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新刊 「キリストの例え話」 第一巻

2020.05.16 (Sat)

このたび以下の「キリストの例え話」まず16話をまとめて第一巻として発刊する運びとなりました。
本書は、教会で曖昧にされ、キリスト教徒の間で誤解もされてきたキリストの言葉の幾つかを、能う限り検証し、その意味を問い直した研究成果の集積を公表するものです。

以前に書き貯めた文面を推敲補筆などして書き改め、新たな記事を加えて、これだけはと思える例え話と意義深い言葉を取り挙げてまとめ、書籍の体裁を与えましたところ、300頁を越えて400頁の本になる勢いで、それでも最低限を網羅できたものかもわかりません。

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キリストの例え話、また語られた言葉に込められた意味の深さと数多さには目を見張るものがあります。
それらの数々を、メシア=キリストはその公生涯の間に呼吸なさるかのように次々と語られていたことにはまったく瞠目させられるばかりです。

これまで、それらの例えや、僅かな言葉の中に秘められた事柄を、聖書を中心にしつつ、歴史やユダヤ教の史料をも探索し、その意味を探ってまいりましたが、この十年にわたってそれらを書いてまいりました蓄積と、最近に書き足したものとを合わせてゆきますと、相当な分量になることが見えてまいりました。

つい先週までは、キリストの例えと言葉の解き明かしの試みとして、全24話を想定していたところですが、福音書をあちこち渉猟しておりますうちに、それだけでは到底収まるものではないことにいよいよ気付かされ、圧倒されるほどになった次第です。

それは使徒ヨハネがその福音書の結びで述べている言葉、『イエスが行ったことは他にも数多くある。それらのすべてが書き記されたなら、その書物はこの世界でさえ収められないだろう』。との一文が脳中に響いて離れないほどのものとなりました。

あれもこれもと、このまま筆者の微力を尽くしてでも書き貯めてゆくだけでも、まだまだ多くのことが湧いてくるかのようで、今週には30の題目に達して、なお他にも見当たるところが幾つかありまして、これではいつになったら出版にこぎつけるものかという不安を感じるところにさえなりました。

つきましては、「キリストの例え話」との書名のままで、とりあえず二巻に分割し、15話ほどをまとめてまず一冊を発刊することを思い定めました。

目次の記事の順は、二巻に跨って、読み易く内容も平易なものから、次第に神の奥義に関わる事柄に進むよう配慮いたします。

・ 第一巻の内容は 

1.よきサマリア人の例え
2.種まく人の例え
3.あなたがたは世の光
4.放蕩息子の例え
5.あなたがたの義がパリサイ人に勝らなければ
6.水と霊から新たに生まれる
7.あなたがたは地の塩
8.後の者が先になる 賃金の例え
9.枯れたいちじくの木
10.からしの木とパン種の例え
11.ゲヘナの裁きを逃れられようか
12.富んだ者とラザロの例え
13.神の王国はあなたがたのただ中に在る
14.あなたの罪は赦された
15.人の子は安息日の主
16.わたしと共に集めない者は散らす

まず電子書籍として出版し、遠からず追って紙本を追加したく思います。
紙媒体をご希望の皆様には、恐れ入りますがいましばらくお待ちください。


筆記いたしました者としましては、分冊にすることはあまり意に染まないところがあります。
といいますのは、記事の並びに従って内容も深度を増すよう、一応の工夫はできていると思われるからです。
しかし、紙媒体での厚すぎない手軽さも、本の機能の良さと思われ
あるいは、今後第三巻を追加する場合にも、分冊が有利かと思われました。

しかし、福音書に、ここまで意味深い事柄が、しかも次から次へと現れる言葉の重み、言葉に込められた奥義の深さは、かの黙示録さえも斯くやと思わされることもしばしばで、まことに畏れ多い驚異の連続であります。
これはけっして刊行に当たっての自画自賛などではなく、本当にそう痛感し、人知を超えた秘儀、文字通りの神韻渺茫に触れる思いです。
それをこうして拙い文書にたどたどしく書き連ねるような汚しを敢えて冒すのも、世には余りに知られずにいると思われてのことからでありまして、筆者の訥弁は何卒ご容赦願いたく存じます。

ともあれ、ご一読いただきたく、ここに出版をお知らせ申し上げます。
ご一読賜りますなら、取り組んだ心身の痛みも癒される思いです。




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あなたの罪は赦されている

2020.05.15 (Fri)


あなたの罪は赦された
マタイ9:6 マルコ2:10 ルカ5:24



この言葉が語られた場面は、イエス・キリストの宣教の初期、未だ十二使徒も集められていないおそらく西暦30年の時期のことで、ガリラヤの漁師たちアンデレとペテロ、ヨハネとヤコブが行動を共にしていました。そこに癒しを求める人々がひしめき合い、さらにエルサレムからは、その日カペルナウムのイエスの自宅にパリサイ人や律法学者までが訪ねて来ていました。

そこに中風を全身に患い身動きのできない病人を運んできた人々は家の中のイエスの傍に行けず、なんと家の屋根に穴を空けて、そこから寝台を吊り降ろすという手段をとります。
イエスはそれを意に介すこともなく、病人に向かって『あなたの罪は赦された』と言われたのですが、傍の宗教家らは内心で「これは冒涜だ」と断じます。

この当時のユダヤ人は、病気になることは本人か先祖の罪の酬いであると考えていました。ですから、イエスが病気と罪とを結び付けて語られたことはそれを聞いた周囲の人々にとって奇異には感じられなかったでしょう。
しかし、異例であったのは、癒しの奇跡を行うナザレのイエスという人物が罪を赦すと明言していることでした。
宗教家にとって、それは神に成り代わるほどに大それたことであったのです。

問題意識を持った宗教家らの内心を察知したイエスは、彼らに向かって『あなたの罪は赦されたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらが容易いか』と言われます。

この文を表面的に見ると、「あなたの罪は赦された」と言う方が長くはなりますが、それはギリシア語もヘブライ語も同じです。
しかし、「起きて歩け」の言葉の前提として、「あなたの罪を赦されて」という内容が修辞的に含まれるので、実際にそこまで説明すると「あなたの罪は赦された」だけならばその半分で済むことになり、イエスの言われた通り、話す内容の後半を省略できることになります。

そう尋ねてから、イエスは敢えてこう言われます『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために』。

つまり、宗教家らの想いとは裏腹に、イエスはやはり人の罪を赦して癒しを行っていることを明らかにされます。
それから病人に向かって『起き上がって寝ていた物を取り上げて、家に帰りなさい』と言うなり、その人は起き上がり、寝台を持って歩き出します。
この鮮やかな奇跡によってイエスの罪を赦す権威が同時に証しされるに及びました。
それは宗教家らには承服しがたい光景です。

それとも、これは三位一体説が教えるように、イエスが神であったから罪を赦す権限を持っていたのでしょうか。
いいえ、それほど事は単純ではありませんし、それでは罪と赦しについての重要なことに気付けずに終わります。

