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魂を殺すことのできない者どもを恐れるな

2020.06.28 (Sun)


体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな
マタイ10:28



イエスの語られたこの言葉をそのまま読めば、人が体と魂とから出来ていると考えるのが正しいと思われ、人間の体は死んでも意識は残るという、広く信じられている一般的教えについて、やはりキリストも教えていたとされそうな言葉ではあります。

特に、この言葉に続けてイエスはこう言われるので、ますますそう思えることでしょう。
『むしろ、体も魂も共にゲヘナで滅ぼす力のある方を恐れなさい』。

この句の原語である『ゲヘナ』の代りに『地獄』と訳している翻訳聖書も少なくありません。
「地獄」と翻訳するなら「体も魂も共に地獄で滅ぼす力のある」神を恐れるべきことになりますから、「やはり人間は魂となって地獄や天国に行くことになるのだ」という考えは確信的にもなってくるでしょう。
しかし、本来の聖書の非凡さに少しでも触れるなら、この点でも以下のように深い畏敬を感じることになり得ます。

まず、俗に「地獄」とされるものと、他方で原語聖書にある「ゲヘナ」とは実は別もので、しかも随分違います。
ほかの例え話でも解説しました通り、ギリシア語「ゲヘナ」は、元のヘブライ語では「ゲー・ヒンノム」、つまりエルサレムの共同ゴミ捨て場のことであり、そこはエルサレムの南西に在って「ヒンノムの谷」と呼ばれていました。

エルサレム市内の公共衛生のために、そのゴミ捨て場には火が絶えないよう発火し易い硫黄が広く散布され、いつも煙りの上がる場所であったと後のユダヤ教のラビが伝えています。しかも、そこには処刑された重罪人の死体まで放り込まれていたというのです。

ユダヤ教は復活を信じますから、土葬をする習慣が永く保たれて来ました。例えれば、新約聖書中でもベタニア村のラザロも、イエスご自身も遺体は焼かれず、布を巻いて墓に安置されています。
しかし、ヒンノムの谷に捨てられる死体は火で焼かれ、蛆虫も湧くように、見るも無惨で忌むべき状態に置かれます。
これを指して、イエスはご自分を殺めようとしていた宗教家らに『あなたがたがどうしてゲヘナの裁きを逃れられようか』と糾弾されたのは、復活も望まれないような処罰、つまり「永遠の滅び」を象徴して『ゲヘナの裁き』と言われていたのです。(マタイ23:33)
確かに、地獄が永遠の責め苦の場所であるとすれば「地獄で・・滅ぼす」というのは矛盾があり、イエスのこの言葉にはもっと別の意味がある可能性が見えています。

ですから、聖書翻訳も比較してみるとキリスト教の中にも広まってしまった誤解、それも大切な事柄を歪めてしまうような思い違いがあることに気付けることがあるものです。

そこで、この『ゲヘナ』の観点から、もう一度イエスの語られた場面を読み直すなら、新たな理解を得ることになります。
この言葉によって、イエスは従う使徒たちが激しい迫害に遭うとき、そこで目の前の迫害者を恐れて妥協してしまい、神との契約を破るようなことがないようにと訓戒されています。その中で、恐れるべきはただ体を殺す迫害者ではなく、『魂』を滅ぼすことのできる神であるから、キリストのように死に至る迫害を受けようとも『自分の磔刑の木を荷って続く』ようであれと言われ、また『自分の魂を得ようとする者はそれを失い、わたしのために自分の魂を失う者は、それを得る』とも言われるのでした。(マタイ10:38-39)

それは、使徒ばかりでなく、キリストを仲介者として『新しい契約』に入り、全き忠節を求められる『聖徒』にも求められる大胆さです。彼らはキリストが戻られるときにまで師を否認することがあってはなりません。もし、彼らがキリストやその言葉を恥じるとすれば、キリストもその弟子を恥じると言われる通りです。(マルコ8:38)


