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コメントを下さったみなさま

2020.04.29 (Wed)


拙文をお読み頂きましたうえ、励みあるご感想や、ご要望を戴きありがたく存じます。

本ブログ記事のこの場を通しまして、感謝申し上げます。

筆者は、健康思わしからず、一文を書きますにも難儀するようになってきております。

そこで、拙文ながらもご評価賜りますことは、まことに嬉しく存じます。

然りながら、幾つかお返事を略させて頂いておりますことをお許しください。

さて、昨今の世相には容易ならぬものがありまして、皆さま共々健康への一層の気配りを要しております。

皆さまはじめ、閲覧に来られますところのすべての方々にも

この禍いの中、くれぐれもご自愛なさいますよう願い申し上げます。


エイレナイオス



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あなたがたは地の塩である

2020.04.08 (Wed)


あなたがたは地の塩である
 マタイ5:13


イエスは「塩」というものについて何度か話されています。
「山上の垂訓」の中で『あなたがたは地の塩だ』と言われ、別のときには『塩は如何にも良いものだ』とも語られました。(マタイ:13/ルカ14:31)

「約束の地」パレスチナでは塩という産物に困ることはありません。
太古の海水が陸地に取り残されて出来た「死海」は、ユダヤ人に「塩の海」[יָם הַ‏‏מֶּ‏‏לַ‏ח‎](ヤム ハ メラー) と呼ばれてきたほどに、周辺には無尽蔵の「岩塩」つまり陸で採れる滋味豊かなとりどりの色をした塩と、海水の十倍もの塩分を含む死海の湖水を干して作る天日塩もあり、比較的に安価に供給されていましたし、現在でも死海の塩を用いた商品がイスラエルの特産品として知られる通りです。
パレスチナにはそれに加えて「海の塩」、つまり地中海沿いで海水を火で蒸発させたり天日干しで、海のミネラルに富む白い塩を作ることが出来、実際、海岸沿いのフェニキア商人はその塩を商売していたとのことです。

「塩」は人に食物を受け入れやすくさせる味付けをし、また塩漬けにすれば保存食も作れます。
そして『あなたがたは自分の中に塩を持ちなさい』とイエスは命じられました。(マルコ9:50)

では、弟子やユダヤの群衆に「塩」を求められたその意味はどんなものであったのでしょうか。

まず、ひとつのヒントには上記マルコ福音書で『塩を持ちなさい』と命じられてから、そのまま『互いに平和に過ごしなさい』と続けて言われたことが挙げられます。
つまり、人が自分の内に「塩」を持っているなら、それは他の人との関係を良好に保たせるものとなることが分かるのです。

この捉え方を後押しするのは、後の使徒パウロによって述べられた次の一言です。
『いつも塩で味つけられた親切な言葉を使いなさい。そうすれば、一人一人にどう受け答えするべきかが分かるでしょう。』(コロサイ4:6)
これは、イエスの『平和に過ごす』ようにという言葉とよく調和しています。「塩」が食物の旨味を増し、人が喜んで食べようとするような、そうした受け容れやすい親切さの「味付け」を自分の言葉に施しなさいということでしょう。

しかし、常にそうすることが難しいこともあるのが現実の人間というものではあります。
そのためか、イエスは『塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか』と、その味気を失うことがあることに聴き手の注意を向けられます。
実際に、山の塩である岩塩には、様々な鉱物が混じっていて、それが岩塩の味わいを増す要因でもあるのですが、塩分の方は水に溶け出し易いので、湿気に曝されている内に岩塩から塩気だけが抜けてしまうということがあります。それはもう不純物の塊であって「塩」としての働きは何も残りません。

そのような名ばかりの塩は、『もはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけだ』とイエスが続けて言われます。
塩分を失った不純物だけの塊は、各家庭の入り口から道に向かって投げ捨てられ、それは道の小石のように踏まれるばかりになってしまうのです。さて、そこで忘れてならないのは、無用な物とされる不純物の塊をイエスがある人々に例えていることです。(マタイ5:13)

