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「キリストの例え話」第二巻 電子版出来

2020.07.10 (Fri)

まず、第一巻からご購読いただいております皆さまに感謝申し上げます。
お待ちいただいていた方には遅くない申し訳ありませんでした。

このたび苦労の末にようやく第二巻の発刊に漕ぎ着けました。

もう少し早くに上梓できるものと思いましたが、自分の能力の衰えも然ることながら、キリストの例え話は黙示録について何かを書くよりは余程に難しいことが痛いほど分かる結果となりました。

その語られている内容は幅広く、先の出来事への予告ばかりでなく、人間性や内面の動機、群衆や弟子たちの問題点、聖徒らの試みへの心の準備や迫害への備え、天の王国への理解、キリストとしてのご自身の役割、などなど、教えられている内容の多様さも深さも簡単に説けるものではありません。

これらをそれぞれの場面で次々に語られたイエスという人物は、今は見る事のできない奇跡を別にしてもまったく驚異的というほかありません。この方には一つの確かな方向性、歩む目標が明確にあります。それを「キリストとしての道」と呼んでしまうのは簡単なことですが、その挺身の道程には周囲の様々な人々への慈愛と見事な関わり、常に天界の御父への畏敬と愛着に満ちていることがはっきりとして参りました。
それは、まったく敬服すべき生き方であり、もう何と申し上げて賛辞を送ってよいやら分かりません。
しかも、最後には受難による倫理性の完成と律法を唯一人成就されるという大事業を残していたのです。

加えてキーファ、つまり使徒ペテロという人物に見られる主イエスとの関わりには、何か地上の人々を代表するような人間味があり、彼の実に魅力ある人物像が浮き上がります。彼となされた会話からキリストの貴重な講話が引き出されてゆくところは、ペテロの気取りなく腹蔵なく、また軽はずみなところを含めて、天と地との親密な邂逅を眺めるかのような温かみがあります。

それに引きかえ、比較にする方が無理ですが、この拙作二巻・・ここに書いたことには、もちろん間違いやおかしなところが無いとも限らないのですが、とりあえず自分の思うなりに「キリスト語録解説」をまとめましたので、今はほっとしたいところです。
こうして二巻分で34話を含めましたが、まだまだイエスの言葉は続いていて、特に終末関連のものが残っております。
これらにつきましては、今後「終末」に関する一書も構想しておりますので、そちらの出来具合を見た上で第三巻にかかるものかを再考しようと思っております。

平素よりブログ等、閲読くださいます皆さまには、このように何度推敲しましても、まことに読み辛い拙文で、何事も一人で行っております関係で不備もあるかとは存じますが、ご一読賜れますなら幸いです。キリスト教というものの高さ、広さ、深さに思いを馳せ、皆さまと共有できますよう念じます。

それにしましても、電子版でさえ一冊仕上げるのに老いた心身を削るものです。しかし、紙媒体も忘れてはおりませんので、もうしばらくお待ちくださいますようお願い申し上げます。



第二巻収録の項目は

1 .幼子のようにならなければ
2 .二人か三人が集まるところには
3 .赦さなかった僕の例え
4 .ペテロに託された鍵
5 .大勢が東からも西からも来て
6 .羊の囲いの例え
7 .悪い耕作人の例え
8 .盛大な婚宴の例え
9 .魂を殺すことのできない者どもを恐れるな
10.ミナとタラントの例え
11.座って費用を計算し
12.駱駝が針の穴を抜けるようなもの
13.小麦と毒麦の例え
14.十人の乙女の例え
15.羊と山羊とを分けるキリスト
16.不正な管理人の例え
17.成長する種の例え
18.道であり、真理であり、命である

以上18項目でA5版202頁

いつの日か紙媒体でも出版するつもりでおりますが、しばらくお待ちいただきたく存じます。

今後は、新十四日派としての教本、終末解説本、綱領便覧などを構想しており、随時必要に応じて綴るつもりでおりますが、何かご要望の向きはどうぞお知らせ願います。
(ただ、本人にその才また体調が適えばとはなりますが)

斯様に稚拙な書き物にも関わらず、ご辛抱のうえ閲覧くださってこられました皆さまには深く感謝申し上げます。



林 義平







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らくだが針の穴を通るようなもの

2020.07.08 (Wed)