◆死後の無意識
それに加えて、この『体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな』という言葉は、『魂』とは何かを理解するための鍵を与えています。
この言葉からすれば、『体』の死のほかに『魂』の死があり、それらが別のものであることを示しています。
では『魂』とは、やはり人の死後に体から離れる意識のようなものであると言えるようにも思えるところですが、聖書からすると、死後の意識というものは次のように否定されているのです。
『生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、遂に忘れられる。その愛も、憎しみも、妬みも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久に関わることがない』(伝道の書9:5-6)

このように聖書の教えでは、死後の意識というものはありませんので、イエスの奇跡による復活を模式的に受けたラザロのような人も、旧約での預言者エリヤやエリシャによって生き返った人々のだれもが、死後の世界がどうだったかについて少しも話していません。
加えて、律法は交霊術、つまり死者との交流を厳しく戒めています。
たとえ死者が何かを語ったかのように霊媒師に言われても、実はその声の主は悪霊であって死んだ人とは無関係です。
悪霊たちには死んだ人を装う理由がありますが、それは彼らの頭目である悪魔つまり『この世の神が、不信の者たちの思いをくらませる』ために、様々な宗教に働きかけを行っては『神の象りであるキリストの栄光の福音の輝きを見えなくする』という意図をもっているからです。(コリント第二4:4)

悪魔はエデンの園で禁断の木の実を食べても『あなたがたが死ぬことはない』と偽りを語っています。(創世記3:4)
これは神の言葉にあからさまに反して、人にとっての『罪』という不倫理性の酬いとしての死の重大性を覆い隠すものでありました。同様に、人の死後に意識が残るという教えは、死というものを聖書の創造神の観点、また現実に即した見方を人々にさせないことに於いて、やはり悪魔的なものです。

ですから聖書の中で、死んだはずの預言者サムエルを呼び出したのはイスラエルの神に反する異教の霊媒師であり、その禁じられた死者との交流、実は悪霊の呼び出しを利用したサウル王には良い結果が訪れることなく、間もなく絶望と自らの死を迎えています。(サムエル記第一28:1-19)


◆『魂』とは何か
では、人の死後に意識があると聖書が教えていないのでしたら、『魂』とはどんなものなのでしょうか。

 『魂』とは、ヘブライ語で「ネフェシュ」と呼ばれ、元の意味は「喉」とされます。
体の中で喉という部位は、生きるために必要な一切のものが体の中に通ってゆく道筋で、その人の必要や渇望と関係する言葉です。

ですから「わたしの魂は渇く」や「わたしの魂は満ち足りる」と書かれているところでは、その人の体の状態と同じように魂が描かれます。(詩篇第63:1-5)
また、『魂』は『恋い焦がれ』『待ち望み』『喜びに満ちる』など、人の意識と同じように語られます。

それでは、やはり『魂』とはただ人の意識のことなのかと言えば、人には『体は殺しても魂を殺すことのできない』というイエスの言葉がそれを否定するものとなります。聖書は死ねば意識はないことも教えているからです。
そうなるとこれは大きな謎になります。
つまり、『魂』(ネフェシュ)とは、死によって終わる体でも意識でもない何か別のものを指していることになってくるのです。

そこで「ネフェシュ」への理解に光を当てるのが、イエス・キリストの犠牲の死と、そのときの魂の所在です。
イエスは磔刑により刑死を遂げられ、その日の内に遺体は真新しい墓に置かれ、三日目に復活を受けてその体は見当たらなくなりました。
この出来事をダヴィデの詩篇は預言してこう語っています。
『あなたはわたしの魂を墓に捨ておかれず、あなたの聖なる者に穴を見させません』。(詩篇第16:10)
その言葉を使徒ペテロが引用し、イエスの復活によってこの言葉が成就したことを知らせます。
『ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は墓に捨ておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語られたのです。』(使徒2:30-31)

これらの聖句はどちらも『墓』という場所に遺体が置かれたことを述べるのであって、そこは『ゲヘナ』でも「地獄」でもないのです。イエスの『魂』は天にも地獄にも行かず『墓』の中にあったと述べるのです。
では、『魂』は体なのかと言えば、『体は殺しても魂は殺せない』とイエスは言われますから、やはり別ものです。

