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ミナとタラントの例え

2019.11.28 (Thu)

ミナとタラントの例え
(ルカ19:11-27/マタイ25:13-30)


時を経た後の主人の帰還と、仕える僕たちとの間の清算というこの内容は、キリストが去った後に弟子たちに求める「成果」があることを知らせるものですが、この例えの意味についてはキリスト教界の中で明解に意義深く知られているということでもありません。

貨幣である『タラント』が「タレント」の語源を共にすることから、「クリスチャン」方が、才能や資産を用いて「イエス様」にお仕えすることがその教訓だと教えられるか、怠惰であってはいけないとか、または失敗を恐れないことを励ましているなど、これらの例えを一般的な生活に当てはめることがその意味であるとされるのがほとんどでしょう。
そう思うのは自由ながら、それではこれらの例えに含まれる非常に重い警告を聞き逃すことになるでしょう。
むしろこれらの例えは、『遠く旅に出た』キリストが戻られる時、つまり「この世の終り」という類例のない時期での、弟子とキリストとの関わりを例えているからです。


◆権力者また大商人に例えられるキリスト
ルカ福音書にある「ミナの例え」とマタイ福音書の「タラントの例え」とは、とても共通性が有り、幾らかの違いを持ちながらも、主旨は同じものと言うことができるほど似ており、どちらも財産をそれぞれの奴隷に託して旅に出た主人が帰宅して、その成果を確認するという筋立てを持っています。

まずルカのミナの例えでは、キリスト受難の最後の旅の中、エルサレムに近い低地のオアシス都市エリコの収税人ザアカイの家の場面でこれが語られ、ついでマタイは、オリーヴ山で語られたイエスの終末預言の中にタラントの例えを含んでいますから、語られた時期は互いに一週間ほどの違いばかりで隣接しています。

さて、ご自分の死が近いことを悟ったイエスは、最後のエルサレムへの旅にあって弟子らの先頭を進み、以前のように人目を避けるようにしてではなく、公然と歩き、固い決意の面持ちを見せていたためか、却って弟子たちは王国の実現が近いと思えていたのでしょう。さらには、ろばに乗ってエルサレムに上る姿は、ソロモン王の故事に倣うものでありましたから、ますます、イエスが王を称する日が来たと思えたとしても無理からぬことであったでしょう。

しかし、イエスは弟子たちにご自分のエルサレムでの受難の死と三日目の復活を語るのですが、彼らはそれを理解できなかったと福音書は記していますし、むしろこのエルサレムの旅によって『神の王国がたちまちに出現する』ことさえ期待していたとも明かされてもいるのでした。(マルコ10:32/ルカ19:11)

おそらくは、ご自分の地上からの旅立ちが近いことから、イエスは弟子たちにミナやタラントのような例えを繰り返し語られたのでしょう。以下に見るように、これらの例え話は、やはり繰り返されるべき程に、キリストが戻られる時に、働いているべき彼らへの相当に重い警告が含まれているのです。


◆二つの例え話の相違点
双方の例えの概略はほぼ同じなので、まず異なるところを挙げると
預けられた財産のミナとタラントの価値ですが、1ミナが今日の日給で計算すると80万円ほどになりますが、ミナの場合、主人は10人の奴隷に1ミナずつを分配していますから、主人の託した総額は10ミナで800万円ほどになり、金額として然程のものではなく、ミナの例えでは商人ではない主人の権力者としての側面が描かれているのでしょう。

同じく、元は収税人マタイの福音書にある1タラントであれば4800万円、奴隷には5タラント、2タラント、1タラントと同額ではなく、委ねる奴隷の力量に応じて分配されたかのような違いがあります。合計8タラントは約3億4千8百万円となりますが、これは大商人(エンポロス)が支店長に決算報告をさせる程の収支規模を見せます。
しかし、どちらの例えでも肝心なのは額の高さよりは託された奴隷の働きであるところは、6000万デナリという天文学的金額を登場させ、人の罪の赦しの大きさを描く「許さなかった僕」の例えとは異なっています。

ルカの記すミナの例えでは、この主人は王権を獲得するために旅に出るので、こちらの主人は商人ではなく為政者ですが、主人と奴隷たちのほかに、主人の王権獲得を望まない『市民たち』という第三の者らが幾らか顔を出し、それがミナの例えの背景を広げる役割を果たしています。

王権と言えば、この時代のユダヤを治めるヘロデ家の息子たちが王とされるには、ローマ皇帝の裁可を仰ぎ、任命を受ける必要がありましたから、場合によってはローマに長く逗留させられることになりました。
それでも、うまくして皇帝から王権を授かるのに成功したからと言って、そのまま王位に就けるとは限りません。
信任状や認証指輪などを持って帰国しても、対立勢力を自分でねじ伏せ、王位に就くことを実力で勝ち取る必要があったのです。

そこで、ミナの例えに登場する『市民たち』は、この話にリアリティを添えるものがあり、この貴族が王位獲得に旅立つと、それを後追いして『この人が王に就くことを望みません』と上位者に伝えて来たのです。
そこで王権を得て帰国したこの主人は、反対した市民を粛清しているところがミナの例えに描かれています。

この例えが語られた当時も、イエスがベツレヘムに誕生された後のこと、ヘロデ大王が死去すると、その息子たちの間での王位継承を巡る駆け引きがローマを舞台に皇帝アウグストゥスの前で行われる事となりました。
長男アルケラオスはユダヤ人虐殺を行っていたので、ユダヤ人らはヘロデ大王の王権を息子らに継承させるよりは、ローマの直轄領としてもらい、ある程度の自治を許してもらうことを望んでローマに使節を送ってもいたのです。

ですから、ミナの例えで、主人が王となることを望まないとする市民の請願は、実際にユダヤ人が三十年ほど前に行っていたところで、その陳情のため、大王の長男アルケラオスの支配領域は制限され、他の兄弟たちと支配地域を分け合わなければならない結果となっていました。(ルカ3:1)