駱駝が針の穴を抜けるようなもの
マタイ19:16 マルコ10:17 ルカ18:22


西暦33年の春先のこと、イエスはエルサレムへの最後の旅程にありヨルダンの低地地方を通っていました。
そこにひとりの男が走り寄ってイエスの前に身を低くして膝をつき『良い師よ』と言います。
それに対してイエスは『なぜ、わたしを良いというのか。神のほかに良いものはいない』と言われます。つまり、イエスはその男の言葉に幾らかのへつらいを感じ取られてのことでしょう。(マルコ10:17-18)

ルカによればこの者は『指導者』または『支配者』(アルコーン)であったとされます。(ルカ18:18)
新約聖書中でこの語は、サンヘドリンの議員について指すことが多いので、以前にイエスの許を訪ねて来たニコデモのようにユダヤ人の中でも最高議会で高い立場に就いていたのでしょう。おそらくは、仲間の議員たちの大半がイエスに敵対的であるためか、イエスに近付くにもパリサイ人らがするような挑戦的にではないことを示すために『良い師よ』と言って近づいた可能性があります。(ヨハネ7:26)
当時の祭司長派の事情に通じた使徒ヨハネの述べるところでは『実は、指導者の中からも多くの人たちが彼(イエス)を信じていたのであった。だが、彼らはパリサイ派によって会堂から追放されてしまうことを恐れて、それを公けにはしなかった』ということです。(ヨハネ12:42)

イエスの許に跪いたこの人物が尋ねたかったことが何かと言えば、『わたしは何をすれば永遠の命を受継げるでしょうか?』というものでありました。
『永遠の命を受ける』ということは、当時にユダヤ人、特に指導者層に見られた願いであったことがヨハネ福音書に見受けられます。イエスは彼らに対して『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べている。だが聖書は、わたしについて証しをするものなのである。それなのに、あなたがたは命を得るためにわたしの許に来ようともしない。』(ヨハネ5:39-40)
この言葉は西暦31年の過越しの時期という、イエスの公生涯の初期に語られていますので、あるいはこの人物は、この言葉に沿うようにイエスに近付いたのかも知れません。

そこでイエスはこう答えられます。
『それなら戒めを守りなさい』『その掟なら知っているように、「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」』(マタイ19:18-19)
こう十戒を引用すると、この支配者は『それらは若いときから守ってきました。まだ、何か足りないことがあるでしょうか。』と反応します。

そこでイエスは、この支配者を見つめ、親しみを覚えたとマルコは記しています。(マルコ10:21)
おそらくは、今は使徒となっているヨハネやアンデレのように、普通のユダヤ教徒であること以上を求めてメシアを見出した彼らにようなところをこの人物にイエスは感じ取ったのでしょう。
そこでこう言われます。
『あなたには一つ欠けていることがある』『もし完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物をすべて売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を持つようになろう。それから、わたしに従ってきなさい』。(マルコ10:21/ルカ18:22)

この議員も諸世紀の人々の遅い復活には与れることでしょう。それでも律法契約に在る彼の状況により、また『律法を守るよう教える者』としてイエスは十戒の幾つかを挙げます。
しかし、それを超えるものを求めるこの人物にイエスは『新しい契約』それも使徒並みのものを与えようとされたことでしょう。
『完全になりたいなら』との一言に込められたものは、『王国に入る』つまり、メシアに直に従う者となり、いずれは聖霊を注がれてキリストの完全さを分け与えられる『聖徒』になる招きが差し伸べられていたと言えますし、後に十二人の内のイスカリオテのユダを補充するために加えられたマッティアスのように信頼を置かれる弟子となったかも知れません。

聖霊が注がれるとは、『新しい契約』によりその人を「真のアブラハムの裔」、『神のイスラエル』の一員となるのですから、それにふさわしく生涯を終える限り、天界での永遠の命は間近なものとなります。
しかし、そこでこの人は『陰鬱になった』と書かれています。却って悲しみに沈みつつその場から去っていったのです。(マルコ10:22)
悲しみの原因は、その人が非常に富んでいたからであったことを福音書は揃って記しています。


