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新十四日派の要諦

2019.09.03 (Tue)


新十四日派とは
十二使徒の中で最後まで残ったヨハネの薫陶を受けた第二世紀の小アジアの原始キリスト教を特徴を中心にニケア会議以前のキリスト教の回復を目指すものである

名称に表れる「十四日」とは、キリストが犠牲の死を遂げたユダヤ陰暦のニサン月14日からきており、更に古代のモーセの時代には、イスラエル民族がエジプトの隷属から脱した『過越し』の日でもあった
最後の晩餐の席でキリストは使徒らに次に天界で彼らと食事をするまでの間に、『主の晩餐』と呼ばれた食事儀礼を守り行うよう命じている

小アジア十四日派はユダヤ教の『過越し』に相当する晩にこの儀礼を守っていたために周囲のキリスト教徒から「十四日派」と呼ばれるに至った。そこで現代に於ける「新十四日派」は、このキリスト教最重要とされる定期儀礼を回復し例年行う
但し、この食事儀礼は『聖霊』によって『新しい契約』に参与する者が神とキリストとの関係性を示すものであるので、奇跡の聖霊を有する者、即ち『聖徒』でなければ食事に預かることはない

『聖霊』の注ぎは第三世紀頃には一度絶えており今日まで回復していないので、当派を構成する誰も『主の晩餐』の食事には預からない
それでも、終末の近付く時期には再び『聖霊』の降下が起ることを知らせる聖書に基き、それが注がれる『聖徒』の現れを予期し、準備する者として当派の構成員は働く、それが神の経綸に協働することであると信ずるからである

その意義は、イザヤ書と黙示録に描かれる『光をまとう女』、即ち『シオン』を構成するところにある
この「女シオン」とは、その内に聖なる民となる『その子ら』が現れることにより、キリスト教の『回復』が起こるに先立って『目覚め』、聖霊が灌がれることの終末の意義を悟って備えているべき「信じる者らの集団」である。この集団が真に預言に描かれる『シオン』であれば、やがて聖徒を生み出し、自身も神により『新たな名』を賜る時が訪れることになる


特長
信仰の動機は、本人の益の獲得ではなく、創造の神の意志に最上の価値を見出して賛同し、人類が神との関係の回復に向かうよう協働することにある
当派は一定の教理を持つ集団を構成するものの、人にとって最重要である事は、その人が「忠節な慈愛」を評価し、それを自他に求めるか否かとなるのであって、如何なる思想信条を持つか、また如何なる宗派に属するかは、聖霊によるこの世の裁きの以前には、神の前に意味を成さない

キリスト教界はローマ国教化までには聖霊が去り、異教と哲学に染まり本来の教えから逸れ、個人の益を求める凡庸な宗教に堕している。今日まで神の契約は絶え、その是認の下に神意を行う者も絶えて居ない。神の聖霊の介入の無い現状下で、現在までのあらゆる宗教は人々の必要に応えるものとして存在を続けているが、終末の裁きでのキリストの臨在による聖霊の再降下が起きて後には、その役割を終える事が求められ、同時に世界はキリストの不可視の臨在の証となる聖徒らを通しての奇跡を目の当たりにし、初めて真実に信仰を懐く機会を得ることになる

現在の宗教環境に在って当派は原始キリスト教の回復を目指し、信徒は利得や保身でなく神意の探究を目的とするが、そこで問われるのはその人の内面である
そこで表される信仰とは神意への価値観と畏敬に動かされた結果として懐く『忠節な愛』また『慈愛』である
その愛は自派の無謬また信者だけの救いを唱えさせず、思想信条によらずあらゆる外部の人々に向けて能う限り神の救いを広げるよう努めさせる


< 愛の優越 万人原罪 倫理回復による人類救済 唯一正統の否定 死後の世界及び天国地獄の否定 非三位一体 無偶像 十字架不採用 非教会制 逐語霊感説否定 前千年期不可視臨在 ニサン14日遵守 聖霊の契約証拠 聖徒と信徒 終末聖霊再降下 終末秘義解明 聖霊信仰による裁き 教理控制 >