イエスの癒しの奇跡によって病気を治された人も、また生き返った人も、その癒しがずっと永久に続いたわけではなかったのですから、イエスが行われた罪の赦しによる癒しも限定的であったことになります。
その癒しも赦しも、より確実で永続的なものへの予示、また模式であったというべきでしょう。

では、それらが指し示していたところの本当に永続するものは何でしょうか。


◆人の子は、望む者を生かす
その翌年の春に、イエスはエルサレムに上っていたとき、やはりユダヤ人たちの反論に遭っていますが、そのときの出来事はヨハネ福音書の第五章に記されています。

そこでイエスはご自身について、『父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、その心が望む人々に命を与えるであろう』と言われました。(ヨハネ5:21)

さらに、『父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである』とも語られます。(ヨハネ5:26)

つまり、神がいつの日にか人々を復活させるように、イエスはご自身もある人々に命を与えて復活させるということであり、次のイエスの言葉はそれを確言しています。
『このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善を行った人々は、生命を受けるためによみがえり、悪を行った人々は、裁きを受けるために生き返って、それぞれ出てくる時が来るであろう。』(ヨハネ5:28-29)
しかも、こう言われるのです。
『父は裁きを行う権能を子に与えられた。子は人の子だからである』。(ヨハネ5:27)

これらの言葉から理解できることは、キリストはある人々を裁いて永遠の命を与える権威を神から授かっているということです。その人々は、神ではなく、御子の声を聞き、キリストに呼び出されて復活します。
それは全知全能の創造の神が人を裁かれるような、つまり、これまでに生きた人々の中の誰についてアダムが持っていたような神の創造物としての栄光を与え、また永遠の命を与えるかという、過去から存在してきた全ての人への裁きとは別のものであることが暗示されています。

イエスは専らイスラエル民族の中で活動され、異邦人への癒しはごく限られたものであり、癒しを行う権威を与えた弟子たちには『諸国民の道に入ってはならない』と諭し、フェニキアの女には癒しを一度断っています。
このことが示すのは、イエスが地上にで活動された「公生涯」と呼ばれる期間での癒しがイスラエル民族に限定されたものであったように、イエスの赦しの権能も、本来イスラエル民族のためのものであったということです。

とはいえ、イエスの癒しや生き返らせる業は一時的な効果のもので、その人に永続的な罪の赦しを与えていたわけではなかったことは明らかなので、それらのイスラエルの民への癒しは、なお本来あるべき永続的な罪の赦しの模式であったと言えます。

そして、イエスはご自分に与えられた権能を用いて、ある人々を永遠の命に、ある者らには裁きの復活を与える時がいずれ来ることを予告されました。
イエスが地上で行われた奇跡の癒しによる罪の赦しは、確かに『地上で罪を赦す権威を持っていることを、知らせるため』の印であり、仮のものであったのです。(マタイ9:6/マルコ2:10/ルカ5:24)

これを結論から言えば、キリストの権能が成し遂げることは「イスラエルの裁き」を行うことであり、誰がアブラハムの子孫として、その相続財産を受継ぐべきかという問題を審理する権威が、メシアであられるイエスに委ねられているということを教えるものです。
それは『神の王国』という、全人類の希望となるべき「神の選民イスラエル」に誰が含まれるかを審査することであり、イエスは『神の王国』の『王の王』としてまことに相応しい立場にあると言えます。

ですから、イエスが『望む人々に命を与える』とヨハネ福音書で言われたように、イエスをメシアと信じたイスラエル人については、その王国を共に受け継ぐために、イエスはその人を『終わりの日に復活させる』と明言され、また、イエスが命を与えるよう『望む』人々を『わたしに与えられた者たち』と呼ばれ、さらには『わたしをお遣わしになった方の御意志は、わたしに与えてくださった者を一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである』と語られた背景には、「神の選民イスラエル」を集めて『天の王国』を設立するという偉大な目的があったことが分かるのです。(ヨハネ6:39-40)
それはまず第一に、実際にアブラハム嫡流の子孫、血統上のイスラエル民族にその選民となる機会が開かれねばなりません。それが神とアブラハムの約束であるからです。(使徒13:46/創世記22:18)


◆キリストの赦しが成し遂げられる時に
ヨハネの第五章にあるように、イエスは『裁きを受けるために生き返って、それぞれ出てくる時が来るであろう』と予告されましたが、その『出て来る時』については、ダニエルが預言してこう述べています。
『地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠の命に、ある者は恥辱と永遠の憎悪へと』。(ダニエル12:2)
この復活は、『義者も不義者も復活』するという全能の創造の神がなさる最終的な裁きのための生き返りではありません。(使徒24:15)
キリストに望まれた者たちには、『その召しに相応しく歩むべきこと』が求められるのであり、そうして『新しい契約』を全うしなければ、キリストの声を聞いて出てくる復活には与れないことになるのです。(ルカ13:24)

では、『復活』とは二回あるのでしょうか。
この答えを与えているのがヨハネ黙示録の第二十章であり、明解に示されています。
そこでは、終末に迫害を受けても死に至るまで忠節を尽くした弟子らについて『彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した』『これが第一の復活である』また『その他の死者は、千年が過ぎるまで生き返らなかった』とも書かれているのです。

つまり、『第一の復活』を受ける者たちとは、『神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間支配する』という格別な人々、『天の王国』に召される「神の選民イスラエル」、『地のすべての氏族が祝福を受ける』真実のアブラハムの子孫であり、その選びに他ならぬイエス・キリストが『望む者を生かす』ということの権限が、聖書全体を通して示されているのです。

これは壮大な神の秘儀(ミュステーリオン)であり、まさに語られていながら隠されてきた神の目的、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったこと』であり、使徒や直弟子の時代には彼らの集まりである「エクレシア」に聖霊の降り注ぎを通して知らされていたことであったのです。(コリント第一2:9-10)

キリスト・イエスが公生涯に於いて、アブラハムの嫡流イスラエルの民の間で奇跡の癒しを行われ、そこに罪の赦しが予示されていたことは、イエスに望まれて永遠の命を受ける『新しい契約』に入るユダヤの人々の「律法契約不履行の罪」ばかりでなく、「アダムからの罪」(原罪)をも赦されなくてはなりません。
それは、彼らが天の聖なる神の御前に召されるために必要不可欠であるばかりでなく、地上に居る段階から『聖霊』を注がれてキリストと共に『神の子』とされるためにも絶対的な条件です。そうでなければ、彼らもイエスの行っていた奇跡の業を続行できなかったでしょう。
使徒パウロは『すべて神の霊に導かれている者は神の子である』と明言し、『誰が神に選ばれた者たちを訴えようか。神がその人を義としてくださる』とも、『キリスト・イエスにある命の霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放した』とも述べています。
この赦しは聖霊を注がれた者、『新しい契約』に入り、キリストと同じく『神の子』とされた聖徒についてだけ言えることで、「クリスチャン」というだけで得られるような類いのものではけっしてありません。(ローマ8:14-16)