◆不公正な世界
さて、この富んだ議員について考える前に、「富」ということそのものについて考えてみましょう。つまり、あの議員をしてキリストの召しを拒ませた原因です。
「富」というものを拒む人が居るものでしょうか。
クリスチャンであっても「無いよりは、有った方が良い」と言うのを耳にしますし、また「富そのものは罪ではない」という言葉も聞きます。
しかし、聖書の中を見ると富者への言葉は辛辣なものが多いのも事実です。(ルカ1:51-53/ヤコブ5:1-6)

このように、この世はだれもがと言ってよいほどに多くの人々がこれを追い求めて社会が成り立っています。
ですが、誰でも富むことはできません。
この世という交換社会に在っては得をする「勝ち」と、損をする「負け」があり、それは古代から変わるところがありません。賢王ソロモンはそれをこう指摘します。
『買う者は「悪い、悪い」という、しかし去ってから彼は自ら誇る。』(箴言20:14)
つまり、買い手はその場では商品に難癖を付けては売り手に値引きを迫ります。しかし買ってしまうと自分が良い商品を安く手に入れたことを誇り、ほかの人にわざわざ見せたりもするでしょう。なぜなら「勝った」からです。空しいようにも感じられますが、これが売買の現実でしょう。

ですから、懸命に労働した人が富むとは必ずしも言えません。いや、むしろ富を得るのには、その人の資質もありますが、有利な機会に恵まれるか否かの方が大きな要因を成しています。
特に大きな富を得ている人々には、財産を先代から継承することを通して、更に富を得る機会に恵まれ、ますます富は数少ない人のところにうず高く積まれる傾向があり、その一方で、厳しい働きをしながらもその日の生活に窮する多くの人々が生じてゆきます。
今日には、あからさまな奴隷制度は見られなくなったとはいえ、状況がさほど変わらない労働に従わざるを得ない「この世の奴隷」のような人々は居ないかと言えば、それは見ての通りです。

この21世紀に、世界の財の半分近くは10%の富裕層に所有されているとの統計が幾つか知られており、しかも、その寡占状態は進む一方であるとされます。
これが何を意味するかと言えば、その富裕層が全財産をそれ以外の人々に明け渡すと、単純な数字上では、ほかの人々はそれまでの約二倍の有形無形の富を所有することになります。そのためか識者の間では、格差を解消する方策として再配分が最も有効な手段とされています。

不公正ということでは、この世が作る市場は巨大なギャンブル場であり「そこに滞在するほど負ける確率は上がる」という数学者*もいます。つまり、この世とは、元々不公正に出来ていて、僅かな富者と膨大数の貧者を作るシステムであるということです。しかも、人類はそこから逃れることができません。世代から世代へと財産が継承されるに従い、この勝負も繰り越されることになります。
そこで富んでいるということは、それだけ多くの人々の貧しさの犠牲の上に成り立っていることになります。*(ブルース・ボゴシアン)

だからと言って、社会主義がその是正をもたらしたかと言えば、旧ソ連邦という壮大な実験結果に見る場合、それが解答にならなかった現実が見えます。帝政期までのロシアが大多数の農民に貧しさを求めつつ、人口の2%の王侯貴族が快適な生活を送っていました。
そこに「革命」が主導されロシア帝政と貴族は過ぎ去ったのですが、やがて社会主義政府の中に特権階級が芽吹きます。「ノーメンクラトゥーラ」と呼ばれるこの特権階層はやはり人口の2%を占めたと言われます。
つまり、格差の原因は制度というより人間自身に発するもの、その欲、特に他者を押し退けても自分の利を求める「貪欲」に目が向けられるべきであったことでしょう。どれほど高邁な理想を掲げても、それを腐食させてしまうのもまた人間自身であるからです。


この点で、金銭の働きには大きく二つあります。
まずは、生活を支えるためのもの、それから、より多くを集めるためのものであり、この二種類の働きに於いて同じ金銭でも意味はまるで違ってきます。人が貪欲の罠に嵌まるのも、多くは自分の生活を支える以上の金銭を求め始めるところが関係することでしょう。

では、世界を創造された神の意図から離れてしまったこの世に見られる不公正を神はどうご覧になっているでしょう。
もともと、この世界に存在するものはすべて創造者のものであり『銀も金もわたしのものである』と言われる神にとって、富の偏在によって多くの魂が苦しむことは意図されたものではありませんし、それが摂理でもないでしょう。

