憎むべきもの』とはまさしく脱落聖徒、それも『偽キリスト』『不法の人』である理由が出てきます。(ダニエル11:32)


ダニエル書そのものは、エピファネスの代での『北の王』の没落と聖徒の招集の場面を最後にその記述を終えてしま受付のですが、終末についてのその後の情報は他の新旧の聖書にまだまだ絶えません。
そして、やはり立てられるその偶像が、命のない単なる彫像ではなく「生ける偶像」となることを黙示録が示唆しています。
特に『荒らす憎むべきもの』が一層高められるのが、『北の王』が崩れ去ったあとであることを示して黙示録はこう語ります。
『第二の獣(子羊のような)は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者をみな殺させた』。(黙示録13:15)
つまり、聖徒たちを殺した権力の集合体である『七つの頭を持つ野獣』が、『北の王』ではない別の強国、『子羊のような・・野獣』おそらくはキリスト教的な背景を持つ別の覇権国家の後押しを得て、その『七つの頭を持つ野獣』を偶像化させる様が黙示録で次のように語られています。『』。(黙示録13:11-18)

これらの情況を整理すると、『北の王』は、脱落聖徒のある者を擁護して押し立て、一方で軍勢を派遣して聖徒たちを殺させることで、かえって聖徒たちに試練を与えて清め、天への召集を促してしまい、その直後に『北の王』自身が何かの理由で存在を終えてしまってしまいます。『荒らす憎むべきもの』を立てた擁護者は、消え去る『北の王』から『子羊のような二本の角を持つ獣』、おそらく「終末の南の王」に入れ替わる理由が生じます。
おそらくはダニエル書が描く、将来の『北の王』が最後に『南の王』に大規模な進攻を行った直後に、『北の王』は自国の権力を維持できなくなるのでしょう。そのため、この王が起こした聖徒攻撃のための『野獣』または『腕』も、その後ろ盾を失うことになると言えます。(ダニエル11:31/黙示録13:7)

しかし、反宗教的な『北の王』ではないところの『子羊のような』非常に宗教的な別の覇権国家は、聖徒を滅ぼした『野獣』を『ものを言う』『獣の像』に仕立て、しかもそれは『息を吹き込まれ』「生ける偶像」とし、宗教の要素を加えてさらに強力な存在となるということです。これは『野獣』という権力と『偶像』の崇拝の合体を意味しないでしょうか。(黙示録13:11-14)
しかも、その偶像崇拝は脅しによる強制的な宗教にまで高められ、政治と宗教の頂点を極めることが示唆されています。これは悪魔が願ってやまない神の座と言えるでしょう。(イザヤ14:13-14)

まさしく、これが『自分は神だ』と唱える『不法の人』であれば、パウロが教えたように『神の神殿に座して、自分を神として公けにする』ことでしょう。この者に悪魔が霊力を与えて『偽の印』を行われるのであれば、いったいどれだけの人々が信じてしまうでしょうか。その人々に欠けているのは『真理への愛である』とパウロは言います。(テサロニケ第二2:4. 9-10)
そのときには、宗教を強く嫌う『北の王』はすでに無く、いまや「生ける偶像」の後ろ盾はキリスト教的な大国であり、もはやその宗教化を妨げる勢力はありません。むしろ、宗教を称揚し、崇拝しない者には殺害の脅し、また『売り買いをさせない』という制裁が広く施行され、その信仰者には『不法の人』の印として『すべての人々にその右の手かその額かに刻印を受けさせた』とあります。これは無信仰な『北の王』の正反対のような極端でしょう。共通するのは強制です。(黙示録13:16)

これは『右手』という「行動」の、『額』という「思考」の制限を与える暗喩と考えられ、洗脳行動の強制を意味することは濃厚です。(申命記6:5)
そして、その印は『666』であり、聖書中の完全数である「7」にはけっして達することのない偽物であるということでしょう。黙示録が明かすように『その数字は人間を指すものである』のなら、それは『不法の人』、もはや肉体では来ないはずのキリストの騙り者であると結論できます。(黙示録13:17)

その時までに、旧来の組織宗教である『大いなるバビロン』が信者の多くを失っているからといって、去っていった人々のすべてが、神YHWHに帰依するとは言えない理由がここにあります。実に「キリストの地上再臨」を心待ちにする「クリスチャン」は数知れず、また様々な宗教にも末世の大きな変化を教えるものがあり、ブッダの教えが弱まるという末法思想から、西方にあるという浄土の「阿弥陀如来」の現れに信仰を持つ仏教もまたそう言えるかも知れません。
そして、この状況に新たな崇拝が興されるなら、それは地球規模に及ぶ可能性がないとは言えません。

というのも、古い宗教組織を去った人々であっても、旧来の信仰信条を心から拭い去ることは容易ではなく、キリストが地上再臨していると信じれば、大半のキリスト教徒は『不法の人』への崇拝を喜んで受け容れてしまい兼ねません。悪魔が霊力を与えて幾らかの奇跡を行わせるなら、人間社会全体も惑わすに難しいこともないでしょう。そのうえ「三位一体説」を信じ込んでいるままなら、偽キリストを『神』とすることも当然となります。

しかも、終末にキリストが現れるという基本的な教えを持っているのは、キリスト教だけではありません。
まず、ユダヤ教がそうであり、ナザレのイエスをメシアとして認めなかったユダヤ教は、その後も二千年にわたり「約束のメシア」をいまだに待ち続けており、イエスの去った後にローマ軍に破壊されてしまった神殿の再建を行わずにいるのも、正統派ユダヤ教徒が「神殿を再建できるのはメシアのみ」との信条を崩していないことがあります。

それでも現代のユダヤ教徒には、神殿再建に前向きな人々が多く、すでに神殿祭儀に用いる器具類の再現はできています。その中には『契約の箱』も含まれていますが、その箱の上に古代にあったという奇跡の臨在光(シェキーナー)を魔力で照らして見せて、人を欺くことなど悪魔にとっては容易いことでしょう。現に人々は「UFO」を見たくらいで騒いでいるのですから。(レヴィ16:2/エレミヤ3:16)
それにしても、神殿を建てたからと言って、すでにイエス・キリストが『完全な犠牲を捧げて、神の右に座して』いる以上、地上の神殿で捧げる動物の犠牲に今さらどんな意味が残されているのでしょう。それはもちろんキリスト教のものとは言えません。(ヘブライ10:12)

神殿の再建については、キリスト教徒の中からも旧約の預言の成就としての実現を信じている多くの人々がいます。
実際、エゼキエル書の第40章以降には、建築可能に正確な寸法が記載され、細部まで再現可能な神殿の詳細が延々と書かれており、あたかも再建を誘っているかのようではあります。この神殿はいまだに実現していないので、ユダヤ人を中心に「第三神殿」とも呼ばれているものです。
では、そこに終末の偽メシアが肉体をもって現れるなら、どういうことが起こるでしょうか。使徒パウロは『不法の人』は『神の神殿に座して、自分を神として公けにする』と言っていなかったでしょうか。(テサロニケ第二2:4)

加えて、イスラム教でもイエス(イーサー)は偉大な預言者であり、終末のメシア(マシーフ)の到来が教えられています。
終末のマシーフはダマスコスに降臨し、その後はイーサーによって平和と正義が成就すると、イスラム教の口伝「ハディース」が説いています。
こうした諸宗教の信仰心が偽キリストの登場に影響を受ける可能性といえば、数種類の揮発油が充満する火気厳禁の環境に偽メシアという一つの火種を持ち込んで、すべてを引火させるほど危険なものと言えるでしょう。
はたして悪魔は、よこしまな先見によって終末の巨大宗教の種の数々を、長い年月の間に諸宗教のあちこちに予め播き散らして用意してきたのでしょうか。それを神の言葉も予告し、誘っているかのようなところがあることからすれば、終末の人間社会は神と悪魔の策略で激しく試されることになるでしょう。

今日、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という、反発しあう一神教同士が、偽キリストの下に宥和するとなれば、地上の紛争の多くの原因が取り除かれることになり、聖書が終末に予告しているような『人々が「平和だ、安全だ」と言っているそのときに、突如として滅びが彼らに臨む』という終末特有の状況を人類社会は自ら作ってしまう事にもなり兼ねません。(テサロニケ第一5:3)
しかも、終末のそのときまでに、争いあっていた二大強国の一方が崩壊しているのであれば、世界からは宗教も政治も争いの大きな原因が去っていることになり、大半の人々は偽りの平和の到来を受け入れてしまい、それは逆らうのも難しい世界的な潮流となることでしょう。
その形成された世論の中に分裂の薄れた世界は、一丸となってキリストの王国に抵抗するのに都合良い条件を揃えていることにもなるでしょう。(詩篇2:1-6)

しかし、『不法の人』という「生ける偶像」が、実は神にまったく逆らうものであって、イエスの言われた『荒廃をもたらすもの』となってこの世の滅びを招くのであれば、まさしく、その究極の偶像崇拝を見かけるようなことがあるなら、そこから一目散に離れ、『666』の印ある「偽キリストの崇拝者」とならない決意が必要になるに違いありません。新約聖書の中で使徒たちまでもが偶像崇拝を避けるよう訓戒を続ける理由には、肉体で来るはずのないキリストへの警告を含んでいるのでしょう。最後の偶像崇拝は極めて巧妙に誘惑を仕掛けて来るだろうからです。(ルカ17:23-24)
その究極の偶像崇拝のもたらす害は、人々を一人でもキリストと聖徒による天界の神殿から地上に目を逸させ、『背教』に巻き込んで『神の王国』の支配に入らせないことにあります。

しかし、それが悪魔の誘惑を用いた神の裁きであるなら、神は一人一人の決定を神は強制しないばかりか、終末の偶像崇拝を誘惑物として用いることでしょう。つまり「エデンのヘビ」のようにです。
ですから、こうしてダニエル書と黙示録が緊密な暗示を繰り返して補い合うのも、『秘められ、封印された』預言の数々が、あたかもジグゾー・パズルのピースをまき散したかのように、聖書がそのまま読んで分かるものとはされなかった神の意図を知らせているかのようです。人を裁くために、それらは何時でも誰にでも教えられるものではないということでしょう。まさしく『耳のある者は聴け』と繰り返しイエスが言われた通り、『彼らには知ることが許されていない』ということです。

これら後の時代と終末とに起こることを知らせた天使は、最後にダニエルにこう言っています。
『ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者らが調べて右往左往し、そうして(雑多な)知識が横行する』。(ダニエル12:4)
実際、これら書かれた事柄は秘められてきたと言うべきでしょう。意味を探ろうとした人々からは不統一で混乱し、さして教訓にもならない解説ばかりを聞かされてきたものです。神が秘めたのであればそれも当然のことでしょう。

ですがもし、ここに示した理解が隠された言葉の真意に近付くものであるなら、それだけ終末が近付いているということなのかも知れません。
そうなれば、終末に面する人にとって聖書の終末預言はただ事では済まず、興味本位で読んでみるだけのものとはならないでしょう。『荒らす憎むべきもの』についてマタイもマルコも『読む者は悟れ』と但し書きを添えている以上、その意味を捉えるには探求心を必要とするに違いなく、「ご利益信仰」の程度で満足している人々には、いつまでも鍵をかけられた理解となるのでしょう。「自分は正しい宗教を実践している」などと油断していれば、裁かれている意識がないのですから格好の餌食になるばかりです。

使徒パウロは『神の言葉は生きていて力を及ぼし、どんな諸刃の剣よりも鋭く刺し分け・・思いと心とを見分ける』と書いています。この句に込められた意味は、同じ聖書を知りながら、人はそれぞれ別の内面を行動によって公に表すことになるとの警告でもあります。(ヘブライ4:12)
では、わたしたちが終末に入るとしたら、それぞれどのような行動をとるでしょうか。誘惑者は悪魔ですから、様々な事情や欲に訴えて一人一人を揺さぶって来ないとは言えません。





⇒ 「ダニエル書第11章 歴史照合



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聖徒をねたむ『大いなるバビロン』

2020.11.22 (Sun)


この「バビロン」というのは、イスラエル民族に大きな影響を与えたメソポタミア南部に存在していた古代の大都市のことで、またかつて存在した一つの国の名前でもありました。歴史上に有名な大王であるネブカドネッツァル2世によって隆盛したときの新バビロニア帝国は、世界覇権国家にのし上がるに際して、ユダ王国の首都エルサレムをその神YHWHの神殿もろともに破壊し、民を捕囚として自国の首都バビロンとその近郊に連れ去っていました。こうしてモーセ以来続いた契約の民は「バビロン捕囚」に身を落とすことになったのです。

その災難は、イスラエル民族が律法契約を守らず、異教さえ崇拝していたことの酬いでしたが、神は預言者たちを通し、度重なる警告を与えていたのです。しかし遂に彼らの神YHWHはこの民を罰することを定め、ユダ王国もバビロンに滅ぼされ、ダヴィド以来の王統は途絶え、神殿も破壊されて内部の什器もバビロンに移され、ここに於いてイスラエルの国としての独立性も神YHWHの祭儀も絶えるに至りました。これはモーセの時以来七百年以上の間に無かった民族の危機でありました。

しかし、栄華を誇ったバビロニア帝国も、その後に興るメディアとペルシアの帝国のキュロス大王に倒されるに及んでイスラエルは解放され、エルサレム神殿も預言されていた通りに、故国に戻ったユダヤ人らによって破壊されてから七十年後に再建されることになりました。
以後のイスラエルやエルサレムにとってのバビロンとは、YHWHの崇拝を妨げ、ダヴィドの王統を倒した存在と言えます。
ダヴィド王朝のユダ王国を終わらせたばかりでなく、周辺のほかの国々も支配下に置いたネブカドネッツァルは、王都バビロンを拡張し、広大な市域は高く堅固な城壁に守られ、市の中央を流れる大河ユーフラテスにより繁栄を極め、当時には非常に洗練された大都会であったと伝えられています。

