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26.イエス・キリストとは何者か

2019.07.31 (Wed)


それにしても余りに知られた名で、聖書ばかりかユダヤ教のタルムードに不思議を行った人物として記されているだけでなく、イスラムのクルアーンにも「預言者イーサー」の名で登場してもいますから、それぞれの宗教から歴史上のイエスという人物の存在そのものを疑うには無理があります。

しかしその一方で、当時の歴史書でキリストという人物について語るものは多くありません。というよりキリストの現れた第一世紀について述べた非宗教的資料では、スエトニウスや小プリニウスの記録がキリスト教徒には言及しているものの、キリスト本人に焦点を当てた記述となると、これまで見つかっているものと言えば、ローマ帝国の元老院議員で第一世紀当時の歴史を記したタキトゥスの「年代記」(AD117年)と、やはり第一世紀を生きたユダヤ人歴史家ヨセフスくらいです。

「年代記」の中では、西暦64年に起ったローマ大火に関連して、補足的に「クレストゥス」との人物が一度出て来ます。
その大火災を眺めつつも、竪琴を手に「トロイア炎上」の詩を詠唱していたとされた当時の皇帝ネロは、無秩序に入り組んだ帝都ローマを作り直すために自ら火を放ったとも噂され、それが市民の間に広まることを恐れて、社会に馴染まない風情のあるキリスト教徒をスケープゴートに仕立て、放火の罪を彼らに擦り付けたという場面でその名が現れます。

「噂をもみ消すために、ネロは身代わりに罪を負わせ、最大限に工夫をこらした残酷さをもって彼らの処刑に当たった。その習慣ゆえに人々に嫌われていた、クレスティアーニと呼ばれる人々である。・・この呼び名の起りとなっているクレストゥスという人物は、ティベリウスの治世中に我らの総督ポンティウス・ピラトゥスによって極刑に処せられた。」(「年代記」15:44)

この内容からすると、キリスト教徒はローマ市民一般に好かれてはいないようです。だからこそ、市民のキリスト教徒憎さからネロ帝の嫌疑を逸らせる候補に挙がり得たわけです。
この宗教が三百年後に帝国の国教に制定されるなどと誰が想像できたことでしょう。

ともあれ、パレスチナの中でだけ活動したイエス・キリストの影響は、同じ世紀の内にローマで一定の信者を持っていた客観的証拠がここにあります。
つまり、中東パレスチナも田舎のナザレ村の出であるユダヤ人エシュア、つまりイエスという人物の現れが世界に徒ならぬ影響を残したことはここにも明らかと言えます。

また、キリスト当時のユダヤ人であるヨセフスは、キリスト教徒ではなかったのですが、畏敬を込めて歴史書にこう記しています。
『さてそのころ、イエススという賢人-実際に、彼を人と呼ぶことが許されるならば-が現れた。彼は奇跡を行う者であり、また、喜んで真理を受け入れる人たちの教師でもあった。そして、多くのユダヤ人と少なからざるギリシア人とを帰依させた。彼こそはクリストスだったのである。』(ユダヤ古代史18:3 秦剛平訳ちくま学芸文庫) 

キリスト・イエスの影響がユダヤから世界へと広がる基礎を築いたのは、ペテロやパウロ、ヨハネといった使徒たちであり、その他にルカ、マルコ、バルナバというギリシア語を話す初期の弟子たちも多大な貢献をしていました。彼らにとってイエスという人物の現れは徒事ではなかったのであり、その身を挺してでも世界に知らせるべき非常に強い動機を持っていたのです。

使徒ペテロは奇跡の人イエスの現れの情報についてローマ人に、つまり、ユダヤ教に関心を持ち、使徒らのイエスの音信にも敬意を払う異国の人たちに向かって次のように語っています。

『(バプテストの)ヨハネがバプテスマを説いた後のこと、ガリラヤから始まってユダヤ全土に広まった噂については、あなたがたの知る通りです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスに神が共におられて善を施しながら、また悪魔に虐げられていた人々のすべてを癒しつつ全土を巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人です。