旧約聖書を見ると、貧者に対する神の眼差しがどんなものであるかの一端を知ることになります。



◆困窮者への神の眼差し
全能の神であるなら、なぜ初めから貧困のない社会を作らなかったのかと問い、神など居ないと結論する人々も少なくないことでしょう。
では、問題はそのような神の方にあるのでしょうか。
社会を見回すと、貧困の大きな原因は財の格差であることは明白です。世界の人々にそこそこの生活を送らせるだけの財が無いのではなく、遍在しているのです。これは人間に巣食う貪欲に由来するものでなくて何でしょうか。

神は地上に人々を養うだけの食物や、生活に用いることのできる多様な物資を備え、それが平等にとは言わなくても、ある程度に公正な配分がされていれば、貧困にあえぐ人がどれほど出るものでしょうか。『この世』とは、神の意志から離れ堕ちた世界であり、創造者の意図したところではないのです。

しかし、旧約聖書の中からでも神の困窮者への配慮は数多く見られます。
イスラエルに与えられた律法の中では、畑の持ち主といえども、端から端まですっかり収穫することを禁じています。これは今日の意識とは随分と異なります。
果実の取り入れにしても同様に、持ち主は取り入れ作業を一度終えたなら、取り残しが無いか見回すことが禁じられてもいます。(レヴィ記19:9)
これらの残りについては、困窮している人々のために与えられるよう神は律法に定めたのですが、実際に、この制度から益に与った、ユダの老いた寡婦とその外国人の嫁の物語が「ルツ記」となって、聖書の一角に神の暖かい眼差しの記念を添えています。

それに加えて、実った畑には誰であろうと、鎌を使ったりしないで自分の手でむしるほどの穀物であれば、告げずにもらうことが許されていましたが、これは誰であれ、実った畑を目の前に空腹のまま行き倒れることがないようにとの神の慈愛を示す例です。(申命記23:25)

現代社会では、富む人にはより多くの財が集まってくる仕組みが出来上がってしましましたが、その一方で困窮者は富んだ人のように様々な優遇を受けることができません。それですから「貧困に苦しんだことのある人なら誰でも、貧困であることは非常に高くつくことを知っている」という黒人作家ジェームズ・ボールドウィンの言葉はまさしく現実そのものです。貧しい人は高い値段での買物するしかなく、様々な特典にも招かれません。

貧困であることは、更に多くのものをその人から奪ってゆきます。もとより貧しいにも関わらずこの世はさらに容赦なく奪うのです。
食事をすることはもちろん、衛生的に過ごして病気を避けることを困難にし、教育を受けることの不自由から就職や職業選択の制限が起り、労働の質も量も増やしたとしても、賃金の制約は懸命に働いた人がより多くの報酬を受けるのではないという非情な現実を突きつけられる姿は様々な国で広範囲に見られます。

財産は世襲されることで、富裕者の二世、三世ともなると、一般的な人々との差は動かし難いものになり、大金持ちという言わば一つの階層を形成しています。同じ人間ながら、その生活圏も様式も庶民とは異なる別世界の住民というべきでしょう。


◆神の対処法
この点でも神が与えた律法には、今日にない画期的な経済システムが備わっていました。
それが七年ごとの『安息年』であり、50年に一度の『ヨベルの年』でありました。

まず、『安息年』とは週毎の『安息日』に対応する七年に一年は仕事を休み、畑を休耕させ、動物にも苦役を免除します。一年仕事をしないため、その年には何であれ本格的な収穫を行わず、その前年に神が二倍の収穫を与えるので、その備蓄によって食料を確保します。また、その年の間は借金の支払いも免除されるという、画期的な国家法でありました。
本来なら、人々はこの世らしくあくせくとしない一年を過ごせて、人間性の汚れやストレスから解かれるはずでしたが、旧約聖書には『安息年』を履行している場面が記録されておらず、僅かに外典に触れることがあるばかりですので、この一年休業するという信仰を試される措置は行われなくなっていたようです。

また、七年毎の『安息年』を七回繰り返した次の年は『ヨベルの年』と呼ばれ、五十年に一度のこの機会に、イスラエルの民はそれぞれの相続地に帰り、その土地を売らざるを得ない事情があった家族も、その土地を返されることにされていました。これによって、イスラエルの中では、際限なく格差が開くということは防がれ、例え困窮することがあっても、その人かその子の代には出直すことができる保証となったのです。