これを恨んだアルケラオスはユダヤに帰国すると、自分に反対した者たちを粛清していますので、このミナの例え話を聴いた使徒たちは、王権を確かなものとして帰還するであろうイエスに反対する者らがいること、また、その者たちが処刑されるという事態を含めて、その帰還が厳しい裁きの時となることを感じ取ったことでしょう。

まさしくミナの例えでは、キリスト最後のエルサレムへの旅で『弟子たちが、神の王国が今やたちまちに現れると考えていたために』という背景がはじめに言い添えられているのに比べ、タラントの例えは儲けの清算の時の不明性が語られ、イエスの終末預言としては、ご自身の再臨される「終末」が不意に起るとの警告の色合いを強めています。

他方でマタイの記すタラントの例えでは、怠惰な奴隷の処遇については『外の闇に投げ出される』つまりは失業して生計の糧を失うということで終わっており、主人は王権を得る権力者というよりは商人のような雰囲気に一貫して例えが語られています。

それでもタラントの例えにもある『泣き悲しみ、歯軋りする』という怠惰な奴隷への酬いの表現は『受け分を偽善者らと同じくさせる』という24章51節にある、主人を待たずに宴会を始める邪悪な奴隷の例えと共通しているので、タラントの例えの結末もミナの奴隷と同じく、やはり粛清されてしまうことを意味している可能性は相当に高いものがあります。

それを裏付けるのは、これらの例えより以前に語られた、マタイ13章にある一連の例え話の中で繰り返される『義人たちの中から悪人をより分ける』というテーマを持つ別の幾つかの例えの結末であり、悪人は火の中に投げ入れられ『彼らは泣き悲しみ、歯軋りする』と書かれています。この原語本文はタラントの例えの結末の文章とまったく同じで、双方に共通するのは、弟子の中から選別が行われ、相応しくない者が捨てられる場面であることです。(マタイ13:50)
また、聖書中で「火で焼く」ということが、滅ぼしの象徴であり、それゆえにもユダヤ人が遺体の火葬を避けてきたところと一致していますので、タラントの例えの結末でも、ただ歯ぎしりするという以上の厳しい処罰が暗示されています。つまり、復活も望まれない『滅び』であり、『入ろうと努めながら入れない者は多い』とキリストが警告していた『王国に入る』格別な者たちの選別を言うのでしょう。

このように、二つの例えに幾らかの相違点があるとはいえ、まるで別のものではなく、それぞれの本旨の共通性を壊すものはなく、むしろ、それぞれの違いも「同じ事柄」について二つの観点からそれぞれ詳しく描き出していると言えます。

それでは、これらの例えの共通する本論の意義を探ってゆきましょう。


◆主人が恐い奴隷
キリストの三年半にわたる公生涯、つまり祭司ゼカリヤの子ヨハネから水のバプテスマを受けられ、聖霊を注がれてキリストとしての活動を始められ、今や宣教の終わる時期を間近に控えたところで、これら二つの例えが語られたことは、例えの『主人』が、弟子らを残して去って行くイエスご自身を指していることは疑いようもないことです。

そして、これらの家の『奴隷たち』なのですが、イエスが天に帰られるとなれば、残される弟子たちを指すことも間違いようもないでしょう。

問題はミナやタラントという財産が何を表し、それを運用して儲ける事、また、まったくそうしないで隠しさえするというこの行動が何を意味するかです。

これらの例えの中で特に焦点を当てられる登場人物は、順当に託された財産を増やした奴隷ではなく、何もしなかった怠惰な奴隷であることは明白です。
しかも、この奴隷は財産を両替商や銀行に預けて利息を得るという、儲けようという気持さえ見せなかったところは徹底していて、また異様でもあります。
そのうえ、ミナの例えにある王位に就くことを拒んだ市民とほぼ変わらない態度で、それにしては逃げ出しもせず、清算のときに預かったままの金額を返そうとするのも普通ではありません。

ですから、これは「商売」という劇の表面を見せながら、別の何かを語っていることはよく察知できるところです。

この二つの例えについて、よく聞く説明といえば、弟子たちに勤勉であることが求められているので、敬虔な活動に熱心でありましょうとか、5タラント、2タラントなど、主は信者の一人一人の能力をご存じで、無理は要求されていないのだから、教会で求められる役割は果たしましょうとか言ったところです。

ですが、この「怠惰な奴隷」の行いには両替商また銀行にさえ預けないという妙なところがあり、その言い分に耳を傾けるなら、単なる商業的状況とは幾分不釣り合いな答えを主人に語っています。
ミナでは『あなた様が恐ろしかった』、タラントでは『わたしは恐ろしくなった』と答えているのです。
いや、ご主人さまが恐ろしかったなら、却って儲けに精を出したのではないでしょうか?

そこで、これら奴隷たちの「恐れ」とは、置かれる状況からくる恐怖という可能性があります。片や主人の取り立てがあって恐れているのですが、それが簡単なことであれば利殖をしないことはまずありません。銀行や両替商に預けておくことは簡単なことではないでしょうか。ここにおいて、彼らが預かった財産であるミナやタラントが何を表していたのかも明らかにされる必要があります。

ですが、主人の言う通り、怠惰な奴隷は努力しないでも済むことさえしていないのです。
ミナは布に包んだままで、タラントは土中に埋めていたというのですから、自分がそれを託されたことさえ人に知られたくなかったと言うほかありません。その恐れがどんなものかについては、主人が『蒔かないところで刈り取られる苛酷な方』であるとしているところに理解の鍵があるようです。

その主人が『蒔かないところで刈り取られる』とは、主人の居ないところ、つまりキリストが去っていた間にも、かつて主人が蒔いたような儲けを奴隷たちに要求するということになり、それはキリストご自身がなさったような業の結果を求められるということになります。