それですから、黙示録は「キリストに望まれて復活する」ことの栄誉をこう記しているのです。
『第一の復活に与る者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない』(黙示録20:6)


◆あらゆる人々への罪の赦し
その一方で、同じ使徒パウロが『正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています』と語った相手が、非ユダヤ人のローマ総督フェリクスであったということは、キリストの裁きの権能によって選ばれる聖なるイスラエルではない人々に与えられる別の希望を述べています。
その『正しくない者』には、その場に居たキリストにもパウロにも反対していたユダヤ人さえも、この場面の文面からして明らかに含まれています。
彼らはイエスが望むような者らではなく、アブラハムの血を受継ぐ子孫でありながら、真実のイスラエルには選ばれなかったからであり、それでも彼らにも「第二の復活」とも言うべき、神ご自身の裁かれる一般人の復活に与る機会はまだ開かれています。
このことについてやはりパウロは『人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている』と語っています。(ヘブル9:27)

そこでキリストに反対し迫害さえした人々も『裁きを受ける』復活を受けることでしょう。彼らはそこで悔いるとすれば、まだ命への道は残されるのではないでしょうか。それはアダムが失ったところの命、つまり地で永遠に生きる道です。

キリストは別の時に、『生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。あなたはこれを信じるか』とも言われました。
これは終末にキリストが戻られる日に、キリストによって聖霊を注がれる聖なる弟子たちの言葉を信じる者が、そのまま死を経ることなく永遠の命に入ることを語られています。(ヨハネ11:26)
その人々は、イエスに望まれ、選ばれた聖霊を注がれる人々の言葉に生きていて信仰をおく、そのほかの無数の人々を指します。(ヨハネ17:20)

この人々こそが、『天の王国』の支配と贖罪を受ける人々であり、相当数に上ることでしょう。
イザヤとミカはこう預言しています。
『終りの日に次のことが起る。主の家の山は、諸々の山の頂として堅く立ち、諸々の秀峰をも凌駕し、国々は尽くこれに流れのように向かい、多くの民が来て、「さあ、我々は主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道を我々に教えられる、我らはその道に歩もう」と言う。律法はシオンから、YHWHの言葉はエルサレムから出るからだ。』(イザヤ2:2-3/ミカ4:1-2)

これは信者の救いを唱えて、利己心を煽り人集めをする宗教のようなものではありません。
キリストのような自己犠牲を歩んだ、真実のアブラハムの子ら、神の選民イスラエルの成し遂げる人類の罪の赦しの業の始まりであり、イエスは『人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される』また『人の子に言い逆らう者は赦される』とも言われました。
アダム以来の罪の全てをキリストの偉大な犠牲によって赦される神が、「信者でなければ地獄行きだ」などと言われるでしょうか。

しかし、イエスは付け加えて『聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない』とも言われました。
これは聖霊を注がれて語る選ばれた者たち、真実のイスラエルの聖徒たちの語る奇跡の言葉に信仰をおくべきことを指す以外にありません。(マタイ10:18)

では、実際にその言葉が語られる終末に於いて、人はどう反応するべきでしょうか。
預言者ゼカリヤは終末の民を描いてこう記しました。

『その日、あらゆる言葉の国々の中からの十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。「あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたがたと共におられると聞いたからだ」。』(ゼカリヤ8:23)





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見よ!神の王国はあなたがたのただ中に在る

2020.05.10 (Sun)


見よ!神の王国はあなたがたのただ中に在る
ルカ17:20-21



ルカ福音書だけに書かれたパリサイ人らによるこの質問の部分は、西暦33年の初春頃にイエスと使徒たちが「過越しの祭り」をエルサレムで迎えるためにガリラヤを出発し、サマリアとガリラヤの間、つまり低地沿いにエスドラエロン平原を通って、ヨルダンの東側に渡り、福音書にあるようにそれからエリコに出る行程の途中にあったときのことでしょう。その途上でパリサイ人たちからこの質問を受けたことが記されています。(ルカ17:11-21)

そのときの問いは『神の王国はいつ到来するのか』ということでありました。
確かに、メシアが王となる神のイスラエル王国の実現は、ユダヤ人の夢であり悲願であったので、その実現の時は待ち焦がれたことでしょう。
イエスの活動も三年半に達しようとしていましたから、イエスがメシアではないかと思う人々も増える中、来るべきメシアが本当にナザレのイエスであるなら、一向に王を宣言するでもない本人に、王国の到来の時期について尋ねてみようと思えた人もいたとしても不思議はありません。
まして、使徒たちもこの時点でイエスがエルサレムに行くと『たちどころに神の王国が実現する』と思っていたことをも記しています。(ルカ19:11)

ですが、彼らの師は半年も前から、エルサレムでご自身の受難と復活があることを何度も説いていたのですが、彼らからすれば、多くの奇跡を行われる方、せっかくメシアと信じられる方に従って三年も過ごしたのですから、この偉大な師が裏切りに遭い、宗教家らの手に落ちて処刑されるなどとは信じ難いことであったのでしょう。

王国はいつ到来するか、と尋ねてきたそのパリサイ人らも、ナザレのイエスに問いかけたからには、奇跡を行う徒ならぬ人物として一定の敬意を払っていたとも考えられます。

いずれにせよ、使徒たちにしても『神の王国』、つまりローマをも凌ぐであろう強大なダヴィデ王朝の復興の時については、今か今かと心待ちにしていたことは明らかですから、このパリサイ人にしても、他のユダヤ人共々イスラエルが地上の強国となることへの願いがあったことでしょう。

では、イエスはご自分が王の王となって治める王国が、地上のものではなく、マタイが福音書で繰り返し強調したように『天の王国』であること、また、この聖句からキリスト教会でよく言われるように「心の中」に在ることをここで説かれたのでしょうか。

たしかに『見よ!神の王国はあなたがたのただ中にある』との言葉の印象には、感動的な響きがあるもので、この句を読む「クリスチャン」は高揚感の中で、信者一人一人の心の中に神の国はあると喜んで信じる方々も少なくないようです。

そこで、この場面を分析することでどのような結果が得られるか、あるいはそのような高揚感を失わせるなら、それは今までそのように得心してこられた読者には、思わぬ残念さを感じさせるかも知れません。
しかしそれでも、主ご自身がどのような意味で語られたのかを探るのは、『捜し続け、敲き続け、求め続けよ』との主の教えに従うことになります。
学ぶということは、自分の心を頑なにせず、真偽を判断し、または留保し、絶えず自己訂正の機会を捕えることを意味することでしょう。


◆キリストの見えない再来
パリサイ人らに『神の王国はいつ到来するのか』と問われたイエスの回答は、『神の王国は、見える様で到来することはない。人々が「見よ、ここだ」または「あそこだ」と言うこともない。なぜなら、見よ、神の王国はあなたがたのただ中にある』というものでした。パリサイ人らへのイエスの言葉はここまでで、次にイエスは弟子たちに、この件と関連があるに違いない事柄を話されています。

『それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。
人々はあなたがたに、「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らの後を追うな。
稲妻が天の端から輝き出て天の別の端へと煌めき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。
しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。』(ルカ17:22-25)

弟子たちへのこれらの言葉に、パリサイ人らへの答えの中での「見よ、ここだ」「あそこだ」という同じ言葉を含んでいますので、
先の答えを補足していることが見て取れます。

『人の子』つまりご自身を弟子たちが『見たいと願っても見ることができない時が来る』こと、それが終末預言を語るマタイ24章やマルコ13章に見られる「稲妻の煌めき」をご自身の終末に於けるこの世への臨在、つまり再びこの世に関わりをもつようになる状態として語られています。

つまり、終末でのキリストは、天空を走る雷光のようになるのであって、地上のどこか一点を指して、つまりその時のエルサレムに向かっていた旅の後に、イエスが民衆の歓呼の中を、ソロモン王の即位の古式に則り、驢馬に乗ってエルサレム入城するような姿は、終末では天駆ける閃光のようなものになると言われます。

この『その後を追うな』という内容は、マタイ、マルコばかりか、同じルカの福音書の中でも終末預言に含まれていて、それらは口をそろえて「偽キリスト」の現れの危険を説いています。
マタイでは『見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。偽キリストらや偽預言らが現れて、大いなる印と奇跡を行い、できれば、選民をも惑わそうとする』と記され、これらの文言はマルコ福音書でも切り貼りされたかのように変わりません。(マタイ24:23-24/マルコ13:21-22)

そしてルカでも『あなたがたは、惑わされないように気をつけよ。多くの者がわたしの名を騙って現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行ってはならない』とあり、同じ終末預言で『その後を追うな』という言葉が一致し、マタイやマルコと共に、偽キリストの危険に注意を喚起しています。(ルカ21:8)

こうしてイエスの発言の意味を探ると、『神の王国はいつ到来するのか』というパリサイ人への問いに対して、イエスがその『いつ』という質問に直接には答えず、時間的要素より重要な事柄に注意を向けていたことが見えてきます。

『神の王国』の到来は、パリサイ人が予想していた地上の強国としての到来ではないことがより重要であったということです。
それは弟子たちであっても変わるところはありませんでしたから、「見よ、ここだ」「あそこだ」と言っては、ただの人間をキリストの再来として受け入れてしまい、「ついて行ってしまう」なら、それは世界が裁かれる終末に於いて危険極まりない誤りとなることをイエスは警告していたことになるのです。


◆天の雲に乗って来るキリスト
この点では、イエスが何度も『人の子は雲に乗って来る』と再臨や終末預言の中で語られていたことが関係しているとみるべき理由があります。

「雲」というものが、どれほど視界を妨げるものであるのかは、登山家やパイロット、また天体観測者にとっては自明の事です。
加えて、聖書でも出エジプトのイスラエルを守ってエジプト軍の前に立ちはだかった雲の柱、崇拝の天幕や神殿が奉献され、最初の祭祀が行われようとしたときに発生した雲は、祭司たちの奉仕の開始を遅らせています。

新約聖書でも、栄光の変貌を遂げるイエスの姿の変換を演出して、三人の使徒たちの視界が一時的に阻まれました。

そして、終末のキリストは地上のどこかを指して『「見よ、彼は荒野にいる」と言っても出て行くな。また「見よ、奥の間にいる」と言っても信じるな。』とイエスが言われたのであれば、『人の子は雲に乗って来る』とは、人の目に捉えられることのない『稲妻が東から西に煌めき渡るように、人の子も現れる』という言葉と一致を見ることになります。

マタイ、マルコ、ルカの共観福音書の終末預言がそろって、キリストの到来を地上のどこかではないことを示し、『雲に乗って来る』キリストを教えるのであれば、キリストの再来はむしろ偽の騙り者の危険をそれぞれに強調しているのです。
それこそが「王国はいつ来るのか」と問うすべての人にとっての危険であるとも言えるでしょう。

「クリスチャン」の中には、人々に優しく柔和なイエスが再び現れて、いずれ自分たちにも接してくれることを夢想し、終末での「キリストの地上再臨」の教えに魅力を感じる人々もあるでしょう。

あるいは、キリストの姿を目撃するユダヤ教徒たちまでが、終末にキリスト教に改宗し、イスラエルの回復の預言が成就されると信じてやまない人々も少なくありません。

それでも、前提条件を設けずに、ニュートラルな心のままにイエスの言葉を追ってゆくと、「キリストの地上再臨説」また「見える空中再臨説」は、まさにそのキリストご自身が警告していたそのものではないでしょうか。

キリストはアダムの代替となり、一度限り肉の命を永遠に捧げ、復活により霊者となられ、もはや人と成られる理由がありません。
もし、再び人と成られるとすれば、贖いの犠牲とは何であったのでしょうか。



◆「あなたがたのただ中」の意味
パリサイ人の問いに『神の王国はあなたがたのただ中にある』と答えたイエスの真意を探ると、パリサイ派の人々の心に中にそれが在ると言われたとはとても言えません。

『ただ中にある』とは、『いつ来るのか』と尋ねているパリサイ人の方に問題があったことをイエスは指摘されていたと言うべきでしょう。
なぜなら、ルカはこの場面を記した前の章でイエスがこう語っていたことを記しているのです。
『律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それからというもの、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆がこれに殺到している』。(ルカ16:16)

つまり、ユダヤの宗教家らの大半はメシアの到来を頑迷に認めようとしませんでした。それですから、『いつ来るのか』とパリサイ人が尋ねてきたのでしょう。
その一方で、民衆はナザレのイエスにメシアを見出し、奇跡の癒しを受け、その教えを聴く機会を得て、いよいよ約束された『アブラハムの子孫』として『神の王国』を相続する立場を受けようとしていました。
もちろん、それらの民衆であっても「王国はいつ来るのですか」と尋ねることがあったかも知れませんが、根底にある態度は宗教家らとは異なっていたでしょう。

民衆は、ナザレのイエスの到来を喜んで迎えており、それはこの場面の後にイエスの一行がエリコの街の近傍で『ダヴィデの子よ!』と叫んで盲目を癒されることを切望した乞食らの魂の叫び声にも、さらに数日後のエルサレムに王として入城なさるイエスに、『ダヴィデの子にホザンナ!』の声が上がったことにも表れています。(ルカ18:35-/ヨハネ12:12-16)

他方で、神殿境内で人々を癒すイエスを見て子供らまでが『ダヴィデの子』と叫ぶのに宗教家らは我慢がならず、イエスに不平を鳴らしていたのですが、イエスは『『幼な子、乳のみ子たちの口に賛美を備えられた』とあるのをあなたがたは読んだことがないのか』とあしらっただけで去って行きました。(マタイ21:15-17)