人々はこのイエスを木に架けて殺したのです。しかし神はイエスを三日目に生き返らせ、全部の人々にではなかったものの、わたしたちを証人として予め選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちはイエスが死人の中から復活された後、共に飲食までしたのです。

それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められた方であることを、人々に宣べ伝え、また証しをするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。
(旧約の)預言者たちもみな、イエスを信じる者はすべてがその名によって罪の赦しが受けられると証しをしています」。』(使徒10:37-43)

この説明には当時の使徒や弟子たちの伝えようとした音信、つまりイエスによる「福音」の要点が凝縮されています。

また、西暦59年頃、ローマからユダヤに派遣された総督のフェストスという人物は、ユダヤ教徒から悪人として告発され、前任者の時から総督府に軟禁されていたキリストの使徒パウロについてこう語っています。

『彼(パウロ)の告発者たちは立ち上がり訴えましたが、わたし(総督)が予想していたような罪状は何一つ彼について指摘できませんでした。パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することで、パウロは死んだイエスとかいう者が生きていると言うのです。』(使徒25:18-19)

こうして使徒や弟子らは、イエスという人物が復活したと主張することが彼らの論点であり、その証しであったこと、つまり当時に常識を超えた徒ならぬ事が起っていたことを察知させるものとなっているのです。

実は、この出来事の噂がキリストの当時の皇帝ティベリウスの許にも届いていたという記録があります。(教会史2:2)
イエスの磔刑はティベリウスの生涯をあと四年残す頃の西暦33年であったと思われますが、このネロの三代前の皇帝ティベリウスは晩年には占いに熱心であったことで知られ、ローマ人の中でも特に宗教的な人物となっていました。(「ユダヤ古代史18:6」)

この皇帝は帝国の各地で起こった事柄を詳しく報告させていましたので、ユダヤの総督ポンティウス・ピラトゥスも習慣に従ってユダヤで起こったキリストに関する出来事を通知したところ、既に皇帝はイエスによる不思議な業の数々や、その人物が復活したということで多くの人々が神として崇めているとの情報を得ていたというのです。(テルトゥリアヌス「護教論」21)

ティベリウス帝は、ユダヤで起こった奇跡について古代人らしい神への畏敬を感じたらしく、何らかの記念をするよう元老院議会に諮問したようなのですが、議会側は「前例がない」との理由で差し戻していたとされます。
しかし、皇帝の許にまで届いたナザレのイエスの影響は、やがてローマにも信者の群れとなってやってくることになります。

それにしてもパレスチナの田舎の一人のユダヤ教徒が、三年半活動しただけでこれほどの影響力を持てるものでしょうか。
しかも、復活して生きているというのは度を越したフェイクニュースのようで、どうしてそれが信じられるものでしょう。

他の章で述べましたように、その千数百年も前のモーセの時から「偉大な預言者が現れたなら、その者に聴き従わねばならない」との厳粛な予告が律法の中にありました。(申命記18:18)
その「メシア」つまり「キリスト」と呼ばれる人物については、旧約聖書中でその後もしばしば語られ、様々な事柄が予め示されてきたのです。

幾つか例を挙げると、エルサレム南方にあるベツレヘムの出身のユダ族でダヴィデの王統の血筋を継いでいること、その王統の王座に就いて世界を統べ治める王となり、平和の君、とこしえの父と唱えられることがあります。しかし、人々に蔑まれ、痛みと病とを親しく知る人でもあり、その打ち傷によって人々は癒されるともあります。(イザヤ9:6・53:3-5/ミカ5:2)

そこでやはりユダヤ教徒はこれらの情報に混乱を覚えます。メシアとは偉大な王なのか、それとも人々に蔑まれる人物なのか。
ユダヤ教指導者(ラビ)の中には、民が従順であれば「栄光のメシア」を、そうでなければ「悲しみのメシア」を迎えることになるだろうと言っていました。
しかし、新約聖書を見るなら、ユダヤ人に退けられる悲しみのメシアの姿がそこにあり、また将来に再度地上に来られるときには人類を裁く栄光のメシアの姿があり、双方のメシアが描かれているのです。
この双方のメシア像は矛盾しているのではなく、彼の復活を通して可能と言えることです。