・神の人への目的は、キリストの贖いによる人の倫理性の回復を為す「贖罪」であり、創造当初の神を中心とした他者との関係性(倫理的完全性)への復帰である
・人の創造物としての回復が『救い』であり、それはキリストと共同相続者らによって構成される『神の王国』を要する
・『神の王国』は『この世』に終りをもたらし、その後の支配権を行使して一千年に及び人類の贖罪を為す
・キリストを通して注がれる聖霊は『新しい契約』の印であり、奇跡と知恵の源泉となる
・信ずる者は、まず年毎の『主の晩餐』をユダヤ暦ニサン月14日に行い、キリストの臨在と聖徒の現れを待つ
・「終末」とはアダム以来の『この世』が終わり『神の王国』の到来する時期であり『聖霊』を介した生ける人類、即ち『この世』の裁きの時となる
・契約にない贖罪前の人々にあっても培うべきは『罪』の対極にある『愛』であり、それは無戒律性の自由の中に生じる



信仰の要諦は以下の通り


1.神について
創造者にして全知性と全能性の保持者。
神は物質を超えた霊であり、科学では検知も立証も不可能な唯一の源創造者であられるので、人が見ることもできず、偶像に例えることもできない。
人を『自らの象り』として創られたゆえに、その全知性と全能性を人の自発的倫理上の決定に対しては抑制され、自由な行為者としての人との関わりの中で経綸を導いて来られた。
神は『自らの象り』としての創造物らに服従ではなく『変わらぬ愛』による絆を望まれる。

万物の創造者であられるので、個人の生まれる以前から到来を予知され、死して後も復活を行われることを通して、人の生死を超えてそのあらゆる人を『魂』として所有されるのて、『無いものを有るかのように呼ばれる』。但し、神が人を予見されるのは、個人の意思の自由は保ちながらのことであり、人はすべてを予め定められた運命を歩むわけではない。

この方は、アダムの堕罪直後から救済の手立てたる『女の裔』を計画され、太古の人アブラハムを信仰に導き、彼の子孫への相続財産と人類への祝福となる後裔の到来を約束された。
神はアブラハムの子孫の民族であるイスラエルに契約を与えて導いた方であり、モーセの天幕、後には神殿で崇拝された方である。
その聖なる御名を[ יהוה ] (YHWH)と名乗られたが、今日この発音は不明となっている。
しかし、終末には聖霊注がれる者らの現れに伴い、この御名発音は明かされ宣明され、永い沈黙を破って御力を示されることにより何者にも勝って高く上げられ、信仰の内にその名を唱える者は救いを得る。



2.キリストについて
キリストはアブラハムの後裔となって地に降り、『罪』あるアダムの子孫としてではなく処女から生まれ、人間と成られた。
この方は『創造物の初子』であり、神御自ら創造を行われた被造物であることから『独り子』とも呼ばれている。
この方は旧約聖書の箴言に現れる『知恵』(ホクマー)であられ、ご自分以外のあらゆる被造物を創られている。

この方はアブラハムの裔、またダヴィド王朝の血統に属する家系からベツレヘム・エフラタに誕生されたが、律法の下にユダヤ教徒として生涯を送られた。しかし、ガリラヤのナザレで成長されたので『ナザレ人イエス』と称されたが、この出身は当時のユダヤ教徒のメシア信仰を試すものとなった。
この方はゼカリヤの息子ヨハネから水のバプテスマを受けたときに聖霊を注がれメシア=キリストとしての任命を受け、以後三年半の公生涯を送り、その終わりにユダヤ教祭司長派の反対に遭いローマ帝国の権力によって血の犠牲を捧げる処刑を受けられ、三日目に復活を受けられた。そうして人々のために贖いの犠牲を捧げ、アダムに代り人類の『とこしえの父と唱えられる』べく、神と人との仲介者となられ永遠の命への道を拓かれた。

