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家族というもの

2019.06.13 (Thu)
倫理上の欠陥を負った人類は、その必要とする社会をも欠陥あるものとせざるを得なくなって歴史を刻んできました。
その一方で、人々は近親者、特に家族と他者を区別し、家族の間では「生計を一にする」、つまり物資や財を共有してほとんど条件を付けずに相互に福祉を顧みます。その特殊性の本来の誘因に家族愛があります。

しかし、ひとたび家を出れば、そこは無条件の扶助など期待できず、対価を与えて協力を取り付ける必要のある他人同士の社会という場であり、ごく僅かな例外を除き、そこには相互に報酬が求められる「互酬制社会」がどこまでも広がっているのです。

「経済学の父」と呼ばれるアダム・スミスがこの世の体制の本質を指摘をして曰く、「パン屋が我々にパンを作って提供するのは、我々を愛しているからではなく、自分の利益への関心からである。我々はパン屋の自愛の心に対して貨幣との交換で働きかけるのである」(国富論 1篇2章)

この制度は、誰かが考案して、人々がそれに賛同することで始まったのではなく、人間同士が「他人」である以上自然発生的に始まった「交換社会」なのであり、対価を求めなければ外からの支援を得られずに各家庭の生計が破綻し、困窮してしまうことを避けるために生じざるを得ないものです。

その交換は人への必要物資の備えに貢献するものの、結果的に少数の富者と多数の貧困者も生んできました。懸命に働く人がより多くの報酬を受けるとは限らず、そう公正な分配が行われるわけでもなく、そのまえに何が公正なのかを決めるのは人ではなく意識をもたないはずの「市場」が作り出す欲と欲の絶妙なバランスであり、人間がコントロールすれば、たいていは失敗してきました。欲と欲のせめぎ合い無くして広範な交換制度は成り立ちません。

人間の欲には際限がないため、その渦中に在って人は誰かの貪欲に押しつぶされないよう、他人に対価を求める主張をしながら生きて行くほかありません。
賢王ソロモンは『買う者は「悪い、悪い」という、しかし去ってゆくと彼は自らを誇る』という人の実態を描く言葉を三千年も前から残しています。もちろん良い事として語ったのではありません。
しかし、欲の主張のせめぎ合いが、つまり欲望の戦いが数学的バランスをもたらすという不思議がこの世にはあります。
それでさえバブル的熱狂や、恐慌を招く恐れも避けられず、人類は度々これに翻弄されてきました。もちろん人の欲がみな悪いというのではなく、互いの欲が衝突するところに問題があるのです。

ですから、人が家から外に出るなら、そこはそれぞれ自分の利益に関心を持った人々の行き交う巷であり、わずかな例外を除いて基本的に「他人のために働かない」ということに於いて、またいざとなれば奪い合いも起こる「敵性環境」と云えます。それも敢えて敵しているというよりは、むしろ、それぞれに自分を支え守ることで精いっぱいでしょう。公共のサーヴィスでさえ税の徴収なくして成り立ちません。

ですから、価格の攻防、政治施策の競合、利権の争奪、雇用の条件、果てはいじめや嫌がらせから脅迫や犯罪に至るまで、実際、この社会で人々には戦ってゆかねばならないことが多岐にわたっているとおりです。
その戦場が『この世』という場であり、かつてエデンの園での『蛇』によってもたらされた世界というべきでしょう。即ち、人と他者との関係、つまり「倫理」に問題を抱えたその始まりを創世記が教えているものです。

その一方で、『この世』に在って「家庭」というものがどれほどありがたいものであるか、また、そのようなものであるべきかは明らかです。
家庭という場は、互酬制の社会という波の高い外洋から守られるような安らぎの港でなければ意味を成しません。社会の状況が殺伐とするほどに、その価値はかけがいのない貴重品のように高まるでしょう。もちろん、家庭が真に安らぎの場であればです。

しかし、現代社会では、その家庭を家庭たらしめる自然な情愛が薄れ、親が子を、子が親をないがしろにし、この世という敵性環境よりひどい仕打ちを行って、声なき犠牲者をつくっていることはまことに嘆かわしいことです。
家庭環境は様々に脅かされており、内は夫婦の不和や離縁から親戚の干渉、外からは仕事の都合や不況の影響、近所との軋轢、果ては宗教の影響などもあり、そのうえに社会悪による世相の悪化や、災害、病気や死別などの不可避の圧迫なども加わって、安らぎを奪う多様な要素に家庭はいつも曝されています。