復活について新約聖書はイエスを『死人no
中からの初子』と呼んでいます。つまり、メシア=キリストがあらゆる人に先立って復活したのであり、イエスがご自身を指して『人の子のほかには誰も天に昇ったことがない』と言われます。(ヨハネ3:13)
復活したメシアは天の神の御許に在って、神の右に座し、すべての敵を足の下に据えるまで待っていることが新旧の聖書の伝えるところです。(詩篇110:2/使徒2:35)

それほどの権威を授かるからには、このメシア=キリストとは人間以上であるばかりか、「神」とも呼称されるほどに極めて異例な存在者であるに違いないでしょう。(イザヤ9:6/テモテ第一6:15-16)
実は、彼が特異な存在であることは旧約聖書から暗に示されてはいたのですが、ユダヤ教徒には解明されることなく、ひとつの謎とされていたのです。
それが「ホクマーの謎」です。

「ホクマー」[חָכְמָה]とは「知恵」を意味するヘブライ語ですが、旧約聖書の中でソロモン王の著した箴言の書の第八章には、神と共に創造の業に携わっている「知恵」と称する何者かが存在し、その者の発言として一文が記されているのです。そこで「知恵」(ホクマー)はこう語ります。
『YHWHが昔その業をなし始められるとき、その業の初めとしてわたしを造られた。いにしえ、地のなかった時、初めにわたしは立てられた。
まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしは既に生れ、山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはその以前に生れた。』(箴言8:22-25)
つまり、彼は物質の世界に先立って神により存在した者であると言うのです。

驚くべきことはそれだけでなく、さらにこうも語るのです。
『神が天を創り、海の上に大空を張られたとき、わたしはそこにあった。』また『わたしは、その傍にあって巧みな作り手となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、その地を楽しみ、また世の人を喜んだ。』ともあります。

では、神以外のいったい何者が共に創造を行い、また助けたのか。これについて、旧約聖書だけではそれ以上の情報が与えられていなかったため、ユダヤ人のメシア像には、「ダヴェデのような強大な王がイスラエルに再び繁栄をもたらす」というようなところで収まっていましたし、現在もそのようです。

しかし、新約聖書をひらくなら、この情報について次のように補足されています。
使徒パウロはイエスについて『御子は見えない神の象りであり、あらゆる造られたものに先立って生れた方である。』(コロサイ1:15)
また黙示録では、ヨハネに現れたイエスはご自身を『神に造られたものの始まりである者』と呼んでいるのです。(黙示録3:14)
そのうえ、イエス自身が祈りの中で『父よ、世が造られる前に、わたしが御傍で持っていた栄光で、今御前にわたしを輝かせて下さい。』と語りかけたことは、創造の神の傍らに在って、世界の創造を助けたホクマーの謎の解答がそこにあったというべきでしょう。(ヨハネ17:5)

こうして新旧の聖書を照合することで、ユダヤ教だけでは明確に知られなかったメシア=キリストに関する重要な観点に到達することになります。
つまり、ナザレのイエスとは、創造の神が自ら作られた唯一の創造物であり、そのため新約聖書はイエスを『独り子』と何度も言い表す理由がはっきりとします。

この観点からヨハネ福音書の冒頭を読むと、イエスを『神』とは呼んではいるものの、創造の神そのものであったと主張するには当たらないと思えることでしょう。
『初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。』(ヨハネ1:1)

加えて、アダムの血統にないので汚れがなく、人類を罪から引き上げるに相応しく、それゆえにも肉の父からではない処女懐妊があったことの道理も見出されます。
しかもなお、血統の上ではダヴィデ王家に属すべき神の約束と、神の王国の王としての王位継承権とを要したので、それはベツレヘムを本籍地とし、ダヴィデに連なる家系の大工ヨセフとマリアの間に生まれ出るべき必要がありました。