『魂』は復活までの三日にわたってどこにも移動されず『墓に捨ておかれ』た状態であったところで復活を受けたのですが、その復活の際に『魂』はどうなったかと言えば『捨ておかれ』た状態を脱したものとして上記のダヴィデの詩篇に預言的に詠われています。

そこで体でも意識でもない『魂』とは、人間にとっては具体的に捉えることのできない抽象的なものとする以外にありません。
上記のダヴィデの言葉の場合には、体でも意識でもない「象徴的なイエスご自身」を指していると考える理由が出てきます。
そうであれば『魂』とは神だけが扱うことのできる復活に関わる「何か」であり、人の知る世界を超越しているので「これが魂です」と誰も示して見せることができるものではないと言えます。


◆血は魂であり贖罪をする
しかし、神はイスラエル人に対して、抽象の「魂』を具体的に見えるものになぞらえ、『魂』が特に重要なものであることを教えられていました。それが律法にある「血の禁令」であり、このように記されています。
『生き物の魂は血の中にあるからである。・・血はその中の魂によって贖いをするのである』。これは直接にはユダヤ教の祭祀として守るべき儀式でしたから『わたしが血をあなたがたに与えたのは、祭壇の上であなたがたの魂の贖いの儀式をするためである』ともされていました。(レヴィ記17:11)

つまり『血』というものの中に『魂』がある、とされることで、人は本来見えない『魂』を『血』に置き換えて鄭重に扱うべきことが示されていたのです。
加えて神は『肉をその血のまま食してはならない』との食事の禁令を定められました。なぜなら動物のものであってさえ『血は魂であり、魂を肉と共に食べてはならないからである』と言われ、『血は食べることなく、水のように地面に注ぎ出さねばならない』とも命じられました。
こうして人も『魂』を神聖なものとして具体的に扱うことができ、見えない『魂』に敬意を払うことができたのです。本来なら動物も神の創造物であり、それを害する権利は人にありません。そこで人が動物の肉を食べるときに、必ず血抜きを行うことによって、『血はわたしのものである』と言われる神の創造物への権利を尊重していることを示したと言えます。(レヴィ記12:23)

もちろん、律法による動物の犠牲の儀式は、来るべきキリストの犠牲を予型していたものでした。ですから、イエスは『父は、わたしが自分の魂を捨てるから、わたしを愛して下さる。魂を捨てるのは、それを再び得るためである』とご自分の受難の意義について語られています。(ヨハネ10:17)この聖句の『魂』を「命」と訳している聖書は多いのですが、原語は『魂』プシュケーとなっています

以上から分かるように、イエスはご自分の『魂』を捧げることにより『対価としての贖い』を一度差し出されました。その対価とは、神の前に堕罪によって失われたアダムの魂の価に相当する、ご自分の魂であったのです。(テモテ第一2:6/ヨハネ第一3:16)
アダムの魂の喪失によってアダムからの命の根拠も弱くなり、人々に寿命や様々な害悪が臨んだのですから、その魂を回復する『とこしえの父』とも呼ばれるキリストの魂の価値には計り知れないものがあり、それが律法での血の扱いとして命じられたことは、人々に価値の大きさを知らしめる意味があったことは明白です。(イザヤ9:6/申命記12:23-24)

しかし『キリストは律法の終り』とあるように、律法に規定された血の禁令は、死に至るまでのキリストの忠節とその血が律法を完全に成就して後、動物の犠牲がなおも捧げられていたエルサレム神殿の破壊と、ユダヤという『先のものが後になり』、その後もしばらく禁令を守り続けたユダヤ教イエス派の消滅に伴って、エルサレム会議でのヤコブの議決があっても、その必要性は失われています。
なぜなら、『血を避けているように』とは、律法を守り続けようとしていたユダヤのイエス派信者を異邦人信者が躓かせないための一時的な取決めであり、両者が平和に集まるための配慮であったことをヤコブ自身が述べています。(使徒21:24-25)
まして完全なキリスト教の下では血の禁令も過去のものとなっているのですから、今や血を避けることには健康上の理由以上のものは何もありません。(ローマ10:4/使徒15:20-21)