この事については、イエスが弟子たちに厳しいことを求める言葉が福音書のほかの場所にも散見されます。
幾つか挙げると、『自分の[十字架の]木を担いで、わたしの後に従わない者はわたしにふさわしくない。自分の魂を得る者はそれを失い、わたしのために自分の魂を失う者はそれを見出す』と言われますが、これは本当に厳しい言葉と言えましょう。(マタイ10:38-39)

また、『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない者は多い』『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、彼(イエス)は「あなたがたがどこからの者なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ」と言うであろう。』(ルカ13:24.27)

こうした言葉は、いわゆる「ご利益信仰のクリスチャン」であれば本当に恐ろしい「イエス様」の一面を見てしまうようで、聖書には書かれていなかったことにしたいほどではないでしょうか。

ですが、このようにも言われています。『多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求される』
まさしく、新約聖書が繰り返し語る「キリストと天の王国支配を行うよう招かれた格別な弟子」つまり『聖徒たち』が、キリストの支配の一部に預かるのであれば、支配される『信徒』である人々に勝って『多くを要求される』のは当然のことです。(ルカ12:48)

まさしく、ミナもタラントも一財産であるからこそ、それを委ねられた家の僕には、それ相応の技量が見込まれたのであり、同時に、儲けに成功した奴隷に『よくやった』とのねぎらいの言葉と共に『ごくわずかなことに』忠実だったと誉めているからには、それなりの責任が伴うものの、出来ない事の無理強いではないのです。

そこで、イエスが『預けていないものを取り立て、撒かないところで刈り取られる』その状況をどう捉えるか、つまりイエスが不在を終えて戻られるという事態の起こる時、また、王権を得て再来される時節、つまり「終末」と呼ばれる特殊な時期に目を向ける理由が揃ってくるのです。

◆弟子に託される財産
ミナとタラントが語られた時期が、キリストの死と復活までを僅かにした春先の『過越しと無酵母パンの祭り』の直前であったことは、弟子たちに何が託されるかも明示されるべき時期でもあり、この時期の聖書記述から、これらの例えでのミナやタラントという財産が何を指していたのかを知る手掛かりを福音書は与えています。

ご自分の死を控えた主イエスは、最後の晩餐の席で、イエスの復活の後に彼らが受けることになる格別なものについてこう言われました。
『わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別の助け手を送り、それがいつまでもあなたがたと共にいるようにして下さるであろう。それは真理の霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。だが、あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共に居て、あなたがたの内にあるようになるから。』(ヨハネ14:16-17)

この『霊』は、キリスト復活の50日後に弟子たちに注がれたことを使徒言行録が記しています。
それらの霊は、まず『異言』という習ったこともない外国語を語る奇跡から弟子たちに神の印を与え始めました。
それに加えて、使徒ペテロにはイエスのような『癒し』の賜物が与えられ、多くのユダヤ人らが彼に癒してもらおうと、ペテロの影がかかることでさえ求めている様を、医師でもあったルカが記録しています。(使徒5:14)

これらの聖霊の奇跡は、神の業が地上を去ったイエスから弟子たちに移されたこと、また、神の是認がユダヤの律法体制からキリストの弟子たちに向けられていたことの証しでもありました。ですからペテロは『イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊をみ父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです』と聖霊の奇跡を見て驚き入る外地から来ていたユダヤ人たちに信仰を促していたのです。(使徒2:33)

このように弟子たちに格別な神の霊である『聖霊』が注がれたのは、キリストの去った後のことでありましたから、使徒ヨハネはその以前については『イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊はまだ注がれていなかった』と書いています。つまり奇跡の賜物をもたらす『聖霊』とは、キリストの犠牲が捧げられてはじめて注がれるようになったものなのであり、キリストの完全な義という根拠を直接に持つことでは、それ以前の神の霊の働きとは異なる格別のものであったというべきでしょう。キリストが与えた『聖霊』とは、選ばれた弟子たちにキリストの奇跡の業を継承させるものであったことを聖書は教えます。(ヘブライ2:10/ヨハネ7:39)

ですが、彼らはすぐに反対に直面しました。ユダヤ体制派の指導者たちは弟子たちを鞭打って脅し『もう、その名(イエス)によって語ってはならない』と命じます。弟子たちの活動によって体制派の威信が揺らいでしまうからです。(使徒5:30-33)
しかし、使徒たちを中心とした弟子たちは、そのような脅しに屈することなく祈りました。
『主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
どうか、御手を伸ばしあなたの僕イエスの名によって、病気の癒しが起り、印と不思議な業が行われますように。」
この祈りが終わると、弟子の皆が集まっていた場所が揺れ動き、皆が聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出すのであった。』(使徒4:29-31)
このように、キリストが地上を去ってから、弟子たちと旧来のユダヤ体制派との間には越えがたい対立が生じていました。

ですが、弟子らに『聖霊』が臨み、そこでキリストの業を継承された事にこの対立の原因があります。
主イエスの刑死後、『聖霊』が注がれる以前の弟子たちと言えば、『ユダヤ人らへの恐れのために扉にはかんぬきが差してあった』とあり、エルサレムの一角に隠れ住んでいた様が書かれています。弟子たちがこの弱い状態のままでいたなら、ユダヤの宗教家らとの対立も生じるまでもありません。(ヨハネ20:19)

しかし、地上を立つ以前にイエスはこう言われていました。
『聖霊があなたがたの上に来るときには、あなたがたは力を授かり、ユダヤとサマリアの全地でも、地の絶え果てるところまでもが、わたしの証人となるのです。』(使徒1:8)
『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになります。わたしが父のもとへ行くからです。』(ヨハネ14:12)

ですから、『聖霊』というものが弟子たちにとってどれほど重要なものであったかがこれらの出来事からも明らかです。
『聖霊』の奇跡は神の印となって、信じる者と信じない者を分かち、そこに『裁き』が生じていました。つまり、奇跡の業は、それを見る人が信仰を働かせるか否かを試したのであり、そうして当時のユダヤ律法体制はキリストに前に試されたのです。
使徒ヨハネはこの点についてのイエスの言葉をこう記録しています。
『もし、ほかのだれもがしなかったような業を、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないで済んだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て憎んだのである。』(ヨハネ15:24)