御子はその死に至るまでの忠節を通し、天地万物の中で唯一倫理の完全性に自らの業によって到達することで律法を成就し、自らが真実の義人であることを示し、律法の目的を果たさせて終わらせ、すべての被造物に先立って不滅の神聖さに達して『命の創始者』となられた。
また、その血によって完成された神聖さを獲得され、その血の犠牲によって他の者らを清める大祭司となり、まず『新しい契約』に預かる『聖なる者ら』に仮の贖罪を行われ、従属する祭司となるよう召して奇跡を行う聖霊の賜物を契約の証しとして彼らに与えられた。こうしてエデンで語られた『女の裔』、また『地のあらゆる氏族の祝福となる』『アブラハムの裔』が初めて現れるに至った。

復活の四十日の後に天に昇り、五十日目からは聖霊を注いで使徒たちへの監臨の行い、父なる神の右の座に就いて後は、再び終末に臨在する時、また王権の受領と権威の行使の時を待たれる。終末の臨在では、なお人々と契約を取り結ぶ『半週』が残されており、そののちに天界に全ての『聖なる者ら』を招いて千年の『王国』を建てられる。これがエデンで語られた『女の裔』の実体であり、悪魔からの攻撃を受けるも、最終的にこれを全く打ち砕く。


3.聖霊について
聖霊は、神から発する御力であり、人格も位格も持たず、神でも天使でもない。
創造の業に用いられ、神の経綸を導き、人に霊感を与え、また、聖霊はキリストの贖いを通してそれを注がれる『聖なる者たち』に奇跡の働きを為して父と子を示し、『新しい契約』を通して『罪』からの仮の赦しを彼らに与え、水と共に彼らを新たに生まれさせ、神から『神の子』として認知されたことを証しする。

さらに聖霊は、助けまた慰めとして『聖なる者たち』の中に住み、天に召しては彼らをキリストと同じかたちに造り変え、地では彼らに御旨を行わせ、教えを授け、世の終わりまで彼らと共にあり、彼らをキリストとの共同相続人として『神の王国』を受継がせることの印となる。契約に入る『聖なる者ら』は、キリストの兄弟となるべくイエスの自己犠牲の歩みと聖霊の業を共にして同じ道を歩み、遂に天界での栄光をイエスと共にする。

『聖なる者ら』は第三世紀までには現れなくなったが、終末に於けるキリストの臨在と『神の王国』の到来を世に告げ知らせ、彼らの聖霊による世界宣教を以って、この世は神の裁きの時である「終末」に入る。聖霊で語る聖徒らには世から反対が加えられ、忠節が試みられるが『新しい契約』を全うする者については天に集められ、真実の『イスラエル十二部族』、アブラハムの後裔となりキリストと共に『神の王国』を構成し、世を裁いて終わらせ、新たな世界の祭司、また支配者となる。



4.人について
はじめに人は、神の象りに創造されたままに『神の子』であり、神との親しい関係にあった。しかし『二本の木』に関してサタンに誘惑されると、神への『忠節な愛』を示さず『罪』を犯し、神の象りを毀損した。それゆえ、すべての人は生まれながら『罪』とあらゆる苦難、老化と死の支配のもとにあり、思いと言葉と行為とにおいて罪ある者であり、自分の努力によっては神に立ち返ることができず、『罪』あるままでは死と滅びに至る。人は、自分の道徳性によらず神の恵みであるイエス・キリストの贖いのゆえに、愛に基く信仰によって義と認められ、『神の子』となって創造の価値に達する。

神は人を自らの『象り』として創られたのであり、本来人を支配すること、また崇拝させることを御旨とはされない。支配と崇拝、また政治と宗教は『罪』ある人間にとってのみ生じる代替措置であり『贖罪』を終えるまでの必要悪である。そこで人に求められるのは『罪』の対極を成す『愛』であり、それは『罪』ある現状でも願い努めることは出来る。その『愛』が贖罪の後に、あらゆる他者との絆となり永生に至らせるものとなる。