また、失われたアダムという人類の父に代り、永遠に生きる命の与え主となって『とこしえの父』と呼ばれるのであれば、命を代替として神に捧げるために人間となることも求められます。
こうして地に来た御子は人間イエス・キリストとなったので、パウロは『神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。』と述べたのであり、こうして新約聖書は疑問を残さず、神に次ぐ御子、また「ホクマー」をはっきりと描き出しているのです。

この観点に立てば、なぜキリストが地上に来られ、人に退けられ刑死まで遂げられたのか。また、復活がなければ人類の救いもなかったこと。そしていつの日か世界を裁く大王としての来臨が期待され、こうして新旧の聖書の記述が神の大きな目的の下に集められ、それを知る人々の視界は一気に拓かれることになります。

その前に「三位一体説」の余地があるでしょうか。この偉大な神の救いの計画の前にして、そのようなものは荒唐無稽な古代の密議宗教の怪しげな戯言にしか感じられないとしても無理もありませんし、それはキリストに関わる神の周到な計画への理解を人々から遠ざけることになるばかりです。

イエス・キリストがかつて存在したことはもちろん、世界と歴史に与えた影響の大きさには計り知れないほどのものがあります。
しかし、それも将来のこの世への再臨と『神の王国』の王となる時期が控えているという予告からすれば、ほんの始りに過ぎないことになります。
ナザレ人イエスは命を差し出して人々の『罪』を一身に負い『贖い』の価を支払われ、同時に『愛』というものがどれほどのものかを世に示されましたが、実際にキリストとして世を救うのは、まだこれからだからであり、確かにイエス自身が再び戻られることを予告していたのです。









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25.「終末」 世界の裁きを描く聖書

2019.07.22 (Mon)

聖書が焦点を合わせる「終末」


この世に「終末」が訪れることについての記述は、聖書の全体に散りばめられていて、その一つ一つが「終末」といういずれ訪れる特異な時期の一点を様々に指している事には注意深く読むなら誰もが気付くと言って過言ではありません。

確かに聖書という本は、人間がこの世での空しい生涯を送る原因を教えると同時に、そこからの救いを指し示す「福音」を含んでいます。ただならぬ聖書の「福音」が空しいこの世からの解放を意味するなら、やはり世が今のままで変わらずには済まないでしょう。
もし、その福音の部分が無いとすれば、聖書と雖もただ空しい人生の上の訓話だけを教える本で終わることになります。

しかし、この世のありさまは創造の神の意図したものではありません。
世に空しさをもたらしている原因が倫理上の欠陥『罪』であることは、本書の中で様々に述べてまいりましたが、この空しい状態も、いつかは終わらされねばなりません。しかし、人々は自分に『罪』があることを認め、そこから解放されることを神に願い、キリストの贖いに希望を置くでしょうか。

神の救いに信仰を懐くか否かは最終的にすべての人に問われるべきことで、アダムとエヴァに『二本の木』の選択が与えられたように、創造者と共に永遠に生きるために人は裁かれる必要があります。
また、エデンの園からの悠久にわたる年月の経過は、以前の章で述べましたように、あらゆる人間の魂を存在させるための神の創造の延長であったでしょう。

神の裁きで人々が分けられることになるとしても、今日の世界人口は80億ともいわれ、政治理念や宗教また民族の異なりも加わって欲得を巡る争いは絶えず、世界的に生活様式が現代化するに従い、地球の方が汚染や気候変動の危機に面する事態に立ち至ってきました。人類の問題は容易ならぬ事態を目前にしているかに観察されます。
それだけでも、人類史が大きな転換期に差し掛かっていると主張されても的外れに感じることもないことでしょう。むしろ、世界の状況は歴史上かつてなかった程に危機的な段階に入っています。

ここでは聖書に描き出される「終末」、つまり、創造の神が『罪』を負った人類の歩みを遂に終わらせ、イエス・キリストを主要な支配者とする新たな体制、『神の王国』を設立させるという未曽有の大変化の起る時期につき、多くの聖書記述から導かれる将来の様子を短くまとめて書き出しておきましょう。但し、聖書の解釈に関わるところではある程度の主観も入っていますので、必ずこの通りになると確言するものではありませんので、そこはご了承ください。