ですから、『聖霊』についてイエスがこうも言われたことには
『人が犯す罪や冒涜はどんなものでも赦されるが、聖霊に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。』(マタイ12:31-32)

これほど重大な作用をもたらすものを授かった弟子らが、その貴重な授かり物についての責務を負うことは当然と言う以外にありません。
彼らは水のバプテスマを受けた後、聖霊のバプテスマをも受け『新しく生まれた』のであり、もはや地上に在ってさえアダムの命には生きず、キリストの復活した命の中に在って生きているという『キリストの兄弟たち』つまり真実のイスラエルの立場に『新しい契約』に招かれることを通して与っていたのです。


◆財産のために対立の矢面に立つ奴隷たち
ミナとタラントの例えは、共に「主人の帰還での奴隷たちとの清算」を趣旨としていますから、これらの場面はキリストが再び戻られ世に対して臨在されるところを指していることは間違いがありません。

イエスが地上から去った後の、あの五旬節の時のような奇跡の業を与える『聖霊』というものを、その時代以降、人類は目にしていません。キリスト教界には古代の伝承にある、奇跡を行い、また殉教に散った「聖人」にその面影が残されており、第四世紀にエウセビオスの著した「教会史」などの史料に、かつては奇跡を行う霊を持った人々が居たことを知らせるばかりです。

しかし、福音書はイエスの語った終末預言をそれぞれに記載していて、揃って終わりの日には『王や高官の前に引き出され』聖霊によって語る弟子たちの姿が描かれているのです。

ですから、キリストが戻られてこの世を裁くときには、『聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない』とのイエスの言葉に重い意味が加わると考えるべき理由があります。(マタイ12:32)

その『終わりの日』にはキリストが自ら迫害を受けることはないでしょう。イエスが次に世に来られるときには神から王権を託された者としての再来であり、正当な権力者の『臨御』であるからです。それは『雲と共に来る』と語られたように、肉眼では見えず、『稲妻が東から西へと煌めくような』ものです。キリストを見ない状態でこそ、人々は心にあるものを見せることになり、まったく裁かれることでしょう。(マタイ24:27・30)

そこで将来に聖霊を注がれる弟子たちは、キリストの受難を見ることも、直に模範を示されることもなく、この世と対峙することになり、それは勇気の要ることであるに違いありません。それは云わば『蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる』聖徒らには厳しいキリストの姿のようです。
そこで聖霊を注がれていながら、この世との厳しい対立を恐れてしまう弟子が出ることは充分に考えられることです。
やはり、主人の財産を活用しなかった奴隷は『怖くなって・・隠しておいた』と告白していますが、それはミナの例えでもタラントの例えでも同じです。

つまり、主人の財産を隠すとは、『聖霊の賜物』を持っていることさえ隠し、託された霊感の言葉を語らないで、この世との緊張関係を避けることであると言えます。つまり、世からの矢面に立つことを避け、自分に奇跡を行う聖霊が注がれていることさえ知らせないという主人への不実さです。
彼らが発言しなければ、その言葉の超自然性に信仰を懐く人々も現れず『刈り取る』ことも『集める』ことも無いに違いなく、それは主人の意向に反することは明らかです。

『怠惰な奴隷』が、自分が賜物を持っていることさえ押し黙って隠していたとすれば、帰還した主人に対して『これはあなたのものです』と言うことになり、銀行や両替商にさえ預けて幾らかでも主人の意向に沿うつもりもなかったことが明るみに出ます。

王権を承認されて帰還した主人が王となるときに、このような奴隷が新たな王を支持したと言えるでしょうか。
それは無理な話です。新しい王が厳しい闘争を経て王権を樹立する中で、そのような奴隷はその後も信用のできない存在でしかありません。何時裏切るとも知れない者をどうして傍に置けたものでしょうか。
当然ながら、『聖霊』というほども貴重な財産を持つに値しない奴隷からは、それは取り上げられて他の者に与えられます。しかし、それだけで済むことではありません。

マタイのタラントの例えで、主人の帰還が思わぬ時となった怠惰な奴隷は『外の闇に投げ出され、歯がみして嘆き』、ルカのミナの例えでは『これらの(奴隷を含めた意味にもとれる)わたしが王になるのを望まなかった敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』とあります。前述のように、どちらも主人との関わりから断たれ、反対者として括られ、その厳しい酬いを受けることになる以外にないでしょう。


こうしてミナとタラントの例えを概観すると、地上から去って行こうとしているキリストが、その後に『聖霊』を賜る弟子たちがこの世との対立関係に恐れて尻込みしない事を訓戒している姿が見えます。
そこで『あなたがたは自分にある勇気を放棄してはいけない。その勇気には大きな報いが伴っている』また『わたしたちは恐れ退いて滅びる者ではなく、信仰によって魂を保って者です』との態度がキリストに従う者の誰にも求められていると言えるでしょう。(ヘブル10:35・39)

これらの例えが使徒らに語られたように、聖霊を注がれる『聖徒たち』への警告となる例え話ではあります。
しかし、主人への支持という点では、彼らの言葉を聴いて信仰を抱く『信徒』であっても本来は同じことであるに違いないのです。
つまり、主人が王座に就くことを願い、出来る限りを行うことによって支持する『市民』となるためです。(マタイ25:31-40)
なぜなら、『神の王国』が到来するときには、それを支持せず歓呼して迎えない者は、その『値高き真珠』に与る云われが無いからです。(マタイ13:45)







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A5版 Doc.216頁 \550(税込)
キリストの例え話 第二巻 解説全18話

1 .幼子のようにならなければ
2 .二人か三人が集まるところには
3 .赦さなかった僕の例え
4 .ペテロに託された鍵
5 .大勢が東からも西からも来て
6 .羊の囲いの例え
7 .悪い耕作人の例え
8 .盛大な婚宴の例え
9 .魂を殺すことのできない者どもを恐れるな
10.ミナとタラントの例え
11.座って費用を計算し
12.駱駝が針の穴を抜けるようなもの
13.小麦と毒麦の例え
14.十人の乙女の例え
15.羊と山羊とを分けるキリスト
16.不正な管理人の例え
17.成長する種の例え
18.道であり、真理であり、命である





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あなたがたは世の光

2019.11.19 (Tue)


『あなたがたは世の光です。山の上にある都市は隠れることがありません。』
(マタイ5:14)


この言葉は、あの有名な「山上の垂訓」の中で語られたキリストの言葉です。
そのとき話を聴いていた人々に、光を世に輝かせるようにと言われます。
では、その『光』とは何について言われたのでしょうか?