預言者のエゼキエルやダニエルも『約束の地』パレスチナから引き離され、このバビロンとその周辺に捕囚民となっての生活を余儀なくされていましたが、その境遇で記されたこの二人の名を冠した書が聖書の中に収められています。
特にダニエル書の中では、ほかならぬ大王ネブカドネッツァル自身の『この大いなるバビロンは、わたしの大いなる力をもって建てた王城であって、わが威光を輝かすものではないか』との自慢の言葉が記録されています。(ダニエル4:30)

実際、当時のバビロン市は建造物の壮大さ、多様さ、新奇さ、市域の広さに於いて際立っており、二重に巡らされた分厚い城壁と水深ある大河の流れとによる防備は、いかなる軍勢の攻略も不可能に見せ、城壁内にも広い耕作地を持ち、20年の攻囲にも耐えられるとも言われたそうです。

ですから、ネブカドネッツァルが豪語した『この大いなるバビロン』が、その言葉を記したダニエルが生きている間に、たった一夜の内に、しかもほぼ無傷でペルシアのキュロス大王に征服されるなどとは当時のだれも思いもしなかったでしょう。実際、キュロス王自身がバビロン市を初めて目にしたとき「いったい誰がこのような街を征服できようか」と述べた言葉が史料に残っています。

しかし、西暦前539年10月5日の日曜日の夜、乱痴気騒ぎの徹夜祭に浮かれるバビロンの市内には、ユーフラテスの川床を歩いて侵入してきたメディアとペルシアを中心とする軍勢にその夜の内にあっけなく征服されてしまいます。
ペルシアの将軍キュロスは、ユーフラテスの上流から川の流れを変えてしまい、市内の川の水位は兵士らの膝くらいになっていたと歴史家クセノフォンが伝えています。⇒ 「指名されたメシア・キュロス

驚くべきことですが、このバビロン陥落が起る二世紀も前に、預言者イザヤはキュロス大王のその名を予知しつつ、彼がバビロンを攻略し、イスラエルを解放してエルサレム神殿の再建の基礎が置かれることを前もって知らせていたのです。
『わたし(神)は、水の淵に向かって「乾け」と言い、お前(バビロン)の大河に「わたしは干上がらせる」と言う。キュロスに向かっては「わたしの牧者わたしの望みを成就させる者」と言う。エルサレムについては、「再建される」と言い、神殿については「基礎が置かれる」と言う。』(イザヤ44:27-28)
実際、キュロスはバビロンを征服するばかりか、勅令を発布してエルサレム神殿の再建を命じてもいるのです。(エズラ1:1-3)

また、ユーフラテスの水位を減らす作戦でキュロスが勝利することについては、それが実現する50年も前に、神は預言者エレミヤにも次のように語らせていました。
『わたしはバビロンの海を干上がらせ、泉を涸らす』。『バビロンの勇士たちは戦うことを放棄し砦に座り込む。彼らの力は萎え、女のようになる。バビロンの家屋は焼かれ、かんぬきは砕かれる。伝令は走って次の伝令に伝え、使者は次の使者へ取り次ぎ、街が隅々まで占領されたとバビロンの王に知らせる。渡し場は次々と奪われ、沼地の葦舟も火を点けられて兵士らは狼狽する。』(エレミヤ50:38・51:30-32)

また、このようなバビロン陥落が、言わばエルサレムへの復讐であったことを聖書は語っています。
『「バビロンの王ネブカドネッツァルはわたしを食い尽し、わたしを滅ぼし、わたしを空の器のようにし、龍のようにわたしを飲み込み、わたしのうまい物でその腹を満たし、わたしを洗いざらいにした。わたしとわたしの肉親に降り掛かった暴虐は、バビロンに降り掛かる」とシオンに住む者は言わなければならない。「わたしの血はカルデヤに住む者に降り掛かる」とエルサレムは言わなければならない』。(エレミヤ51:34-35)

しかも、そのバビロニア帝国の終りがどれほど急速に訪れるかについて、神はさらに詳しく預言者エレミヤを通して示させてもいたのです。
エルサレムが滅ぼされる七年前の事、ネブカドネッツァルへの恭順を示すためにバビロンに向かうユダ王の一行に含まれる役人の一人に、預言者エレミヤはバビロンの滅びを預言した書き付けを託し、ユーフラテス河畔に着いたなら、その預言を読み上げ、その書き付けを石に結わえ付けて川面に投げ込み『バビロンはこのように沈んで、二度と上がってこない。わたしがこれに災を下すからである』と言うようにと命じていたのでした。(エレミヤ51:64)

鉄壁の防御を誇る大都市が敢無く陥落してしまう意外な結末も、イスラエルの神YHWHが名指しで予定したペルシアのキュロスを通して実現させたことであり、イザヤはこうも預言しています。
『わが僕ヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなた(キュロス)の名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。』(イザヤ43:4)
そのため、神YHWHはキュロスを確かに『油注がれた者』つまり『メシアであるキュロス』と、彼が生まれるはるか以前からその名の通りに呼んでいるのです。(イザヤ45:1)

彼がメシアと呼ばれたことは、もちろんイエス・キリストが二人居たとか、キリストがイエスとなる前にも一度現れていたとか言う意味ではありません。
帝王ネブカドネッツァルが豪語した『大いなるバビロン』という大都市は、やはり誰にでも征服できるようなものではありませんでしたから、それを陥落させたキュロスという人物は、常人を超えた、言わば神懸り的な英傑であったというべきでしょう。その意味で彼はやはり神の使命を帯びたメシアであり、覆し難いものを覆し、建て難いものを建てた稀有の王であったのです。⇒ 「キュロスの円筒印章

さて、『大いなるバビロン』と言えば、それを誇ったネブカドネッツァルの古代を遠く離れ、この世の終りについて知らせる黙示録の中にも『大いなるバビロン』と称する終末の何者かが現れているのですが、この謎めいた未来の『大いなるバビロン』について黙示録はこう描写しています。
『わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚す数々の名で覆われ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。
この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、その額には、一つの名が記されていた。それは奥義であって「大いなるバビロン、淫婦らと地の憎むべき者らとの母」というものであった』。(黙示録17:3-5)

古代の大都市『大いなるバビロン』と同じ名で呼ばれる終末の『大娼婦』とは一体何者なのでしょう。
黙示録の筆記者である使徒ヨハネが見たこの幻には、単なる空想の産物とは言えないところが多くあります。特に古代のバビロンと対照して見るなら、この『大いなるバビロン』について黙示録が次々と明かす事柄が、旧約聖書の記述と深い関係を持つものであり、イザヤやエレミヤのかつての言葉が、遥か遠い将来の終末に再び成就する二重の預言であったことを指し示すものとなってくるので、かつて古代に起こり、歴史に刻まれている事柄が、次に「もう一度起こる」と証しすることで将来の人々の信仰を促しているのです。

この『大いなるバビロン』についての記述は黙示録の第14章から第18章にかけて四度現れ、そのほかにも第17章と第19章では『大娼婦』とされ二度現れています。これは黙示録の中でも目立つ存在であることは言うまでもないことで、確かに徒ならぬ扱いを受けています。
それはイスラエルの歴史の中でのバビロニアによるエルサレム神殿破壊と民の捕囚という大きな災厄、また、そこからの帰還と神殿の再建という大きな出来事が旧約聖書中でも際立っていることに対応するところの、終末にも起こる類似した大事件を暗示するかのようです。
やはり黙示録は、旧約の故事の重要性をもう一度終末の時期に呼び戻し、さらに大規模な成就を予告させるということにおいて恐るべき「神の書」と言うべきものです。

そこで、実際の都市バビロンが今は過ぎ去って無くなっている事実からしても、黙示録の『大いなるバビロン』が何を指しているかについては、過ぎ去った歴史だけでは終わらない非常に大きな意味が終末にもあることになります。では、それは何でしょうか。また、古代都市バビロンの陥落は、終末の『大いなるバビロン』と何か類似するのでしょうか。

まず、分かることは、世の終わりに現れる『大いなるバビロン』は『大娼婦』であって、この娼婦の相手の顧客は『地の王たち』であり、また『地の貿易商ら』がこの女の贅沢のために大儲けをしているとの情報が黙示録の第18章に記されています。この女がなぜ娼婦と呼ばれるかと言えば、政治にも金銭にもすり寄って、『この世のもの』となってしまったからでしょう。確かにキリスト教界は、キリストへの貞潔さなど325年のニケアー会議の時から捨ててしまい、『神の王国』より世の権力者との関係を選び取ってきたのです。(ヨハネ15:19-20)

しかし、なんと言っても『大いなるバビロン』の邪悪さといえば、『この女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔いしれている』ということが挙げられます。つまり『聖徒たち』の犠牲の死を祝しているということでしょう。(黙示録17:6)

この『大娼婦』に関わる聖徒の死に関する血の罪について、明確に黙示録は二度記しており、そのほかにも『(神は)ご自分の僕たちの流した血の復讐を、彼女(娼婦)に遂げられた』ともありますから、古代のエルサレムを滅ぼしたバビロンとの歴史上の暗示を見せつつ、終末の『大いなるバビロン』がエルサレムの特に神殿に相当する『聖なる者ら』への悪行の酬いを受けることになる定めを強調しているのです。(黙示録18:24)

しかし、黙示録でもダニエル書でも『聖徒の民』を滅ぼすのは、いずれも『野獣』であって『女』ではないはずです。(ダニエル8:23-24/黙示録11:7)
それでも、黙示録での「聖徒を滅ぼす野獣」の上にこの大娼婦が座っていることが、この女の役割を示唆していると言えるでしょう。(黙示録17:3)

つまり、権力を持つ『野獣』というものが聖徒を攻撃した直接の下手人であるにしても、大娼婦がその野獣の上に乗るという関係からすれば、野獣の聖徒殺害について、より高いところからそれを導いた姿を見せているといえるでしょう。(箴言28:15)
これは『野獣』に勝った聖徒への罪の大きさを指し示しており、勝利の美酒であるかのように『その血に酔っている』からには、聖徒の滅びによって願いを遂げたというべき描写でしょう。
その関係は、現れたメシアを謀略によってローマの権力に渡して処刑させたユダヤの宗教家らの姿に重なるものがあります。宗教家らの罪がローマ総督に勝って遥かに重いことは、イエスが当時に総督に任命されていただけのビラトゥスに言われた通りです。(ヨハネ19:11)

そこで聖徒らの死をそこまで喜ぶこの大娼婦とは何者なのかについて知る糸口があります。
聖霊を介して聖徒が語るその言葉は、人間を超える発言であり『どんな反対者も、対抗も反論もできないような言葉と知恵をわたしがあなたがたに授ける』とイエスが言われた以上、それを聞く『王や高官』また『諸国民への証し』となると予告されましたが、それが神からの音信となる以上は、宗教関係者たちがそれに反応しないということが考えられるでしょうか。(ルカ21:15)

むしろ、聖徒の語るところが非の打ち所もないものであるほどに、それまでの宗教は面目を失うに違いなく、イエスに論争を挑んで皆が論破されてしまったユダヤ宗教体制各派のように、もはや聖徒たちを殺害する以外に自分たちの存在する意義を保てなくなるであろうことは目に見えています。それはキリストが三年半にわたる宣教の結果として、多くの群衆に歓呼してエルサレムに迎えるのを苦々しく眺めるしかなかったユダヤの宗教指導層の姿に現れたものでした。(ルカ19:36-40)

確かに、ユダヤ宗教体制がローマ総督ピラトゥスに訴えて、ローマの権力によってイエスを処刑させましたから、終末の宗教体制や組織が同様の反応を見せるとしても不思議はないでしょう。もし、彼らがかつてのユダヤの宗教家の失敗から学ばないとすれば、ナザレのイエスをメシアとは見分けなかったように、終末にも聖霊の言葉に抗い、メシアの兄弟たちを陥れようとする危険は現実のものとなってしまうことでしょう。
そこで『大娼婦』の正体に見えてくるものがあります。
ユダヤの宗教家らがローマの権力を利用してイエスを殺害したように、終末の聖徒たちを殺める宗教体制が『聖徒の血に酔う』理由がないとは言えません。

この娼婦が『王たちと淫行を犯し』権力に擦り寄っていれば、聖霊が『神の王国』の到来を告げるときに、権力者と共にそれに反対し、聖徒たちは政権に反逆し、国家転覆を画策していると主張して法で裁かせ、警察や軍事力を使わせて聖徒たちを聖霊の言葉もろともに葬り去る役割を担うのに、既存の「宗教」はそれを買ってまで出てくるであろうことは、宗教界の的外れな正義感と闘争性に既に見えていると言って過言ではないでしょう。
実際、ユダヤの宗教家らは「権力の敵」としてイエスを訴え、『わたしたちには皇帝のほかに王はいません』などと言ってはローマの権力にすり寄り、メシアの王権まで否定してしまったのでした。(ヨハネ19:12-15)
しかし、彼らがイエスを訴えたローマのその同じ権力により、彼らは四十年を経ずに破滅させられることになります。つまり、ユダヤが受けた『火のバプテスマ』による滅びです。