それゆえにも、家庭は家族のそれぞれが安寧を作り、能う限り無情に対価を要求する「巷の厳しさ」を持ち込まぬよう、努力すべきを強く意識して守ってゆかねばならないものでありましょう。条件なく受け容れられる場が有ってこそ人は厳しい社会でも生きてゆけるのではないでしょうか。

そのように、『この世』で負った疲労や心の傷を癒す場があるとは、まことにありがたいものです。
また、人を育むことでは、生まれた嬰児をひとりの人として育てるまでには、果てしないほど多くの労力や犠牲や見守りを必要とするものです。そのうえ教育の重要性は無視できず、その成果によっては、その子ばかりか、家族や周囲の様々な人々に後々益をもたらすものと有り得ますので、この点も家族はおろそかにできず出来る限りを願うものです。

やはり、人を創造した神は、『この世』という、人間の倫理的欠陥のために殺伐とした逃れ難い環境に在っても、個人を顧みて無条件的な安らぎの場を得るよう、家庭を創始したと言い得る理由があります。
聖書にはアダムとエヴァに結婚をさせたという記述も、仰々しい結婚式を挙げたとも、誓いの言葉を唱えさえたともまるでないのですが、対になるように創られ、しかも他に相手がいない以上は、実質的に結婚であったと見て間違いないでしょう。ですが、今日までに見られるような結婚関係のシステムが創造の初めから備わったのではないようです。

創世記には、最初の夫婦が倫理上の欠陥である『罪』に陥った後、神から宣告された次のような処置の言葉があります。
まず妻のエヴァには、『お前は苦しんで子を産まなければならない。しかも、お前は夫を慕い求めるが、彼はお前を治めることになるであろう』。
そして夫たるアダムに『お前は顔に汗を流してパンを得る、それから土に帰ることになるであろう』と言われたとあります。(創世記3:16-19)

これらの言葉を今日から見れば、ただ『この世』のありさまを言っているだけのように思えるでしょう。あるいは「妻が夫に治められる」なぞフェミニストや恐妻家の失笑を買うのかも知れません。

それでも、基本的な家族の構成要素である夫婦の有り方によって、このエデンの時点では未だ到来していなかった『この世』という敵性環境への神の配慮が垣間見えます。
つまり、夫婦からの子らの誕生を通して神は人々の創造の継続を任せているのですが、女たちが「腹を痛め」つまり、妊娠と出産が容易ならぬものとなるだけでなく、生まれた嬰児らが必要な世話を受けてゆくためには男親の支えや協力を大いに必要とします。出産が苦痛を伴う大事となったことを通し、人は命の重さを認識するよう促されてもいることでしょう。

生まれ出る新たな命は、人にとって重いものであるばかりか、まだ存在もしていない人物の登場やその働きを予告して待つ姿を聖書に見せる創造の神は、生殖を通してさえ人々すべてを存在させる原因者であり、親から子へと命が伝えられる自然を通し、その生命への福祉を重視するよう人に働きかけているとも言えるでしょう。

そこで女が男を慕い求めることで、妊娠と出産という重責を担う妻は夫の下に保護を受けるべき自然な理由があり、実際に結婚関係は基本的にそのように機能してきたことは否定できません。
男の労働も軽いものではないながら、一人の妻との家庭をやっと支えることによって、夫は家族の重さを身をもって知り、犠牲を払うゆえにも大切にしたいと思うことでしょう。

また、一夫一婦制は、生き辛いこの世に在って、歴史上人類の大半が貧困の中に暮らしてきた現実に効果的であり、それは女性が『夫を慕う』ゆえに嫉妬心によって支えられて来た制度という観方もできるかも知れませんが、一夫一婦制によって、生まれてくる子らへの必要な福祉や教育の機会や相続の益などが守られることにもなっています。

こうして家庭という場は、誰が法に定めて創始するまでも無く、互酬制という実質的に奪い合いの外の世界からの保護の垣に囲まれた、家族愛による無条件に受け容れられる僅かな空間を自然に形成してきたものです。
この保護の空間は、人間が倫理的欠陥を負ってしまい、その社会からの危険に曝された人々を守るための小さいながら最後の砦であり、創造の神の意図した普遍的制度と云えるでしょう。
本来、神のものである個人という『魂』はそうして保護を受けるべきであり、実際、ほとんどの家庭は程度の差はあれ、そのように機能してきたと言えましょう。(エゼキエル18:4)