しかし、この『ヨベルの年』についても、旧約聖書にそれが行われた記録はありませんので、どこまでこれが履行されたかは分かりません。イスラエル民族の不信仰を糾弾した預言者エレミヤによれば、この民族は『安息を守らず、それを汚し』とあり、それは神が彼らの民族を捕囚に処した理由として咎められています。

エレミヤ書には、更にもう一つの奴隷に対する律法も守られていなかったことについても彼らを責めています。
それは、イスラエル人同士で、どちらか一方が困窮することがあって奴隷として他のイスラエル人に身売りをすることがあった場合には、七年目には解き放つ、それも年季に応じての蓄えを持たせて自由にするべきことが律法に定められていたにも関わらず、エレミヤの時代までにそれも守られていなかったことが暴露されているのです。

神が律法の中で、このように様々な格差の是正と、俗世に押しつぶされ、世の奴隷とならないよう人々を顧みたせっかくの諸制度を、イスラエル自身がなし崩しにしてしまっていました。
その結果といえば、民族の中に格差をもたらし、犯罪も横行していました。また、『聖さ』という人間の尊厳の回復のための安息も取られず、ほかの国々と変わらない世俗のしがらみばかりの社会としてしまったことをエレミヤの預言は暴露しています。これはまさしく人間社会全体にも言えることで、この世は金銭を巡って人々を汚してゆき、僅かな富裕者と数えきれない困窮者とを作ってきました。しかし、律法を与えた神にとって、これは意図するところでも摂理の働くところでもありません。



◆愚かな金持ちの例え
さて、イエスは別の時に、ある人から『先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください』との依頼を受けたことがありましたが、イエスは『誰がわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか』と拒否しています。
それから人々に向かって『あらゆる貪欲に対してよくよく用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産から得られない』と言われました。

遺産の分与を求めてきた人は貪欲を懐き、奇跡を行う人イエスの権威を利用しようとまで思ったのでしょう。
それならイエスにそれを拒まれても仕方のない事であり、次いでこの出来事から、イエスは財産への欲と命とを照らし合わせる教えを一つの例えとして話されることになりました。

それが「愚かな金持ちの例え」と呼ばれているルカ第12章16節から始まる教えです。

とある富んでいる人の土地が更なる豊作に恵まれましたが、その人は今持っている以上の物を保管する場所がありません。そこで、どうしようかと思案します。

この人は今ある倉庫を建て替えてもっと大きな倉庫に建て替え、そこに有り余る物を貯蔵することを思い立ちました。
増し加わった多大な富により、その人は大きな安心感を得ることを期待し、自分の魂に向かって『多くの財産を持っているのだから、自分の魂よ、楽にして食らい、飲んで喜べと言おう』と考えました。

しかし、彼に神は言われます『愚かな者よ、お前の魂は今夜のうちに取り去られる。ならば、お前が用意した物は誰のものになるのか』。こう話されてからイエスはその要点を示して『自分のために宝を積みはしても、神に対して富まない者はこのようなものだ』と言われます。
確かに、どんな財産も命有って意味もあります。しかし、イエスが『溢れるほどに富んでいても、人の命は持ち物から来ない』と言われる通り、命を保たせるものは財産ではありません。(ルカ12:15)



◆神に対して富む
この例えの中でイエスが語られた『神に対して富む』とは、実に味わい深い言葉です。
これを聴いたユダヤ教徒は、旧約聖書の幾つかの言葉を思い起こしたことでしょう。

例えれば、ソロモンの箴言にはこのようにあります。
『貧しい者を憐れむ者はYHWHに貸すのだ、その施しについては主が酬い支払われる』(箴言19:17)

イエスの例えの愚かな金持ちは、専ら自分のことばかり考えて『神に対して富む』こともなく、自分の命の安泰を期待したのですが、その目的はまったく果たされず、命を失ってしまえば、何の益にもなりません。
しかし、弱者を顧みるなど『神に対して富む』ことを行っていたなら、『自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に尽きることのない宝を蓄える』ことになったでしょう。(ルカ12:33)
その酬いは天の神の前に積まれるのであり、それは確実に保たれ、その人に必ず益をもたらすことでしょう。