終末でも同じように、黙示録は『多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁き』があり、『(神は)ご自分の僕たちの流した血の復讐を彼女になさった』。また『ひとりの力強い御使が、大きな臼のような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され全く姿を消してしまう」』とも予告していますが、これらの言葉は、古代に実在した都市バビロンが水面に消えるというエレミヤの預言と合致していますから、かつての事跡が将来の終末に向けてもう一度語っていることは明白です。黙示録では、神の聖なる僕たちに『大娼婦』が行った悪事は『天に達し』、神の憤りを免れないことも予告されているのですが、それとエルサレムへの復讐という点では古代と重なるものがあります。(黙示録17:1・19:2・18:5)

終末において、聖徒を除き去るという悪事を行うことにより、どの宗教や宗派が『大娼婦』となるかが決まることでしょう。しかし、『聖なる者』はその犠牲によって逆に清められ、『わたしはあなたがたを純潔な処女としてキリストに差し出し、一人の夫と婚約させた』と語ったパウロの言葉が、遂に天界での『子羊の結婚』として成し遂げられ、そうして『神の王国』は完成を見ることでしょう。そうなれば、天に揃ったエデンで語られた『女の裔』には、以後「ヘビの裔」の頭を打ち砕くばかりです。遂に天界に確立されたキリストたちの権威を攻撃することは誰にもできないからです。(コリント第二11:2/黙示録19:7/創世記3:15)

その間に地で勝ち誇る『大いなるバビロン』には処罰が臨む以外に道は残されていません。
古代のバビロンが、川の流れを変えられて水位が下がったことが一夜で陥落することになったように、黙示録の『大いなるバビロン』についても、聖徒らが地上を去った後の場面でユーフラテスの水が涸れてしまったことを描写しています。しかもそれは、『日の出の方角からの王たち』、つまりバビロンの東方に位置していたメディアとペルシアの王たちの率いる軍勢に相当する権力を呼び覚ますことになるとも黙示録は語っているのです。(黙示録16:12・17:16)

聖徒を除き去る悪行は、それが卑劣であるほどに、聖徒らの宣教によって受けるバビロンの被害の大きさを物語っているとも言えます。
聖霊の奇跡の言葉は、旧来の宗教がどれほど当てにならないものかを明かしてしまうのであれば、そのため、大量の信者が水の流れを変えられたように、バビロンから去ってゆくことが示唆されているでしょう。確かに黙示録は『あなたが見た水、あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である』と明かしている通り、世界的範囲の人々が転向してしまうことが示唆されています。(黙示録17:15)
その中には、聖徒の業を受け継ぎ、旧来の宗教の暗い理解を暴露してしまう二億の『騎兵隊』となる人々も含まれることでしょう。多くの信者を失った後の宗教団体はどれほど弱くなることでしょうか。(黙示録9:16-19)

その弱体化は、『大いなるバビロン』への神の裁きが近付いた印ともなります。
神は、『彼女がしたとおりに彼女に返し、その仕業に応じて二倍に報復し、彼女が混ぜものを入れた杯の中に、その倍の量を入れてやれ』と言われます。
終末に『大いなるバビロン』に含まれてしまう宗教は、間近に来ている『神の王国』を知らせる聖徒たちが、地上の国家の転覆を謀って、反逆していると訴えるのであれば、その宗教はその主張と同時に自らを『この世のもの』としたことにならざるを得ません。そこで彼らは諸国家の権力の上に乗ることになり、その立場は確定されます。対照的に、聖徒たちは迫害によって試され、キリストへの貞潔さが立証されてゆくことになり、娼婦と処女の両者の違いはもはや埋めようもないほどに差がついてしまうことでしょう。

ですから、聖徒が地を去って後、『彼女は倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そこは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣となった』と黙示録は宣告しますが、聖徒を告発することをもって、まさしくその宗教は『倒れた』と言われるに値します。
ですが、そこに属していた人々にとっては重要な救済の言葉も発せられます。
神は『わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪に与らないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ』と言われるからです。(黙示録18:2-6)

この『大いなるバビロン』から離れるように命じられている『わたしの民』と神が呼びかけられる人々が誰かと言えば、もはや天に去った聖徒たちのことではないことは明らかですから、大娼婦への裁きを身に受けないために、そこから出る人々、つまり、その時まで様々な宗教や宗派に属しているであろう人々でさえ、「神の民」とされる機会が依然として開かれているということになるでしょう。

ですが、旧来の宗教団体に属する人々がどれほど聖霊で語らせる神の側に立つのかは、その時にならないことには分からないことです。
もちろん、聖霊の証しに神の意志を洞察し、自分のそれまでの信条を撤回できるほど謙虚な宗教家や信者がいないということにはならないでしょう。しかし、それは例外的に高潔な人に限られそうで、既得権益にひたって生きる大半の宗教関係者にそれは期待できそうにありません。
信者にしても、たとえ多くの人々が言い包められ宗派に囚われているに過ぎないとしても、思うことの習慣は容易に変えられるものではありません。人の考え方の傾向は特に宗教によって形作られ、年月を経て固まってゆくものです。それには本人でさえ気付けない後遺症のようなものが残るものです。
実際、キリストが現れたときのユダヤ人の多くがそうなりました。

イエスの教えに転向した彼らであっても、千年以上続いたモーセの律法からくる生活習慣を良いつもりで従い続け、『割礼』や『安息日』を、また食事制限をキリストの弟子であっても守り続けていたのです。イスラエル民族と律法との千数百年の永い関わりからすれば、「まず、律法は守らなくては」という常識的な敬虔さが彼らに在っても当然であったと言えるでしょう。(ローマ14:2.5/使徒21:20)
その一方で、キリストの教えに転向してきた諸国民は、律法に捕われず白紙の上に鮮やかにキリスト教を描くことができ、ユダヤ人が割って入らない限り、キリストやそれに続くパウロが説くような革新的な教えをより良く取り入れることができました。(ローマ9:30-31/ガラテア3:1-3)

このようなイスラエルと諸国民の宗教上の逆転が起こることをイエスは『後の者が先になり、先の者は後になる』と例えを用いて言われていましたが、やはりユダヤ人でイエスを信じた人々でさえも、律法の習慣を超えてパウロが説いた新たな「キリスト教」には着いて行くのに困難を感じ、パウロを避けてもいたのです。(マタイ20:1-16/ヘブライ5:12/使徒21:21-24)

思い返せば、ユダヤの神との長い歴史は、旧約聖書の深い意味を新しいキリストの教えの中に見出さない限りは必ずしも益とはならなかったのであり、将来の終末の聖霊の発言がやはり革新的であればこそ、同じことがキリスト教界に起きないとは言えないことでしょう。使徒時代が終わり、聖霊注がれた聖徒がおよそ第二世紀の終りには居なくなって以来、千八百年が経とうとしているので、その間に蓄積された「キリスト教の常識」も積もり積もって多くの「クリスチャン」にまとわり着いています。その中には「天国と地獄」、「三位一体説」などの聖書に無い教えが形作っている「常識」があることでしょう。

かつてユダヤの宗教家らは、ナザレ人イエスが自分たちの安息日などの常識的規則を守らないことにつまずき、『この人は神からの人ではない。安息日を守らないからだ』と結論していたのですが、同様にキリスト教界での旧態依然とした中世的な教えを頑固に唱え続けるなら、終末にはどういうことになるでしょうか。

いまだ終末が到来していない段階では、どのような宗教や宗派、また信者が「聖霊の言葉」に反対するのかは分かることではありませんが、いずれにしても、メシアの初臨でイエスに反対したユダヤの人々のように心を頑なにして、その同じ道に入ってしまわないよう、古代の彼らを反面教師として自らを省みるべきでしょう。

やはり、人の心がどうかを見る神に対して重要なことは、人の内面の暖かさや柔らかさなのでしょう。
宗教家のように聖書やキリスト教の知識を増やすことそのものが、その人に神の是認をもたらすわけではないのです。
また、聖霊の言葉を前にして、古い教えに固執し頑なであることに何の正しさも残りません。







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終末に起こる『背教』

2020.11.16 (Mon)

「背教」という言葉を聞くと、キリスト教から離れた人について、または間違ったキリスト教とされる様々な「異端」の宗派が思い浮かぶことでしょう。
しかし、ここで聖書が警告する『背教』と呼ばれるものは、それらの「正統的キリスト教からの逸脱や棄教」とは次元が異なるほどにまったく別のものです。その『背教』は、終末になって出現する特定のものであり、世界の人々を危険にさらす恐るべきものであることを聖書は教えているのです。この観点を持たず、どこかの宗派を「背教している」などと言っていれば一向にこの『背教』の真意を捉えることはないでしょう。

さて、『終わりの日』となるキリストの再臨を迎える時期が聖徒の現れと試練の日々となり、そこで『新しい契約』から脱落してしまう者らがあるとすれば、その脱落した「元聖徒ら」はその後どうするのでしょうか。そこに聖書が警告する『背教』の姿と、それが広がる誘因とがあります。

「ミナの例え話」には書かれていないのですが、よく似たマタイ福音書にある「タラントの例え話」には結末があって、このように描かれています。
『この役に立たない下僕を外の闇に追い出してしまえ。そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするだろう』。(マタイ25:30)
この『泣き叫んだり、歯ぎしりしたりする』とは、ローマ軍士官の深い信仰の表明にイエスが感嘆したときに、神の是認が異邦人に向かう一方でユダヤ人が除外されるとイエスが語られたその結末でもありました。(マタイ8:5-13)
永く律法契約に在ったイスラエル民族が、現れたメシアに不信仰であったので捨てられ、『新しい契約』に異邦人が補充されるということを予告した中の言葉であったのです。(ローマ11:24/エフェソス2:19/ペテロ第一2:10)

ユダヤ人であれ異邦人であれ、聖霊を注がれ聖徒の立場を得たものの、『新しい契約』を全うせずにいるとすれば、その契約に入れなかったユダヤ人が『籾殻』として焼き捨てられたように、タラントの例えの悪い下僕もまた神の是認の外に放り出されることを指すのでしょう。つまり、契約違反者として『天の王国』への召しからは除かれるということです。(マタイ13:47-50)
聖徒で生き残っている中で是認された者たちが裁きを通過して、一斉に天に召されるとき、契約に違反していた者らは、なお地上に残されるという結末により、取り消されない不名誉を刈り取ることになるでしょう。(テサロニケ第一4:17)
ですから共観福音書の終末預言で『ひとりは連れて行かれ。ひとりは捨てられる』という事にならないよう『見張っているように』また『用意のできているように』とイエスは訓戒しています。これは彼らが聖霊を活用してキリストの証しを行っているべきことを言うのでしょう。(マタイ24:40-41/ルカ17:33-35)

他方で、そうしない聖徒らは妥協して変節し、『この世』のものとなってしまうのでしょうか。(ヨハネ第一5:19)
そのようにした脱落聖徒が何をするかといえば、結果的には皆が『神の王国』に反対する行いを始めるのでしょう。
しかし『背教』そのものは、聖徒の油注ぎの早い時期から始まることを聖書は暗示しているので、この世と対立する『新しい契約』を重荷と見做す者らが、自分たちの行動を正当化しようとすれば、あるいは忠節を保つ聖徒の仲間を『この世』に売り渡すような事もないとも言えません。
やはりイエスは、弟子たちに終末に起こることを警告して『あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互いに裏切り、憎み合うであろう』と警告していました。また『不法が増すので、多くの者らの愛は冷える』とも言われましたが、これは一般社会の世相が荒むことを述べているのではありません。(マタイ24:9-12)
また、パウロも手紙で『終わりの日に・・崇拝の外見を見せながら、内実の無い者となる。こうした者らからは離れよ』とも警告しているのですが、これも外部の人について言っているわけではないのです。これは、聖徒でありながら、あからさまに清さを捨てる者も出たなら、けっして近づかないようにと言っていると捉えるべきでしょう。(テモテ第二3:5)

イエスはあるとき、『その日には、多くの者がわたしに向かって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力ある業を行ったではありませんか』と言うであろう』とも語られています。これらの奇跡の業は聖霊注がれた者が行うものであり、この者らも以前は聖徒であったことが考えられます。
しかしイエスは彼らにこう答えることになります。『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ行ってしまえ』。(マタイ7:22-23)
このように拒絶された者らは『不法を働く者ども』であり、けっして忠節とは言えず『新しい契約』を全うするとは思われません。

この『不法』(アノミアス)という言葉は、イエスだけでなく使徒パウロによっても用いられており、テサロニケへの第二の手紙に『背教』と関連付けられています。

パウロの語るところからすれば、『背教』とは終末が来るときに起こるもので、今日に至るまでの「正統的なキリスト教」から宗派や人々が逸脱して分派するというような「異端」と呼ばれるのようなものを指すのではありません。
つまり、これまでに見られたキリスト教の歴史上のどんな宗派の分裂も、様々な誤まりの教えの発生ですらもここで言う『背教』に含まれず、この終末に起こるという『背教』に比べればさほどのこともなく、致命的な罪にもならないでしょう。この『背教』は、天界で聖徒らが揃うことを妨げ、『神の王国』の設立を阻もうとする『不法』であるのです。

その極めて恐ろしく危険な『背教』が終末に起こることを明確に告げるのは使徒パウロであり、彼はテサロニケの弟子たちにこう書いています。
『まず、神に対する背教が起こり、不法の者、つまり滅びの子が出現しなければ終わりは来ない』。(テサロニケ第二2:3)

ここでパウロの言う『背教』(アポスタシア)は、キリストの再臨と彼らの天への招集の時期に関連して『終わり』に起こる事なのであり、けっして初期キリスト教がローマ帝国の国教とされて、その道を外れた過去の変節を言っているのではありません。それどころのものではないのです。