アダム以後、各個人の創造は生殖に委ねられ、到来すべき全ての人の揃うことが待たれる間に、人類の回復への神の経綸が進められている。



5.信仰について
『信仰』とは、単に神の存在を信じることを意味しない。
また、自らへの神の是認や利益を信じることでもない。

『信仰』は、人が神との何らかの邂逅をしたところで懐く神との関係性の絆であり、要するものは知識ではなく愛である。
信仰の対象は、神であり御子であり聖霊であり、キリスト後に在っては、その三つが揃って求められるものとなる。

特に終末では聖霊の働きに対する信仰によって、人々は聖徒への態度を決することになり、それが裁きを分けるものとなる。
神は見えない霊であられ、キリストも霊に復活して不可視であるので、終末預言では見える地上の偽キリストへの警告がされている。
神と御子が見えないゆえに人の信仰が試され、各個人の内奥が自他共に明らかにされることになる。
それゆえ、信仰が試されるのは終末に聖霊が働く時となる。



6.聖書について
ヘブライ民族によって記録伝承されてきた聖典であり、創造神と人との関わりの記録である。
人の能力を超えた内容が記されており、上からの啓示であることを示している。

ユダヤ教徒がヤブネ会議で定めた旧約聖書現在の39書と、初期ギリシア教父エイレナイオスが認めた新約聖書27書は、神の霊感による神の発言を含む経綸、また神と人々の交渉の記録集である。
そのほかに多くの外典や疑典も存在しているが、聖典に対して価値が薄く、または聖典に通底する経綸と矛盾するところで読まれるにつれて明らかになるもので、外典や疑典は自らの内容の価値の不足からそう分類される。

聖なる書に含まれた諸書は、人類が陥った『罪』からの救済の計画が啓示され、贖い主として犠牲を捧げた『罪なき方』イエス・キリストが指し示めされ、最終的に『愛』によって神と人と結ばれる人々を贖罪し、神と共に永遠に歩ませるに至らせ、そうして創造の業が完遂され、神の『御心が地にも成る』ことを知らせることに於いて、今日では唯一の信頼できる情報源となっている。
しかし、その内容には依然謎に包まれたところ、また古代の忘れられた事柄を含んでいるので、そのすべて理解できる者は誰もいない。

また、聖書に従えば義を得、あるいは正しい崇拝が行われるわけではない。かつてユダヤ教は、メシアの現れに対して、書かれた言葉に固執する余りに道を踏み外している。彼らは書かれていなかった事柄に躓いてメシアを退ける悪行を遂行してしまったように、聖書は、人の『心と想いの意向とを刺し分ける』ことに於いて徒ならぬ裁きをもたらす『神の言葉』でもある。
そのうえ、神は語り終えたとは言えず、『新たな巻物が開かれる』とされるように、将来に聖霊によって語る『聖なる者たち』が『新しい契約』に参与して現れるときに至るなら、聖霊の言葉によって『語っている方を拒むべきでない』。聖書の全巻は終末に焦点を合わせており、それはアダム以来続いた『この世』が変えられる未曾有の変革の時を知らせている。



7.信仰者について
『信仰者』(ピストス)とは、単なる信者というばかりでなく「信頼できる者」をも意味する。単に信じる以上に、他者への『忠節な愛』や「慈愛」を働かせるよう内奥の動機が努めさせる人を意味する。

今日の信仰者は、聖霊によって召し出される神の民を生み出すことになる母体となるべく、『聖徒ら』の登場の前にその意義を理解するようになり事前に『目覚めている』者となる。これら早くに現れる信徒の集団は『シオン』として旧約預言者たちに先見されている。彼らは契約によらず自発的に現れ終末期の直前から幾つかの秘義を理解する。そのためか旧約預言と共に黙示録でも、世に在って『光を放つ』とされている。しかし、これは他の人々に対し神の前に高一等の立場を得させるものではない。