この両者の対照から、パリサイ人に言われた『神の王国はあなたがたのただ中にある』との言葉を見直すと、その真意がはっきりと見えてきます。
つまり、『神の王国』は誰の目にも明らかな姿で現れるのではなく、イエスにメシアの到来を認めてそこに『王国の王』が来ていることを認めるべきだったということです。

天界の『神の王国』の設立そのものは聖書に中での秘儀であり、イエスご自身も『子も知らず、天の父だけが知り給う』と言われた通り、誰に対しても秘められた事柄となっています。その時こそは『聖なる者たち』にとっても『地の諸国民』にとっても『裁きの日』となることが深く関係しているのです。

しかし、件のパリサイ人らが尋ねたのは、当時のユダヤ人としての観点からの『王国』なのであって、後代になって新約聖書が読めるわたしたちのようには考えられなかったでしょう。

しかし、それでも彼らには大きく欠けているものがありました。
それが目の前におわすメシアを見分けることであったのです。
ですから、『見よ!神の王国はあなたがたのただ中にある』とお答えになったイエスは、そのパリサイ人らの持つ最大の問題を正すよう促されていたのです。

ですから「神の国は信徒の心の中に在る」と考えて来られた「クリスチャン」方は、いずれ聖霊が聖なる者らを通して語るとき、彼らを無視し、あるいは反対するでしょうか?
そのときには、『見よ!神の王国はあなたがたのただ中にある』とイエスが語られた相手のパリサイ人らに同じ問題を抱えていないかどうかを自問する必要があるでしょう。







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羊と山羊に分ける

2020.05.09 (Sat)


羊と山羊とを分けるキリスト
マタイ25:31-46



メシアの初臨を迎えたユダヤ律法体制は、『小麦』と『籾殻』とに分けられる裁きを受けることになりましたが、マタイ福音書の第24章からは、『籾殻が焼かれる』エルサレムと神殿の滅びをイエスは預言し、それを通してキリストが再び到来される「この世の終り」の時期に起る幾つかの裁きを預言した言葉が続いています。第25章の中には、「十人の乙女の例え」、「タラントの例え」があって、それらの最後にこの「羊と山羊の例え」が語られています。

この中ではイエスがご自分の使いたちを引き連れ、栄光の座に就き、この世の人々を一人一人裁く有様を語られました。
それは丁度、羊飼いが群れから羊を選んで山羊から分けるかのようであると言われ、羊を右に、山羊を左にすると言われます。

羊は山羊と異なり、冬の夜間には屋根の下に入れておく必要があるとのことで、実際の羊飼いが夜が近付く中で群れを分ける姿をイエスは例えに用いられたのでしょう。

しかし、この例え話で分けられるのは外見は同じ人間なのです。
ですが、羊とされる人々には是認と祝福があり、山羊とされた人々には否認と処断が言い渡されるからには、これはこの世の終りでのキリストの裁きを意味するという恐るべき分かれ目です。

「十人の乙女の例え」にしても「タラントの例え」にしても、共に『聖なる者ら』の中に起る分離が警告されていました。つまり『新しい契約』を守るか否かという、天でキリストと共になる者らの選びに関わる事柄への例えであったのですが、この「羊と山羊の例え」については、『すべての国民をその前に集めて・・選り分け、羊を右に、山羊を左におく』と語られた以上、それは世界の全ての人の関係する選別であることを示しているところが異なります。

そこで、これらの左右に分けられる根拠が何かが気にならないわけもありません。
キリストは羊として右側に分けられた人々には、ご自分が困ったときに助けてくれたので、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている王国を受け継ぎなさい』と是認の愛顧を示されます。

しかし、山羊とされて左側に類別された人々には逆のことが語られます。
『あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、渇いていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに衣を着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを訪ねてはくれなかった』(マタイ25:42-43)
しかし、これはこの左側の人々には思い当たりのないことです。この人たちは何時イエスに親切を示さなかったのか分かりません。
ですから『主よ、いつ、あなたが空腹であり、渇いておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』との反論はこの人々からすれば当然のことに思えるのでしょう。

この心当たりの無さは、右側の羊とされた人々にしても同様であることが語られています。
では、この選別はどのように起きていたのでしょうか。

そこでキリストは、その理由を明かされてこう言われます。
『わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人に行ったことは、すなわち、わたしに行ったのだ』また『これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのだ。彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入る』(マタイ25:40・45-46)

こうして、この世の終わりに於いて世界の裁きが行われ、人はそれぞれに両極端な結末を迎えることになることをこの例えは語っています。


◆イスラエルの兄弟関係
この裁きを分ける重要な点は、キリストが『わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人に行ったことは、すなわち、わたしに行ったのだ』と言われる「キリストの兄弟たち」とはどのような人かということになるのは明らかです。

この例えを解明しようと試みる人々の中には、羊になる人も、山羊になる人も、どちらもそれを気づかないのであるから、『わたしの兄弟』とキリストが言われるのは、誰とも知れない身近の困窮者なのであり、親切心に富み行動をとった人は評価され、そうしなかった人は裁かれるとの解釈を唱えることもあります。

確かに、真実の愛や親切は利己的打算を伴うものではありません。そのようなものは、つまるところ利己心の表れでしかないからです。その動機をさえ見抜くキリストの裁きは、それぞれに裁かれた人々の意識の無さに表されているというのは、大いにあり得ることでしょう。

しかし、聖書を見渡すとキリストの兄弟たちがどのような人々であるのかは、実は明らかにされているのです。

まず、アブラハムの嫡流の子孫であるイスラエル人は、ヤコブの12人の子らから国民へと発展したので、部族に関わらず互いを『兄弟』と呼びました。そこにはアブラハムへの神の約束を相続する仲間という観点や、日頃から律法を守る者同士という結束意識もあってのことです。

ですが、彼らイスラエルは民族としてメシアであられるナザレのイエスを受け入れず、却ってローマの権力に渡して処刑させてしまいました。
結果として、神の恩寵は血統のイスラエル=ユダヤ人から去ってゆき、聖霊を注がれた僅かなユダヤ人らだけでなく、やがて多くの異邦諸国からも聖霊注がれる人々も含まれる複合の民族、血統によらない『神のイスラエル』という新たな『共同相続人たち、つまりキリストと共同の相続人』の民が現れるに至りました。(ローマ8:16-17)

かつて、キリストまではユダヤの神殿の境内でも中心を成す聖所の建物の中には、非イスラエル人の立ち入りが許されておらず、聖所の建物の周囲には1メートル30センチほどの高さの石の壁が巡らされていて、ところどころにはギリシア語とラテン語で「いかなる異邦人もこの聖所への入ることは許されない」と書かれていたことが知られており、この石の仕切りは「ソーレグ」と呼ばれていたそうです。その禁を破って中に入ろうとする者は殺してよいとされていたことをユダヤ人の歴史家ヨセフスが伝えています。(戦記V:193)