それが証拠に、パウロはこの句については以下のように前置きしてから『背教』の真相を語りだしています。
『さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの臨在と、わたしたちがその許に集められる事について、あなたがたにお願いしたい。霊によるとか、また言葉によるとか、あるいはわたしたちから出たとされる手紙によって、主の日は今来ていると触れまわる者があっても、動揺したり、慌てたりしてはいけない』。(テサロニケ第二2:1-2)
パウロがこの手紙を書いた西暦55年頃に、早くも弟子たちの間には、聖霊が「キリストの再臨が起こっている」と語ったとか、使徒たちからの手紙があったとかいう噂が立っていたので、パウロがその噂が根拠のないものと正し、また彼に与えられた終末への知識も伝えている中で、『まず、神に対する背教が起こり、不法の者、つまり滅びの子が出現する』と言っているのです。

パウロはここで『背教』を語りながら、『不法の人』という何者かについて言及しています。それは『滅びの子』でもあることも知らせています。それが『背教』の源となることを彼は明かしているのです。
では、この『背教』とはどんなものを指すのでしょうか。また出現するという『不法の人』また『滅びの子』とは、いったいどんな者なのでしょうか。

パウロが言う終末に起こる『背教』がどんなものかを探る手がかりが、この『不法の人』(ホ アントローポス テース アノミアス)また『滅びの子』(ホ ヒュイオス アポーレイアス)という言葉に残されています。
というのも、ほかならぬイエス自身が『滅びの子』という語をある人物を指してこう用いていたのです。
『わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたから戴いた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。』(ヨハネ17:12)
これらの祈りの言葉が語られた場面は、最後の晩餐を使徒たちと過ごした後のことで、イスカリオテのユダ、つまりキリストを裏切る十二人の一人は、すでに自らの師を銀貨30枚で敵に売り渡すために、一行から離れて別行動をとっていたのです。

イエスは地上での公生涯の間、一緒にいた使徒らを守り続けて、ついに最後の晩となったときに、彼らはその晩餐で師が離れてゆくこと、また『聖霊』という『助け手』が与えられることなどを知らされるに至っています。(ヨハネ14:16-18)
しかし、イエスは、その十二人の中の『滅びの子(ホ ヒュイオス アポーレイアス)だけが滅びた』と言われました。ユダ・イスカリオテをほかにして誰がこれに当てはまるでしょうか。
そこから、終末の再臨の時期に、十二使徒からの脱落者ユダ・イスカリオテに相当する何者かが現れる事態の発生に注意が向くことになります。
この件を念頭に置きながら、聖書の中を捜してゆくと、それらしい記述が無いわけではありません。

その箇所は、まずダニエル書の中にいくつか見出されます。
ダニエル書は、終末についての情報を、幻や夢、また天使からの話として聞いた事柄をまとめた書で、バビロン捕囚となった知恵者ダニエルによって書かれました。
この書には、歴史上の強国の盛衰と覇権国家の流れがいくつかの比喩を用いて予告されているだけでなく、特に注目するべきことに、終末の時期についての貴重な情報も含められています。イエスもダニエル書に言及して初臨のエルサレムの滅び、またそれに重ねて再臨で起こる事柄を『荒らす憎むべきもの』の現れとして重要な情報を語っている以上、ダニエル書がわけの分からないオカルトのような書でないことはますます明らかです。(マタイ24:15)

そのダニエル書には、終末の聖徒の民が『違背』(ペシャ)によって害を被ることが数回書かれているのです。
その第八章にはこうあります。
『その群衆は常供の犠牲と共にその角に渡された、それは違背(ペシャ)のためであった。そして彼(角)は真理を地に投げ捨て、これらすべてを行って大いに栄えた』。(ダニエル8:12)

この文脈を見ると『天の軍』つまり『聖徒の民』を攻撃して滅ぼす『角』という権力が、彼らを常供(日毎)の犠牲と共に絶えさせることが書かれています。(ダニエル8:24)
そして、その原因を作ったのが『違背』(ペシャ)であり、これは「犯罪」とも訳せます。敷衍すればユダ・イスカリオテがイエスをユダヤ体制派に売り渡したような犯罪、『不法な行い』と似た構図を作っている様が見えます。
つまり、終末にはユダ・イスカリオテのような裏切りが起り、聖徒たちの全体に決定的な危害が及ぶということが類推できるのです。まさしくイエスは『そのとき、多くの人がつまずき、また互いに裏切り、憎み合うであろう』と警告されていなかったでしょうか。その裏切りは一人によるものではなく、聖徒たちの中を二分するほどになるのでしょう。

一方、契約に忠節でキリストと結ばれた状態を保つ聖徒たちについては全員が逮捕されるのはなく、また皆が殉教の死を遂げるのではありませんが、キリストと同じく迫害を受けることは定められています。(黙示録13:10)
彼らの地上での聖霊による宣教活動は、かつての神殿におけるレヴィ族祭司たちの『常供の犠牲』つまり日毎の奉仕の対型と見れば、『その群衆は常供の犠牲と共にその角に渡された』というダニエルの言葉が、聖霊による宣教活動の中断と彼らの捕縛と捉えることは的外れとはいえないものがあります。しかも、彼らの受難は黙示録の記述とも一致するのです。(黙示録11:7)

こうして、終末の『背教』というものの全体像に見えるものがあります。
つまり、選ばれ聖霊を注がれながら迫害に耐えられず契約から堕ちてしまう「元聖徒ら」が何を行うかということであり、ダニエル書は迫害だけでなく誘惑と甘言を仕掛ける強大な権力者がいることも暗示しています。それは終末の強大な覇権国家であり、軍国主義で同時に反宗教でもあることをダニエルは記しています。(ダニエル11:32-35・36-38)
その誘惑にかかって契約から脱落する聖徒たちは、それでも奇跡の力を失うわけではないようで、彼らに助力する霊者が現れることをパウロはこう述べています。
『不法の者が来るのはサタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、異兆と、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを滅ぶべき者どもに対して行う』。(テサロニケ第二2:9-10)
また、彼らがキリストの裁きを前にして、『わたしたちは、あなたの名によって力ある業を数多く行ったではありませんか』と言うとイエスは予告していたのです。

聖霊から邪霊への移行が間断なく行われるためか、脱落聖徒らは自分の持つ霊力の源の区別さえできないのでしょう。
こうしたことは、本当に自分が何をしているかを吟味すべき「見張っている』べきことと言うほかありません。
このような例はすでにパウロの時代から起こっていたらしく、パウロは『不法の秘密はすでに働いている』と書いており、使徒ヨハネも『すべての霊を信じてしまわないで、それらの霊が神から出たものかどうかを試せ。多くの偽預言者が世に出てきているからだ』と警告しています。これら使徒たちの言葉から、すでに使徒の時代から聖徒の周辺では悪霊の邪魔が入ろうとしていたことがわかります。
加えてパウロは、『今はこの者を抑えているものがあり、それは、定められた時にこの者(不法の人)が現れるためである』とも述べています。つまり、当時には『不法』も抑制されていたのですが、終末にはそうならないということでしょう。(テサロニケ第二2:7/ヨハネ第一4:1)

こうして脱落聖徒らが依然として霊力を持ち続け、終末ともなれば、一度は聖霊を注がれた人々をも惑わして『背教』に引き込み、さらには裏切りというユダ・イスカリオテの役割をも負うという姿が浮かび上がってきます。これは終末の『女の裔』である聖徒たちが終末に再登場することに対する悪魔の側からの最大の攻撃と言うべきものです。(ダニエル11:35)
しかも、それら脱落聖徒の中でも傑出した者が『不法の人』、また『偽キリスト』となってイエスの「地上再臨」を装い兼ねないところまでがパウロの言葉から視野に入ってきます。イエスが何度も繰り返し『「あそこに居る」と言われても出て行くな』との警告しただけの危険もそこに見えています。

悪魔サタンの狙いについては旧約聖書から暴露されており、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲の頂きに上り、いと高き者のようになる』という神に成り代わるという究極的な野望であるのです。(イザヤ14:13-14)
それを成就させる機会が『不法の人』を通して、また『偽キリスト』を自らの偶像として世界の人々をひれ伏させることにより到来するとなれば、悪魔はそれを躊躇しないでしょう。
パウロは『不法の人』についてこう指摘しています。
『彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の神殿に座して自分は神だと宣言する』(テサロニケ第二2:4)

こうして脱落聖徒と悪魔らの利害が一致し始め、『契約を離れた者ら』を利用する悪魔は、聖徒らが天に揃うことを妨げようとしながら、自らの強欲を遂げるべく終末での大暴れを始めることでしょう。
黙示録はこう述べます。
『兄弟たちは、小羊の血と彼らの証しの言葉とによって、彼(悪魔)に打ち勝ち、死に至るまでもその魂を惜しまなかった。それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちは災いである。悪魔が自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもっておまえたちのところに下って来たからである』。(黙示録12:11-12)
この意味するところは、聖徒らが忠節に証しを終えた後の事であり、その時に至れば、悪魔は地に強い影響力を用い始めるということでしょう。そしてそこには脱落聖徒が残されていることになります。

やはり黙示録は、忠節に活動する聖徒を表すであろう『二人の証人』という預言者らがイエスと同じく地上で三年半、つまり1260日の活動を行うことを記しています。(黙示録11:3)
その活動の後、忠節な彼らは天に召されます。しかし、地上での神の業は進展を続け、聖徒らの去って行った後も神の活動は絶えることがないのです。次いで世界の諸国から、新たに『神の民』と呼ばれる人々が現れることを聖書は語ります。それも『大群衆』であり、聖徒らの活動は増幅されることになるでしょう。それは聖徒たちの聖霊の言葉に信仰を働かせた人々の集団の活動、世界を覆う大宣教となるでしょう。(ゼカリヤ2:11/黙示録7:9-17)

イエスは祈りの中で聖徒ばかりでなく、この人々のことを予見しこう神に願っています。
『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは父よ、あなたがわたしのうちにあられ、わたしがあなたのうちにあるように、皆の者が一つとなるためです。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにあらせるためであり、それによって、あなたがわたしをお遣わしになったことを、世が信じるようになるためです』。(ヨハネ17:20-21)

この人々が、聖徒ではないながら、彼らの言葉に信仰を働かせた人々を指していることはイエスの言葉から疑いようがありません。
その人々が、キリストが神と結びついているように、聖徒らと一つの民となることにより、終末に信徒でなる『神の民』が現れるのであり、ゼカリヤの預言はその日のありさまをこう予告しています。
『万軍のYHWHは、こう仰せられる、その日には、諸国の言語を話す民の中から十人の者が、一人のユダヤ人の衣のすそをつかまえて、「あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいることを聞いたから」と言うであろう』。(ゼカリヤ8:23)
それは終末の聖徒たちの活動が実を結んだ証拠、地上を受け継ぐために信仰によって救われる人々の登場であるのです。(黙示録21:1-4)

さらにこの人々は、その信仰を心に抱くだけでなく、聖徒たちへの熱烈な支持を行動で表すことが黙示録に記されています。
彼らは、聖徒の去った後に、その業を受け継ぎ、『この世』を糾弾し始めるのですが、黙示録は第9章の中で、キリストによって導き出される無数のイナゴを用いて聖徒の活動を、それが終わるに続いて騎兵隊の現れによってイナゴの業が継続されることを描き出しています。

かつて、イエスが去った後に弟子たちがヨエルのイナゴの預言を成就して聖霊を受け、ユダヤ体制派を糾弾して悩ましたように、再び現れたイナゴである聖徒を亡き者とした『この世』の勢力に対しては信徒たちも黙ってはいません。聖徒たちの犠牲は無駄にならず、その音信に無数の賛同の声が湧き上がるのです。

特に、その罪が重いのが『大いなるバビロン』が属するであろう世界の『三分の一』に相当する部分であり、それに向かって聖霊の言葉に信仰を持った人々である「信徒」らが、その悪行を暴くという、神の側に立った断罪の声を上げることを黙示録は明らかにしています。彼らの数は『二億』という膨大な数字に象徴されているように、『この世』も無視できない勢力となることでしょう。(黙示録17:1-6・9:16)

もちろん、この人々は『偽キリスト』の『背教』にも惑わされることなく、『この世』の側に着いた脱落聖徒らに迎合することも有り得ません。むしろ、聖徒を葬った『この世』の勢力とそれを売り渡した者らの悪をあばき、神の王国とキリストの見えない臨御を強力に支持することでしょう。(黙示録7:9-17)

では、信徒の大集団が告発するところの、世の『三分の一』また『大いなるバビロン』とは何を意味するのでしょうか。





⇒「背教と不法の人

⇒「小麦と毒麦の例え 不法の人の現れる時



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キリストが犠牲となって地から去り、やがて聖なる者らも聖霊と共に歴史の舞台から消え、『この世』は相変わらず悪と苦しみの横行する空しい世界としてその後も千八百年あまり存続してきました。(ヘブライ2:8)
しかし、聖書に『光は闇の中で輝いている。そして、闇はこれに打ち勝ってはいない』と、今なお伝えるように、キリストと聖なる者らの活動は昔の物語として終わってしまったわけではありません。(ヨハネ1:5)

終末に至って聖霊の注ぎが起り、『聖なる者ら』が再び選び出されるとなれば、それがいつであれ世界は大変革を招くほかありません。エデンの園で予告されたヘビとその裔、また女とその裔と間の強烈な敵意は、伏流水のように世界の歴史の奥底に存在し続けてきたのであり、それは世に対しては聖書の中にだけ書き留められてきました。その間に神の教えは新約聖書を加えてユダヤ人のものだけではなくなり、いつしか世界で読まれるまでに広められ、いまや並ぶべき書物がないまでに流布され、イエス・キリストの名は世界中に広く知れ渡りました。