第二世紀から三世紀にかけて、奇跡を行う聖霊が地上から引き上げられ、キリストの地上への監臨が終わって不在となって以来、世界は『誰も働くことのできない夜』を過ごしており、聖霊ないキリスト教界は蒙昧と異教的習慣の中にある。ゆえに、現状のキリスト教界は、終末に聖霊が再降下するときに、回復されるキリスト教に最も強く反対する勢力となり兼ねない状況にある。彼らを中心とする旧来の宗教集団は、悪辣な世俗権力の集合体を慫慂し、聖霊で語る『聖なる者ら』を聖霊と共に亡き者とさせる。

その一方、終末に先立って現れる『シオン』は、聖徒らの母体となるだけでなく、聖徒の現れの後には、聖霊の言葉に信仰を懐く諸国民の流れを受け入れる中心となる。シオンに属する者らは聖徒らの業を受け継ぎ、聖徒を退けたこの世、特に宗教上の勢力を糾弾し、その滅びを歓喜することになる。そのときに『シオン』は象徴的にこの世に対して高く上げられる山となり、神からの栄誉に溢れ、天界からの光を放つ存在となり、やがては『新しいエルサレム』の降下する象徴の場となる。

キリストの臨御する終末を待つ間、『シオン』は年毎にイエスの最後の晩餐で制定された『主の晩餐』を出エジプトの夜に当たるユダヤ暦ニサン月14日に守り、聖霊の注ぎと聖徒の現れを迎える儀式を行う。これがキリスト教徒に与えられた唯一の定期儀礼である。
聖徒が地上を去ると、世の『北の王』と『南の王』との二度の脅しに曝されるがどちらからも保護を受け、二度目には『神の王国』の完全な勝利により『この世』からの解放に向かうことになる。



8.終末について
終末は、第一に『聖なる者ら』の忠節が試みられ、第二に彼らへの処遇の如何によって世界の人々が裁かれる。

終わりの時に、主イエス・キリストは審判のために『雲に在って』見えない様で臨在し、『契約を保つ』ために聖霊をある人々に注いで聖徒と成し、世界宣教を行わせ、その言葉に信仰を働かせる人々を保護して『神の王国』へと導き入れる。
そのために『聖なる者ら』は既存宗教と権力からの迫害に遭い、キリストの道を歩むか否かが試され、生ける聖徒と死せる聖徒との裁定が復活と昇天を以って確定し、天にイスラエル十二部族が召集され、『キリストの王国の権威が建てられる』。

次いで、地上の人類に対する裁きが臨み、世界は脱落聖徒に対する究極的偶像崇拝であるところのアンチ・キリストの崇拝に屈服するか否かが人々を最終的に分けるものとなる。
その裁きは、各個人の利己心か利他心かの選択となり、内心を裁く神の前に在って、自他共に認め納得する決定として表れる。

アンチ・キリストは公権力を使嗾して旧来の宗教体制を亡きものとさせ、世の信仰心を集めて世界宗教を建てるが、これが神と人との戦いを招来させ、その全き敗北の後に『神の王国』の支配が到来する。



9.神の王国について
この『王国』とは、「天国」でも「心に中に在る」ものでもなく、現実の支配として到来する。

この『王国』が世界を支配することになることは、世界覇権を打ち砕いて終わらせる『人手によらず切り出された石』、また『地上がくまなくYHWHの激情の火に焼き尽くされる』との旧約の預言の数々にも示されている。それはこの世の支配が、神の王国の支配に取って代わる事態を教えるものであった。

その『神の王国』の千年支配と贖罪は、最終的に人々から『罪』を除き、創造のままの『神の子』として回復させることにある。それは安息日が前表し『第七日』として俗世への隷属を過ぎ去る『聖なる日』に相当する。
全地は十世紀かけて創造の意図を反映したパラダイスの景観を呈し、後に復活する諸世紀の人々への証しとされるに相応しい世界が築かれる。