その点で、旧約聖書でモーセの律法が定めていた七日に一度の「安息日」という制度に、家庭を顧みるようイスラエルの民に神が促していた観があります。
以後世界に広まった、週に一度世俗の生業を離れる休日の存在は、仕事ずくめの生活に埋没して人間らしさを失ってしまわないことを助けるものです。
俗な生業の六日間に対して『安息日を神聖なものとするように』と記された「十戒」は、旧約聖書の最も基本的な教えであり、その十ヶ条の中でも第四位を占めるほどの重要性を持ちます。
イスラエルが未だ「約束の地」に入る以前に、神は彼らに六日間の食事を供給し、毎週の六日目には普段の倍の食料を必ず与えていましたから、その民は安心して第七日には生きるための労働をせず、静かに過ごすことができたと聖書は伝えます。(出エジプト16:22)

同時に、安息日の条項の中で神は『自分の場所に座して居るように』と命じていましたので、後のユダヤ教では安息日に移動して良い距離が1キロ未満の場所に制限されました。それは実質的に、神が週に一日は人々が自分の家に居るように取り計らっていたと見ることができます。それによって、各家族が共に過ごすことになり、それぞれの家庭の安寧と喜びとを神が望んでいることの表れであったことでしょう。(出エジプト16:29)

総じて、安息日は生きる糧の供給者が神であり、後にイエスが「明日を思い煩うな」と訓戒されたように、生きるためにこの世の奴隷や畜獣のようになって、人が『神の象り』である自らを卑しめてしまうことがないようにとの重要な教えと言えます。そこで『安息日を神聖なものとする』とは、神が糧の与え主であることを信じ、人が人らしく、また家族を顧みることによって、この世の空しい生き様に流されないようにすることを意味していたと考えることは的外れではないことでしょう。

加えて、家族という安寧の場は、相互扶助に於いて子らへの福祉だけに機能するばかりではありません。
親たちが老化してゆき労働が困難になるときに、その子らがその福祉を顧みることは、世界の大多数で当然の報礼とされている通り、自然な養老の制度として機能してきました。
また、この点では夫婦も老化に伴い扶助し合うことでは第一の相手となります。

このように結婚の制度は、新たな生命を迎える環境の空間を作るばかりでなく、最も親密な一組の男女が互いの福祉を顧みることもまた大きな役割です。
ですから、子育てが終わり、年老いて心身に不自由が忍び寄るにつれ、夫婦は人生を連れ添った仲間同士のいたわり合いの中で過ごすよう神は配慮されているのでしょう。

聖書は賢人ソロモンの言葉をこう伝えています。
『ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すればその報いも良いものになる。
もし倒れれば、もうひとりがこれを助け起こす。倒れても起こしてくれる者のない人は難儀だ。』(伝道4:9-10)

そこで、聖書が一貫して配偶者を亡くした後の再婚を認めることもうなずけます。確かに、キリストは独身を勧めていましたが、パウロはそのようにできる者がそうするようにと言っており、それも格別な信仰の業に召された人についてのことでありました。(コリント第一7:8-9・29)

また、結婚を「永遠の契約」とキリスト教徒には捉えがちですが、確かに、神は結婚というものを、二人の間の契約関係とも見做すような記述が聖書に見られます。
結婚が安易に解消されるようなものであるなら、人類の創造、また人の生存の助けという大事を任される各家庭が不安定となり、命の価値を軽んじる結果に陥る危険をも孕むことは言をまちません。

そこでキリスト教徒であれば、イエスの「山上の垂訓」と呼ばれる有名な説教の中で、『誰であれ、淫行以外の理由で離縁する者は、自分の妻に姦淫を行わせるのである。また出された女を娶る者も、姦淫を行うのである。』と言われた言葉を思い起こすことでしょう。
それゆえ、離婚は罪であるから許されないとしている宗派もいくつかあるのですが、こうしたイエスの言葉を聞いた使徒たちの反応にはうなずけるものがあります。
『もし妻に対する夫の立場がそんなものだとすれば、結婚しない方がましです』。