それほどまでに、ユダヤ教は民族の宗教であったので、互いを兄弟と呼ぶときには誇りをもってそうしていたことでしょう。
当時は、ローマ皇帝までが代理人を遣わしてユダヤの神YHWHに犠牲を捧げ、そのソーレグの外で犠牲の煙が上がるのも待つほどにユダヤ教は皇帝さえ尊ぶところであり、壮麗に仕上がったヘロデ大王によって増改築された真新しい神殿は帝国内の名所でもあったのです。

しかし、イエス・キリストの現れについては、バプテストのヨハネが警告していたように、『聖霊と火とのバプテスマ』が近付くことでもあったのです。(マタイ3:11)
つまり、聖霊を注がれるユダヤ人は小麦として『倉に納められ』、他方の『籾殻』のような人々は『火で燃やされる』という血統のイスラエルに対する裁きです。

その結果、聖霊を注がれた人々による新しい兄弟関係が存在することになりました。
ですから使徒パウロが非ユダヤ人の聖霊注がれた人々に向かって『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近しいものとなった。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての石壁を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄した』と手紙に書いたのはそのためです。(エフェソス2:13-15)



◆キリストの兄弟たちとは
パウロは「ヘブライ人への手紙」をも書いたと思われますが、使徒の時代には、ユダヤ人のイエスの信者らが、異邦人の仲間を「兄弟」と呼びかけるのに幾らか抵抗があったことについてこう書かれています。
『実に、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない』。(ヘブル2:11)

キリストと共にアブラハムの遺産を相続する兄弟たちが肉の血統に関わりなく、信仰によって集め出されたのであれば、やはり彼らもキリストの受けた試練を共にしなければなりません。パウロも『キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるから、キリストと共同の相続人である』と言う通りです。

福音書はそれぞれに、この世の終りにイエスが再び『雲に乗って来られる』ときに、弟子たちの中から聖霊を注がれてこの世の為政者の前に引き出されて、『だれも論駁できない』言葉を語ることを預言しています。
もちろん、それは人間の知恵を超えた内容であるので、その言葉によって為政者である『彼らと諸国民への証し』が行われるとも書かれています。(マタイ10:18)

ですから、それは天地を揺るがすような論争を世界に着き付けることになるのでしょう。(ハガイ2:6-7)
そこで聖霊を注がれたキリストの兄弟たちは、猛烈な反対の矢面に立つことは避けられません。
彼らについてイエスは『わたしの平安を与える』と言われますので、迫害に遭ってもその心には静けさと人々を救うという高潔な大志とがあることでしょう。(ヨハネ14:27)

古代には、十二使徒を始め多くの弟子たちが迫害に遭っていました。特にパウロの活動の記録を見ると、彼が獄につながれたときの様子を知ることができるのですが、獄中のパウロを世話しようとする仲間が、彼を訪ねることが許されていて、今日の監房とは違っていた様が分かります。特にローマでの軟禁生活では、遠く離れた土地の人々までもが必要物や助け手を送っていました。

しかし、キリストが再び来られる終末では、キリストご自身は『雲に乗って』または『雲と共に来る』ため人の目にとまることがありません。
ですから、キリストが栄光の座に就かれるとしても、人々は地上のキリストの兄弟たち、つまり聖霊の言葉を伝えて政治家たちの前に立つ聖なる弟子たち、真実のイスラエルに属する者たちにどう振る舞うかに於いて、人々はただ善良であることを示すというよりは、キリストをどう迎えるかを示すことになると言えるでしょう。

それは単に隣人愛の発露という以上に、キリストに対する信仰が関わることは否定できません。
その「信仰」とは、見えるキリストを待ち望むことではなく、現に見えているであろう『異兆となる人々』をその語る言葉のゆえに受け容れることであるので、自分がいつキリストご自身に親切を行ったのかを問うのでしょう。ですから、ほとんどの場合に聖徒たちとの直接的な関わりを持つことを言うことにはならないでしょう。

その人々は、この空しい生活を強いる『この世』が、聖霊の降下によっていよいよ近付いた『神の王国』に道を譲るべきことに得心するばかりでなく、信仰を置き、その到来を切実に願うことでしょう。
そうであればこそ、イエスはこうも言われていたのです。
『わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、まさしく言うが、決してその報いからもれることがない』。(マタイ10:42)

その右に集められる人は、自分にできることを惜しまず、聖霊の言葉への信仰のゆえに、それを語る聖徒たちを支持し、それぞれの行動を起こすのでしょう。それは信仰が人を動かす行いであって、ただ心の中に秘めているものではないでしょう。『行いを別にした信仰は死んだもの』だからです。(ヤコブ2:19-20)






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地獄とは異なるゲヘナ

2020.05.07 (Thu)
ゲヘナの裁きを逃れられようか
マタイ23:33


イエスはユダヤの反対する宗教家に向かってこのように激しい言葉を浴びせていました。そこにエデンの蛇の一党への『女の裔』キリストとしての戦いがあります。(創世記3:15)
そこでイエスは確かに悪魔の子孫を糾弾していたのです。
『蛇よ、まむしの子らよ、どうして地獄の裁きを逃れることができようか』(マタイ23:33)

これはもう、このまま読めば、ご自身を亡き者にしようとしている宗教指導者らにイエスは地獄行きを宣告していると思えます。神から遣わされたメシアを殺害しようなどと企む者らであれば、死んだ後に火の燃え盛る地獄に落とされる処罰も当然と思えることでしょう。

キリスト教では、カトリックでもプロテスタントでも「地獄」とは、死ぬまでキリストを信じなかった者が永遠に火の責苦を受ける場所とされ、それがキリスト教の常識のようになっています。

ですが、この部分の原語はギリシア語の概念で見ると、一度入ったなら二度と出てくることのできない「タルタロス」ではなく「ゲヘナ」という言葉が用いられています。この「ゲヘナ」は元々ギリシア語ではなく、ヘブライ語の「ゲーヒンノム」という言葉の発音をギリシア語に置き換えた、言わば外来語でありました。この語「ゲヘナ」は共感福音書はもちろん、旧約聖書をギリシア語に翻訳した聖書である「七十人訳」(セプチュアギンタ)と呼ばれるギリシア語旧約聖書の中でも用いられています。

つまり、ユダヤ人たちは、ギリシア語での二度と出てこられない地の深い「冥府」や「地獄」のようなものを意味する単語「タルタロス」を用いることを避けて、「ゲヘナ」というギリシア人には耳新しい、何か異なるものを知らせようとしていたことになるのです。
しかし、「ゲヘナ」という言葉に聞き覚えが無いとすれば、それは多くの翻訳聖書がこの原語の音訳を用いずに「地獄」と訳しているからでしょう。

今日広く流布している日本語訳聖書では、やはり『地獄』としているものが少なくありません。古くは1633年に公刊されたジェームズ王欽定訳聖書からして「地獄」[hell]と訳していましたから、それも無理からぬところもありましょう。しかし、当時の英語「ヘル」には、火の燃える場所としての意味はなく、単に地下を表していたとのことですから、翻訳された聖書を今日読むにも、そのまま鵜呑みにはできないものです。