そして、来るべき「終末」という特別な時期ともなれば、人類を巡る両者の対立が、キリストの初臨に勝って世界中を巻き込み、史上なかった規模で世界を覆う時となり、この争いを免れることは誰にも許されないことでしょう。これから起る決定的な闘いは、『この世』という神から離れ落ちた人間社会の終りと再出発を前にして、いよいよ大きな山場を迎えることになります。

さて、創世記のはじめで予告された『女の裔』が何者であるのかの謎は、すでに新約聖書によって明らかにされています。
それは『地のあらゆる氏族が自らを祝福する』というアブラハムの子孫であり、モーセの律法契約が目指した『祭司の王国、聖なる国民』の到来でしたが、律法が生み出したのは、唯一その掟をことごとく成就したイエス・キリストただ一人だけであったのです。

しかし、イエスは『新しい契約』によってメシアへの信仰を働かせたイスラエルの残りの人々と、異邦人から補充された人々を『聖霊』によって、血統だけによらない「真のイスラエル」として生み出し、彼らを『兄弟』、つまりキリストに同じく『神の子』とし、そうしてアダムの罪を赦された民を地上に出現させ始めたのでした。そして、彼らは『聖なる者』、『聖徒』と呼ばれるに至ったのです。

その人々はキリストの犠牲を人類全体に先立って適用されたことにより『天に登録された初子たちの集会(エクレシア)』と呼ばれていますし、律法制度でレヴィ族が『初子』つまり長子の部族として祭司職に任じられたことも、聖霊を注がれた彼らが『初穂としての霊を持つ』とされることも共に彼らが神に選び取られた格別の人々であることを示しています。(ヘブライ12:23/民数記3:40/ローマ8:23)

『聖霊』を注がれて『異言』という習得したことのない言語で神を賛美する奇跡の賜物をはじめとして、その『翻訳』、また神の『知識』や『知恵』、そして『預言』や『癒し』に至る様々な能力を表して、自らが『新しい契約』に属する『聖なる者』であることを示した人々は、第二世紀の終り頃から存在がはっきりと資料に残されなくなり、第四世紀にまとめられたエウセビオスの「教会史」では、キリスト教の第一世代である使徒たちについて『彼らは、自分たちと共に働く神の霊と、自分たちを介して成し遂げられるキリストの奇跡を行う力を使って、天の王国の知識を全世界に宣べ伝えた』とあり、また第二世紀の中頃については『当時はまだ神の賜物によって多くの不思議な業が様々な教会で行われていた』とも記されています。
つまりこのエウセビオスの書が著された第四世紀には『聖霊』を注がれた人々は過去のものとなっていたのです。(教会史3:24・5:3[エウセビオス「教会史」上講談社学術文庫)

そして今日に見られる諸教会の基礎が据えられたのも、ローマ皇帝がキリスト教に介入を始めた同じ第四世紀のことで、それ以前の『聖霊』が導いていたキリスト教とは異なる教えに変化し始めました。
しかし、きわめて重要な事に、イエスはご自身の再臨の時に、つまり『終わりの日』にも聖霊で語る弟子がいることを示されているのです。それが『聖霊』で語る弟子たちの預言であるのですが、もちろん、神のこの世への介入が起るときに、超自然の事柄が起きないと考えることは聖書を知る者にはあり得ないことです。(ミカ7:15-16)

そして聖徒が終末に現れるなら、『新しい契約』はキリストの再臨の起る『終わりの日』に再び締結されるだけの『効力を持つ』ことになります。(ダニエル9:27)
この点は、旧約聖書にも多くの関連する句が存在しており、特にダニエル書では、その第八章で歴史上の世界覇権の移り変わりを描いたうえで、『彼らの国の終りの時になり、罪びとの罪が満ちるに及んでひとりの王が起る。その顔は猛悪で、彼は曖昧な言い回しをよく理解し、その勢力は盛んであって、恐ろしい破壊をなし、その行うところは成功し、力ある人々を倒し、聖徒である民をも滅ぼす』としています。(ダニエル8:23-24)
つまり、『聖なる民』は迫害に遭って滅ぼされるというのです。それもこの受難については一度ばかり語られたことではありません。(ダニエル7:21)
これは、メシアが『彼はさげすまれ、わたしたちは彼をさほどの者とは思わなかった。』と軽視され処刑に至ることを予告した預言者イザヤのように、ダニエルはその『兄弟たち』、つまり『聖徒たち』の受難をも予告していたのです。(イザヤ53:3-4)

加えて、聖書最終巻である黙示録にも、終末に『二人の証人』が登場しており、キリストのように三年半『1260日の間預言させた』その後に、やはり『底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す』とあります。(黙示録11:3-7/箴言28:15)
この『二人の証人』が誰かについては、『地に住む人々は、彼ら(の死)を喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。この二人の預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである』と補足されているので、彼らは『この世』の罪を暴く者で、人々を悩ませる預言を語っていたことから、ユダヤ体制の悪を暴いたイエスのような存在、つまり『わたしの業を』『より大きく行う』とされたキリストの弟子らであると結論付けることは聖書の内的調和からして的外れではないでしょう。
『二人』というのは、法的証人としての複数の証言者によらなければ重大事案は裁けなかった律法の概念に触れているのでしょう。それだけ終末の証人たちの言葉が重い知らせであるということです。(ヨハネ14:12/民数記35:30)

かつて、イエスがユダヤ一国の中で行われた証しの業と裁きを、終末の聖なる弟子たちが世界規模で行うと見るべき理由は、『より大きな業を行う』と言われた上記の句ばかりでなく、旧約の預言書の中で神YHWHが世界を裁く時が到来することが何度も明らかにされているところに十分な根拠を見出せます。例を挙げれば、預言者エレミヤはこう言っています。
『叫びは地の果にまで響きわたる。YHWHが国々と争い、すべての肉なる者を裁き、悪人を剣に渡すからであるとYHWHは言われる。万軍のYHWHはこう仰せられる、見よ、国から国へ災いが出て行く。大きな嵐が地の果から起こる。』(エレミヤ25:31-32)

また、イザヤはこう言います。
『諸々の国よ、近づいて聞け。諸々の民よ、耳を傾けよ。地とそれに満ちるもの、世界とそれから出るすべてのものよ、聞け。YHWHはすべての国に向かって怒り、そのすべての軍勢に向かって憤り、彼らをことごとく滅ぼし、彼らを屠られた。』(イザヤ34:1-2)

預言者ゼパニヤの言葉も激烈さでは劣りません。
『YHWHは言われる、「それゆえ、あなたがたはわたしが立って証言する日を待て。わたしの決意は諸国民をよせ集め、諸々の国を集めて、我が憤り、我が激しい怒りをことごとくその上に注ぐことであって、全地は、ねたむ我が怒りの火に焼き滅ぼされるからである。』(ゼパニヤ3:8)

こうした預言の言葉は聖書に広く見られ、新約聖書にも見出されます。
『その時には、世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る。』(マタイ24:21)

『人々は、この世界に何が起こるかをおののき、恐ろしさのあまり気を失うだろう。森羅万象が揺り動かされるからである。』(ルカ21:25-26)

『地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らもみなが洞窟や山の岩かげに身を隠した。そして、山と岩に向かって言った。「私たちの上に覆いかぶさって、玉座におられる方の顔と小羊の怒りから、私たちを匿ってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。誰がその前に立つことができようか』(黙示録6:15-17)

『この世』というものが、実は悪魔の策略によって人類が否応なく陥っている苦しみの世界であるという実情を知らずにいる人なら、聖書やキリスト教というのは、ひとえに人に穏やかで敬虔な振舞いをさせるものだと思っているような人々もいて、以上のような神と世界が対決する激烈な預言の言葉は「聖書」らしくなく、耳を疑うような内容と思えるかも知れません。

しかし、上記のように激しい預言の言葉が聖書に再三に記されている以上、美しく柔和な言葉を聖書から拾い読みしてありがたがっていても、それが神の言葉の趣旨となるわけでも、また聖書やキリスト教の本質に触れたことにもなりません。それは「その人が望むキリスト教」であって、やはりユダヤの宗教家らに彼らの願ったようなメシアは到来せず、今日までも待ち続けている姿に重なってしまうのではないでしょうか。

実際のところ「人の幸福」とは、個人が「天国の至福を味わうこと」なのでしょうか。それとも人類全体の幸福は対症療法ではなく根本治療なくして到来しないというべきでしょうか。
聖書を通して見える神の意志は、悪魔が据えたものを根こそぎにすることであり、キリストが命をかけた闘いを地上で行い、ついに忠節を尽くしたのも、人々に真実の幸福をもたらすためではなかったのでしょうか。それこそがエデンで語られた『女の裔』、また『アブラハムの裔』の役割ではありませんか。
その益にあずかるはずの『地のあらゆる氏族』がそれを否定してよいわけもありません。(創世記22:15-18)

『聖なる者たち』はキリストの兄弟、また同労者となって終末にも任命を受け、神の代弁者として聖霊に導かれて語るので『この世』からの様々な攻撃の矢面に立つことになります。彼らこそは、天界でキリスト共になる『栄光ある者たち』であって、『天使をも裁く者となり』、『その最も小さい者さえ』『女から生まれた中で最も偉大な』バプテストのヨハネに勝ると言われる通りです。(ペテロ第二2:10/コリント第一6:3/ルカ7:28)

イエスがかつて弟子たちにて言われた言葉、『「下僕は主人に勝らない」と、私が言った言葉を思い出せ。人々がわたしを迫害したのなら、あなたがたをも迫害するのだ。』との言葉の通りに『キリストと共になる者ら』は、やはり同じく『女の裔』としてかかとを砕かれなくてはなりません。キリストが磔刑に処せられたように、彼らも『自分の(磔刑の)木を荷って後に続く』覚悟が要ります。(ヨハネ15:20/創世記3:15)
しかし、それを通して彼らはキリストとまったく結ばれた者らとなり、地上の試みは、彼らをイエスを『隅の頭石として』その上に神殿となるよう積み上げられるに相応しく試され研磨された石とさせるのであり、試みを通過してこそ彼らの天の立場は確定し、欠くことのできない一員となるのです。しかし、その試練はイエスがそうであったように簡単なものではありません。(マタイ21:42/ペテロ第一2:5)

彼らの試練が終わる時、『新しい契約』を最後まで保って亡くなった聖徒らと、忠節の内に生き残っている聖徒らとが天界に召されるに際し、キリストはまず聖徒らを復活させる権威を行使するでしょう。『父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える』とは『新しい契約』の仲介者であるキリストが、その契約に属した者の誰を復活させるかを選ぶ権限を持っていることを明らかにしています。(ヨハネ5:21)
ですから『天の王国は、海におろして、あらゆる種類の魚を採る網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、それから座って、良いものは器に入れ、悪いものは外へ捨てる。世の終りにもそのようになるであろう』という「引き網の例え」の意味はこの観点から明らかになります。

そのためにイエスは『墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善を行った者らは命を受けるために生き返り、悪を行った人々は裁きを受けるために生き返って、それぞれに出てくる時が来るだろう』という復活に関する句についても、神の行う復活の業と、キリストの行う二つの復活の業があることを示唆しています。『新しい契約』を全うした聖徒らは、『終わりの日』に『神の王国』を建てるために復活を受けますが、黙示録はこの復活を『第一の復活』と呼んでこう記しています。『第一の復活を受ける者は幸いな者であり、また聖なる者である。この人たちに第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間支配する。』(黙示録20:6)

また、黙示録は『それ以外の死者は、千年の期間が終るまで生き帰らなかった』とも述べます。つまり、これは『聖徒』としての復活をしない、あらゆる時代の世界の人々の復活を指しており、「第二の復活」とも言えます。
それですから契約を守らなかった聖徒らについては『第一の復活』は受けられないでしょう。なぜならイエスがそれを望まない者となっているからで、彼らは一般の人々と共に千年後に肉の人として生き返ることでしょう。そうであれば、それは復活とはいえ彼らにとって愚かさと恥辱を表すことが避けられないことになります。(マタイ25:1-13)

また、終末に幾らかの忠節な聖徒たちが、『第一の復活』の時期まで生き残ることも知らされています。
『生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは決してない。』とパウロが述べた通り、最後まで生き残った聖徒らは、第一の復活が行われたすぐ後から、『雲の内にあって』つまり人に見られることなく天に召されることになるとされています。もちろんこれは新教系の「クリスチャン」が「携挙」と呼んでいるものとは意味が違います。(テサロニケ第一4:15-17)

ですから、この時点になっても天への召しがない聖徒は、『新しい契約』に忠節でなかったのであり、おそらくはその自覚もあることでしょう。何かのことで『この世』からの圧力に屈してしまっているのです。
『自分の魂を救おうとするものはそれを失い、それを失うものは得るのである。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、一人は取り去られ、他の一人は残される。ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、一人は取り去られ、他の一人は残される』との句は、まさに彼らが契約を守らないことの結果を警告して語られたものという以外にありません。(ルカ17:33-36)