さて、神はアダム以来永く続いた『この世』を裁いて終止符を打ち、前述のように諸国家の体制に代る『神の王国』をもたらすときは近いのでしょうか。
これについて聖書は、人がそれが何時到来するかを探り出すことができないと語るところが多いのが実情です。イエスの言葉によれば『夜盗がいつ来るかを知っていたなら、家の主人はその侵入を許さない。だから、いつも見張っているように、人の子(イエスの意)はあなたがたの予期しないときに来る』と弟子たちに訓戒を与えているのです。

上記の言葉は、二つの事を教えています。一つにはキリストの再来が『この世』の終りを印付けること、また一つには、その時は夜に盗人が来るかのように不意であるということです。

では、キリストが戻られるというのは、かつて第一世紀にユダヤに現れたように人の姿で来られるのかと言えば、そうではないようです。
イエス自身は『多くの者がわたしの名を語って来る』終末の事態を何度も語られていて、それゆえにも『そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。』と警告し『稲妻が東から西へ煌めき渡るように、人の子も来る』とも語られました。(マタイ24:23-27)

この『稲妻の煌めき』と共に『雲と共に』または『雲に乗って』イエスは来られると度々語ってもいます。
雲がどれほど視界を妨げるものであるかは登山者やパイロットによく知られたことですが、聖書の中での雲といえば、エジプトを出たイスラエルを敵から隠していましたし、神殿などの神の崇拝の場も雲がかかって祭司たちが職務を始めることができなかった事例も記されています。

これらを考えると、キリストの再来は肉眼では見えるものではないと判断する合理性が生じます。
実際、終末でこの世が裁かれるのであれば、歴史上に一度知られたキリストが、見える様で再来するとなれば、人々は内心ではなく、見えるところで圧倒的に現れるキリストに従ってしまい兼ねず、そうなれば神の裁きも外面的なものとなってしまって、人の倫理性を問うような深いものとはなりません。

また、マルコ13章、ルカ21章にあるイエスの終末預言では、それぞれに『聖霊によって語る』弟子たちが現れる姿を描かれています。これはマタイ10章にもありヨハネ16章にも示唆されています。ルカでは、彼らの言葉は誰も論駁することができないほどのものであるとイエス言われます。

かつて、出エジプトを果たしたイスラエル民族がシナイ山で神の現れの一端を経験したときでさえ、人々は神の声に非常な恐怖を覚えて震えあがってしまいました。(出エジプト20:19)
そのときに締結された『律法契約』は、参与するすべての民に従順を要求するものであったので、恐怖を与えることはその目的に適ったことでありました。(出エジプト20:20)

しかし、キリストによる『新しい契約』はそのようなものではありません。
『見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
その契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない・・わたしの律法を彼らのうちに置き、その心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』(エレミヤ31:31-33)

キリストの到来によって求められたのは信仰であって、強制ではありません。まさしく当時のユダヤは廉直な姿のメシアへの信仰を懐くか否かによって裁かれています。使徒ヨハネはその点をこう語っています。
『神を信じない者は神を偽り者としている。神が御子について証しせられたのに、信じないからである。』(ヨハネ第一5:10)
イエス自身の言葉にもこうあります。
『もしわたしが来て彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないで済んだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言い逃れる道がない。』(ヨハネ15:22)

そこで『新しい契約』に入った人々とそうでない人々とを分けたものは、やはりキリストに対する信仰であったのです。
そうして信仰を強制されなかった当時のイスラエルの各個人の内面は「ナザレからの人」の前に裁かれてゆきました。

そうであれば、『この世』が裁かれる終末に於いてキリストが人の姿をとって世界に現れる道理がありません。しかも、その不可視のキリストは『雲と共に来る』という言葉とも整合を見せます。
ですから、『この世』が終末に入ったことを人々が知る手立ては、キリストの再来の結果としての聖霊の言葉を語る弟子らの現れと言えます。イエスがナザレ出身であることが知られたように、その弟子らも、素性の知られた人に過ぎないでしょう。
イエスの終末預言によれば、彼らは『人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたし(イエス)のゆえに総督や王たちの前に立たされる。』のですが、それは『彼らと諸国民とに対して証しをするためである』とも言われました。(マルコ13:9/マタイ10:18)