また、なぜ『山の上の都市』を『光』に含めて語られたのでしょうか?
実は、この『都市』との関わりを知るなら、その『光』がどのようなものであるかを知る手掛かりを得られるのです。

まずこれを理解するには、この講話を聴いていた人々がイスラエル人であったことを考る必要があります。
なぜなら、イスラエルの人々であれば『山の上の都市』と言われたのが、彼らの首都エルサレムであることがすぐに分かったに違いないからです。

これは彼らイスラエルに与えられたモーセの律法の中で、すべての男子は年に三度の祭礼の度にエルサレムに上るよう求められていましたが、女性も子供たちも同行して祝祭を共にしていました。ですから、当時の神殿の中心にある『聖所』と呼ばれたイスラエル人だけが入ることの許された建物の中に「婦人の中庭」という女性のための場所もあったのです。

その祭礼一つである、秋の『仮小屋の祭り』(スッコート)は『収穫の祭り』とも呼ばれ、一年の収穫も終わることで人々は神の祝福である産物を喜びつつエルサレムに上り、その周囲に小さな小屋を建て、七日間その中で食事をするという定めがありました。
その祭りの特徴は神の恵みへの「歓喜」であり、神殿聖所には夜の間も大きな16の明かりが掲げられたことをユダヤ人の伝承であるミシュナーが伝えています。

その祭りの間、神殿の聖所の「婦人の中庭」には四基の巨大な燭台が置かれました。ユダヤの教典「タルムード」の伝えるところでは、金で被覆されたそれらの燭台は高さが22メートル(50アンマ)もあったとされ、頂上にはそれぞれ四つの金製の皿が有り、祭司たちの職服の古びた内衣や帯を裂いてを灯心とし、燭台に付属する階梯を若者が油壷を持って登っては、皿に油を供給したとのことです。(タルムード スッカー篇)

イスラエルの男たちは、夜通しそれらの間で歌い踊り、多様な楽器で伴奏されたともあります。
神殿そのものが、エルサレム市内でも幾分高いモリヤ山上に位置していたので、その光明は周囲を明るく照らし出し、『異邦人の中庭』と呼ばれた聖所の外側の境内はもちろん。その高く掲げられた光明はエルサレムからかなり離れたところからも見えたと伝えられています。

「山上の垂訓」をイエスがガリラヤの丘陵で語られたとき、この『世の光』の講話に聴き入っていたイスラエルの人々は、仮小屋の祭りでの聖都エルサレムの輝く姿を思い描いていたことでしょう。


◆諸国民の光
加えて、イスラエルには輝くべきもう一つの理由がありました。
この民族には、神から課せられた果たすべき役割があったのです。

今日のユダヤ人に、ユダヤ教の目的は何ですかと尋ねれば「諸国民の光となることだ」との答えを得るでしょう。
確かに、聖書の中に『諸国民の光』という言葉が出てきます。

イザヤ書の預言の第49章には、捕囚から買い戻されるイスラエルについて予告し、『あなたがわたしの僕となって、ヤコブの諸部族を再興し、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。むしろ、わたしはあなたを諸国民の光とさせて、わたし救いを地の果にまで至らせるであろう』とあります。(イザヤ49:6)
つまり、神が何者か任命した者(メシア)を通して捕囚に散らされたイスラエル(ヤコブ)の民を集め出し、元のパレスチナに帰らせることは実現しましたが、もっと重要な働きがあると神は言われているのです。

それはイスラエルの民が『諸国民の光』となることであったのです。
しかし、捕囚からの帰還が起ってすでに五百年が経つ中で、この「諸国民の光となる」という事が何を意味するのか、はっきりとは分からず、ユダヤ教の指導者らの中には、いずれはダヴィドのような強力な王が現れ、メシアとなって世界を統べ治めることであろうと信じる者が多く、イエスの御許に集まった使徒たちも、自分たちの主がそのような栄光の王と成られることを心待ちにしていた様が福音書に数回記されています。

その期待は、彼らの主イエスが復活した後でも変わらず『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか』と使徒たちは天に戻ろうとするイエスに尋ねてもいます。

そのときイエスは『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない』と答えられましたが、メシアとして世界を治める時が来ることは否定されませんでした。(使徒1:6-7)

ですから、やはり『イスラエル』と名の付く民が、メシアによって集め出されるだけでなく、『諸国民の光』となって世界の果てにまで神の救いをもたらすということでは変わることはないのです。

この点を裏付けるのが、イスラエルに与えられた律法契約というものの目的でもあります。


◆律法契約の目的
「律法契約」というのは、エジプトの奴隷身分に在ったイスラエル民族を、神がイエスより千数百年前の預言者モーセを用いて導き出し、パレスチナの地に入る以前に一つの国家として整える意味を持って与えた六百に及ぶ定めからなる法律として与えたものです。
その最初の十ヶ条は、神自らが二枚の石の板に書き記したもので「十戒」とも呼ばれました。