律法での血への尊重はキリストの犠牲の価値を指し示すものでありましたが、元々血という液体そのものが魂ではなかったのですから、キリストの魂が完全な血の犠牲として捧げられた以上、もはや崇拝に血液が関わることは終わっています。(ヘブライ10:10-14)
しかも、『新しい契約』に預かる聖なる者たちは血を避ける律法を後にし、キリストの兄弟となるため、象徴的ながらキリストの血を飲み、肉を食すという逆転が『主の晩餐』に於いて起こり、キリストの死を境に崇拝儀式の次元が格段に上がってもいるのです。(ヨハネ6:53/ヘブライ8:13)

それですから、現代のある宗派のように血の禁令を守って、律法時代にはなかった輸血までも避けることが宗教倫理上正しいと主張し、そこに命まで懸けるのは的外れなことで、その人の内心だけの自己義認には役立っても、今さら神の前に是認を得るものでもなく、実際には生命軽視の咎を負う危険さえある怖るべき誤謬と言うべきでしょう。
処置の仔細を際限なく規定するユダヤ教のタルムードのように、避けるべき血液成分は何かなどと論じるところで、すでにキリスト教を唱えることの無理が露呈しています。もとより血液が『魂』そのものではあり得ないからです。


◆すべての魂は創造の神のもの
こうして『魂』というものが徒ならぬものであることを新旧の聖書が示し続けてきたことが明らかとなってきます。
『魂』は抽象的なものでありながら、人々がそれを安易に扱うべきものでないことが血の禁令によっても、律法の儀式によっても示されていました。キリストの魂の注ぎ出しはそれらを完全に成就して、キリスト教という新たな教えを導き出したのです。
それに加えて、神は『すべての魂はわたしのものである』と言われます。(エゼキエル18:4)
つまり、創造の神であればこそ、あらゆる生けるものへの所有権を持たれるのはまったく正当なことです。

その生けるものの一つ一つを表す『魂』は、復活を通してその生死に関わらず神の所有であり続けていると判断できます。
なぜなら、ご自身の死を数日後に控えたイエスが、古代のアブラハムのような族長たちの名を挙げて、『神にとっては生きている』と断言されているからです。(ルカ20:38)

つまり、創造の神であればこそ復活も可能であり、故人であってもその記憶から消え去ることはなく、その『魂』という生死を超えるものによって呼び戻すことができるので、恰も生きているかのように見做されるからでしょう。
『すべての魂はわたしのもの』と創造の神が言われる以上、存在したすべての人が神の所有権の中にあるに違いなく、今は命儚いこの世に在っても、イエスが病人を一人一人癒されたように、神が必ずや一人一人を顧みられる時が来ることでしょう。わたしたち各人は体をもった人であっても、または墓に眠る過去の人であっても、神の前には生死老若に関わらず『魂』であることになるのです。(ヨブ記33:24-26)

そこで『魂』というものの重要さが見えてきます。
体を殺すことができる人間というものがもたらす害は限定的であり、一方で神の魂を左右できる能力はまったく比較にもならないほどに偉大です。それこそは創造者であってこそ可能なことだからです。
キリストの弟子たちが重視すべきは神であることは間違えようがなく、聖徒であれば『新しい契約』を全うし、『神の王国』でキリストと共になることを、信徒であれば彼らの支配する新たな地を受け継ぎ、『罪』から釈放されて真の自由を回復することができるのです。
それも、人を自在に復活させる神が、人一人一人の髪の毛まで数えられていると言われる通りに、生死に関わらずこれまで存在したすべての『魂』を大切に所有されていることから実現するものです。

幸いにも全能の神の許に『魂』として守られている創造物の存続は保証されたものですから、命の儚さはこの世だけのことであり、魂としての存在の確かさは様々な死の脅しなどよりも遥かに勝ります。
ですから、『体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れる』べきではないと言えるこれほど大きな理由があるのです。







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誰が世を指弾できるものか キリスト教的非キリスト教

2020.06.15 (Mon)