それまでモーセの律法でさえ、夫が妻に離婚証書を持たせて去らせることを規定していたのですから、これは大きな相違です。
しかし、イエスの言葉は律法の神髄たる神の本来の精神を語っているのであって、全人類に対して履行を迫るにはあまりにも倫理的に高度な内容で、倫理上の欠陥を負った人々には却って重い荷を背負わせてしまうことにもなるでしょう。使徒パウロは律法について『すべての口がふさがれ、世界が処罰を受けるためのもの』と述べ、使徒ペテロは離婚を許した律法でさえ、『わたしたちもわたしたちの父祖も負うことのできなかったくびき』と呼んでいます。(ローマ3:19/使徒15:10)

ではキリストが、どういう背景でこれを語られたかと言えば、まず、イエス自身が『律法を成し遂げる』ほどにアダムの罪のない方であったのであり、その倫理観についてゆけないのが現状の人間というもので、例えれば山上の垂訓にある別の言葉、『情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫の罪を犯した』と言われるなら、いったいどれほどの男がその罪を逃れられるでしょうか。

そもそも、性欲は新しい人間を生み出す源泉であり、それなくして人類に『生めよ増えよ地に満ちよ』との神の下命はどれほど果たされたことでしょうか。場合によっては打ち続く自然災害や戦争などの社会悪によって人類の存亡さえ危機に曝されたかも知れません。
キリストの時代の世界人口は二億に過ぎなかったと考えられているのですが、この世を生きる辛さに意気阻喪してしまい、特に性欲も弱ければ人類は滅亡に抗することも難しかったのではないでしょうか。
もちろん、性欲の暴走が招く害悪も少なくないとは言え、人はこの点において極端な観方を避ける必要があると言えるでしょう。

確かに、乱交によって滅ぼされたという創世記中のソドムやゴモラについては、同性交接の強要など性欲のカオスが社会を支配していた様子が窺えます。(創世記19:4-5)
当然ながら、性欲が羞恥されるべきものと感じられることによって、社会は性欲丸出しの無秩序から逃れています。
しかし、だからと言って性欲は罪悪視すべきものでもありません。

賢者ソロモンは人の生き様を俯瞰してこうも述べています。
『義に過ぎるな、賢きに過ぎるな、どうして滅びてよかろう。
悪事に過ぎるな、愚かに過ぎるな、どうして時も来ていないのに死んでよかろう。』(伝道7:16-17)
人の両極端の生き方がどちらも同じような結果をもたらすと賢人が警告しています。

他方、キリストの時代以来、極端な宗派では性欲を悪とし、結婚さえ禁じるものがあったことが記されています。(テモテ第一4:1-3)
一般人にしてみれば、一見してその宗派が徳の高そうにも見えたのでしょう。
ですが、それも人にとっては不自然な縄目であり、性に厳しい宗教では却って隠されていた性虐待の醜聞が絶えません。
そのうえ、今日までのカルト宗教で、性欲に伴う自然な羞恥心や罪悪感を利用して信者をコントロールしようとする指導者にも事欠きません。
これらは性に関するバランスのとれた観方を教えることなく、ただ、自分たちの道徳性の宣伝や、信者の奴隷化に利用していると言われても仕方がないでしょう。(コロサイ2:23)

それでも以上に述べたように、男女関係は有用で大きな功績を上げることができるものであり、その象徴的な姿といて神と婚姻関係に入ったイスラエルがあります。その結婚は人類を祝福する聖なる民を生み出すはずであったのです。
イザヤの預言書などにはこの神との婚姻関係の概念がよく出て来るのですが、モーセの律法契約によって恰も神と結婚したイスラエルでしたが、結果としてこの民族は異神を崇拝するようになり、ほとんどの時代を通して律法を守ってはきませんでした。むしろ、イスラエルは『姦淫の妻』にも例えられているのです。(列王第二21:15/ホセア1:2)

そこで神は象徴的なこの結婚を一度終わらせて離縁し、イスラエルは捕囚を経験することになり、神から与えられた『約束の地』パレスチナを追われる身となるのでした。つまり、姦淫による離婚です。しかし、後に現れたキリストは『新しい契約』を締結し、新たなイスラエルと象徴的婚姻に入ることを聖書は示唆します。(黙示19:6-7)

山上の垂訓でキリストの語られた、人には厳しすぎるような婚姻に関する言葉の数々も、この背景から見るとなるほどと思えるところがあります。

一方、実生活に於いて、もし夫婦がそれぞれに助け合わず、その状態に頑固で改善の見込みが望めないほど長期間にわたり、家庭が互助機能を果たしていないのであれば、『この世』をしのいで生きて行く助けを欠いていることになりますし、本来益を得るものが害として作用していることになり、それは当事者ふたりにとっての危機であり家庭の存亡が関わる一大事です。外と内の二正面の戦線を持つことは苦戦や敗北への序章となるものですから。