このように聖霊の言葉を語ることになる『聖なる者ら』が、なぜ、この世の権威者の前に引き出されるのかといえば、それは神と『この世』が対立関係にあるからにほかなりません。イエスはこう言われます。『あなたがたはこの世のものではない。むしろ、わたしがあなたがたをこの世から選び出したので、この世はあなたがたを憎むのだ』(ヨハネ15:19)

まして、キリストが再びこの世に関わり始める終末の『臨在』の時、キリストを王とする『神の王国』が設立されようとしているのですから、この世の支配と神の支配との対立は避けられないでしょう。神の王国を聖霊によって代弁する弟子らがその矢面に立つことになることは想像に難しくありません。

しかし、聖霊の言葉は単なる人間の思想を超えるものであることをイエスはこう教えていました。
『人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。』(マルコ13:11)

そうしてこの世の為政者たちは、驚くべき話を聴く事になるでしょう。これは新約聖書ばかりでなく、旧約の預言者も予告していたことであったのです。例えればイザヤはキリストについてこう預言しています。
『彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。』(イザヤ52:15)

聖霊の発言に驚かされる諸国民は、当然ながら大きな反応を起こします。
預言者ハガイは、バビロン捕囚後に神殿が再建されることの意義の大きさを語って『わたしは、間もなくもう一度天と地を、海と陸地を揺り動かす。諸国の民をことごとく揺り動かし、諸国のすべての民の貴重なものをもたらしてこの神殿を栄光で満たす』(ハガイ2:6-7)
これはつまり、神によって振い動かされた人類世界から、貴重な宝のような人々が新たに回復される神殿に入ってくるということです。

これらの旧約の預言は、キリストの終末預言とも通じるところがあります。
『人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。』(マタイ25:31-33)
この言葉のキリストの右に分けられる羊は祝福を受けて王国に入り、ヤギは『永遠の火』で象徴される滅びを被ると続けて語られています。

終末にはこのように人類の裁きが関わっていますから、聖書は誰にでも読んですべてが分かるようには書いてありません。キリスト・イエスが群衆には常に例えを用いて語ったように、理解の鍵を必要とします。
その典型的な例が聖書巻末の書である「黙示録」です。
この書の内容は使徒ヨハネの見た幻を記したもので、象徴表現が連続するところから、読んだままの理解は難解を極めます。

しかし、この書のギリシア語本来の題名は「黙示録」ではなく、逆に「開示」(アポカリプシス)なのです。
確かに読んだままに理解できないところでは、新約聖書中の他のどんな書とも異なっているのですが、新旧聖書の全体に通じた読者が読む場合にはあちこちに通じるリンクを持った書であることに気付きます。

例えれば、創世記のはじめのエデンの園の『蛇』が『悪魔』であることをはっきりと指摘するのはこの聖書巻末の黙示録です。(12:9)
同様に、黙示録に現れる様々な表象を一つ一つ追ってゆくと、かつての旧約聖書の事跡の数々を指し示しており、それらを予型の例として終末に再び起こる事柄を対型として教えている事に気付けるのです。
黙示録の全22章に収められた表象だけでもたいへん多いので、その各々を探り出す作業は簡単ではないのですが、まるで不可能でもありません。

しかも、黙示録だけが終末を描写しているのではなく、聖書の全体が終末に焦点を合わせていることに気付かせるリファレンスのような役割をも黙示録は負っているのです。
そのうえで、黙示録独自の内容も含んでいて、旧約で繰り返される神と諸国民との戦いを『ハルマゲドンという場所での戦い』であることを教え、その闘争を使嗾する者たちがどのようなこの世の要素で構成するのかまでも描き出しています。