つまり、キリストの弟子として、象徴の「塩味」を失っては無価値になってしまうことがこのように警告されていたのです。
では、人はどのように「塩味」を持ち、また保つことができるのでしょうか。

それについてのヒントをやはりマルコ福音書の中でイエスの言葉に見出すことができます。
それが『すべての者は火によって塩気を付けられねばならない』という一言なのです。


◆人を精錬する火
「火」というものを聖書はどのようなものとして語り、また象徴しているかを見ると
旧約では、廃頽を極めた街ソドムとゴモラへの滅ぼしのために天から降り注いだように、裁きの執行を強く印象付ける用例は少なくありません。

それは新約聖書でも基本的には変わらないものの、弟子たちの受ける患難が「火」と表現され、火のような迫害が彼らの精錬の過程となることについても注意を促しています。 (ペテロ第一1:8/コリント第一3:10-15)
そのような迫害がどうして惹き起こされるかと言えば、彼らの主がこう明言する通りです。
『わたしがあなたがたに「僕はその主人に優るものではない」と言ったのを覚えていなさい。もし人々がわたしを迫害したのなら、あなたがたも迫害するだろう。』(ヨハネ15:20/マラキ3:3)

そのような敵対の起る理由と言えば、サタンの道に堕して利己心満ちる『この世』は神と相容れないものだからです。
イエスはこうも言われました。『あなたがたはこの世の者ではない。むしろ、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのだ。それで、この世はあなたがたを憎むのだ』(ヨハネ15:19)

そして、このような敵対の始まりの「火」をもたらしたのは、ほかならぬイエス・キリストであったことをルカはこう記しています。
『わたしは、火を地上に投じるために来たのだ。火がすでに焚き付けられていたならと、わたしはどんなに願っていることか。・・わたしが平和をこの地上にもたらすために来たと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂なのだ。』

この点で、キリストの後に続き、磔刑の『材木を荷って続く』覚悟を聖霊注がれた者たちは持たねばなりません。(マタイ10:38-39)
ですから、『あなたがたを身に降りかかる火のような試練を、何か異常なことが起きたかのように驚き怪しんではならない』と使徒ペテロが注意を促して、迫害の始まった時期の聖徒たちに、動揺することなく、『むしろ、キリストの苦しみに与れば与るほどに喜べ』とも言うのです。
なぜならそれは、『キリストの栄光が現れる際に、歓喜に溢れるためである。』つまり、山上の垂訓の「幸い」の一つ、迫害されるなら、『天でのあなたの報いは大きい』ということでしょう。(ペテロ第一4:12-13/マタイ5:11-12)

こうして、キリストに続く『聖なる者たち』に求められる事柄の苦難の重さとその栄光の大きさとが、迫害の「火」に耐えてなお残るか否かにかかっていることが新約聖書に明らかです。


◆穀物には必ず塩を添える
キリスト自身『苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された』とペテロも述べたように、キリスト自身とそれに続く聖徒たちが「火」によって試みられても消え去ることなく残るところは、海の塩に似たところがあります。
火は海水から塩を取り出す手段として使われるのですが、このキリストと聖徒の表象と言える捧げ物について、モーセの律法祭祀が予告していたようなところがあるのも事実です。

というのは、七日間の間にイスラエル人が酵母を入れたパンを食べない『無酵母パンの祭り』の二日目は、キリストの復活の朝でもありました。
律法の規定に従い、この日には毎年に大麦の初物の束が神殿の神の御前で揺すられる儀式が行われていましたが、それは初春から始まる古いユダヤの暦で一年の最初の穀物の収穫の記念、つまり初物を捧げる儀式であったのです。(レヴィ23:10-11)
この大麦の初穂は、キリストが復活によって『死者からの初子』となったこと、また死に至るまでの忠節によって、被造物で最初の『完全性を得た』存在となったことをこの『大麦の初穂』が予示していたと捉えることができます。(ヘブル2:10)