契約を守らない事には、世の側に立ってしまうばかりでなく、聖霊を受けながら何もしないという不忠節も起こるのでしょう。
イエスは、自らを『王権を確かなものとするために旅立つ高位者』に見立てた「ミナの例え」を使徒たちに語っていました。(ルカ19:11-27)
ミナというのは金額の単位で、1ミナは今日の80~100万円ほどになります。
さて、ルカの記すミナの例えでは、この主人は王権を獲得するために旅に出るので、この主人は王とも成れる立場の皇太子か有力貴族ですが、主人と奴隷たちのほかに、その主人の王権獲得を望まない『市民たち』という第三の者らが幾らか顔を出し、ミナの例えを具体的に明らかにしています。

この当時の王権と言えば、ユダヤを治めるヘロデ家の息子たちが王になるに際し、皇帝の裁可を仰ぎにローマに赴き、そこで任命を受ける必要がありましたから、場合によってはローマに長く逗留させられることにもなりました。
しかも、うまく皇帝から王権を授かるのに成功したからと言って、そのまま王位に就けるとは限りません。たとえ信任状や認証指輪などを持って帰国しても、自国の中の対立勢力を自分でねじ伏せ、王位に就くことを実力で勝ち取る必要があったのです。

そのような主人は、まず自国を留守にして『王権を確かなものとするために旅立つ』必要があったので、家の下僕らにそれぞれ1ミナを託して、それで各自が商売をして1ミナを増やすように命じてから出発しました。その後から、その国のある市民らは使節を送り、この主人が王となることを望んでいないと権威者に申し立てました。

それから主人が王権を授けられて帰国すると、下僕らの商売の結果を報告させます。
ある下僕は1ミナを10ミナに増やしましたので、主人はその者に十の街の支配権を与えます。同じように5ミナに増やした者には五つの街を与えます。
しかし、ある下僕は1ミナを1ミナのまま持っていました。それは商売に失敗したわけでもなく、なんと、1ミナを布に包んでそのままにしておいたのでした。

その理由は、主人が『自分ではまいていない場所から刈り取ろうとする厳しい方』なので、『恐ろしくなって』何もしないでいたというのです。
主人は、それなら両替商にでも預けるだけでもその利息と一緒にもらえたのに、それさえしなかったことを責めます。
そしてその下僕の1ミナを取り上げて10ミナに増やした者に与えるようにと命じ、それから主人を王として望まなかった市民を打ち殺させるのでした。

この一連の例え話は、この例えによく似たマタイにある「タラントの例え話」と共に、イエスが地上の生涯を終える数日まえに話されたもので、まさにイエスが『神の王国』の王権を確かなものとするために天の神のもとに旅立とうとしていた時期でありました。
そこで弟子たちにはミナに当たる何か貴重なものが与えられ、主人であるイエスが再び到着するときに、弟子たちはミナをそれぞれどう運用したかを報告することが求められることがこの例えで示されています。

下僕の内の一人が託された財産をまったく使わず、利息を得るために預けもしなかったその理由は『恐ろしかった』という告白から明らかで、主人の財産の運用で失敗する怖さでもなかったことは『両替商にでも預けていればよかったのだ』という主人の指摘からも分かります。
この託されたものを布に包んでしまっておいた下僕は怠惰であったのでもないでしょう。財産を増やすという主人の意向を知りながら、怖くてそうしなかったのです。

ここに託された財産が何であるかを知る糸口があります。
それは、運用するならその身に危険が及び兼ねないもの、公にすることさえ恐れを招き兼ねない何物かです。
これをキリストが残した聖徒たちの務めと照らし合わせるときに、それが『聖霊の賜物』であり、特に終末では奇跡の言葉を語らせると共に、それは『この世』との対立を招くほかありません。神の創造の意図から堕ちたその世界の『罪』を糾弾し、新たな支配体制である『神の王国』に道を開けるべきことを聖霊は宣言するに違いなく、それも論駁不能である完璧な言葉であれば、人々は聞かなかったことにはできないでしょう。まさしくイエスが言われたように『世はあなたがたを憎む』のです。(ヨハネ15:19)

イエスは弟子らに『招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない』とも『狭い戸口から入るように努めよ。入ろうとしても入れない人は多いのだ』とも言われました。これは後の『わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、それぞれ体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない』との使徒パウロの訓戒とも一致します。(マタイ22:14/ルカ13:24/コリント第二5:10)

この厳しさは、彼らの受けることになる『キリストと共なる凱旋行列』に加わる栄光にふさわしい勇敢さを示すよう促すものでしょう。つまり『この世』に対する勝利の行進です。(コリント第二2:14/コロサイ2:15)
しかし、イエスは『わたしは平安をあなたがたに残し、わたしの平安を与える。わたしはそれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。恐れおののくな』とも言われ、獣刑に処せられたことも石打の死刑にも遭ったことのあるパウロも、『神は忠節な方であり、あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時にそれに耐えられるように逃れ道も備えて下さる』と書いています。(コリント第一10:13)

初期キリスト教徒の殉教伝説を集めた聖人伝は、中世期に欧州で脚色されたものではありますが、それらの言葉の端々に迫害に散っていったかつての聖人たちには、拷問や処刑に在っても平静を保つ様々な超自然的な助けがあった様子がおぼろげに伝えられています。いずれは肉体を解くべき彼らは、その痛みも免れたのかも知れません。
おそらくは、聖霊の奇跡の賜物からして、彼らの決意を最後まで貫かせる心の平穏さを神が与えられないということはなかったことでしょう。

そうして、ふさわしく整形された石の数々として聖徒たちの忠節が『隅の親石』であるキリストの上に積み上げられ、ついに天の神殿が建立されて、キリストたちは地への王権を手中にすることになります。
それからは、『神殿への復讐』がなされる時であり、もはやイエスは自らと兄弟たちを葬った『この世』と戦う大王としての厳貌に変わり、黙示録が描くように王冠を頭に載せ、炎のように燃え立つ両眼、口から諸刃の長剣が突き出した姿となってすべての聖徒たちを率い、いよいよ『この世』の征服へと乗り進まれることでしょう。さて、その王権を望まなかった市民らはどうなるでしょうか。(エレミヤ51:11/黙示録1:12-18/ローマ16:20)

こうして砕かれたかかとは癒され、次にはヘビの頭が砕かれなくてはなりません。地上で誰をも裁かれなかったイエスは、今や王権を得て世界を自らのものとされる時を迎えるのであり、人々は自分の目で見ることができないながら、どれほど疑い深い人であってもキリストの再臨を認めざるを得なくなる時が来るでしょう。





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キリストの再臨とこの世の裁き

2020.11.08 (Sun)


地上に現れたイエスは「初臨のキリスト」と呼ばれることがあります。
それは、福音書の中でイエス自身が何度も予告されていたように、天に去った後のいつの日にか戻って来られることを告げていたので、キリストの帰還を後の人々が「再臨」と呼ぶようになった前後の対照からきたものです。
「再臨」という言葉は聖書にはありませんが、イエスは確かに『人の子が来るとき、果たして地上に信仰が見られるであろうか』または『人の子の来る時は、ノアの日のようになる』とも語られました。これらは明らかにキリストが再び来られる後の時代のことを指していることは疑問の余地がありません。しかも、それはいつになるか分からないので、『見張り続けるように』とも言われのです。(ルカ18:8/マタイ24:37.42)

また、パウロが『生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが・・彼らと共に雲の中で引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるようになる』と書いていたので、教会によっては、いつの日にか自分たち信者が天に挙げられてイエスに会い、そのまま天で過ごすものと信じてもいます。
ほかにも、弟子たちがイエスの天に昇ってゆく最後の姿を目撃した使徒言行録の場面では、イエスが見えなくなった空をいつまでも眺めている使徒たちに、二人の天使が現れて『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上られたのをあなたがたが見たのと同じ有様で、また来られる』と言ったと書かれているところから、再びイエスが天から、その場所であったエルサレム東側にあるオリーヴ山に降って来られるものと信じてやまない人々も少なくないようです。
それに加えて、その時には今ユダヤ教徒であるイスラエルの人々が、降臨されるイエスを実際に見て悔い改めて回心し、キリスト教に大量改宗することを心待ちにしている「キリスト教徒」も少なくありません。

このように、さまざまな「クリスチャン」と称する人々が、それぞれにイエスが再び来られると言われた言葉を受け止めているのですが、ひとつの共通点があります。それは、キリストの再臨の記述に必ずと言って良いほど伴う『雲』という一言への配慮がみられないことです。

「雲」と言えば、登山をする人々やパイロットたちにとってはたいへん厄介なものです。視界を妨げるからです。
旧約聖書には、エジプトを後にしたイスラエルを追撃するエジプトの戦車と騎馬の部隊の前に雲の柱が立ちはだかり、イスラエルを紅海の対岸に渡させる時間を与えるものとなった故事が有り、また、崇拝の天幕と什器が完成し、祭司たちが準備を整えたところで、天幕には雲が充満して、祭儀を開始することがしばらくできなくなりました。それはソロモン神殿の最初の時にも起ったことでありました。

新約聖書でも、あるときイエスが山の中で輝きはじめて変貌され、その幻の中に共に現れたモーセとエリヤと会話している場面が終わろうとするその時、使徒たちの前に再び普段のイエスの姿に戻るところで、やはり雲が使徒らの視界を妨げて場面を転換しています。(マタイ17:5/ルカ9:34)

これらの前例から終りの日に『雲と共に来る』または『雲に乗って来る』と言われるイエスの再臨を考えるとすれば、その戻られる姿が見えるものかに疑問符を付けるものとなるでしょう。

加えて、イエスは『終わりの日』の預言、つまり終末預言の中では、ご自身の次の来臨は『稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来る』と言われてもいます。(マタイ24:27/ルカ17:24)
これは、肉体をまとったイエスを広く人々が同時に見られる到来となるという意味ではなく、その直前の文脈で、イエスは偽キリストの登場があることを警告して『人々が「見よ、彼は荒野にいる」と言っても、出て行くな』また「見よ、奥の間にいる」と言っても、信じるな」』との言葉との対照を言い表しているというべきでしょう。これはイエスが地上のどこかの場所に居るものではないという意味以外に捉えられません。『しばらくすれば、もはや世はわたしを見ない』とのイエス自身の言葉を加えるなら、キリスト再臨が不可視であるとの理解は動かし難いというべきでしょう。(マタイ24:26/ルカ17:23/ヨハネ14:19)

さらに、この点を強く支持するのは、キリストの再臨が『裁き』でもある点です。
今日、イエス・キリストほど名の知れた人物もないほどです。イスラム教徒でもイエスは偉大な預言者「イーサー」と呼ばれ、やはり終わりの時に再び現れるものとされています。意外にもイエスはイスラム教徒からも敬われる偉人なのです。
世界一般でのキリストのイメージといえば、長髪に白衣をまとった姿にすっかりと定着してもいるので、それらしい人物が同じようにして現れるなら、自然とイエス・キリストだと思えるほどになっているほどです。『偽キリスト』を演じることはそう難しいことではなさそうです。しかし、古代ユダヤでのキリストの最初の現れでは事前のイメージなど無いことでしたから、ユダヤ体制もメシアとは外見で分からずに裁かれたというべきでしょう。

ですが、キリストが『この世の裁き』のために再臨されるのであれば、それと分かる姿でこの世に現れるものでしょうか。
もし、そうするなら、人々はキリストの前に自分の内心を思うままさらけ出すことはしないでしょう。むしろ救われたいがために「敬虔なクリスチャン」を装うのでありませんか。
かつて、キリストの最初の現れ、つまり「初臨」の際には、旧約の預言にあったメシアの故郷とされるベツレヘムからは来られなかったので、ユダヤ人にはナザレ村から来た大工の息子をメシアとして受け入れるには、どうしても聖書の知識を超えるイエスへの信仰が求められました。そのとき、神は律法を守る業ではなく、御子への信仰によって人を救う『義』を与えようとされたからです。(フィリピ3:9)

確かにイエスは復活を受けたあとに弟子たちに現れ、食事さえしています。
しかし、その復活でイエスが再び人間となられたわけではありません。それが証拠に旧約聖書には天使たちが食事をしている場面が一度ならず有り、そのことは『キリストは肉において死に渡され、霊において生かされた』という使徒ペテロの言葉を否定できるものではありませんし、再びキリストが肉をもって現れるなら、その犠牲は、またアダムのための贖いはどういうことになったのでしょうか。(創世記18・19章/ペテロ第一3:18)
やはり『「最初の人アダムは生きる魂となった」とあるように、また最後のアダムは命を与える霊となった』と述べるパウロも、やはりペテロに同じくイエスは霊者となったことを教えています。(コリント第一15:45)

そして、キリストの再臨が『この世の裁き』のためであるなら、世界の人々が自分がどのような者であるのか、その内面が明らかにされねば『裁き』の意味をなしません。
そこで、神もキリストも裁きの前には決して『顕現』はしない、つまり圧倒的な現れ方はしない理由があることになり、それはユダヤ体制の裁きでも、またエデンで禁断の木を監視しなかったところにも一致します。神は人の決定を見守られていました。

では、キリストの再臨が『雲』によって衆目には隠されたものであるとするなら、キリストの圧倒的な現れではなく、まずは受け入れるも拒絶するも可能な一定の範囲での神の証しを人々は見聞きすることになるでしょう。
キリストの終末預言の中には、まさしくそのようなものが有るのです。
それがつまり、イエスが終末に起る事として語られた、弟子たちが為政者らの前に引き出され、彼らがそこで聖霊の語らせるままに語るという新約聖書に繰り返し現れる終末預言の事態の発生です。(マタイ10:17-18/マルコ13:9/ルカ21:12-14)