離婚は多くの場合に、養育期にある子らへの著しい心身への負担を強いることも事実ですから、創造の神であれば、それらの子らを配慮しないとは言えず、そこで親たちの和解を望まれることは、まず間違いないことでしょう。

その一方で聖書は、結婚を「永続する絶対的な契約関係」ではないことを配偶者を亡くした後の再婚の自由として述べています。
そこでは結婚というものが、「契約」という側面を持つだけではなく、『この世』を生きるための相互扶助の「制度」であることも示しています。

「永遠の契約」という言葉は花嫁花婿を酔わせる甘い約束ということにもなるのでしょうけれども、神は現実を見据え、その先を読んでいると言うべきか、配偶者に先立たれることによって、あるいはまだ子孫を残せる状況であるなら、なお神の創造の業の一端を依然として荷えることもあるかも知れませんが、それ以上に親密な扶助の役割の喪失を埋め合わせることが再婚に与えられた使命でもあることを如実に示しているのです。

こうして、夫婦という男女の結びつきの間に新しい命が育まれ、老いては家の者同士によって支え合い、『この世』を過ごしてゆくこと、それが家庭また家族の創始者の意図であろうことは聖書によって跡づけられるところです。

そして、『生めよ、増えよ、地に満ちよ』との神の意志が成し遂げられ、いつかは終わる時が来ることもキリストは示唆しています。
つまりは、子が生まれなくなる将来についてなのですが
ある時、人間の復活を信じない者らが喩えをもってキリストに挑戦して問い掛け、次々と結婚をした女がいるとして、その女が復活したならどの男の妻になるのかと問い詰めたのですが、そこでイエスはこう言われました。
『死者の中から復活するときには、娶ることも嫁ぐこともなくなり、皆が天使のようになるのだ』(マルコ12:25)
さて、神がすべての人の創造を終え、人々が結婚関係を持たなくなった先の状態がどのようなものか、まるで想像もつきません。

アダムとエヴァは、『罪』の有無に関わらず、初めから子を産み育てるよう最初に夫婦とされていたにしても、エデンの園での堕罪の結果のとして負った神の処置の言葉中での「夫を慕い求める」というところも、「彼に治められる」というところもなくなると見る理由が生じることになります。それも結婚関係そのものが無いのであれば、家族関係も今のようではなくなることは明らかでしょう。

『この世』が過ぎ去っても当分の間は人の出生があることを聖書のイザヤ書が示唆してはいますが、それにしても、人々が永遠に生き、新たな命を迎えることも終わり、家庭という防波堤の必要のない世界が実現するとは、我々の想像を超える事柄です。

「山上の垂訓」には『あなたがして欲しいと思うことを他の人々にも行え』とありますが、これは簡単に行えることではありません。(マタイ7:12)
加えて、ルカ福音書にある「平地の垂訓」にも、『自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたがどれほど事をしただろうか。罪人でさえ自分を愛してくれる人を愛しているではないか。』とのキリストの言葉があります。そのうえ『敵をも愛し、善を行い、返してもらうことを期待せずに貸せ』とまで言われるのです。(ルカ6:31.35)

やはり、この精神に努めることはできても、この言葉の通りに常に行うことは『この世』では到底不可能です。
しかし、キリストはこれを説き、またそれが創造神の創造界に望むことなのでしょう。

さて、英語などでの「経済」を表す「エコノミー」という言葉は元来ギリシア語の「オイコノミア」という単語からきたもので、古代ギリシア語で書かれた新約聖書にも何度か現れます。
「オイコノミア」とは、「一家の家計、分配、管理、計画」などを意味していますが、裕福な家には会計専属の「オイコノモス」、つまり「家令」がいて家を取り仕切るために働いていました。使用人とはいえ、一家の出納はもちろん、物資や食物の分配など、主人から相当の権限を託されていたのです。

そこで興味深いことは、新約聖書に『定められた期間が満ちたときに実現されるオイコノミア』という句があり、『神は天にあるもの地にあるものを、すべてキリストにあって一つにまとめられる』と記されていることです。(エフェソス1:10)
つまり、創造の神は、利己心に分裂した『この世』をまとめ上げ、離れてしまった人類をキリストの贖いによって『罪』を除いて『神の子』とし、神の家族として受入れ、創造界を一つの家庭とすることを意図されているというのです。

