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神殿でのパウロ

2019.01.31 (Thu)



◆エルサレムへの旅立ち

ギシリア本土での三カ月の間にローマ人への手紙を書いたパウロは、それを女執事(ディアコノン)としたフォイベに託したようで、書中、彼女の便宜をローマのエクレシアに頼んでいます。
こうしてローマへの便りは西に向かい、ローマのパウロ受入れ準備が進む中、パウロの一行は東を目指して、いよいよエルサレムへの旅程に就こうとしていました。キリストの業は東西に世界を駆け巡り、ユダヤ教を超える教えがますます人々に知られる機会を広げます。
しかしここで、彼を襲おうとするユダヤ人の陰謀に一行が気付くところとなりました。港で仲間から離れるパウロを殺害するつもりなのでしょう。あるいは、同乗した航海の最中に海に突き落とすかも知れません。
やはり彼はどこでも反対を避けることが難しくなっています。

そこで、コリントスに隣接する東の港であるケンクレイアから順当にエーゲ海に乗り出すのを止め、陸路マケドニアに遠回りすることにしました。
こうして難を逃れたパウロの一向は、再度マケドニアのエクレシアイを強め、フィリッポイではパウロの活動を支え続けた懇意の仲間らにも挨拶に立ち寄り、そこで彼らはニサン14日に旧知の仲間たちと『主の晩餐』を無酵母パンと葡萄酒を用いて行っていたことでしょう。それは聖霊を注がれた者にとってキリストを介した『新しい契約』に預かったことを示す唯一の祭事です。

それからユダヤ教の「無酵母パンの祭り」の時期をフィリッポイで過ごし終えると、パウロらはかつて最初にマケドニアに入った逆の旅程を辿り、エーゲ海を渡ってあのマケドニア人の幻を見たトロアスに入り七日滞在しますが、その最後の晩に彼らがパンを分け合う会食(愛餐)をして惜別の時を過ごしていました。

このときには『無酵母パンの祭り』が終わっていたのですから、この食事が『主の晩餐』とは言えず、その言及も葡萄酒も書かれておりません。
キリスト教ではこの日の『パンを割くための集まり』が『週の初めの日』(日曜)であったというルカの記述を根拠に、これが日曜日に聖餐を行っていた証拠だとされますが、『パンを割く』(クラオー)という言葉は、ペンテコステ後にエルサレムに滞在していたディアスポラの民を、日々地元のユダヤ人が家々に食事に招いていた場面でも『パンを割く』とルカは書いていますし、どちらも「無酵母パン」の時期を過ぎていました。そこで、この双方に同じ言葉『パンを割く』といっても普段のパン(ホメッツ)に違いなく、イエス信徒の会食の『愛餐』(アガペー)という以上の解釈はできません。そこで後代の教会が日曜礼拝を制度化する目的での聖句のこじつけが窺えます。

しかし、これが毎日曜の定期儀礼であったとの主張にはやはり無理があり、安息日以外の日に移動を始めたであろうパウロの一行を、トロアスの人々が安息日の翌日に出発する彼らをもてなす会食の席を設け、そこでもパウロは自らのキリスト教理解を伝えようとしていたと捉える方がよほど記述に沿います。各地のエクレシアには一定数のユダヤ教からの仲間も混じっていたことはパウロの手紙類にも明らかですが、その人々の前でわざわざ安息日に旅行を始めたりするものでしょうか。

さてその夜、多くの灯火が照らすなか、パウロはその三階の間で講話をして真夜中に及んでいましたが、このとき奇跡が起こることになります。
パウロの講話で窓際に座っていたエウティコスという名の若者が眠り込んで落下してしまい、皆で下りて見ればもう息はありません。
しかし、古代にエリヤがしたように、パウロは彼の上に身を伏せ『魂はその内にある』と言うと若者は生き返っていて、家に連れて帰ることができました。
その後もパウロは階上で食事をしつつ、話続けて明け方まで過ごしたとあります。イエスの召命に従う彼には『霊に縛られてエルサレムに上ろうとしている』と言う意識があり、もう会えないと思われる人々にできるだけ多くのことを授けておきたいと願ったのでしょう。パウロの内にはユダヤ教を完成に導く『奥義』があり、後に「キリスト教」と呼ばれるその類稀な理解を出来る限り諸国の地に残しておきたかったに違いなく、奇跡を起こしてなお熱心に語り続ける姿にその想いの丈が窺えます。

