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聴くに堪えぬもの

2019.02.10 (Sun)

「人類史は神の意図を成し遂げるためのプロセス」

「キリスト教は世界観であり歴史観」

「一度救われた人は、永遠に救われている」

「自分が救われたのは神が永遠の昔から計画されていたこと」

など・・

とても信じること以前に、到底納得が無理である。人種差別よりもひどい個人差別ではないか!
これでは神に一貫する経綸の意志なく、聖書には人間のための主題のみがあると言っている。
人類は敷かれたレールの上を走っているだけなのか?
それにしては酷い境遇ではないか? 神は人を混沌の中に投げ込んで試すか?

「聖徒」の理解が無いために、信者も教師も聖徒の高められた『初穂』の立場を自分のものだと思い込むことで、神の裁きと王国の観点が失われており、聖書の知識を無にするどころか、真逆の方向に誘導しているうえ、その究極目標がボケている。いったい何のためのキリスト教なのか。


パリサイのように、様々なキリスト教の解釈士たちは、聖書の字面を追って解釈することそのものに思考労力の大半を割かれて、その多くの知識が人にとって何を意味することになるかは然程考えないように見える。
だが、それこそ最も重要なことではないか。

キリスト教とは畢竟「倫理」であり
それも単なる道徳でもご利益目的でもない。
「神の基準に則して生きる」など初めから無理であるからこそキリストの犠牲を要したではないか。

キリスト教の教える倫理とは、自分が神を含む他者とどう関わるのか、どう関わりたいと思うのか
それがすべての個人に問われる決定的な時を「終末」として迎えることではないか。
神の裁きの日に各人が避けられない「エデンの問い」であろう。
「信仰を持ったら救われる」というのでは「終末の裁き」を無視させることになる。

聖書を知ろうとする人々は、強烈な誘惑に遭っている。
「ご利益」によって利己的になるよう誘う「教え」がまかり通っているのだから。
知識や信仰がその人を他と異ならせ、神の是認に入れるだろうか?

「信仰を持ちました」「バプテスマを受けました」
それで「救いに入りました」「内住の聖霊に導かれ、安心して地上生涯を全うできます」と

あり得ない!
それはそもそも倫理にもとることである。
キリストの現れた時のユダヤの前例を見れば
むしろ神はその傲慢を裁かれるのではないか?

聖書の言葉の数々を、あらぬ方向に投げ飛ばしてしまう解釈の原因は
自分たちの幸福や利益を探して、そのために聖書を読むという貪欲ではないか。
聖書そのものはそのような精神を示していない。
すでに、キリストの公生涯と犠牲の死を知ったときに、その教えがご利益目的ないことを悟り
心して聖書に向かうべきだったのだ。

人は幸福になろうとして宗教を信じようとするとよく耳にするが
はじめから全能の神が人々を幸福にできないはずがなく
それに反して、現に諸苦満ちる『この世』が空しいのには、よほどの意味があってのことに違いない。
人はその意味を、神の意図をこそ探り出すべきであるのに、自分の救いばかりを願っていて良いか。

神の要求と思われた割礼も律法の業もユダヤ教徒を救わなかったように
同じく洗礼も信仰もクリスチャンの救いの根拠になるまい。
なぜなら真の信仰とは、聖霊の奇跡による神との邂逅と聖徒への支持を要するのであるから。
聖霊の奇跡を見聞しないところに真の信仰も無い。

知識には傲慢、浸礼には慢心がつきまとう。
人には信仰の動機までは見えずとも、神には見える。
『その内面がどうかを見るからだ』

また信仰とは、つまり「倫理」が試されるところの「エデンの問い」への根源的な回答であり
それは信じるか否かの外見をまといながらもそれを本質とはしていない。
まさしく他者へのヘセドとアガペーが問われる。
これが即ちアダムがエデンで選ばなかった「倫理」なのだ。
愛こそが倫理であり、他者と関わりながら生きて行くべき道である。
然るに倫理不全の人類が永遠に生きるに値しないのは当然ではないか。

人はみなが神の前にキリストの犠牲を要する『罪人』であり
道徳性の多少の違いが生活に出ているばかりのこと
我々が持つもので、真実に善なるものは愛のほかには何もない。
まして、何かの宗教に帰依したからと創造の神が是認を前倒しするだろうか。

では、キリストの王国の到来と贖罪は誰のためか。
聖徒理解の不足は、利己心を誘う。
また、知ったと思えば慢心もする。

それを巧妙に利用して益に与るのは誰だろうか。
人が集まるところに財が有り、そこに禿鷲もいる。






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