そのときには『すべての反対者も論駁できないような言葉と知恵が授けられる』ので『予め何と言おうかと思い悩む必要はない』また、『話す練習はしなくて良い』とまでイエスは言われているのです。(ルカ21:15/マルコ13:11)
これは世界的な注目を浴びるものとなるのでしょう。ですから『それは彼ら(為政者)と諸国民とに対する証しのためとなる』ともイエスは言われます。つまり人間の能力を超えた神の行う世界宣教とも言えるものです。(マタイ10:18)
ですが、それらの弟子たちはキリストご自身ではありませんから、世界は彼らの証しを受け入れるも退けるも強制されるほどのことにはなりません。ですから、そこで求められるのが「信仰」と言えます。

その弟子たちの聖霊に導かれる言葉が具体的にどんな文言となるのかは、当然ながら今は皆目わかりませんが、それが人間の『罪』を知らせ、『神の王国』の到来を知らせるものとなることは『この世』と『キリストの支配』の対立性からして明らかでしょう。ですから聖徒たちは『王や高官の前に引き出される』のであり、そうして宗教家らと論争するよりも重い現実的争点に立つ理由があります。『神の王国』は到来する現実の支配であるからです。
そこで人々は、『この世』という現状の体制と『神の王国』という新たで理想的な社会との選択で分かれるであろうことは今からでも容易に想像できます。

もちろん、世の政治家たちがその立場を喜んで譲るとは思えませんし、それは詩編第二に『地の諸国の王は一団となって立ち構え、諸国の高官も共に謀り、YHWHとその油注がれた者とに逆らって言う。「我らは彼らのかせを壊し、彼らのくびきを解き捨てよう」』と言うと予告されている通りのことになるでしょう。
『この世』には複雑に絡んだ無数の「既得権益」というものが張り巡らされてもいるのですが、世の中は体制的に古い利権構造を変えたがりません。一部の富裕な人々が得をするピラミッドがすでに存在しているからで、新しく廉直なシステムを嫌います。それに対して『神の王国』ほど革新的で新しく公正なものも無いでしょう。
そこで問われるのは、利己心か利他心かということにならざるを得なくなります。
すべての政治家や既得権益者がキリストの支配を拒むというわけではないにしても、それはよほど高潔な人、僅かな人数ではないでしょうか。
聖霊の言葉に世界は揺さぶられることを、使徒パウロは旧約聖書のハガイの預言を引用して、神はシナイ山を激しく揺さぶったように、再び天地を激しく揺さぶると述べ、『あなたがたは語っている方を拒んではならない』と警告しています。(ハガイ2:6-7/ヘブライ12:25-27)


これらの事が起る時には『聖霊』が再び注がれているに違いなく、その時代にも『聖なる者』が再び現れていることの証拠というほかありません。それこそがキリストの再臨の決定的な証拠であり、『終わりの日』は間違いなく始まっていることになります。
そのとき、キリストの二度目の来臨が、信仰ある人々にとって必ずしも祝福になるとは限りません。それはマラキの預言が警告していた初臨のユダヤと同じです。
やはり、終末の再臨が『この世の裁き』でもあることをイエスは次のように語っています。

『人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。それからすべての国の民がその前に集められ、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
そして、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぐように」』(マタイ25:31-34)
しかし、左側に分けられた人々には『呪われた者どもよ、わたしから離れて、悪魔とその使いらに用意された永遠の火に入ってしまえ』と言われるのです。(マタイ25:41)

このように人々を分けるものが何であるのかを明かして、イエスはこう言われました。
『あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、渇いていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかった』。
そこで、彼らもまた答えて言う、「主よ、いつ、あなたが空腹であり、渇いておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか」』
『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。

これら呪われた人々とは逆に、キリストの是認に入った人々にはこう言われます。
『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、わたしにしたのだ』。

ここに『この世の裁き』の条件が示されています。それは「キリストの兄弟」、つまり『聖なる者』への態度によるのです。
また、それは『人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜はけっして赦されない』と言われた通りであり、あらゆる人は、聖霊の言葉によって二つに分けられることをイエスは明らかにされているのです。(マタイ12:31)

そして、これらの言葉からも、イエスの再臨はやはり目に見えないものであることが明らかになります。どちらの人々もイエスの兄弟への振舞いが自分へのイエス本人からの酬いになるとは思っていなかったのですから。しかもイエスは地上にご自分を捜さないようにと言われるのです。
やはり、『この世の裁き』に於いて世界を分けるものは『聖霊の言葉』であり『聖なる者たち』への人々の反応であるのです。これこそは、人が到底できないような『聖霊』を用いた神の裁きなのでしょう。

では、そのとき人々はどう反応するのでしょうか。
『この世』とそこから得られる利益に執着し続けることは大きな罠になるでしょう。『この世』は『神の王国』と折り合えるものではないからです。そして人は『聖徒』でない限り、誰もが『この世』に属し、アダムの『罪』の内に生きています。
特に政治に携わる人々、大企業の経営者、聖徒らを捕縛する役割を負うような警官や軍人にも葛藤は避けられないことが考えられます。更に難しいと思われるのが宗教関係者となることでしょう。
神やキリストの顕現を見るならまだしも、人間である聖徒らの『聖霊』の発言を前にして、それまで教えてきたこと、また信じてきたことを訂正するだけの潔さがあるでしょうか。
あるいは、かつてイエスに神の印を感じ取り、その許を訪ねたユダヤ最高会議議員でパリサイ派であったニコデモのように廉直な宗教人も終末に現れるかも知れません。またイエスの処刑を担当したローマ軍の百卒長が信仰を言い表したようなことがあるかも知れませんが、そう多く望めないようではあります。(ルカ23:47)

キリストの初臨を迎えたユダヤからして、神の裁きに臨む誰にでも言えることは、自分の利益や権威に凝り固まっていないこと、自分の利益や体裁ではなく真実を求め、人々への共感や同情心に豊かであることは神の目に不変の価値あることでしょう。
しかし、「自己義認」というものは避けるべきものです。「自分は正しいのだから、時には悪を行うことも許される」というのは神の前には通用しないことに違いなく、それこそはユダヤの宗教家らがメシアに対して行った決定的な悪でありました。彼らの「正しさ」には自分の都合や願望が混じっていたところで、イエスへの神の証しを見ても神の義には服せなかったのでしょう。

結局のところ、ユダヤの宗教家らの優れた聖書の知恵や表面上の清さ、正しさは、かえって彼らに罠となったのです。
聖書やキリスト教の知識でさえ『持っているものまでが、取り上げられる』というイエスの警告の言葉はまだ終わっていないというべきで、その裁きでは、その人の思想も信条も関わりなく、もちろん「クリスチャン」であるかどうかにも関わりなくすべての人に臨むことでしょう。
まことに『人は人の外の姿かたちを見るが、YHWHはその心を見る』と言われる通りです。(サムエル第一16:7)

では、各人は終末に至って聖霊の言葉を聞くときに、どう判断し行動するのでしょうか?
その聞く事に純真な価値観を持てるなら幸いなことで、人は誰もが自らの心を常に省みるべきではありませんか。
キリストの初臨を受けて試されたユダヤ体制が、終末の再臨の裁きの時期に生きる人々への重い教訓となって聖書に記されていますが、これは歴史にも刻まれた動かし難い事実なのです。





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聖徒と信徒の違い

2020.11.06 (Fri)


新約聖書を注意深く読んでいると、特にイエスの後の使徒たちの時代以後の手紙文の中で『聖なる者』や『聖徒』と呼ばれる人々が登場することに気付くことがあるでしょう。例えれば『キリストと結ばれて神聖なものとされ、聖なる者となるため召された人々と、・・すべての人たちへ』というように、これらパウロの手紙の宛先となったのはそれぞれ誰のことでしょうか。(コリント第一1:2/コロサイ1:12)

キリスト教会では、ほとんど例外なく『聖なる者』という呼び名も、ただ同じ信者を表す別名というくらいに解釈されているのですが、しかし聖書を良く読み込むと、キリストの犠牲が最初に適用され『聖霊』を注がれた者らが、『聖なる者』また『聖徒』と呼ばれることに気付けるものです。
つまり、あのペンテコステの日をはじめとして、奇跡の賜物を受けた弟子たちのことです。もちろん今日には、あのような人たちは存在していません。(エフェソス1:18/コリント第一14章)
天に召される『聖徒』と、地を受け継ぐ『信徒』との違いがあると聞くと、「それは不公平だ、神は信じる者を差別しない」と反論する「クリスチャン」もいることでしょう。ですが、それは「アブラハムの裔と契約を結んだ神は不公平に人を差別した」と言うことになってしまいます。

やはり、ほとんどのキリスト教会がそうであるように、信徒と聖徒の違いに気付けないとすれば、キリストの信仰者はみなが天にゆくものとされることにもなってしまいます。確かに、天でキリストと共になるという内容が新約聖書のあちこちに出てくるので、信者がみな天にゆくものと思えるのかも知れません。(ヨハネ14:3)
しかし、『復活』が死者に残された希望であることもまた聖書の述べるところで、実際イエスがラザロのような人物を生き返らせているので、人間の生きる希望が天と地のどちらにあるのか、教会の教えでは混乱を感じている人もいることでしょう。

そうした教会の教えでは、「地上に人が生きるのも、天に招く人を選別するための試みである」ともされます。しかし、それにしては神がアダムとエヴァを地上に創造して『たいへん良い』と満足されたのはなぜでしょう。人は天に生きるように創られたのでしょうか。(創世記1:31/詩編115:16)
しかも、福音書でラザロの姉妹であるマルタは、四日前に亡くなった兄が『終わりの日の復活の時に生き返ることは知っています』と当時のユダヤ人一般の信じるところをイエスに語っていましたし、ユダヤ人は地上への復活を信じるので死者には土葬を施してもきたのです。(ヨハネ11:24)

そこで、キリスト教を本当に知ろうと願うなら、神の人間についてのご意志が何であるのか、地上に復活させるのか、天に召すのかを曖昧なままにはできません。
では、真相はどうなのでしょうか。

さてパウロは、キリストが弟子たちを導いた『新しい契約』の意義を説いて、『召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐため』としています。
つまり『天の王国』をキリストと共に受けることです。
それですから彼らの『市民権は天に有り』、キリストによって『世から選び出された』ため、聖霊を受けたときから『この世』のものではありません。そのためにも彼らは、キリストと共に『この世』という地上の人間社会を裁く立場に就くことができるのです。(ヘブライ2:11・9:15/ガラテア6:16/フィリピ3:20/ヨハネ15:19/コリント第一6:2)

また使徒ペテロも、聖霊を注がれた彼らが地上に在っては『寄留者』であり、『霊によって聖なる者とされ』、『血の注ぎを受けるために選ばれた者たち』であり、『天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、絶えない財産を相続する者』であること、また『神は・・イエス・キリストの復活を通して、新たに生まれさせ、さらに生ける希望を与えてくださった』とも述べています。つまり、選ばれた者たちは、キリストの復活した天への命を共に受け始めているというのです。(ペテロ第一1:1-4)

また、パウロは『わたしたちは罪に定められない』と述べ、彼らがアダムからの『罪』を赦された状態に入ったことを教えてもいます。『霊に導かれる者は神の子である』ので、キリストの犠牲の贖いが最初に受けられるので、彼らは『人類の初穂』でもあるのです。(ローマ8:33・14/ヤコブ1:14)
つまり、彼らは『新しい契約』に入ることで、前述のようにキリストと結びついた近親者、共に『神の子』、キリストの『兄弟』となり、真実の『アブラハムの裔』、『神のイスラエル』に含まれたのです。(創世記22:18/ガラテア6:16)

もともと、モーセの律法の目的は『聖なる国民、祭司の王国』をアブラハムの子孫であるイスラエル民族から導き出すことにありました。(出エジプト19:22)
しかし、イスラエルは不信仰を示して律法契約を守れず、バビロン捕囚を招いてしまいました。そこにおいて神は血統上のイスラエルとの関わりを律法契約と共に断念しています。(ヘブライ7:7-13)
それでも、預言者は『新しい契約』が結ばれる日を知らせ、それはキリストによって到来することになり、律法の目的であった『聖なる国民』がそこから実現したのでした。それが『聖徒』です。(エレミヤ31:31-33)

これらキリストの『新しい契約』に入った『聖なる者』については、聖霊が注がれ『罪』から清められ「贖われた状態」に入りましたが、いずれは彼らは祭司のように用いられ、天から地上のすべての人々を同じ『罪』のない状態に到達させるのが神の目的であり、そのことは律法の『贖罪の日』の祭礼の手順にも表れていた通りです。

大祭司キリストに次ぐ祭司たちとなる『聖なる者たち』についても、共に天界の神殿を構成し、天からの彼ら祭司団の働きによって人々が贖われるということ、それこそ彼らが天に招集される目的であるのです。祭司が汚れていては『罪』ある民を清める資格がないことを律法の規定が示していたように、天の祭司団も『罪』から清められた者でなくてはなりません。(テモテ第一6:13)
そこで『新しい契約』は、キリストと共に天界の祭司となる人々を、すでに地上にいる間から『罪を赦された者』つまり『聖なる者』と認め、『聖霊』を注がれてキリストの業を行う権威を授けていたのです。(コリント第一6:11)

しかし、『多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求される』とあるように、『聖なる者』となりキリストと共なる格別の立場に就いたからには、当然ながらより重い責任が生じます。(ルカ12:48)
そこでやはり、『聖なる者たち』が清めに入った状態にあるのは条件付きのもので、『新しい契約』によるその『罪の赦し』も仮のものです。彼らは地上にいる限りは、まだ完全な道徳性に到達しているわけではありません。もし、完全となっていれば、そのまま肉の体のままで永遠に生きることでしょう。