広くキリスト教のものとされる特徴がパリサイ的であることについて



人間の存在は儚いものであるという認識は、キリスト教に限らず広く世界に見られる人類普遍のものであることは、いまさら言うまでもないことです。
様々な宗教は、この人間存在の危うさ空しさを仮定的あるいは心理的に回避する方策となっています。

殊に聖書教では、自分を存在させた創造神との関係を捏造してでも、この逃れ難い難問をどうにかしようとする基本的な姿勢がほとんどに宗派に共通していると言えるでしょう。これはある人々、特に「なにかと、きちんとしていたい人」にとっては最大利益となっています。ですが、これは罠にもなるものです。

「ノアの大洪水」や「ソドムとゴモラの滅び」のような「義人の救い」の捉え方でゆくと、誰も滅ぼされようなどと思わないので、「自分が義人である」とすることで他ならぬ神に取り入ろうとする傾向が避けられないでしょう。

そのように、自らを「義人」に仕立てるために努め、教理や道徳を誇り、あるいは宗派間の比較の結果に各自が安堵するという、却って危うい土台の上に信者を安住させるという「信仰」が、それぞれのキリスト教団体の在り方を決定付けているというべきでしょう。

それぞれの教団が、恰も「ノアの箱舟」であり、その宗派の信者であれば神に是認されていて、神の裁きがあろうとも滅ぼされることがなく、あるいは天国、あるいは楽園に入れるという、救いに選ばれた者の安心に浸らせ、心理上のモルヒネのように作用して、信者本人の実態を忘れるという夢心地に誘うのが「キリスト教」というものです、と言えば、あらゆるキリスト教団体から批難轟轟となりそうではありますが、やはり、そのように観えるものです。実際、わたしの知るところでの「宗教信者」様方には精神的に異様なほど依存症的に惰弱な部分が共通してあります。それでいて、いや、そのせいか頑固で視野が狭いのです。

実際の教えの結果として、この世の終りが来ても自分たちだけが天に取り去られ、あるいはシェルターに保護される妄想を掻き立て、また自分たちのために食料貯蔵している宗派などは、部外者がそれをどう感じるかをわきまえ、また自らの懐く動機に何か異様さを感じないとすれば、そのキリスト教は無い方が良いように見えます。

「聖書の教えなるぞ!」と言いつつ、その誉められたものでもないその人の考え行っている事の実態を振り返ることが無いとすれば、聖書の記述を導いた神に向かって自分たちの異様な行動の責をすべて負わせていることになりますが、キリストが言われた『その実によって』偽預言者を見分けるということでは、二歩も三歩も引いて眺める必要がありそうです。
まして、それぞれに異なる教理や信条を言い立てながら、それぞれ自分が正しいとするのであれば、これはいったいどういうことなのでしょうか。神はどこかの宗派にだけ味方し、他には敵対するのでしょうか。

その教団の信者ご本人にとっては救われるという「福音」なのでしょうけれども、その教えは外の人々にとっては「災難」を意味する以外なく、その原因と言えば「その宗派を信じなかった」からというところで、「自分の神様は了見が狭い」と教えていることにもなるでしょう。
その神様から是認されるために自分はすべき事を行っていると思えば、他の人々にいろいろと指図もしたくなることでしょうし、それが隣人愛だとも思うでしょう。しかし、それはどこが「隣人愛」でしょうか。人格無視のありがた迷惑、余計なお世話です。

この人たちもそれなりに、「信仰によって義とされる」や「滅びに至る道は広く、そこを通る者が多い」などの聖書の句を挙げては、宗派の正義を立てたつもりでしょうけれども、「たとえ自分の隣に居る不信者が滅びようとも、自分は救われる」と思うその心の在り方が本当にキリストの精神に倣うものかどうか考えたことはお有りでしょうか。
それでもなお「そう聖書に書いてあるのだ」というなら、「その利己的精神の原因は神なのだ」と言っているのです。

こうして「キリスト教」の看板の下に、「非キリスト教」が教えられ、なんと広く信者を集めて来たことでしょうか。自分の救いに近視眼になり、それがどんな醜態をさらしているかに気付かないからでしょう。それでは日本のクリスチャンの少なさは却って神の恵みということになります。