翌朝、ルカたちは七日を過ごしたトロアスから船に乗ってアソスへ向かいますが、パウロは乗船せず、陸路アソスに南下しようとします。おそらくはその途中の人々にも挨拶をしておきたかったのでしょう。
こうして一行は、アソスでパウロと落ち合ってから、小アジアの沿岸を南下し四日目にミレトスに着きます。ここはエフェソスから50kmほど行き過ぎたところです。
このミレトスの街もエフェソスの南にあって、ギリシア本土と東方を結ぶ上での要衝であり、この街の遺跡もエフェソス同様に度々氾濫するマイアンデル川が上流から運ぶ膨大な土砂のために、今日ではすっかり内陸に位置してしまいましたが、かつては海に突き出した小さな半島に、あたかも港とされるべく自然に穿たれていた湾に、今でも遺跡に見ることができる大理石の二つのライオン像で知られた「ライオンの港」が設けられていました。

さて本来なら、パウロが三年を過ごしたエフェソスの人々には是非にも会っておきたかったことでしょうけれども、彼は急いでいて、ペンテコステにはエルサレムに着くつもりだったのです。そうすればユダヤ人としての神殿詣り(アリヤー)の務めを果たしつつヤコブ率いるイエス派と顔を合わせることになり、ユダヤ教に近い彼らの心証もその分だけでも害さず済むはずです。当時、神YHWHの神殿は依然としてそこに在り、ザドク系祭司団により崇拝が継続される強力なユダヤ主義の中心地であったからです。

そこで彼はエフェソスに使いを出して、長老たち(プレスビュテロイ)をミレトスまで呼び出すことにします。やはり、エフェソスで手間取っていた間に起きたような騒動になっては、エルサレムに残された30日ほどの内に到着できないようなことになりかねません。銀細工人組合の輩に捕まりでもしては旅程も台無しですから、敢えてエフェソスを通り過ぎてもいたのでしょう。反対行動のために彼には避けるべき場所がいくつも出来てしまっていたものです。

エフェソスの主だった人々が到着し、パウロは『公けの場でも家々でもあなたがたを教え』それゆえ『今や、わたしはあなたがたの血について潔白だ』とも言います。以後は『あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神のエクレシアの世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督(エピスコポス)に任命なさったのだから。』とエクレシアの将来を彼らに託します。

しかし、その後はエクレシアを託された人々も安泰ではいられないことをパウロはこう警告しています。
『わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れるでしょう。』
そこで長老たちへに訓戒して『だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねます。この言葉は、あなたがたを立て起こし、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです』。
また、主イエスの言われた『受けるよりは与える方が幸いである』との言葉*を思い出しては、パウロ自身が信徒から貪らなかったように自分たちで働いて糧を得、弱き者を支えるようにと語ってから共に跪いて祈ります。*(この言葉は福音書に無く、別系統に存在したとされるキリスト語録「アグラファ」引用の典型例ですが、ギリシアの言い習わしでもあったとされます)

それから『あなたがたは、もはやわたしを見ないだろう』というパウロに、精魂傾けキリストの教えを説き続けた彼への感謝がこみ上げたのでしょう、エフェソスの人々はパウロの首を抱いて激しく泣き出したとルカは記します。
そこで一行は『彼らを振り切るようにして船出し』、南西に位置するコス島、それから翌日にロードス島に渡って、更に翌日には再びアナトリアの半島の南側にあるパタラ港に入り、そこでパレスチナの海沿いのフェニキアの船に便乗して、遂にパレスチナに上陸しました。

そこはフェニキア貿易商人の街であるテュロスであり、その船の目的地であったのでしょう。『その船は積み荷を降ろした』とルカは書いています。
このテュロスで一行は弟子たちを探して、そこに七日留まりますが、聖霊を持つ弟子たちはパウロに『エルサレムに上ってはいけない』と言い出します。それぞれの聖霊も、パウロに注がれた霊も、街々でその都度教える通り『投獄と患難とが、わたしを待ちうけている』という同じことを教えているのでしょう。