それはつまり、42ヶ月の間預言する聖徒たちに激しく反対し、その聖霊の言葉もろともに葬り去ってしまう者らであることを示唆しています。つまり、三年半活動したキリストに対してユダヤの宗教家らが行ったように、再来の臨御においてもこの世は『キリストの兄弟たち』である聖徒らをひどく扱うということです。

この世界の最後に於ける神と人との争いを描き出すことでは、旧約のダニエル書も相当な情報を今日に伝えています。
それによれば、終末期に入った世界は、二つの巨大覇権のせめぎ合いの渦中にあり、ダニエル書は、かつてイスラエルがヘレニズムの時代に経験した、プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアとによる南北の王国に覇権の駆け引きを鏡のようにして、終末期に起る二つの大国の覇権争いを描写しています。

終末での二大覇権の争いにおいては、後から登場し、宗教を弾圧して、自らを神とする『北の王』の下で、聖徒らには脱落させようと甘言のトラップが仕掛けられ、それに妥協して『契約を離れる』者らが出てしまい、彼らは『違背』に至ると書かれています。それがために聖徒らの地上での崇拝を表す、日毎、月毎の『常供の犠牲』は絶やされてしまうというのです。これはユダ・イスカリオテの裏切りの再来となり、予告された終末の『背教』がはっきりと姿を現すことになります。(テサロニケ第二2:2-3)

そして、聖徒らは強烈な一撃を受けて多くが迫害に消えるようなのです。それを実行するのは『北の王』自身ではなく、この王の提唱の下に将来に登場してくる『小さい角』と呼ばれるもの、おそらくは諸国家の権力連合のもののようです。(ダニエル8:23-24/黙示録13:1-8)

ダニエル書はこの『小さな角』が諸国家の中で後から現れ、諸国の権力を集めてすぐに強大となり、小さなものではなくなり、それ以前からあった幾つかの国を貶めるほどになることを予告しています。(ダニエル7:7-8・20-22)
黙示録は、この聖徒を攻撃する何者かを『七つの頭を持つ野獣』と呼んで、新たな世界覇権となるものの、聖徒攻撃に成功するや、急速に舞台から退場してしまうことを予告しています。(黙示録17:7-10)
その原因についてはダニエル書が補足していて、『北の王』が何らかの原因で急速に権力崩壊を起こしてしまうことを示唆しています。(ダニエル11:45)

『北の王』が舞台から消えることで世界覇権国家同士の争いは収束して政治的には安定するので、世界が次に目指すのは宗教紛争の鎮静化となり、これも実現に向けて動き始めます。人々は『平和だ!安全だ!』と叫び、その後の発展の幻想を喚呼して迎えるでしょう。(テサロニケ第一5:3)

聖徒らには、幾らか地上に迫害から逃れ残った者らもいますが、黙示録では、聖徒攻撃が成功した後の僅かな期間を経て、残った聖徒までもが跡形もなく姿を消し、世界がそれに驚愕する様を描写します。(黙示録11:11-13)
ですが、キリストの終末預言によれば、なお残される『聖徒たち』がいます。これらは実は『契約を離れ』脱落した「元聖徒」であり、彼らは天に引き上げられるわけもなく、地上に『残される』のですが、それは神からの否認を意味することになります。(マタイ24:40-42)

しかし、以前には聖霊により奇跡の業を持っていた彼らを支援する、別の霊の力を与える見えない勢力がいます。そこで脱落した元聖徒らは『偽預言者』となり、特に目立つ者は『偽キリスト』となります。(マルコ13:22)
この『偽キリスト』は、教会のクリスチャンらに広く受け入れられているキリストの地上への現れ、つまり「地上再臨」の教えを利用して、自らキリストを名乗るばかりか、三位一体を利用して『神の座に就く』ことも可能となり、こうして究極の偶像崇拝が登場するでしょう。しかも、終末のメシア待望はユダヤ教にもイスラムにもあるのです。(テサロニケ第二2:3-4)