気付けば恥ずかしい大いなる誤解
その誤謬の大元には、『罪』というものの観方があるでしょう。
端的に言って、『聖徒』と『信徒』の区別を悟って来なかった結果、聖書の言う『罪』がどんなものかも分からなくなってしまったのです。

これはキリスト教徒というものを新旧の聖書全体から捉えず、把握しないところからくる大いなる誤解です。
それは「イスラエル」というアブラハムの裔*である者に約束された類い稀な神の選民としての恩寵が、聖書を読んだだけで自分に向けられたものだと思うところで、恥ずべき勘違いをしているのであり、その選民とされた人々さえ、世界すべての人々の救いのために備えられているのに、神が救うのは信者の自分たちだと思い込むところで、広く人々を現在の思想信条に関わらず救おうとする神意を無視して、正義を自分で決め付け、その利己性を聖書の記述の仕業にするという、驚くべき破廉恥をやってのけていることになります。*(創世記22:18)

その傲慢さは、自分の最大利益の永遠の命が関わっていると妄想するために著しく頑迷で、神意が何かを探るまでもなく、「救い」欲しさに、自分は正義だと言い張るばかりで、ほかの意見は間違いに違いなく、あるいは悪魔の教えであるから耳を傾けてはならないとまでに強固に塗り固められているほどです。

しかし、もともと人間の真相との整合性もない教えであれば、あちこち誤謬からの齟齬も出てきて、そのため教理や教団の正しさの維持のために信者に無理を押し付けもしなければならず、人のための宗教ではなく、すっかり信者の無理な支えなくして成り立たない偶像のような宗教団体にもなりましょう。おかしな教えのために信者に強引に支持を要求し、奴隷化でもしなければ教団がもたない宗派が林立し、それぞれに信者は喜んでそうするかどうかの違いばかりです。

そこで、神の意志の真相を幾らかでも知るときに、それがどれほど恥ずかしい態度であるかが分かろうというものなのですが、もはや利己主義もそこまで進んでしまうと、いまさら後戻りも難しいのでしょう。
それが「キリスト教」という看板を掲げて人々を集め、主流派を成しているというところは、もはや誰に変えられる趨勢でもないようです。
唯一、変革の希望があるとするなら、よほどの事、人間技を超えるような証しを備えた教え、つまり聖霊の言葉の到来を待つ以外にないのでしょう。(使徒4:16)

それにしても、日本という特に宗教に熱心でもなく、非キリスト教の土壌は、利己的で強圧的な「キリスト教」からの、つまり実際には汚れた潔癖症の脅威をほとんど受けずに済むという大きな利点があるものです。


これはキリスト教徒ばかりでもない事ですが、「自分は救われる」と思うからには、社会一般の周囲が悪く、自分はそれよりは清く優れていると喜んで思い込んだか、または、以前から高慢な性質を持っていた人にとって誘惑となる教えに捕えられたということでしょう。(ルカ18:9-14)

しかし、この世のすべての人はこの世から出たつもりでいて、どんなに聖人君子を気取り、どんなに修行を積もうと、やはりこの世を超越できるわけもなく、却って自分だけ気持の中で無駄に偉くなるばかりです。

さて、その人がこの世を糾弾できたものでしょうか。
果たして、人間の不倫理性は誰にあっても変わるところがあるでしょうか。
あるいは、神が嫌われる人間の悪行もあるはずだから、それを避けるのは求められている行いだという詭弁を耳にしたこともありますが、隣人のためと云うならともかくも、神に嫌われない為とは何と独善的でキリストの犠牲を備えた神意を侮った見方、自分の矮小な正義に神を同調させる愚を曝す非キリスト教的思考なのでしょう。神は好き嫌いが激しいからと、その人は行いで神を宥めることができるのでしょうか。