それは彼らが更に海岸沿いの南にある港町カエサレイアに向かい、サマリアに福音を伝えたフィリッポスの家に泊まるとより明らかになります。そこにあの大飢饉の到来を予告したアガボスがエルサレムから来ては、より鮮明に預言して、パウロの帯を取ると自分の手足を縛り上げ、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すだろう』と言うのでした。

そこでいよいよルカたち同行者らもパウロには都に上らないで欲しいと泣いてまで嘆願します。
しかしパウロは答えて、『泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。』と述べ、イエスがそうであったように、自らの死を知りながら決然とエルサレムに顔を向け、十二人の先頭を歩いたような確固たる決意をパウロも同じくしている姿が窺えます。この不変の態度を前にして、同行者らはもはや黙る以外にありません。(マルコ福音書10:32)



◆エルサレムの騒動

数日後、いよいよエルサレムに上り、カエサレイアからの仲間も含めた一行はキュプロス出身の弟子の家に滞在し、翌日には主の兄弟ヤコブに挨拶に行きます。
彼の到着は既に知られていたらしく、長老たちもそこに集まっていました。
パウロは諸国民の転向を話して聞かせますが、ヤコブには彼について大きな心配をしていることを明かして『「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。
この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言っては、モーセから離れるように教えているとのことです。
いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にするでしょう。』

このヤコブは、『ナザレ派』とも呼ばれていたユダヤ教の到達点としてのメシア信仰を懐くユダヤ教「イエス派」と、パウロの先進的な国際的『クリスティアノイア』のメシア信仰者との衝突を懸念していたのであり、そのことは使徒会議の議決からも明らかでした。『古来、各街でモーセが読まれている』からであり、彼の裁定は律法を挟んだ双方の民の融和を図るための暫定的な調停であったからです。パウロもその異なりを『二つの民(両者)』と呼んでいる通りです。(エフェソス人への手紙2:15)

聖霊が導くパウロの宣べ伝える教えについて、ヤコブが決して反対している訳ではないのですが、使徒筆頭のペテロもヘロデ王統の逮捕を逃れて諸国を渡り歩いている状況では、ユダヤ教の背景のままにメシア信仰に達した人々をまとめる役割を担うのは、ユダヤ人全般からも律法に篤い『義人』と敬われるヤコブをおいて他にいません。しかも、彼は血統上では主イエス、つまり王となるべきメシアの弟ですから、イエス派内部をまとめるにも堅固な立場にあります。

パウロの到着について、既にヤコブはその対策を練っていました。
『 そこで、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。
この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭髪を切る費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみなにも分かるでしょう。』

一方でパウロは、自身も含めて『聖霊に導かれる者は律法の下にはいない』とその手紙に書いています。(ガラテア人への手紙5:18)
ですが、また彼は『ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。』とも語っていましたから、ユダヤ教イエス派に属する仲間を躓かせないためにヤコブが心を砕いてパウロのために取り計らってくれた事柄が、旧来の律法に規定された『ナジル人』の誓約であっても、ユダヤの仲間の費用の助けを与えることにします。

ユダヤ教の『ナジル人』の誓約では、一定の期間に精進潔斎して神への務めに励むことが律法の中で認められ、その間には飲酒をせず、死体に触れず、髪の毛を切らずに過ごすべきことが定められています。そうすることで、その人は神の前に聖なる者と見做され、一般のユダヤ教徒に勝って神への献身に励みました。(民数記6:2-21)

ですが、この誓約の終了に当たっては、伸びた髪を切るに際し、多くの捧げ物を祭司に与えなければならず、パウロの当時には相当額の費用が掛かったので、富んだ者らが慈善行為としてナジル人の期間を明ける人々の費用を賄うことが習慣とされていました。
そこでヤコブが思い図ったことは、ユダヤ人の中ですこぶる評判の悪いパウロも、誰にでも出来ることではない篤志家としての行動を見せることで、幾らかでもその不評を封じることであったのです。

しかし、ヤコブの策が功を奏することはありませんでした。
というのも、パウロの一行にはギリシア人、エフェソスのトロフィモスが含まれており、この二人がエルサレム市内で共に居るところを、アジア州から来ていて彼らを見知っていたユダヤ人に見られていたのです。