多くの定めからなる律法を守る事が以後のイスラエル人に要求されたのですが、その目指す目的が何であるのかを神はこう言われていたのです。
『今、もしわたしの声に聞き従い、わたしとの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民の間でわたしの宝となる。全地はわたしのものだからである。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となるのである』(出エジプト19:5-6)

ここにイスラエルの民が「律法契約」を守ることの最終目的が書かれています。
それはつまり『あらゆる民の間で』『祭司の王国、聖なる国民となる』とあるのです。神にとって『宝となる民』とはどれほど高貴な人々でしょうか。

では、世界の人々にとって『聖なる国民』となり、また『祭司の王国となる』とは、いったいどうなることを意味しているのでしょうか。
また、そのためにイスラエル民族が選ばれたのは何故なのでしょう。

もちろん、イスラエルが神との特別な関係に入るよう招かれたのには理由があります。それは、彼らの父祖アブラハムに対する『神の約束』であったのです。(ローマ4:16/創世記22:15-18)

モーセから更に四百年以上前のこと、イスラエルも存在していない昔に、遊牧民であったアブラハムに神は一つの事を申し出ました。
それは彼の子孫が増えて国民となること、またパレスチナの土地を彼らに与えるということでありました。
彼はその言葉を信じてパレスチナまでの長い旅をし、そこで正妻との間に貴重な独り子を得ました。

神はその独り子イサクからイスラエル民族を作り出し、その民をいよいよパレスチナに迎えるに際して「律法契約」を与えたのです。
そのずっと前に、神はアブラハムにこうも約束していました。
『あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のあらゆる国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう』(創世記22:17-18)

ですから、アブラハムの子孫の民に対する神の意志は「あらゆる国民を祝福する」ということであったのです。
そして、それが律法契約の目的として、更に具体的に『祭司の王国、聖なる国民となる』ことが示されていたことになるのです。

しかし、実はアブラハムへの約束に関わる神の意志は、それよりずっと以前から明らかにされていたのです。
それは何と、あの『エデンの園』での場面であったのです。


◆『女の裔』という謎
この『女の裔(すえ)』というのは、早くも創世記の3章15節に出てきます。
その場面はというと、アダムとエヴァが禁断の木の実を食べてしまった後のこと、創造の神から、蛇にも、エヴァにも、アダムにもそれぞれにその後の処置が言い渡されたところです。そこで人間は永遠の命から遠ざけられ、苦労して生活し、子供を生んでは世を去って行くというこの世の空しい有り様の始まりが宣告されています。

そこで害の元凶となった蛇について神はこのように宣言されました。
『神YHWHは蛇に向かって言われた。「お前はこのようなことをしたので、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり、塵を食らうことになる』。

しかし、神は蛇に対して、もう一つ言葉を加えてこう言われていたのです。
『お前と女、お前の子孫と女の子孫との間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう。」』(創世記3:14-15)

この『蛇』というのが、人間に先立って存在し、この時には既に利己心によって創造の神に逆らう者、『悪魔、またサタン』と呼ばれる者が蛇を操っていたことは、聖書末尾の黙示録に明かされている通りです。そこには『かつての蛇で、悪魔とかサタンとか呼ばれ全人類を惑わす者』と暴露されています。(黙示録12:9)

そこで神の宣告の言葉にこれを当てはめると、悪魔と女、また悪魔の子孫と女の子孫との間に神は敵意を置かれた、また、女の子孫(裔)は悪魔の頭を砕き、悪魔は女の子孫(裔)のかかとを砕くことになるということになります。

これはつまり、悪魔の誘惑によって人間には大きな害が及ぶことになりましたが、エヴァから生まれる「子孫」(裔)という何者かによって、悪魔は致命傷を受けます、しかし、悪魔も女の子孫に何者かに傷を負わせることになるというのです。

その悪魔を死に至らせるようなエヴァの子孫(裔)とは誰のことなのでしょうか。
この原初の謎を追って、その後の聖書の内容が展開してゆくことになりました。
まずそれが、アブラハムへの約束となり、彼の信仰の深さのためにアブラハムの子孫からその『女の裔』が来るということを、また実際にアブラハムの嫡流の子孫がイスラエルと呼ばれる一民族となって、モーセの「律法契約」に入り、その目的が『祭司の王国、聖なる国民となる』ことであった意味が通じてきます。

そして、遂にイスラエル民族は、モーセ以来約束されてきた偉大な預言者、ダヴィドのように強力な王となるべきメシアを迎えることとなりました。つまり、ナザレ人イエスその人であったのです。

このイエスは、自ら『天から下って来た』と言われました。つまり、アダムの子孫ではなく、その『罪』を持たない方として『処女が妊娠して子を産む』という奇跡の誕生によって来られたことに於いて、エデンの園でも「男の裔」とは呼ばれなかった理由があるのです。(ヨハネ6:38/マタイ1:23)


◆女の裔は清められる
しかし『蛇』と呼ばれた悪魔は、現れたメシア『女の裔』の『かかとを砕く』ことに成功します。
それがつまり、キリストを磔にして処刑することでもあったわけです。

ですから、ナザレ人イエスを殺そうと躍起になっていたユダヤの宗教家らに対して、キリストはこう言われています。
『あなたがたは自分たちの父、つまり悪魔から出た者らであって、その父の欲望通りの事を行おうとしている』(ヨハネ8:44)

こうして真理を愛さず偽りを愛する当時の宗教家らは、自分たちに遣わされたメシアを退けるというこれ以上ない悪行に手を染めてしまいます。つまり『蛇の子孫』となってしまったのです。(マタイ23:33-34)

しかし、キリストの死は敗北とはなりません。神への忠節を全うしたキリストの死は、神に逆らう事が悪であることを永久に証明してしまったのです。
ですから新約聖書にはキリストの死についてこう書かれています。
『それは死の力を及ぼす者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。』(ヘブル2:14-15)

キリストの死は悪魔には勝利であるかのようでいて、実は悪魔の全き敗北の原因ともなったのです。
イエスは、ご自分の死によって神を高め、あらゆる被造物の中でも最初に『全き義』つまり倫理的完全性に到達され、モーセの律法を完全に成就されることになったのです。