この創造界を覆う一つの家計、つまり「神のオイコノミア」が実現するときには、神の創造の意図が成し遂げられ、象徴的に創造界が「一つの屋根の下に入る」に伴い、『この世』という人にとっての敵性環境は過ぎ去るものとなるでしょう。その日には、世界中が利他心に覆われ、交換社会ではなくなることでしょうけれども、それは現状の人類には到底不可能なことです。

結婚もないというその状況で、いったいどんな男女関係が形作られるものか、親子関係はどうなるのか、これは謎ではありますし、聖書も語っていません。
しかし、それを知るべき理由も今はほとんどないでしょう。
なぜなら、人は皆が『この世』を生きることに懸命であり、そのためにも今現在は家族愛を育み、家庭を家族の誰にも安らぎの空間として確保することに精出す以外ないからです。

聖書にはこうもあります。
『日の下で神から賜わったあなたの空虚なる命の日々の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮すがよい。これはこの世にあってあなたの受け分、あなたが日の下で労する労苦によって得るものだからである。』(伝道の書9:9)







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再刊 「聖書に流れる神の意志」

2019.06.10 (Mon)

昨年、DLマーケットが閉鎖、終了に至った関係で、刊行中の書籍類の提供が滞っておりまして、ご希望の方には申し訳ありませんでした。

その後、「パイデイア」と名付けるつもりの、特に新約聖書部分に注力した文書を書き上げようとしておりましたが、それにしましても、もう半年以上も提供不能になった状況に気が引けましたこともあり、いつの間にやら電子出版の環境も急速に向上して参りましたので、この度、通販大手の「アマゾン」を通して再発行することに致しました。

これがご要望を戴きました方々に幾らかでの便宜となりますなら幸いに存じます。
なお、紙本につきましても、ご提供できますよう検討するつもりでおりますが、しばらくのお時間を猶予下さいますようお願い致します。

今回、アマゾンから以下の「聖書に流れる神の意志」(85p)をとりあえず再刊致しました。
この教科書は大掴みに聖書の全体を把握し、その根底を流れる『女の裔』、つまりエデンの園で予告されたキリストによる『神の王国』へと結実する最も重要な事柄、使徒たちが『奥義』と呼んだ人類救済のあらましを知ることを目的としたものです。

つきまして、対象とします読者層は、初歩的なキリスト教学習者で、求道中の方々や教会員の聖書探求意欲にも答えることを目指しております。

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各章の構成は以下のようで
第一章 神とは誰か
第二章 「女の裔」イスラエル
第三章 キリストの教え
第四章 終末のキリスト

それぞれがの章の中は4~6の§に区分され、各区分の後に設問があり、それに答えることで学習効率を高めることができるでしょう。

今日のキリスト教の趨勢は、圧倒的にニカイア信条にある「教会のキリスト教」である状況下で、原始キリスト教の教本となれば、おそらくは日本語であるこの一書のみであるかも知れません。
教会の方々の中には「聖書を読むとわからなくなる」と言われる向きもあるとのことですが、一度、原初的キリスト教の解説を覗いてみることは無駄にならないことでしょう。

分厚い聖書を読み進めるにしましても、全体を通底する事柄を念頭に置くことは、読まれている部分への洞察を高める観点を得ることになり、理解を大きく助けるものとなるのを実感されるものと存じます。
その点で、お役に立てますなら幸いです。


なお、アマゾンからの入手につきましては、顧客としての登録が必要とはなります。
しかし、通販ではありますが、クレジットカードの登録は、必ずしも必要ではないとのことです。
コンビニ決済、ATM、ネットバンキングなどの支払い方法も選択できるようです。⇒アカウント作成方法

加えて、アマゾン・プレミアム会員では、「読み放題」の中に三か月毎にに含まれるとのことです。
この電子版は、6月12日より価格250円を頂いております。
(収益が有りましたら紙本出版の費用の一部に充てさせて頂きます)

閲読するには、「キンドル・電子書籍リーダー」なるアプリケーション(ソフト) をご使用のパソコンやスマートフォンなどに取入れる必要はありますが、ネットに接続していらっしゃれば、直ぐに利用できます。
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