もちろん、ユダヤ人でなくても当時の神殿の広い境内に入域することができました。
しかし、神殿域の中枢である「聖所」とも呼ばれた神殿の建物そのものに非ユダヤ人が入ることは禁じられていましたから、神殿の建物の周囲には、「異邦人は柵の中に入ってはならない」とギリシア語とラテン語で刻まれた1.3mの石壁が巡らされていて、その禁を犯した者は死刑に処せられるとも記されていました。異邦人が入れるのは『外の庭』、つまり『異邦人の中庭』と呼ばれた本殿を囲む広い境内までに限られたのです。(ミドット2:3)

その異邦人には禁断の聖域である神殿の建物に入ると、まず「婦人の中庭」があり、そこはイスラエルの女性が入ることを許された場所で、『宝物庫』や「ナジル人」の部屋もこの部分にあり、この当時には四隅にそれぞれ四皿の灯火を持つ巨大な燭台が四基据えられていたとされます。
そこから15段の階段を上がると「イスラエルの中庭」と呼ばれた場所になり、そこには正方形の祭壇が中央に在って、イスラエルの男子は祭司たちによる各種の犠牲の奉献を目にすることができました。その奥には祭司団だけが崇拝奉仕する聖所と至聖所を有する本神殿の、四本の柱と金で装飾された正面を見ることができましたが、それは東に向いていたので、ヨセフスは「太陽が昇ると燃え盛る炎のような輝きを反射した」と当時を記したユダヤ戦記で述べています。(戦記5:4:6)

そこでは、年に一度の『贖罪の日』ともなると、大祭司直々に罪の赦しが宣告され、イスラエルの男子はその赦しに預かりつつ、神の聖なる御名"YHWH"が三度発音されるのを聴く機会を得ていました。この神名について、捕囚期後のユダヤは、この時代までにその名を発することをこの聖域以外では禁ずるようになっていましたので、異邦人はその発音を聞く機会から閉め出されていました。
これが後に、神の御名の発音がやがて忘れ去られる原因となってしまいます。この神の固有名が忘れられた影響は、三世紀までにキリスト教界に三位一体を推進させる結果を招きました。ユダヤ教とキリスト教は、その後も敵愾心が拭い難いものとなっていったからです。

さてパウロがこの神殿を最後に訪れたが、おそらく西暦56~57年と考えられていますから、当時は律法に基く神殿での崇拝が継続されレヴィ族と祭司団により恭しく執り行われいて、ローマ皇帝さえもがそれなりの代理者を立てて、その犠牲を献じさせ、その使節は「ソーレグ」と呼ばれたという、あの異邦人の限界を示した壁の外から犠牲の捧げられるのを待っていたというほどに、エルサレム神殿は諸国民からも敬われる帝国の誇らしい名所であったのです。

そこで、パウロがナジル人たちの期間の終りの儀式に立ち会うために聖域の神殿に入ると、そのエフェソスからのユダヤ人らがパウロを見かけるなり、トロフィモスを神殿の聖域に連れ込んだものを思い込みました。おろらく、パウロが普段から諸国民であっても聖霊が注がれた仲間を『兄弟』(同朋)と呼ぶ習慣に反感を覚えてのことでしょう。
パウロを捕まえると周囲のユダヤ人に叫んで『イスラエルの人々よ、加勢にきてくれ。この人は、いたるところで民と律法とこの場所にそむくことを、みんなに教えている。その上、ギリシヤ人を神殿の内に連れ込んで、この神聖な場所を汚したのだ」。』と言っては騒ぎたてたので、祭司たちは聖所が汚されることを恐れて、建物の外側に面する九つの扉をすべて閉じてしまい、ユダヤ教徒らはパウロを聖所から引き出して殺そうとします。

神殿に隣接するアントニア要塞に詰めていたローマの千人隊長は、市内が大騒ぎになっていると聞くと、直ちに百人隊長と兵士らを率いて現場に向かい、パウロが打ち叩かれているのを見つけましたが、兵士らが来たのを見たユダヤ人らはその手を止めて、パウロがどうしたのかを話すのですが、まちまちの話で要領を得ません。
そこで千人隊長は、取り調べのためにパウロを兵舎に連行することにしますが、ユダヤ人らがパウロに手を出すので、パウロを抱え上げる必要があるほどでした。