この点について新約聖書はこう述べます。
『多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の帰すべき方、万物を造られた方にとってふさわしいことであったからです』(ヘブル2:10)
この言葉に『多くの子らを栄光へと導くために』とあったように、キリスト・イエスの到達した『全き義』の『栄光』を分け与えられる人々がいます。

その人々については、『自らを聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元はひとりの方(神)から出ます。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とはしない』と続けて書かれています。(ヘブル2:11)
つまり、その人々は「キリストの兄弟たち」であり、全人類をその『義』の清さによって救い出す『祭司』の働きを『大祭司キリスト』と共に天の神殿から行う人々を指しています。それは地上の神殿での祭司団が動物の犠牲でイスラエルの人々の罪の執成しを行っていたようにです。

この清い民はどのような人々であるかについては、キリストの使徒パウロがその人たちに向けた手紙で
『キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ』と呼びかけています。(コリント第一1:2)
つまり、キリストの弟子たちが『キリストによって聖なる者とされた』と言うのです。

これについては使徒ペテロもこう書いています。
『あなたがたは、父である神が予め立てられた計画に基づいて、聖霊によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけて頂くために選ばれたのです』(ペテロ第一1:2)

加えてペテロは同じ手紙でこうも書いているのです。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の王国、聖なる国民、神につける民です。それによって、暗闇から驚くべき光に招き入れて下さった方のみ業を、あなたがたが語り伝えるためであるのです』(ペテロ第一2:9)
この『選ばれた種族、祭司の王国、聖なる国民』とは、まさしくモーセの律法がアブラハムの子孫イスラエルに与えられた目的を指しているではありませんか。

そこで神のアブラハムへの約束も、エデンの園での宣言も、キリストに信仰を懐き、キリストの『義』の清めを通して聖霊を注がれた弟子たちの上に成就していたということになります。こうして『女の裔』は、一人ではなく民となったのです。つまり独り子イサクがイスラエルの民となったように、イエスは『神のイスラエル』をもたらしました。
ですからパウロはこう教えます。『み子が多くの兄弟たちの中で初子となるため、神は最初に選ばれた者たちをみ子の象りとなるように定められた。』キリストの義を通し、彼らは『義なる者』として仮承認されます。(ローマ8:29)

ですから、使徒パウロが当時の弟子たちについて『キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのです』と述べていることがよく理解できるでしょう。つまり、『聖なる民』がキリストを土台として現れていたからです。(ローマ8:17)

このキリストの義を彼らに分け与えるのが『新しい契約』という『律法契約』に代る新しいイスラエルの民を集め出しました。パウロはそれを『神のイスラエル』と呼んで、血統のままのイスラエルではないことをガラテア書の中で丁寧に説明しています。(ガラテア4章)
その人々は、キリストの兄弟として同じ道を歩んで、狭い門から入るよう努め、共に迫害を受ける覚悟が必要になるのです。(マタイ10:38-39)

ですから『外面のユダヤ人がそのままユダヤ人ではありません』。当然ながら「クリスチャン」がそのまま『聖なる者』でもありません。
キリストによる『新しい契約』に入った人には、奇跡を行う聖霊が注がれていました。その聖霊がその人に『相続財産に与る保証』を与えていたことを新約聖書が何度も明かしています。(ローマ2:28/エフェソス1:13-14/コリント第二5:5)

この聖霊は使徒たちの時代以来、聖書が書き終えられてから過去1800年間誰にも注がれた形跡がないのですが、キリストの再臨の時ともなれば、再び注がれることも聖書は知らせています。(マタイ10:18)

その聖霊が注がれる人々の相続物とは、かつてイスラエルの父祖アブラハムに『地のあらゆる国民はあなたの子孫によって祝福を得る』とされた「約束」の相続であり、その相続人とは、空しいこの世にあっても『諸国民の光』となる人々を意味していたのであり、パウロが言うような『キリストと共同の相続人』となるのです。(ローマ8:14-17)

ですから、『諸国民の光』となった真実のイスラエル、つまりキリストの兄弟たちである『聖なる民』について知ることは、キリスト教の土台となるだけでなく、聖書の教えの根底を成すもので、これを知らずして聖書もキリスト教もありません。

その『聖なる者ら』の働きは、最終的に悪魔の『頭を砕いて』亡きものとし、その人類に対する『死の力』を無効としてしまうのです。彼ら『聖なる民』はエルサレムの神殿が模式的に表していた律法の祭司団が予型していたところの天の祭司団となり、キリストの血つまり『全き義』を用いて人類の『罪を清め』、遂に『罪』を悔いるすべての人々を『罪』のない、創造されたままの『神の子』とすること、それが『世の光』の意味であったのです。(ヨハネ1:12)

キリスト・イエスは『あなたがたは世の光です』と当時のユダヤ人に言われ、また『ともし火を点けてからそれを升の下に置く者はいない。燭台の上に置くものだ。そうすれば、家の中のものすべてが照らされる。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。あなたがたの良い行いを見て、あなたがたの天の父を人々が崇めるようになるために』。と続けて言われました。(マタイ5:15-16)

これは単にキリストの弟子たちが善行を行うと、それに他の人々が感心して同じ宗派に入信するというようなありきたりの宣伝行為を言うのではありません。そのようなことなら、どの宗教でも思想でも「見せるための善行に励むと人数が増える」と言うのに変わらないでしょう。むしろ、聖なる民が導かれたのは『驚くべき光』であったのです。

キリストが復活を受けて地を去ると、弟子たちには「聖霊の賜物」が降り、その業を見聞きした人々は『神を讃える』に及びました。それが人々から信仰を湧き起こさせたからです。もちろん、彼らが善行をしなかったのではないのですが、彼らには誰にでもできるようなものでない聖霊の業が与えられていたのです。