世界の人々の宗教心情を集めた新たな崇拝は、もう一つ残された世界覇権の国家、キリスト教の背景を持つ『南の王』の後押しを得て、世界宗教へと急激な成長を遂げ、それを信じない人々には不利益の圧力が加えられ、その過程で既存の組織宗教は信者を急減させてしまいます。新たな巨大崇拝の勃興により、聖徒らを攻め滅ぼすよう慫慂した旧来の組織宗教の数々は『臼石が海に投げ込まれる』ようにあっという間に終わる時が近付きます。
この事象を『大いなるバビロンの滅び』として黙示録は語ります。古来の伝統宗教は公権力により忽然と排除され消え失せるので、既得権益者らの嘆くところとなるばかりです。

こうして、世界の裁きの準備が整うことになり、人類は聖徒の聖霊に言葉に信仰を働かせた人々と、偽キリストに信仰を持つ人々の二つに分かれ、偽キリストは政教の頂点を極め、偽預言者らと共に世界の権力を糾合して、まず、不意打ちによって既存の組織宗教を完膚なきまでに滅ぼします。そうなれば次に狙うのは、聖霊の言葉に信仰を懐いた人々が攻撃目標として残されるのみとなり、いよいよ『ハルマゲドンという場所』が意味する決定的に勝敗の分かれる「神と人との戦い」に進む以外にありません。

その戦いについては、旧約聖書の多くの事跡や預言が予告していますが、神はここに至ってあのキリストを王として擁立し『敵のただ中から征服をせよ』と命じます。キリストは十字架上にうなだれる受刑者ではなく、「燃え盛る炎の両眼を持つ復讐の大王」として立ち上がります。

この戦いでは、人類軍が同士討ちを始めて崩壊してしまいます。それでも、世の一般の人々はまだ残されます。
しかし、その後に無政府のカオスに陥る世界の様子については、キリストの終末預言が雄弁に語ります。例を挙げれば、マタイは『森羅万象がふるい動く』という異常な世界の変化を伝え、『人々は、この世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。』とルカ福音書はイエスの言葉を記しています。しかし、信仰に至って神の側に着いた人々にとっては『救出が近付いた』ことの印でもあるのです。(ルカ21:26)

その後に起る事柄については、黙示録が権力相互の戦いに続く、世界を覆う飢饉と疫病について記し、人々が鳥や獣の腹を墓とすることになることを告げ、旧約のエゼキエルは、屍の処置にその後も相当な期間を要することも克明に記しているのです。

ここまでも『この世の裁き』について聖書が語っているにも関わらず、キリストが信者の幸福な人生を導くであるとか、信仰ある者は天国に迎えられるとかいう「キリスト教」というものは、いったいどんな意味をもつのでしょうか。

ここが聖書の恐ろしいところであり、はっきりと読んだままには真意を教えず、ご利益を望むならそのようにもとれる言葉もちりばめられていて、同じ聖書を読んだからと言っても、人は同じ益を得るわけではありません。
むしろ、聖書そのものはこう言うのです。
『神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、情動と思考とを見分けることができる』(ヘブライ4:12)
こうして、神は人の内面を二つに分かち裁くことになるでしょう。もちろん、将来に聖徒らが語る聖霊の言葉が人々を分けずに済むものとはならないでしょう。

他方で、生き残る人々には『奥の間』に保護されたかのような神の善意があり、聖霊の言葉を信じて聖徒を支持した人々は、キリストの千年支配を受けることになるでしょう。
その十世紀間は『神の王国』が人類を贖罪し、神の創造物としての栄光を人にもたらす期間ですが、その世界が安寧に満たされる様をイザヤが預言しており、それによれば、人々は短い寿命から解放され、世界は歴史上一度もなかったほどの素晴らしい景観を見せることでしょう。今日とは異なり、人々が『愛』の絆で互いと神とに結ばれるからです。

これをもたらすのが遥かな過去において、神がアブラハムに約束した『地の諸国民が自らを祝福する』という彼の末裔『神のイスラエル』、つまりキリストと聖徒たちの『神の王国』であることを聖書は教えているのです。






⇒ 「終末」 - 綱領 -
⇒ 「終末に現れる者らの表象




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