かつてイエスがまったく理不尽な裁きの後に処刑され、その後ステファノスが石打に遭ったエルサレムで、いまやパウロまでもが多くの熱狂するユダヤ人の手に掛ろうとしているのですが、それはユダヤ教という教えの強烈な正義感の行わせる業で、その正義感は諸刃の剣であり、怒りの感情に任せた虐待が避けられません。それこそが正義が不正義へと変質するところなのですが、このような正義、「人間の義」は「神の義」とはなりません。
ヤコブはこう記しています。『人の怒りは、神の義を行うするものではない。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができる。』(ヤコブの手紙1:20-21)
今や、キリスト教の言葉がユダヤ教徒に向かって語られる場面に入っていました。ですが、ユダヤ人はその言葉を聴くでしょうか。

どうであれパウロには覚悟が出来ており、エルサレムの民衆に向かって話かけます。人々はそれがヘブライ語であるので、その話を聞こうと静まるのでした。
パウロは自分がキリキア州タルソス出身のディアスポラの民で、かつてエルサレムの教学院に来て律法学者ガマリエルⅠ世に就いて学んだヒレル系パリサイ派であることを明かします。これはユダヤ教徒としては主流派であり、様々な知識に長け、相当に律法に通じていることを知らせることにもなります。

それから、イエス派には反対して、その信者たちを捕えてはエルサレムに引いて来るという活動に携わっていたこと、それも祭司長派の許諾を得て行っていたことも述べます。ここまでならパウロは身内の仲間であることになり、ユダヤ主義者も共感できるところです。
しかし、彼は自分の身に起ったことのありのままを話して、自分の転向の由来を説明し始めました。

つまり、ダマスコス郊外でのキリストとの奇跡を通した邂逅であり、一時盲目になったこと、
彼は、自分の身に起った奇跡について話すことで、その場の群衆にもメシア信仰を促したいと思ったのでしょう。
しかし、元々イエスを葬り去ったユダヤの群衆には、復活のイエスが、一人の強硬なパリサイ人を奇跡によって転向させたからといって改心する理由にはなりません。
『こんな男なぞ、地から除き去ってしまえ、生きている価値などなかったのだ』との叫び声が上がると、その場は再び騒乱に包まれ、男たちの投げる上着の数々や土が舞い上がり、神からの奇跡を認める素振りも見せません。

千人隊長はパウロにどれほどの罪があるのかを知るために鞭打つ用意を百人隊長に命じますが、パウロは『ローマ市民である者を、裁判もせずに鞭打つことが許されるのですか』と問いかけました。パウロがタルソスの名の知れたローマ市民権相続者であると言うと、兵も士官もパウロにした処遇を恐れて解きはしますがその咎を明らかにするために、翌日にはサンヘドリンを召集しパウロをその中に立たせました。
パウロはサンヘドリンが復活を信じるパリサイ派と、信じないサドカイ派で構成されているのを見ると、『わたしはパリサイ派ですが、死人の復活について裁かれているのです』と言います。おそらくは、復活したイエスの奇跡に面したことを示唆していたのでしょう。

サドカイ派は復活を信じないので、かつてイエスに向かって「七人の夫に嫁いだ妻は、復活したとき誰の妻になるのか?」と問い詰めていました。
しかし、彼らは、イエスに復活後の人々は『嫁ぎも娶りもしない』と言われてしまい、『神は死んだ者の神ではなく生きている者の神であり』『わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である』と言われたが『神にとってはみな生きている』と強力に論駁されていました。これを聴いていたパリサイ人は『見事なお答えです』と、この件には賛意を惜しみませんでした。しかも、それはイエスご自身が死と復活を遂げるわずか数日前のことであったのです。

そこで、復活を信じる議場のパリサイ派はパウロに味方を始め『この男には何の悪いところもない。(ダマスコスでは)霊か天使が彼に話しかけたのだろう。』と言い出し、サドカイ派と論議が激しく戦わされます。やがて千人隊長はパウロが引き裂かれるのではないかと心配するほどになったので、兵士らにパウロを奪って兵営に連れて行くように命じます。
ユダヤ主義の真っただ中で、エフェソスでも経験しなかったような騒擾に巻き込まれたパウロに、その夜、イエスは語りかけて勇気を持つように、そしてローマでも語らなければならないと力付けました。彼の命はエルサレムでは終わらないということです。






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