今日、聖霊の業を見てはいないにしても聖書にその記録を読むなら、その『光』がどれほどのものであったかを知ることはでき、聖霊の業を直接に見ていなくても、いち早く信仰を懐くことはできます。キリストはそのような人を『幸い』と言われることでしょう。(ヨハネ20:29)

イエスは亡くなる前の晩に父である神に祈り、『世の光』となるべき弟子たちについて見守ってくださるようにと願いましたが、それと同時にこうも願われたのです。
『また、彼らだけでなく、彼らの言葉を聴いてわたしを信じる人々のためにもお願いがあります・・』(ヨハネ17:20)
この『人々』とは、キリストの聖なる弟子たちが光を輝かせることで『天の父を崇める』ようになるところの聖徒以外の『諸国民』を指していたことは明らかです。
イエスが言われたように『世の光』となるとは、これほど大きな意味があったのです。


ですが、キリストが現れた当時のユダヤは、アブラハムの子孫であるために招かれた『世の光』となるようとのイエスの言葉に応じたでしょうか。
また、聖なる都エルサレムの光明が遠くまで届いたように、アブラハムの血統にあったイスラエル人がその光を輝かせ、彼らの神をほかの人々も崇めるように行動したでしょうか。

まして、その輝かしく世を照らす灯火の元となるメシアがそこに到来されていたのですから、諸国民の光となるべきアブラハムの血統の子孫、選ばれた民としてそれは当然に求められることであったのです。












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新刊「イサク献供に至るアブラハムの信仰」

2019.11.01 (Fri)

「イサク献供に至るアブラハムの信仰」
 -その心の軌跡を辿る-

創世記前半に在って一つの頂点を成すアブラハムによる息子イサクの神への献供は、信仰の勝利とされる一方で、実行に至らなかったとは言え、衝撃的な子殺しでもある。
実生活的感覚からすれば、息子の供儀などは到底受け入れられるものではないので、親の立場からも子の立場からも一般的共感を得ることはまず無理である。

では、神はただアブラハムに息子を殺めることを求めたのだろうか?

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この難問を巡り、ユダヤ教のラビ「教師」には、イサク献供の要求は神からのものではなく、悪魔のしたことであるとする向きが強い。
ユダヤ教との関連から生じたイスラームにしても、彼らのイブラヒームの息子の献供にもやはり悪魔の誘惑を示唆するところがある。

カルト宗教などはその異例さを利用して、信者から命を含めて何もかも奪い取ることを正当化しようともするかも知れない。
あるいは、この記述を以って聖書とその神、また信仰というものの評判を貶めようとする誹謗者も居ないとも限らない。

だが、アブラハムの記録は創世記の第11章の末から第25章にまで及んでおり、それ以前の原初史の分量をも越えて、詳しく描き出される彼と神の交渉、イサク献供に至る数十年間に亘る語らいと行動とを俯瞰すると、献供の場面だけでは見えない背景を見出すことになる。

そこに単なる人身御供の要求もなければ、子殺しを躊躇わない残忍な宗教狂いの父親像を見ることにもならないのである。

本書は、前二十世紀というほどの太古の事情に鑑みつつ、アブラハムと荒野の神「エル シャッダイ」との格別な交流を通じたアブラハムの心の軌跡を辿りつつ、共にあのモリヤの山に思いを馳せる試みである。

異教を報じていたメソポタミアの一遊牧民テラハの息子アブラムが、繁華な都市の偶像神とは異なる、荒野の神「エル シャッダイ」と出会い、残りの生涯をどう過ごしたのかを熟考することなくして、イサク献供という創世記に記念碑的にそそり立つ一つの頂点の価値をおぼろげながらにも感じ取ることは不可能というべきであろう。

本書をお読みになる方々が、彼と共にユーフラテスを渡るかのようにして、ついにあのモリヤの山へと生涯の道を歩むアブラハムに共感されるなら、それは筆者の本懐とするところであり、真に幸いに思う。


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という紹介で"amazon"から電子版をまず出版しました。

これは2016年に、”quarutodecimani のブログ”上で、三部の記事にしたものを幾らか調整したもので、この書の意義は、アブラハムのイサク献供(けんく)が、創世記の22章の当該部分からばかりで理解しようとすることの限界を説いている点にあります。

この「限界」を超えたところにある「信仰」というものが、神との邂逅によってはじめて生じること、しかもそれは固定されたものではなく、神との交流によって変化し、大樹のように育ってゆくものであることさえ視界に入ってきます。

アブラハムの信仰は「ご利益信仰」や自分の義やステータスを飾るような、ありきたりの「信仰」とは明らかに違います。また聖書の理屈を納得するばかりの「信仰」という一方通行とも異なるものです。

もちろん、聖書の記録を読むとき、神と人との関わりの過去を知らされるにせよ、実際に信仰するのは識者でも宗教家でもなく、他ならぬ、その人そのものなのであり、それは神との関係性によって個々に異なるものともなり、それは神との何らかの邂逅を通した生きたものとして様々な実をならせることでしょう。
数十年の間に育まれたアブラハムの信仰という大樹が結んだ実はどれほどのものであったでしょうか。

今日、神の声を聞く事も、キリストの監臨も聖霊の降下もないにせよ、創造の神は全ての個々の魂である人に顧慮を払われます。その神を聖書の中での人との関わりの例を知り、まだ見ぬ人を文書で紹介されるかのように事前に神を思い描くことは出来るのであり、またそれをはっきりと神が各個人に表される終末をいつの日にか迎えることにもなるのでしょう。

そこで信仰の偉大な先人の生涯に、その神との関わりに学ぶところは真に大きいものがあります。
また、彼の神「エル・シャッダイ」、そして後には[YHWH]と名乗られた創造の神のアブラハムに対する言葉と行いとを通して、今でも神の特質と想いの一端とを味わい知ることは可能であり、それだけでも大きな意味をそれぞれの個人にもたらし得るものです。

ささやかながら、本書がその一助になればと願っております。





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