『神の王国』はキリストの到来によって、ユダヤ人たちの『ただ中に在る』と言われたが、ダヴィドのような偉大な王の到来を願ったユダヤ人指導者らはメシアに気付かず、イエスを受け入れたのはほとんどが下層民であった。その結果、『神の王国』を形成する『アブラハムの後裔』はユダヤ人で満たすことができず、『東や西から来た』諸国民からも『その数を満たすために接木』される必要が生じ、キリスト教は世界に宣教されていた。
その満たされるべき人数は『十四万四千』であるが、『入ろうと努めながら入れない者は多い』のであり、『新しい契約』に預かる聖徒の総数は、その数字を相当に超えるものとなる。



10.神の目的について
神の目的は、人を支配することでも、崇拝させることでもなく、創造物であり『神の象り』である『子』としての栄光を回復させることにある。
『罪』に陥った人を贖うべく、神は『独り子』をアダムと同じ地の人として遣わし、その『罪』のない犠牲によってアダムの『罪』を相殺させることをよしとされた。
しかし、敢えて『罪』に留まる者については、その犠牲の価値に達しない。そこで『裁き』が行われる。

神はあらゆる死者を肉をもって復活させ、彼らをご自身の栄光の様に造りかえ、すべての魂に対して最後の問い掛けを行う。
すべての魂は『罪』のない状態でエデンの二本の木への選択を問われるが、そのために『昔からの蛇、サタンと呼ばれる悪魔』をも呼び戻し、その誘惑の下で「忠節な愛」が問われる。

この神ご自身による最終的な裁きに「忠節な愛」を選んだ魂は、神と共に生きる立場を得て永生に至り、死も墓も永遠に過去のものとされ、神は万物を新たにし、ここに創造は完成し神の七日が終了する。



11.信徒
信徒は十四日主義を標榜する。十四日とはユダヤ教徒の過越し祭及び無酵母パン祭に準拠してユダヤ陰暦ニサン月14日をキリスト最後の晩餐の夜として『主の晩餐』を挙行するものである。キリストの死は当時のユダヤ教の祭礼に関わって迎えられたことから、その日付の認定は天文学に拠らず、ユダヤ教の祭礼の前日を指定する。

当派の信条に価値を見出し、『主の晩餐』を例年に可能である限り挙行または参加を継続している者を信仰の同志と見做す。
(不可能な者であっても、状況に鑑み認める)
信徒の集団は聖霊降下と聖徒らの現れを待ち望み、旧約聖書での子らを生み出す『シオン』となることを目指すが、それに成功するならば、終末には神から新たな名を以って呼ばれることが預言されている。

信徒はまた、第二世紀小アジアのキリスト教徒に倣い、十四日主義者であると共に「千年期説信奉者」でもある。
そのため、信徒は自らを「キリアスト」(Chiliast)とも称することも妥当と言える。



12.救いについて
神はアブラハムの子孫からなる『祭司の王国、聖なる国民』を通しての人類を『罪』から救うことを意図された。その第一の『神の子』がイエス・キリストであり、その完全な『義』は『新しい契約』を通して『神のイスラエル』に分与されることを通して、アブラハムへの神の約束の子孫が現れ始めた。
神はキリストを通して天界のものも地のものも、ひとつのオイコノミヤの中に集めることを目的とされている。

従って、神の救いは信者だけのものではなく、信者から外部に向けて広げられるべきものである。
すべての人は思想信条の如何によらず、『聖徒』への反対者また迫害者にあってさえ、終末に機会が開かれている最後の時に至るまで、キリストの贖いに信仰を働かせるならば救われる。

このことは、荒野でモーセが銅の蛇を掲げた故事をキリストが言及し、自らを処刑する者らに執り成しを祈っている姿に反映されている。また、黙示録も聖所と崇拝者は測っても、踏み躙る諸国民のいる中庭は測ることが禁じられているところにも暗示されている。

信者だけの救いを唱えることは利己主義を煽ることになり、その教えはキリスト教たり得ない。





 新十四日派オフィシャルサイト



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