それでもこの欽定訳聖書を元に明治20年に日本語に翻訳された「舊新約聖書」(文語訳聖書)では、その影響なく『ゲヘナの裁き』と訳しています。そこは、江戸時代から長く来日していたヘボン博士をはじめとする翻訳委員の良識に敬意を払うべきところと言えましょう。
この「ゲヘナ」という言葉が太宰治のような小説家に用いられていたのも、この「文語訳聖書」の影響なのでしょう。

さらに非常に古い聖書、西暦五世紀に完成したウルガタと呼ばれるラテン語訳では「ゲヘンナエ」[gehennae]とされていて、やはり「地獄」[inferos]とはしていません。これはカトリックの重要な聖書なので、それなら間違いなく「地獄」とありそうなものですが、この古い聖書は違ったのです。

今日の日本語訳の状況はというと、口語訳や新共同訳が「地獄」としていますが、新改訳や岩波書店の委員会訳聖書ではこの「ゲヘナ」が用いられています。
では翻訳に於いて「地獄」が「ゲヘナ」に変わると、読者にとって何がどう違ってくるのでしょうか。
そこでマタイ福音書のこの句の『地獄』を『ゲヘナ』に入れ替えるとこうなります。
『蛇よ、まむしの子らよ、どうしてゲヘナの裁きを逃れることができようか』。

では、地獄ではない『ゲヘナ』とは何を指しているのでしょうか?

「地獄」という言葉が示すものと言えば、激しい刑罰が加えられる恐ろしい死後の世界というのが主要な宗教に共通したものでしょう。仏教には元々「地獄」は無かったとのことですが、民間信仰が混じってしまったようです。
この「地獄」は、人間が普遍的に思い描くもののようで、世界にごく自然に知られているものです。
人というものは、やはり自分の悪いところを痛感して生活しているのでしょう。
悪い行いは、いつか必ず酬いを受けるという、漠然とした不安は誰にでも有りそうなことではありませんか。

そこでやはり聖書中にも「地獄」という言葉があれば、「ああ、やはり」と多くの人が納得してしまうところでしょう。
しかし、その「地獄」と書かれている部分の原語「ゲヘナ」が別のものを指していたとなれば、これはキリスト教を見直すほどの一大事となり兼ねません。もし、聖書に「地獄」というものが無いとすれば、「キリスト教の常識」はどういうことになるのでしょうか?

そして、やはり「地獄」と「ゲヘナ」との違いは以下に見るように、たいへん大きなものなのです。


◆街のゴミ処理場
聖なる都エルサレムといえども、人が生活している以上、ゴミが出ないわけもありません。
ヨシアという王の治世中、それまで異教の崇拝が行われていた場所がエルサレムの傍にあったのですが、その崇拝というのは、元々のパレスチナの住民のカナン人、またアモリ人らの神バアルの求めに従い、嬰児を火の中に投げ入れて犠牲にするというおぞましいものであったことを旧約聖書が伝えています。(列王第二16:3)

残酷な風習であるのに、その影響はなかなか消えないばかりか、近隣のモアブ人やアンモン人の神々の崇拝にまで入り込み、果てはイスラエルの民までがつられて、なんと神殿のあるエルサレムのすぐ傍で、子供たちを生贄にする別の崇拝を行っていたというのです。(歴代第二28:3/エゼキエル23:37)
それではイスラエルも律法契約を守ったと言えず、その報いに、後にはバビロンなどに捕囚にされたことも、それも止むを得なかったというべきでしょう。(エレミヤ32:30-35)

このバアル崇拝は、地中海沿いのフェニキア人の間で特に盛んでしたから、彼らの植民都市であるカルタゴなどを通してほかの国々にも伝わっていました。やはり、かの有名なカルタゴの猛将ハンニバルにも、その名の最後にバアルが居ます。それはフェニキアの王女でイスラエル王に嫁ぎ、多くの災いをもたらしたイゼベルにも、その名にバアルが含まれています。バアルとは「主」を意味するそうです。

実際、この神とイスラエルの神との対立があったことは旧約聖書からよく分かります。
こうした恐ろしい異教に囲まれたイスラエルには、モーセによって紅海を割って導き出され、百雷轟くシナイ山で律法を賜ったという誇り高いはずの神YHWHの崇拝があったのですが、それは常に忌むべき神々の影響に曝されてのことでありました。

特に、その戦いの先頭に立った預言者にエリヤが挙げられ、続いてエリシャ、またエフー王も列王記にその活躍の姿を伝えています。しかし、イスラエルからこうした異教はなかなか払拭されなかったことを旧約聖書は語っています。

そして遂にユダの王ヨシアが、それらの異教を一層しようと決然と立ち上がり、国民の中から多くの偶像を廃棄し、エルサレムの傍にあった異教崇拝の場所を公共ゴミ処理場にするという処置を行ったのでした。(列王第二23:10)

ユダヤ教の教師(ラビ)たちによれば、その後もキリストが現れた時代まで、そのエルサレム南西側の谷はゴミ捨て場であり続け、ゲー ヒンノムと呼ばれていたとされます。つまり「ヒンノムの谷」という意味で、これがギリシア語で書かれた新約聖書の『ゲヘナ』の正体です。

その地名『ゲヘナ』は、新約聖書ばかりでなく、ギリシア語に訳された旧約聖書(セプチュアギンタ)に於いても、キリストの現れる二百年以上も前からやはり「地獄」ではなく『ゲヘナ』として用いられていました。
確かにゴミ処理が適性に行われていませんと、不衛生から疫病の発生源ともなり兼ねません。そこで常時着火し易い硫黄が大量に散布されて、ゴミの間で常に火が燃えているようにされていたとのことです。

ですから、イエスが『蛆は絶えず、火は消えない』と言われた場所は地獄ではなく、エルサレムのゴミ捨て場のことであり、言葉の上辺で似通っていたところに誤解の原因があったのことになります。やはり、聖書は当時の事情を知らずに読むなら、あちこちで意味の取違いを起こす危険があるものです。(マルコ9:47)

古来アブラハムの時代から、人には死後に復活があることを聖書は教えてきました。
それは、人は死ぬと地中の死者の世界に行くと教えたメソポタミアの伝統的宗教とは異質であったと言えます。
ですから、古来ユダヤ人は土葬を専らとしてきた様が聖書に記録されています。(創世記25:9/列王第二13:21-22/ヨハネ11:44)

しかし、ヒンノムの谷に遺棄される死体もあったことを中世のユダヤ教のラビが語っています。 (ラビ・ダヴィード・キムヒ1160–1235)
捨てられるものには動物の死骸だけでなく、時に処刑された重罪人の死体も含まれたとのことで、この点はイエスの言われた『ゲヘナの裁き』が何であるかに理解の光を投じるものとなっています。

それはつまり、復活が望まれないような処置であることから、永遠の命に価しない者とされる処罰を意味していると理解することで、イスラエルの教えの一貫性の内にそれが何を意味していたかをはっきりと知ることができるのです。