この観点に立つなら、永遠の命を求めてイエスの許を訪ねてきた若く富んだ議員も、自分の持ち物をみな売り払う喜びも感じられる理由もあったことでしょう。
しかし、彼にはそう出来ませんでした。共観福音書はその理由を口をそろえて『大金持であったから』としています。

そしてイエスはこの言葉を語られます。
『富んでいる者が神の国に入るより、らくだが針の穴を抜ける方がずっとたやすい』
これを聞いた弟子たちは驚嘆してイエスに言いました。
『では、いったい誰が救われるのでしょうか』。

そこでイエスは弟子たちを真っ直ぐに見て答えられました。
『人にはできないことであっても、神にはそうではない。神にはあらゆることが可能だ』。
この意味は、金持ちであっても神に頼り切って貧困に飛び込むように、ただ財産を売り払ってしまえば良いということではないことでしょう。

確かに、金持ちである人がその財産を売り払うことなど、まず出来ることではありません。
金持ちである、ということが希なる幸福であることはいつの世にも動かし難い事実です。
しかし、イスラエルの王となるべきイエス自身の生き方は明らかに地上の富を求めるものではありませんでした。
生まれからして、両親はその夜は宿屋に泊まれず、馬小屋で誕生し、その後は命を狙われ逃亡する必要もありました。
田舎ナザレでつつましく大工を営む家庭で育ち、キリストとなってからもユダヤの宗教家のようではなく、『わたしは父を尊ぶ』と言われ質素な身なりで日々を廉直に過ごされてきました。しかし、それが却って、キリストであるということが、どれほどの事を意味するかをその生き方で示していたと言えます。

そのイエスはこう言われました。
『あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかとあくせくするな、また気を揉むな。これらのものは、この世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることをご存じだ。
ただ、王国を求めなさい。そうすればこれらのものは添えて与えられる。』(ルカ12:29-31)

つまり、金持ちである人にとって「愚かな金持ち」のようになってしまわないためには、『王国を求める』ような思いの変化が求められたのであり、確かに、富んだ議員には、そのような思いの変化の前に、自分の生活水準の低下への恐れの方が先に立ってしまったというべきでしょう。しかし財産の無い事に心配しない生き方は、『神にとっては不可能ではない』に違いなく、イエスや使徒たちの生き方は、それを証拠立てていたと言えます。


◆神に富むことの報い
さて、これら一連の話の後でペテロがイエスに問いました。
『わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか』。(マタイ19:27)
これは、富んだ議員のようではなく、すべてを後にしてイエスに従い、神に対して富を積んだ使徒たちにどれほどのものが報われるのかという問いです。

そこでイエスはその報いについてこう述べます。
『おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受け継ぐ』。これこそあの富んだ議員が求めていたものであったことでしょう。

さらに、使徒たちへの大きな報いがあることを告げます。
『まことにまことに。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたも十二の位に座してイスラエルの十二の部族を裁くことになる』。(マタイ19:27-29)

これは『神の王国』を構成することになる聖徒たちの裁きと召しに、使徒たちがイエスと共に連なるということを意味するのであり、それは十二使徒というものが、そのほかの大勢の聖霊注がれた人々に先立って神の是認に入り、より高い座に就くことが定められていることを指しています。
それは著しく高い立場であり、どんな人間の政府の高官の地位をも凌駕するものであるのです。

イエスに従っている間に、彼らは試されていたのであり、一人の例外を除いて彼らはイエスの受難の前の晩には神からの信任を得るに至ったのでした。(ルカ22:29-30)

もちろん、使徒の報いばかりが神に対して富むことではありません。
人は、富むということに於いて、利己的に振る舞いがちではありますが、弱き者への慈愛を示す人々は神の前に蓄えることになることはイエスの言葉の数々によって保証されています。しかも、イエスは『あなたがたにとって貧しい者は常に居る』と言われるのです。それは『この世』というものが貧困をけっして避けることのできないことを証ししているとも言えるでしょう。(マルコ14:7)

それは財産家が、罪滅ぼしや余興のように幾らかを施しに回すのとは違います。
律法に示されていたように、神が弱き者を顧みるのと同じ心から慈愛を示すこと、それは今日でも神の目に留まらないことはないことでしょう。
しかも、その精神という点では富んでいようとなかろうと示すことができることであり、誰であれ、盗まれたり、朽ちたりすることのない宝を天に積むことができ、それは損失とはならないのです。









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