いや、この世の悪がどれほど自分に関係なく酷く見えたにせよ、やはり、この世の悪はどれも我々人間の内から出て形作られたものです。そのような「罪の種」はどんな人間の中に実在しているのであり、この世を形作っているのは、他ならぬ我々人間ではありませんか。人間の悪行や不義理を悪魔のせいにするのは、妄想の中で責任回避しているだけのことで見苦しい言い訳です。
実にその悪は、我々一人一人の内に存在しており、ある人には思いもよらないほど極端な悪として社会に現れてはいても、誰にせよ、それは自分と無縁だと決め付けるなら、人の『罪』、つまり不倫理性を正直に省み、キリスト教の神髄たるイエスの犠牲の価値の大きさ「6000万デナリウス」*を越える巨額さに慄き、隣人を咎めるのを止めるという本来のキリスト教の動機も得られないことでしょう。*(マタイ18:24)『一万タラントン』ソロモンでも十年かけて払えない金の量

もちろん、何でも赦せというのではありません。
それゆえ、人間社会からは警察力と軍事力を無くすことは不可能ですし、人間に『罪』があるままなら、戦争はおろか、犯罪さえ無くすこともけっしてできません。
この『罪』の表れのすべては、神の前に人類全員の連座制の処罰に服すべきところを、キリストというゆるしを与えられたのですから、どうして誰かがこの世から出た者のようにこの世の悪の全体を糾弾できるものでしょうか。
その人は、いつ神の側に立てたのですか。ご自分が「この世のものではない」とは、たいしたものです。人間ではないかのように御立派です。(ヨハネ第一5:19)

『世の者ではない』とは、キリストの兄弟、その犠牲をいち早く『初穂』として適用され、仮に『罪』を赦され『神の子』とされた聖徒、真実のイスラエルという選民だけができることであり、そのような格別の人に神の証しが無いわけもなく、奇跡の業を為す聖霊なくしては誰もがただの人に過ぎません。(ローマ8:1・9・14)
どんなに自分に聖霊は有ると唱えても、なんの証しがあるでしょうか。反対している他の宗派もそう言うでしょう。どなたも皆さん「ただの人」、「この世の構成員」であることに何の変わりがあるでしょうか。この世は皆がアダムの子孫であり、奇跡の聖霊を持つ聖徒でなければ誰もが「裁かれる前の罪人」であることに変わりはありません。

キリスト教界で広く教えられてきた「信者の救い」とは、これらの事の視界を奪って、恐ろしいほどに自覚のない人々を大量生産してこなかったでしょうか。律法がメシア到来によってユダヤ人の中から高慢な性格を焙り出す罠ともなっていたように、終末のキリストの再来の時にキリスト教徒の中で繰り返されるのでしょうか。

どこであれ、キリスト教の宗派が「信者だけの救い」を唱えた段階で、そこで既に神ともキリストとも何の関わりもないでしょう。
わたしの知るところからすれば、「クリスチャン」とは、自己愛の激しい思い込みに生きる人のことを言うのであり、神を独占するところでは辺りかまわぬ自己中心性が強く、それでいて神依存が生活全般に些細であるほど良いと勘違いしている人を指す言葉であると思えます。

惰弱なためか、神の象りとして与えられた自由をむしろ捨て、教えを垂れる偉ぶった教師が頼り甲斐のありそうに見えてしまい、自分を奴隷として投げ出して安心する人々とも言えましょう。その先生方の内心の望みは「支配」や「金」であり、これはまさしく成就しております。
一方の信者はそれほどまでして救われたいらしいのですが、その動機は恐怖と判断拒否ではないのでしょうか。結果として、救いを望みながら、ますます死への奴隷となっています。到底、神に近付いたとは言えません。むしろ不信者の自然で晴朗な心の方によほどの希望が見えるほどです。

キリスト教とはすべての人、現状の思想信条に関わりなく、あらゆる人に向けられた『罪』からの救済と、創造されたままの栄光ある人間へと回復させようとの偉大な救いへの神の意志に深い価値を見出し、それに協働しようとする大志を意味するのであって、自分たちの救いに汲々とし、狭い宗派を箱舟に見立てて安心しているような些末なものではないのです。

と、このように書いたところで、どんなクリスチャン様が気付くでもないのでしょうけれども
やはり、書かざるを得ないものです。












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