ですから、新約聖書に道徳的な行いを求める記述があるのは、『聖なる者たち』がキリストとの関係に相応しく歩んで『契約』を全うするよう勧告しているからです。依然として「アダムの罪」が彼らに働きはするものの、そこを『新しい契約』がキリストの『義』を仮に適用することで、彼らも『義』とされるのであり、失敗することはあるにしても、自ら悪業に走るなら、それは与えられたものを踏みつけることになり、『契約』を守っているとは言えなくなります。
彼らは『召されたその召しにふさわしく歩むように』しなければなりませんし、『汚れを大目に見るのではなく、聖化によって召された』のです。(テサロニケ第一4:7)

新約聖書が道徳的であるようにと命じ『不義な者には王国を受け継ぐことがない』と言うのも、彼らが『神の霊によって義とされた』からであり、モーセの律法のように守って『義』を勝ち得るものではなく、愛と良心に動かされて自分を汚さないことを意味します。(コリント第一6:9-11)
清さを守ることは、何かの規則を守れば良いということではなく神と人への気遣いによる『心の律法』によるので、使徒パウロであっても『ひたすら後のものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばしつつ、目標を目ざしてひた走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞を得ようと努めている』と語っているのです。(エフェソス4:1)

やはり「契約」というものは常に不確定な事柄について結ばれるものであり、確かにキリストの義は成し遂げられたものであっても、聖徒の一人一人が契約に忠節を尽くして守り通し、ついに義を得るか否かについては、彼らが地上で実証しなければならない各人の務めです。(テサロニケ第二1:4-5)
ですから、イエスは『自分の(磔刑の)木を担ってわたしに続け』と言われたのであり、『狭い戸口から入るように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない人が多いのだ』との厳しい言葉の数々は、キリストの『兄弟』とされる者に求められる条件であり、キリストの道を共にしなければなりません。
ペテロもこう言います。『あなたがたは、実に、そのような道に召されたのだ。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと模範を残されたのだ』。(ペテロ第一2:21)

彼らにも時に過ちを犯すことがあることについては『互いに罪を告白し合い、また、癒されるようにお互のために祈りなさい』とも書かれているように、自らが『罪』ある身であっても『聖』とされた事についての責務を各自が果たしてゆく必要があるのです。(ヤコブ5:16)
しかし、そのように自らの中にある『罪』との格闘を続けることにより、彼らには人々が負っている『罪』の克服が如何に難しいことであるかを実感する機会ともなり、それは彼らが天界から人類を扱うときに、深い哀れみと共感を働かせる資質として定着することでしょう。この点でも地上に来られ、人となられたキリストは模範者であり『主ご自身が試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができる』とあります。(ヘブライ2:17)

そのため、大祭司キリストとその従属の祭司である『聖なる者たち』が『神の王国』を構成し、人々を治めて贖罪を行う新たな時代が来たなら、『この世』のままに、争い満ち、人生を空しく過ごさねばならない今日とは対照的な世界の到来を期待することができます。
聖書の最終巻となっている「ヨハネ黙示録」は、『この世の終わり』とそれに続く『神の王国』について描写されている書ですが、『神の王国』は『この世』を終わらせて、一千年の間、生ける人々を顧みることを知らせています。(黙示録20:6)

『天の王国』が千年続くことについて述べるのは黙示録だけである理由から、第五世紀まで活動したカトリックの最も傑出した指導者とされる「聖アウグスティヌス」以来、「千年支配」は文字通りのものではないとされて教理から外され、無視されてもきたのですが、その同じ黙示録は『この預言の巻物から何かを取り去る者がいれば、命の木から・・・その者の分を取り去るで」あろう』と警告していたのです。(黙示録22:19)
聖書を読み続けていると分かることですが、謎めいた言葉の続く黙示録も新旧の聖書と非常に多くの関連を持っており、人間の知恵を超える不思議な調和が確かに見られます。誰かが黙示録は意味の分からない怪書だと言うなら、その人は聖書全巻にさほど通じていないだけのことでしょう。
しかも、その「千年王国」の幸福については、イザヤ書がその光景をいくらか描き出してもいるのです。

『天の王国』が『この世』を終わらせて登場する以上、その支配する地上の社会は当然ながら現状とは大きく異なるものです。
イザヤの預言書の第65章では、『わたしは新しい天と新しい地を創造する』という神の預言を語り、『以前のありさまは思い起こされることも、心に上ることもない』という新時代の幸福を説いています。
その命の長さは『樹木のように』なり、『彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる』とあります。それは古代のイスラエルではぶどう園の持ち主が、雇人を使って栽培させ、その益は持ち主が得るかつてのありさまと異なることを強調しています。つまり、搾取を受ける今日のような空しい労働はなく『彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない』『自分の手で作った物を存分に楽しむ』とあるように、人々はその働きから有意義な益を受ける事が知らされています。『彼らは無駄に労することない』ともあるのです。

そこには『わずか数日で死ぬ嬰児、自分の寿命を満たさない老人は、もはやその中にいない』とあり、突発的な不幸で亡くなることもないようです。『生まれた子を死の恐怖に渡すこともない』とある通りです。
むしろ『彼らはYHWHに選ばれた者の子孫であり、祝福された一族としてみなが共に居る』ともあります。千年に及ぶその期間に入ることを許された人々は、そこから生まれる子らが世代を重ねて増えることを述べているのでしょう。

このように変わるのは人間社会ばかりではなく、アダムの『罪』を犯して以来、『呪われた地』も変化を遂げるのでしょう。
これを述べるのは同じイザヤ書でも第11章にある預言で、こう書かれています。
『狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く』。
『わたしの聖なる山では何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地はYHWHを知る知識で満たされる』。このような自然界の調和は『エデンの園』以来見られなかったことに違いなく、弱肉強食が当然の世界観は拭い去られることでしょう。

アダムが『罪』を負った後に、神は『地はあなたのために呪われたものとなった』と言われましたが、彼が耕す地面からは雑草が生じ、それもイバラやアザミなど、棘のある植物が繁茂するようになったことを創世記は記します。それは耕作を苦しいものとし、ときには、洪水や旱魃、嵐や地震など、自然災害もあ人の生活を脅かすものとなっていったことでしょう。
それらの『呪い』の解かれた地上がどれほど心地よく、また美しい姿に変わるものでしょうか。おそらくは現在からは想像もつかないほどの世界が待っていることでしょう。

しかし、その社会での人そのものがアダムの堕罪前の状態に完全に戻ったかと言えば、そうは言えません。
なぜなら、イザヤ第65章には『百歳で死ぬ者も若死にする者とされ、百歳で死ぬ者も呪われた罪人と見做される』の一句が存在しています。
つまり、これは『永遠の命』にまでは到達していない中間的な人の状況を指していると言えます。「千年王国」とは『贖罪』、つまり『罪』の赦しが地上で進んでゆく期間であるからです。

聖書は別の箇所で『もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない』人の最終的な将来を告げているので、その千年期の後には『死も墓も火の池に投げ込まれ』、永遠に存在しなくなる時の到来を知らせているのです。(黙示録21:4/20:14)
これはつまり、アダムとエヴァには許されなかった『永遠の命の木』から取って食べることになった人々への祝福を告げるのであり、その人々はキリストのように『義』の完全性に到達し、そうして神と共にいつまでも永久に歩むという、本来の人間創造の目的が達成され、そのときには神の創造が完全な成就を見ているということでしょう。

そこに至る「千年王国」には、生きる人々を『罪』から清め、無垢であったアダムと同様の状態にまで高める働きがあると言えます。それは、その千年の間は、あのヘビである悪魔が人間社会に影響を及ぼせない状態にされることが預言されていることと一致します。『またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所の鍵と大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。
彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、あの年を経たヘビを捕えて千年の間つなぎ留め、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印してしまい、千年の期間が終るまで諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた』とある通りです。(黙示録20:1-3)
その間は、今日のように争いで混乱した社会を見ることなく、人々はキリストの『義』を仮承認された状態にあり、なお子孫を生み出しながら生きるということでしょう。

千年が終わった後に悪魔が解き放たれるというのは、『贖罪』された地上の人々が堕罪前のアダムと同じ『罪』のない状態に復帰したうえでエデンと同じ意味で試されると考えるなら、様々な点で辻褄が合ってきます。つまり創造の神からすれば、悪魔とはいえ他の被造物の試金石として用いることは可能です。
聖書にはこうあります。
『神は、すべてのものを自らの目的のために創造された。邪悪な者をさえ悪しき日のために』。またこうもあります。『邪悪なる者は義なる者の代価、不信実に振舞う者は廉直な者に取って代わる』。(箴言16:4/21:18)
つまり、悪魔は初めから悪者ではなく、自由意志の結果として自ら悪の道に入ってすべての悪の父となったにせよ、創造の神は、悪となった者をさえ用いて、あらゆる自由意志の持ち主である『神の象りに創られた』者のすべてを誘惑させ、善を望む者を一層清めて『義』を与えることができるのです。(エフェソス5:9)

ですから、イエス・キリストであってもその例外とはならず、地上で誘惑を何度も退け、遂に倫理の完全性に到達されたのであり、悪魔は、イエスを磔刑に処させて攻撃したつもりでいて、かえってキリストをまったき『義』へと磨き上げてしまったと言えます。そしてキリストの試された完全な義は、善を望む者すべての『義』の根拠となり、あらゆる人々に『義』をもたらす基礎となりました。(ヘブライ2:10/ローマ5:19)

同じように『聖なる者』に聖霊を注がれることで選ばれた弟子たちも、地上でキリストのように悪魔からの攻撃に耐え、イエスの道にしっかりと付き従うことにより、『義』とされて天の祭司職を受けることになります。彼らの働きにより『義』は人類に広げられます。
こうして、すべての自由意志の持ち主は、神と共に生きるべき存在となることでしょう。そうして神の創造は終わることになり、その意志は天にも地にも行き渡ることでしょう。(マタイ6:10)

「千年王国」はその序章であり、『この世の終り』を逃れ、地を受ける人々には依然として『義』の完全性には到達しないので、何らかの故意の罪をわざわざ犯して離れ落ちる人がいないとは言えないものの、ほとんどの人々が、天からの支配と贖罪の祭儀を受けることで今日の社会では到底得られない幸福を味わうことでしょう。
地上は信じられないほどに変化し、それは以前の時代に亡くなっていた無数の人々の驚きを誘い、それだけでも復活してくるであろう各時代の人々への印となることに不足はないでしょう。

「千年王国」が終わると、以前の世で亡くなったあらゆる人々の復活が起り、『罪の酬いは死である』と書かれているように、一度死を経た人が生き返る場合、その『罪』は消えています。(ローマ6:23/伝道の書9:5-6)
また『神の業は完全』であるので、復活に際してわざわざ人を『罪』ある状態に神は創らないからであり、また、すでに『罪』のない状態で生き返る人々もその自由意志を試される必要があるからで、そこで悪魔が再び用いられる理由もあると言えます。(黙示録20:12-14/申命記32:4)

このように、キリストと聖霊によって結びついた聖徒たちの役割は、天界の祭司団として地上の人々から『罪』を除き、創造されたままの無垢の状態に清めることであり、それはまさしく古代にアブラハムに約束された子孫、『地のあらゆる氏族が自らを祝福する』民、真のイスラエルとなります。(申命記18:18)
この句で、人々が『自らを祝福する』と能動的に述べられるのは、贖罪を受ける人々がただ受け身ではないことを表すと言えます。
なぜなら、その人は『信仰』を表すことが求められているからであり、それも終わりの日に生きる人々には「千年王国」が到来する前にそうしている必要があります。

これまで解説してきたように、キリスト教での『信仰する』とは、ただ神の存在を信じるというものとはなりません。
それは人が自らの置かれた『罪』ある現状を認めて『悔い』、そこにキリストの犠牲による『贖い』が必要であることを認めて乞い願い、贖いを備えたキリストに信仰を働かせることも欠くことができません。
それに加えて信じるべきものがあります。
それが『聖霊』の働きであり、こうして『神と子と聖霊』への信仰が求められることになり、それは『この世』が終わる時代に於いて、つまり「千年王国」の前に人々に求められることになるのです。

「千年王国」が近づくと、再び『聖霊』が神の証しを行うときが来ます。キリストが再び『聖なる者たち』を集め、最終的な祭司団の天への召集を行うからです。これが新教系の教会員によって、模範的なクリスチャンが天に招かれるという「携挙」と勘違いされているものですが、神の救いは「善人」のためのものではありません。キリストは『世を裁くためではなく、救うために来た』のであり、『罪人を招くために来た』と言われなかったでしょうか。
終わりの日に『聖霊』の証しを受け入れ、どのような人であれ、そのときに『信仰』を働かせる人を、キリストは「千年王国」に招く意志を語られているのです。(ヨハネ3:16)

その『信仰』は、自分の益のための「ご利益信仰」であってはならず、神を含むあらゆる他者とのつながり、つまり『変わらぬ愛』からのものでなくてはなりません。そこに高慢な自己義認の余地はないでしょう。
創造界がいまのように乱れ、悪と苦しみの場となった原因が利己心に発していることは永遠に忘れるべきでないことです。神は永遠に生きたい人に命を授けるわけではけっしてありません。ただ善良で従順であればその人を生かすわけでもありません。神と共に生きる人は、神と人とどのように生きてゆくべきかをわきまえているべきであり、それを願い求めることはアダムのようにではなく、その人自身が誘惑を退けて『変わらぬ愛』(ヘセド)を選び取る心の底からの決定にかかっているのです。






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