ですから、メシアであられるイエスに激しく反対していたユダヤ教の教師らは、ゲヘナに捨てられるかのように永遠の命に価しない者として裁かれることがそこで宣告されていたのであり、永遠の火の責苦の地獄に囚われること言っていたわけではありません。


◆「死後の無意識」が聖書の教え
多くの「クリスチャン」には意外に思われるかも知れませんが、イスラエルの死後の見方には死後に霊魂だけが行く「死後の世界」が本来無かったことは余り知られていないことではあります。
しかし、イスラエルとその他の民族が抱く見方とが異なっていたのであれば、人は死後どうなると教えられていたかを把握しておかなければキリスト教というものを本当には理解できません。

旧約聖書には『生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久に関わることがない。』とあり、死後に人は意識さえ持たないことが教えられているのです。意識が無いのでしたら、何の苦しみを受けることもありません。(伝道9:5-6)

また、復活が死者に関する希望であることは、聖書の様々な箇所に書かれている通りです。アブラハムはイサクを犠牲として捧げようとしたときに『神が死人の中から人を生き返らせる力があると信じていた』とされ、聖書には奇跡によって蘇生した例が九つ記されていて、その一つがイエス自身の復活です。

ですから、『もしキリストの復活がなかったと言うなら、わたしたちの宣教は空しく、あなたがたの信仰もまた空しい』とパウロが書いたのも、イエスが『死人の中からの初子』と呼ばれるのも、キリストの復活にすべての人の命の希望が懸かっている以上当然のことであったと言えます。(コロサイ1:18/コリント第一13:14)
聖書の教える「死」とは、無意識で、世界に何の関わりもなく、復活を受けるまでどこにも存在していないことになります。

ですが、この世では死者の霊魂を呼び出してその意志を尋ねたりする交霊術がずっと行われてきましたし、不思議を好む人たちや故人を慕う人から人気を博してもいるのはどう説明がつくのでしょう。
キリスト教に於いてさえも、カトリックなどで死後の世界に居る故人の境遇を改善するために、祈りや善行を行うことができると教えられてきました。まさに、あのルターが強く反対を唱えたのは、死者の罪を軽くできるという贖宥状が買えるとされて人々から金銭が集められていたところにあったのです。

これらは「死後の世界に死者が居る」という教えの上に成り立つものですが、聖書そのものは、人は死によって意識なく、復活を待つばかりなのですから、死後の存在を教え、また連絡を取るなら、それは神からのものではなく、別の源から発するものと言う以外になくなります。まして、死者の境遇を金銭でどうにかできるというのは、随分とおかしなことではありませんか。

この点で、確かに聖書は旧約の律法からして心霊術を重罪に定めていましたし、死者を装う「悪霊」という元は天使であった者らが居ることを教え、また、心霊術で故人が実際に呼び出されている場面までありますが、これは故人の現れではありません。(サムエル第一28:11-15)
それは今日でも同じ事で、聖書は霊媒が故人ではなく、悪霊と意思を通わせていることを暴露しています。
こうなると、死後の霊魂について教えるものは、エデンの園で蛇が『あなた方はけっして死ぬようなことにはならない』とエヴァを騙した言葉のままに、その手下である悪霊らが死んだ人々を装っていると警戒すべき理由があるのです。(創世記3:4)

また、悪霊らは死者ばかりか、恐るべきことに『神』までを装い、それが多用な宗教を興す原因ともなっています。
旧約の時代から、悪霊が神を装うことについて『彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々』と明らかにしていましたが、新約聖書にも『人々が供える物は悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである』と述べられていて、異教の神々はただの空想の産物ではなく、背後には幾らかの不思議を行う力を持つ、霊の存在があることを示しています。

こうして、死後の世界があると教える宗教には、悪魔とその配下にある元は天使であった堕落者らの関わりがあり、それは例えキリスト教との名前を掲げる宗教であっても、その罠となっている危険があります。死後の世界を説くことによって、神が人に伝えようとしている真理が曇らされ、いつの間にか、キリストを離れて自分たちの「ご利益」を願う利己的な精神を教えられているということが起っているからです。


◆『蛇の子孫』の意味
ゲヘナというものが、地獄ではなくゴミ処理場を指していたのであれば、イエスが激しく反対するユダヤ教の教師らに『蛇よ、まむしの子らよ、どうしてあなたがたがゲヘナの裁きを逃れることができようか』と言われたときに、それは火の燃える地獄で永遠に責め苦に遭うということを意味していたのではないことが明らかです。聖書は人には死後の世界がないことを教えるからです。

それは、ゴミ処理場に遺体が捨てられることを指していたのであり、それが意味するのは、復活が望まれないように永遠の命から遠ざけられるという意味です。

創世記には、アダムらに罪を犯させた蛇である悪魔に向かって『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼はおまえの頭を砕き、おまえは彼のかかと砕く』と神が予告される謎のような場面があります。(創世記3:15)

この女の子孫がキリストであり、悪魔の子孫がキリストのかかとに傷を負わせるものの、女の子孫であるキリストは蛇である悪魔の頭を砕くことで滅びに至らせることがここに予告されています。
驚くべきことですが、この一言に中に聖書の全体が要約されているほどに、聖書の書かれた理由が込められています。
実に、この蛇に致命傷を与える『女の子孫』が誰であるかを巡って聖書は書き進むことになり、遂にメシアつまりキリストへと導かれてゆきます。
そうして悪魔である『蛇』によってもたらされた創造界の乱れは、キリストを指す『女の子孫』によって正されます。それには悪魔とその『子孫』である者たちの滅びが求められています。なぜなら、それらの者らは悔いて改めることが無いことを示すからです。

キリストがご自分の死を三日後にしていた中で、既に祭司長派らはイエス殺害を準備していましたから、今や『女の子孫』のかかとは砕かれようとしていました。イエスが彼らを『蛇よ、まむしの子らよ』と呼んだのはまさしくその通りであったのです。(ヨハネ8:44)

聖書は、『人間には一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている』と述べる一方で、『二度死ぬ』という比喩もあります。これは人は『正しい者も、正しくない者も必ず復活しようとしている』ことについても書いています。(ヘブル9:27/ユダ12/使徒24:15)

これらを総合すると『ゲヘナの裁き』とは復活してさえ悔いることなく永遠の滅びに処されることであると言えます。
そのため黙示録には悪魔は最終的に『火の湖に投げ込まれる』とあり、そこにはその手下も投げ込まれるだけでなく、最後には『死』や『墓』までも投げ込まれるというのですから、これは永遠の命の到来を予告していることになります。

そのうえで、黙示録は『火の湖』のことをはっきりと『これは、第二の死を表している』と書いているのです。
つまり、復活しても裁きで悔いず、遂に永遠の消滅に渡されるということであり、確かに神にはそれを執行する権限があります。なぜなら神が創造者であられるからです。(黙示録20:10・13-15)




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