しかし、倫理的完全性である『義』に到達するほかの者たちも居ることを律法がやはり予示していたということができます。
なぜなら、その日から七つの週を数えて、さらに次の日、つまり五十日目はペンテコステとも呼ばれる『週の祭り』(シャブオート)となりますが、丁度この時期には小麦の実りを迎えます。
イエスの復活から五十日目のその祭りの朝から、ガリラヤからのイエスの追随者たち120人に聖霊が注がれ始め、そうしてキリストの完全な神聖さが彼らに分け与えられて、『新しい契約』の下、アダムの罪を赦され『神の子』として仮承認された『聖なる者たち』が歴史上初めて現れたのでした。(ローマ8:1)

ですから、律法に従いこのペンテコステの日に、神殿で二つの酵母を入れた小麦のパンが人々によって捧げられていたことは非常に示唆的といえます。
というのも、基本的には神に捧げられる穀物の捧げ物は、酵母を入れたものであってはならなかったからです。(レヴィ2:11)
また、イエスの復活を表す大麦の初穂に対し、このペンテコステの日には大麦の後から実る小麦の初穂が献じられ、神の御前に揺すられるようと律法は命じていました。大麦の初穂と小麦の初穂を捧げる日の間には七週、つまり49日隔たっていたのです。
その期間はキリストの復活から弟子たちへの最初の聖霊降下の日までの隔たりを示すものでもあったことになります。

加えて、キリストが死からの復活を迎えた『無酵母パンの祭り』の間は、当然ながら無酵母が求められ、イスラエルの家々からは酵母が取り去られなければなりませんでした。しかし、それ以外の時期には、『感謝の捧げ物』など、酵母を入れたパンを捧げ物に含むこともあったのですが、基本的に『穀物の捧げ物』は無酵母が求められ、定期儀礼としてのペンテコステでは特徴的に酵母を入れた二つのパンが捧げられるよう律法は規定していたのです。(レヴィ23:17)
それは罪のない方キリストの犠牲ばかりでなく、現にアダムの子孫としての罪という『パン種』を負った人々も神に捧げられることを予め指し示していたことでしょう。
ですから、ペンテコステの祭りに隠されていた意義に、メシアに対して、その『共同相続人』である『聖なる者たち』の現れを指していたことは、その日に聖霊降下が起こったことを告げる使徒言行録から明らかです。(使徒2:1-4)

これらの人々の神聖さについては、イエスが犠牲の死を遂げることを通して『完全なものとされた』とヘブライ書は述べ、そうしてイエスは『自らを神聖なものとし』、その完全性に預かり、『神聖なものとされる者たち』がいることも明かされています。彼らはキリストの『兄弟たち』であり、キリストと共に『神の子』として認められた人々でありました。(ヘブル2:11/ローマ8:14-17)

キリストは世から退けられ迫害に遭って犠牲の死を遂げられましたが、使徒たちをはじめ多くの初期の弟子たちも迫害に面しています。(ヘブル2:18)
そして神殿祭祀では、大麦も小麦も、共にそれぞれ調理した『穀物の捧げ物』を献じることも求められていたのですが、その調理品には『必ず塩を添える』ことが求められていたのも示唆的です。その塩は『契約の塩』とも呼ばれ、『絶やすことがあってはならない』と命じられていましたから、塩の添加を忘れることがないよう、神殿には塩を貯蔵しておく場所までが設けられていたほどです。(レヴィ2:13)

このように大麦であれ小麦であれ、必ず塩を添えるべきことを律法を通して命じられた神のご意志にどんなことが意図されていたかを類推させるものがあります。
つまり、大麦の初穂が捧げられたのがイエスの復活を表し、小麦の初穂の献納が聖徒らの最初の現れを指し示していたのであれば、天界に集められるすべての人々には、象徴的に塩が添えられているべきであったことになります。それは迫害や困難の「火」を通して試みられた後に確固たるものとして残る「塩」と捉えることができるのです。
その「塩」は『契約』に関わるものであり、キリストとその後に続いて『神の王国』を構成し、人々を支配する立場に就く者らに神は必須のものとして求められていることでしょう。慈愛ある支配のためです。


◆あなたがたは塩を持ちなさい
そしてイエスが言われるように、『塩を持つ』ことが『互いの間で平和を保つ』ことであり、パウロも指摘するように互いにどう話すべきかを弁えることであるなら、それは他者への共感や同情心に関わることであると考えられます。

そしてイエスは『自分にして欲しいと想う通りに他の者にしなさい』と命じられましたが、これが後に「黄金律」とさえ呼ばれ、イエスはそれを指して『これが律法と預言者たちの意味するところなのだ』と弟子たちに教えているので、キリスト教の神髄を成す利他性が不可欠であることを律法祭祀の条項も指し示していたことになります。(マタイ7:12/ルカ6:31)

また、他者への共感という点で、律法はイスラエル人の間に住む異邦人を虐待してはならないと何度か繰り返しています。(出埃22:21/レヴィ19:34)
また、寄留者を『不公平に扱うべきではない』とも戒め、むしろ『彼らを愛さねばならない』とまで定められていたのでした。
その根拠として神はこう付け加えたものです。
『あなたがたもエジプトで異邦の居留民であったからである』(申命10:18-19)

彼らの父祖がエジプトで奴隷として苛酷に使役されていたことは、モーセの生涯を描く出エジプト記にまったく明らかです。
ですが、困苦と虐げに苦しんだ経験は、イスラエルを同情心ある民として磨き上げたと言うことができ、それは「この世」という象徴的な「エジプト」に暮らす今日までの多く人々も、常日頃から様々な苦難を通して「火」に晒されているかのようです。

まして、神の独り子でさえ、「この世」という創造の意図から遠く離れ落ち、苦しみ満ちる世界に来られて試され、迫害に遭い、裏切られ、人々の悟りの無さを忍び、病人を一人一人癒し、友に死に涙し、遂に自らの命を邪悪な者らに委ねて、倫理の完全性に到達されたのであれば、その道を歩む聖徒らはもちろんのこと、これまで生存した人々の皆が「火」の精錬によって海水が蒸発して塩を産物として残すように、他者を愛し、慈しむ資質を培える機会とすることができます。(ヘブル2:17)

この世では、人々の遭遇しなければならない困難や苦しみが多いとはいえ、同時にそれは滋味豊かな塩を産出する機会をわたしたちに与えていることを、これらの神の言葉が知らせていると言えるでしょう。

苦しみや悩みそのものは良いものではなく、創造の当初の意図に有ったはずもありません。
しかし、悪魔とアダムの離反によって、今や悪というものが入り込んでしまった世界に生まれ出て、この世の苦しみをまるで逃れることのできる人はまず居ません。むしろ、何の苦労も傷みもなく人生を歩んできたなら、その人はいったいどんな人格を持つのでしょうか。却って気の毒なことにならないものでしょうか。

現在の命での苦衷に耐え、その境遇から共感することを学び、愛に努めて生きようとするなら、誰であれ『塩』という『良いもの』を自らの内に結晶させることができるでしょう。

もちろん、自分から進んで苦しみに飛び込む必要はなく、宗教的苦行などがもたらすものと言えば、自分を磨いた達成感や自信ではあっても、他の人々への同情や共感にはならず、培うものはむしろ逆でしょう。
やはり、受ける苦難は人それぞれであっても「この世」には十分過ぎる辛苦があるものです。イエスが『一日の苦労は、その日一日だけで十分』と言われる通りです。(マタイ6:34)

しかし、キリストが『あなたがたは地の塩』と言われ、また『すべての者は火によって塩気を付けられねばならない』との言葉を残されたことには、人生で遭遇する数々の苦しみや失敗も無駄には終わらないということを知らせる慰めが込められていることでしょう。
人の受ける『火』が様々であるように、それぞれの生み出す『塩』の滋味も異なるでしょう。しかし、イエスは『塩は如何にも良いもの』と言われます。では、わたしたちの『塩』は、ほかの人にどんな味わいを与えるでしょうか。












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